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涙、涙の蒲鉾板
行方知れず
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梅雨の晴れ間か、次の日はよく晴れた。雨が続いていた憂さ晴らしのように、天満宮の詣客がたくさん詰めかけて、田楽屋はてんてこ舞いだった。
そして八つ。
いつもより半刻も早く田楽を売り切って店の中を見回してみると、朔太郎が見当たらないではないか。
「まる、さくちゃんは?」
思わず、小上がりの座布団で毛繕いをしているまるに尋ねると、にゃーんと鳴いて勝手口の方を見る。
どくんどくんと心の臓が嫌な音で鳴り始める。
のぶは真っ青になって家の中や厠、その辺りを探したが姿は見えなかった。頭が混乱して、どうすべきかわからないままにのぶは店の中で立ち尽くす。
そこへ、晃之進が帰ってきた。
「帰ったぞ」
随分早い戻りだが、今はそんなことを気にしている場合ではない。のぶは彼にしがみついた。
「おまえさん! さくちゃんがいないの……! どうしよう!」
晃之進はのぶを抱えて小上がりに座らせる。
「最後に姿を見たのはいつだ?」
のぶは震える唇を開いた。
「昼過ぎくらいまでは確かに小上がりにいました。蒲鉾板に何か書いてほしそうで筆はないかって聞かれたから」
前日から引き続き蒲鉾板を大事に持っていた朔太郎に『かいてくれ』と言われた。
「蒲鉾板に?」
「そうです。でもうちにある筆と硯はおじちゃんのものだから勝手に触ってはいけないのよ、夜にお願いしてみようねって言ったら、残念そうにしてたけど素直に頷いて……。確かあれが話しをした最後だった」
「らくがきでもしたかったのか。とにかくのぶ、お前はここを動くなよ。ぼうずが帰ってくるかもしれねえ。おれはその辺りを探しながら菊蔵を呼んでくる」
そう言って自分は出て行った。
店の中がしいんと静まり返った。通りを行く人たちの喧騒がどこか遠くに聞こえた。
いつもならこの時間は朔太郎とまるがドタバタやるのを見ながら店の片付けをする。晃之進が帰ってきたら、ふたりを湯屋へ送り出す。そして弾んだ気持ちで三人分の夕食の準備をして……。
恐ろしいものを見たときのようにのぶの身体がぶるりと震える。こんなに静かな田楽屋は自分の家じゃないとすら思うくらいだった。
朔太郎が無事に帰ってきてくれるなら、なにを差し出してもいいとすら思う。
待つ時間がとてつもなく長く感じられた、いても立ってもいられなくて、自分も捜しにいこうかと立ち上がりかけた時、菊蔵がやってきた。
「ああ、親分」
「のぶさん、聞きやした。今、手下に捜させておりやす。坊やが行きそうなところに心当たりはありますかい?」
「行きそうなところなんて……。さくちゃんここに来てからは安居家くらいしか出かけていません。あとは湯屋くらいしか……」
そこへ晃之進が戻ってきた。
「この辺りにいねえみたいだ。ぼうずの足でそう遠くまで行けねえだろうに」
「誰かが連れて行ったんですかね」
菊蔵の言葉に、のぶはひっと声をあげて卒倒しそうになってしまう。
「のぶ!」
晃之進に抱えられてどうにか気を保った。迷子になったとしても心配だが、かどかわしならもっと怖い。
「しっかりしろ、のぶ。ぼうずは自分から店の外へは出ねえだろう? 今日店にあやしいやつは来なかったか?」
「あやしい人……わ、わかりません。今日は店が忙しかったから」
「のぶさん、さっき常連客何人かに話を聞いてきやしたが、坊やは筆を貸してほしいとせがんでいたようです。持ってないと答えると残念そうにしていたと」
菊蔵の言葉に晃之進が考え込む。
「やけに筆にこだわるな。まさか筆を探しに家を出たんだろうか?」
のぶは胸が潰れそうな心地がする。そんなことならば、晃之進に叱られても、店の客を放り出してもいいから、あの時書いてやればよかった。
「それにしても、ひとりで出るのも妙だ。ぼうずはのぶのそばを離れたがらないはずなのに」
晃之進が首を捻る。
そこでのぶは、あることに気がついて「あれ」と声をあげた。
彼の向こう、台所に味噌の瓶がふたつある。行って開けてみるとひとつは空でもうひとつは満杯だった。
「……徳次さん、来てたのかしら」
来始めた頃は大体午前中に来ていた徳次だが、だんだん得意先を任されるようになってきたようで、来る時間がまちまちになった。店をやっている時間に来て、裏からのぶにひと言かけて勝手に交換し、帰っていくことも多い。
でも今日は声をかけられた記憶はなかった。のぶが忙しくしていたからだろうか。
「でもどうして、空の方を持っていかなかったのかしら。……忘れたのかな」
それにしても妙だった。徳次にしては初歩的な間違いだ。彼はしっかりしているのに……。
「あるいは、空の瓶の代わりになにか別のものを持って帰ったか……」
晃之進が難しい顔で呟いた。のぶはどきりとして彼を見た。
「お、お前さん、まさか……!」
晃之進が菊蔵に指示を飛ばす。
「菊蔵、手下に徳次を捜させろ。おれは『かくぜん』に行く。のぶ、お前は……」
その言葉を最後まで聞かずに、のぶは店を飛び出した。
そして八つ。
いつもより半刻も早く田楽を売り切って店の中を見回してみると、朔太郎が見当たらないではないか。
「まる、さくちゃんは?」
思わず、小上がりの座布団で毛繕いをしているまるに尋ねると、にゃーんと鳴いて勝手口の方を見る。
どくんどくんと心の臓が嫌な音で鳴り始める。
のぶは真っ青になって家の中や厠、その辺りを探したが姿は見えなかった。頭が混乱して、どうすべきかわからないままにのぶは店の中で立ち尽くす。
そこへ、晃之進が帰ってきた。
「帰ったぞ」
随分早い戻りだが、今はそんなことを気にしている場合ではない。のぶは彼にしがみついた。
「おまえさん! さくちゃんがいないの……! どうしよう!」
晃之進はのぶを抱えて小上がりに座らせる。
「最後に姿を見たのはいつだ?」
のぶは震える唇を開いた。
「昼過ぎくらいまでは確かに小上がりにいました。蒲鉾板に何か書いてほしそうで筆はないかって聞かれたから」
前日から引き続き蒲鉾板を大事に持っていた朔太郎に『かいてくれ』と言われた。
「蒲鉾板に?」
「そうです。でもうちにある筆と硯はおじちゃんのものだから勝手に触ってはいけないのよ、夜にお願いしてみようねって言ったら、残念そうにしてたけど素直に頷いて……。確かあれが話しをした最後だった」
「らくがきでもしたかったのか。とにかくのぶ、お前はここを動くなよ。ぼうずが帰ってくるかもしれねえ。おれはその辺りを探しながら菊蔵を呼んでくる」
そう言って自分は出て行った。
店の中がしいんと静まり返った。通りを行く人たちの喧騒がどこか遠くに聞こえた。
いつもならこの時間は朔太郎とまるがドタバタやるのを見ながら店の片付けをする。晃之進が帰ってきたら、ふたりを湯屋へ送り出す。そして弾んだ気持ちで三人分の夕食の準備をして……。
恐ろしいものを見たときのようにのぶの身体がぶるりと震える。こんなに静かな田楽屋は自分の家じゃないとすら思うくらいだった。
朔太郎が無事に帰ってきてくれるなら、なにを差し出してもいいとすら思う。
待つ時間がとてつもなく長く感じられた、いても立ってもいられなくて、自分も捜しにいこうかと立ち上がりかけた時、菊蔵がやってきた。
「ああ、親分」
「のぶさん、聞きやした。今、手下に捜させておりやす。坊やが行きそうなところに心当たりはありますかい?」
「行きそうなところなんて……。さくちゃんここに来てからは安居家くらいしか出かけていません。あとは湯屋くらいしか……」
そこへ晃之進が戻ってきた。
「この辺りにいねえみたいだ。ぼうずの足でそう遠くまで行けねえだろうに」
「誰かが連れて行ったんですかね」
菊蔵の言葉に、のぶはひっと声をあげて卒倒しそうになってしまう。
「のぶ!」
晃之進に抱えられてどうにか気を保った。迷子になったとしても心配だが、かどかわしならもっと怖い。
「しっかりしろ、のぶ。ぼうずは自分から店の外へは出ねえだろう? 今日店にあやしいやつは来なかったか?」
「あやしい人……わ、わかりません。今日は店が忙しかったから」
「のぶさん、さっき常連客何人かに話を聞いてきやしたが、坊やは筆を貸してほしいとせがんでいたようです。持ってないと答えると残念そうにしていたと」
菊蔵の言葉に晃之進が考え込む。
「やけに筆にこだわるな。まさか筆を探しに家を出たんだろうか?」
のぶは胸が潰れそうな心地がする。そんなことならば、晃之進に叱られても、店の客を放り出してもいいから、あの時書いてやればよかった。
「それにしても、ひとりで出るのも妙だ。ぼうずはのぶのそばを離れたがらないはずなのに」
晃之進が首を捻る。
そこでのぶは、あることに気がついて「あれ」と声をあげた。
彼の向こう、台所に味噌の瓶がふたつある。行って開けてみるとひとつは空でもうひとつは満杯だった。
「……徳次さん、来てたのかしら」
来始めた頃は大体午前中に来ていた徳次だが、だんだん得意先を任されるようになってきたようで、来る時間がまちまちになった。店をやっている時間に来て、裏からのぶにひと言かけて勝手に交換し、帰っていくことも多い。
でも今日は声をかけられた記憶はなかった。のぶが忙しくしていたからだろうか。
「でもどうして、空の方を持っていかなかったのかしら。……忘れたのかな」
それにしても妙だった。徳次にしては初歩的な間違いだ。彼はしっかりしているのに……。
「あるいは、空の瓶の代わりになにか別のものを持って帰ったか……」
晃之進が難しい顔で呟いた。のぶはどきりとして彼を見た。
「お、お前さん、まさか……!」
晃之進が菊蔵に指示を飛ばす。
「菊蔵、手下に徳次を捜させろ。おれは『かくぜん』に行く。のぶ、お前は……」
その言葉を最後まで聞かずに、のぶは店を飛び出した。
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