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仲直りのところてん
朔太郎の新しい決まりごと
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さちと入れ替わるようにして田楽屋にやってきたのは、『かくぜん』の羽織を着た徳次だ。
「おはようございます、おかみさん」
相変わらず丁寧な物腰だが、以前より明るく思えるのはのぶの思い過ごしではないはずだ。
朔太郎が彼につれていかれた一件は、のぶから詳しい事情を聞いた菊蔵によって不問にふされた。徳次は信州屋に対する訴えを取り下げたから、彼は正式に『かくぜん』で奉公することになったのだ。
真面目で気がきく彼には大きな味噌屋からも話があったというが、彼は『かくぜん』残ると言った。今や年老いた主人夫婦の右腕となりつつあるという。
「おはよう、徳次さん。ちょうど菜飯が出来上がったとこ」
味噌瓶を交換する徳次に、のぶは声をかける。
近ごろのぶは彼が来るたびに何か食べ物を用意するようになった。朔太郎を連れて行ってしまったという結果にはなったが、彼が母親を恋しがる朔太郎に寄り添ってくれたことに感謝しているからだ。同時に朔太郎と同じような境遇の彼にのぶができることがあれば何かしたいと思ったのだ。
もちろん彼は『かくぜん』でもしっかり食べさせてもらってはいるが、このくらいの年頃は、いくら食べても腹が減るものだ。
のぶは飯台の上に菜飯と白瓜の浅漬けを置く。時間のない徳次にもさっと食べられるように、菜飯はにぎりめしにしてある。
「ありがとうございます。いただきます」
腰掛けにすわる徳次はもはや慣れたものだった。手を合わせて食べ始める。その隣に豆腐あられを置いて、のぶはまるとともに店を走り回って朔太郎に声をかけた。
「さくちゃんも、食べてしまってね。もう少ししたらお店を開けるから」
朔太郎が素直に足を止めた。
のぶは飯台の上に、あられの皿と茶を注いだ湯呑みをふたつ置く。
朔太郎が小上がりから、"ははうえ"と書かれた手作りの位牌を持ってきて飯台の上に置き、湯呑みとあられをひとつまみ供えて、小さな手を合わせた。
徳次に蒲鉾板の位牌を作ってもらってから朔太郎は自分が何か口にするたびにこうするようになった。のぶも朔太郎に食べさせる時はこうやって二つ用意する。
しばらく手を合わせたあと、朔太郎はあられをかりこりと食べ始めた。
それをじっと見て徳次が口を開いた。
「あっしは、思い違いをしていたんですね」
「思い違い?」
「はい。坊やにとっておかみさんは、信州屋のおかみさんと同じだと思っていました。だからあんなことをしでかしてしまったんです。……だけどそうじゃなくて、おかみさんは深川のかかさまだったんだ」
「深川のかかさま?」
首を傾げて尋ねると、彼は照れたよう笑ってに頷いた。
「はい、あっしの母親の姉弟子だった人です。深川で芸者をしております。母親が死んでから信州屋に行くまであっしはその人のところにいました。口うるさい人ですが、よく面倒を見てくれた……。今でも薮入りには、自分のところへ帰ってこいって言うんですよ」
「そう……。徳次さんにもそういう方がいるのね」
ほっとしてのぶは言った。
「じゃあ、次の薮入りには『かくぜん』でしっかりやってるって安心させなくちゃ」
「はい。こっちにもおかみさんのように世話を焼いてくださる方がいらっしゃると知ったら深川のかかさまも安心すると思います。ごちそうさまでした」
手を合わせて立ち上がった。
「ではまた三日後に」
「はい、またよろしく」
でもそこで、空の瓶を抱えて出て行こうとした徳次は、何かを思い出したように立ち止まった。
「そういえば、おかみさんにお知らせしようと思っていたことがあったんだ。三日前のことですが、得意先の小料理屋で六つになる子がいなくなったんですよ。その……あっしが言うのもなんですが、坊やもまだ小さいですからお気をつけください」
徳次はやや気まずそうに言う。
子がいなくなるという言葉にのぶの胸がひやりとした。朔太郎がいなくなったときの胸が潰れるような思いが蘇る。
「いなくなったって……迷い子? それともかどかわしかしら?」
眉を寄せて尋ねると、徳次は首を傾げた。
「それが判然としないようです。神隠しにあったみたいに消えてしまったって話で。今小料理屋がある材木町は大き騒ぎです。見つかるまでは、おちおち子を遊ばせることもできないとおかみさんたちは、戦々恐々としております」
「それはそうでしょう」
のぶは頷いた。
朔太郎はのぶのそばを離れないからずっと店の中にいるが、裏店の子らは、母親が家事や内職に勤しむ間は通りで勝手に遊んでいる。こんな事件があったなら、心配でそんなことはできなくなってしまう。
「それではあっしはこれで。またご贔屓に」
頭を下げて、徳次は帰っていった。
女にとって子は切っても切れないものなのだ。いなければいないであれこれ言われ、いたらいたで心配ごとは尽きないのだから。
あられをかりこり食べる朔太郎を見てのぶはため息をついた。
「おはようございます、おかみさん」
相変わらず丁寧な物腰だが、以前より明るく思えるのはのぶの思い過ごしではないはずだ。
朔太郎が彼につれていかれた一件は、のぶから詳しい事情を聞いた菊蔵によって不問にふされた。徳次は信州屋に対する訴えを取り下げたから、彼は正式に『かくぜん』で奉公することになったのだ。
真面目で気がきく彼には大きな味噌屋からも話があったというが、彼は『かくぜん』残ると言った。今や年老いた主人夫婦の右腕となりつつあるという。
「おはよう、徳次さん。ちょうど菜飯が出来上がったとこ」
味噌瓶を交換する徳次に、のぶは声をかける。
近ごろのぶは彼が来るたびに何か食べ物を用意するようになった。朔太郎を連れて行ってしまったという結果にはなったが、彼が母親を恋しがる朔太郎に寄り添ってくれたことに感謝しているからだ。同時に朔太郎と同じような境遇の彼にのぶができることがあれば何かしたいと思ったのだ。
もちろん彼は『かくぜん』でもしっかり食べさせてもらってはいるが、このくらいの年頃は、いくら食べても腹が減るものだ。
のぶは飯台の上に菜飯と白瓜の浅漬けを置く。時間のない徳次にもさっと食べられるように、菜飯はにぎりめしにしてある。
「ありがとうございます。いただきます」
腰掛けにすわる徳次はもはや慣れたものだった。手を合わせて食べ始める。その隣に豆腐あられを置いて、のぶはまるとともに店を走り回って朔太郎に声をかけた。
「さくちゃんも、食べてしまってね。もう少ししたらお店を開けるから」
朔太郎が素直に足を止めた。
のぶは飯台の上に、あられの皿と茶を注いだ湯呑みをふたつ置く。
朔太郎が小上がりから、"ははうえ"と書かれた手作りの位牌を持ってきて飯台の上に置き、湯呑みとあられをひとつまみ供えて、小さな手を合わせた。
徳次に蒲鉾板の位牌を作ってもらってから朔太郎は自分が何か口にするたびにこうするようになった。のぶも朔太郎に食べさせる時はこうやって二つ用意する。
しばらく手を合わせたあと、朔太郎はあられをかりこりと食べ始めた。
それをじっと見て徳次が口を開いた。
「あっしは、思い違いをしていたんですね」
「思い違い?」
「はい。坊やにとっておかみさんは、信州屋のおかみさんと同じだと思っていました。だからあんなことをしでかしてしまったんです。……だけどそうじゃなくて、おかみさんは深川のかかさまだったんだ」
「深川のかかさま?」
首を傾げて尋ねると、彼は照れたよう笑ってに頷いた。
「はい、あっしの母親の姉弟子だった人です。深川で芸者をしております。母親が死んでから信州屋に行くまであっしはその人のところにいました。口うるさい人ですが、よく面倒を見てくれた……。今でも薮入りには、自分のところへ帰ってこいって言うんですよ」
「そう……。徳次さんにもそういう方がいるのね」
ほっとしてのぶは言った。
「じゃあ、次の薮入りには『かくぜん』でしっかりやってるって安心させなくちゃ」
「はい。こっちにもおかみさんのように世話を焼いてくださる方がいらっしゃると知ったら深川のかかさまも安心すると思います。ごちそうさまでした」
手を合わせて立ち上がった。
「ではまた三日後に」
「はい、またよろしく」
でもそこで、空の瓶を抱えて出て行こうとした徳次は、何かを思い出したように立ち止まった。
「そういえば、おかみさんにお知らせしようと思っていたことがあったんだ。三日前のことですが、得意先の小料理屋で六つになる子がいなくなったんですよ。その……あっしが言うのもなんですが、坊やもまだ小さいですからお気をつけください」
徳次はやや気まずそうに言う。
子がいなくなるという言葉にのぶの胸がひやりとした。朔太郎がいなくなったときの胸が潰れるような思いが蘇る。
「いなくなったって……迷い子? それともかどかわしかしら?」
眉を寄せて尋ねると、徳次は首を傾げた。
「それが判然としないようです。神隠しにあったみたいに消えてしまったって話で。今小料理屋がある材木町は大き騒ぎです。見つかるまでは、おちおち子を遊ばせることもできないとおかみさんたちは、戦々恐々としております」
「それはそうでしょう」
のぶは頷いた。
朔太郎はのぶのそばを離れないからずっと店の中にいるが、裏店の子らは、母親が家事や内職に勤しむ間は通りで勝手に遊んでいる。こんな事件があったなら、心配でそんなことはできなくなってしまう。
「それではあっしはこれで。またご贔屓に」
頭を下げて、徳次は帰っていった。
女にとって子は切っても切れないものなのだ。いなければいないであれこれ言われ、いたらいたで心配ごとは尽きないのだから。
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