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涙、涙の蒲鉾板

かかさま

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 夕日が沈む隅田川沿いをのぶは朔太郎の名を呼びながら『かくぜん』目指して走っている。息が切れて汗が顎から伝う。心の臓が痛くてたまらないけれど、決して足を緩めなかった。
 胸は不吉な思いでいっぱいだ。

『もしあの子が、旦那さんが他所で拵えた子だったとしてもおかみさんはさっきみたいにあの子を可愛がれますか?』

 徳次の問いかけと、自分を睨んだ暗い目が、頭の中をぐるぐると回っている。
 徳次が朔太郎を連れていったのだとしたら、いったいどういうつもりなのだろう。

 ……わからない。わからないけれど……。

 朔太郎のことで頭をいっぱいにしながらのぶは自分が、ある答えに辿り着いたのを感じていた。
 もう一度、朔太郎がのぶのもとへ戻るなら、絶対に手放さない。たとえ、彼の出生がどんなものだとしてもこの気持ちは変わらない。

 しばらくすると、前方からびえーんびえーんと子どもが泣く声が聞こえる。川辺に背の高い少年と小さな子どもが見えてくる。
 のぶは声を張り上げた。

「さくちゃん‼︎」

 子どもがこちらに気がついた。

「さくちゃん!」

「かかさま‼︎」

 徳次は止めなかった。
 朔太郎はのぶをかかさまと呼びながら一目散にのぶのところへやってくる。ぶつかるようにふたり抱き合った。温かい身体を抱きしめて、のぶは心底安堵する。涙が止まらなかった。

「さくちゃん、怪我はないのね、よかった。よかった!」

「かかさま、かかさま……!」

 朔太郎がしがみつき大きな声で泣き始める。徳次はそれをじっと見ていた。
 そこへ、晃之進と菊蔵、数人の手下が追いついた。菊蔵が徳次を抑え込む。

「徳次てめぇ、自分が何をしたのか分かってるのか!」

 腕を捻りあげられた徳次はなにも言わなかった。
 のぶは、朔太郎が抱いている蒲鉾の板に目を留める。そこに書いてある文字に目を見開いた。

「さくちゃん、……もしかしてお兄ちゃんにそれを書いてもらったの?」

 尋ねると、こくんと頷く。
 のぶは慌てて徳次を番屋へ連れていこうとする菊蔵に向かって声をあげた。

「親分、徳次さんを連れて行かないでください! 徳次さんは、これを……さくちゃんにこれを書いてくれただけなんです。お前さん」

 すがるように晃之進を見ると、彼はしゃがみ込み、蒲鉾板を確認した。

「これは……」

「位牌です」

 蒲鉾板には『ははうえ』と書いてある。

「大奥さまの月命日に、お屋敷に行った時、私が教えたんです。位牌には亡くなった方の名前が書いてあってその前で手を合わせれば、お話しできるのよって。そ、それで……。それで、さくちゃん、母上さまの位牌を作ろうとしたんだと思います。だ、だから書いてもらえる人を探してたのよ」

 涙でうまく言えなくなってしまう。
 晃之進と菊蔵が顔を見合わせた。

「ねえ徳次さん、そうでしょう?」

 のぶは徳次に問いかける。
 徳次がようやく口を開いた。

「坊やが、お客さんに筆はないかと聞いてるのを見て、なんて書いて欲しいのか尋ねたんです。そしたら……母上だって言うから……」

「それで、書いてくれようとしたんでしょう?」

 朔太郎がゆっくりと頷いた。

「でも筆は『かくぜん』のあっしの荷物の中にあるから……」

 それに菊蔵が噛み付いた。

「だからってなんでおかみさんになにも言わないで坊やを連れて行ったんだ! てめえが取りに行けばよかっただろ!」

 徳次が唇を噛んでのぶを睨む。その目は真っ赤だった。

「だって、坊やの言う『母上』は、おかみさんのことではないでしょう? ……だからあっし……」

「なっ……! わけのわからねぇことを言うんじゃねえ」

 菊蔵に一喝されるが、のぶには彼の言いたいことがわかった。
 母親を恋しがる朔太郎にとって、のぶのそばがよい場所とは思えなかったということだ。この間の彼の問いかけに、のぶが答えられなかったから。

「蒲鉾板に字を書いたあと、田楽屋に送り届けようとしましたが、どうしてもあっしにはできなくて……」

「徳次さん、この前はちゃんと答えられなくてごめんなさい。私、さくちゃんのこと大切にする。何があっても……」

 本心からそう言うと、徳次がのぶから目を逸らした。
 ふたりの間のただならぬやり取りに、菊蔵がさっきより落ち着いた様子で口を開いた。

「徳次、お前にも事情があるんだろが、後先考えて行動しろ。でないと本当に信州屋に戻れなくな……」

「信州屋なんて!」

 徳次が吐き捨てるように、菊蔵の言葉を遮った。

「はじめから帰る気なんてありません。あんなところ、絶対にごめんだ」

「お前……」

 奉行所に訴えていたのとは真逆の言葉に、菊蔵は言葉に詰まる。無理もない。彼がこの主張を曲げないから、問題は長引いていたのだから。

「それがお前の本心だな」

 晃之進が口を開いた。

「……はい」

「信州屋に帰りたいとごねてたのは、事件を長引かせて奴らの評判を下げるためだろう」

「そうです。真面目で欲のない奉公人の鏡のようなふりをしていれば、あの夫婦の評判は地に落ちるでしょう。あっしの望みはそれだけです。親父に捨てられたとわかった時からそれしか考えていません」

 のぶの頬を涙が伝う。
 冷めた声で言う徳次を、朔太郎と同じように抱きしめたかった。
 菊蔵の言葉が頭に浮かぶ。

『割りを食うのはいつも子どもだ』

 本当にその通りだ。大人同士の惚れた腫れたは、どうでもいい。どんなにつらくとも自分が望んだことの結果なのだから。
 でも何の罪もない子どもたちは別だ。彼らがこんな風に、苦しい思いをするのは間違っている。

「親分、お願いします。徳次さんを連れていかないで。親分が言ったんじゃないですか、割りを食うのは子どもだって、お願い、お願いします……!」

 のぶは首を振って、菊蔵に訴えた。そうせずにはいられなかった。
 取り乱すのぶと腕の中の朔太郎を晃之進が抱き閉める。

「のぶ、大丈夫、大丈夫だ。菊蔵は悪いようにはしねえよ。おい、徳次、うちのぼうずの願いを聞いてくれてありがとうよ。次来た時は、田楽を食べて行ってくれ」

 徳次がのぶにしがみつく朔太郎に目をやった。

「坊や、その人はかかさまか?」

 その問いかけに、朔太郎はしばらく考えてからこくんと頷いた。

「……そうか」

 朔太郎が納得したように目を閉じた。

「坊やには母上さまとかかさまがいるんだな」
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