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涙、涙の蒲鉾板
晃之進の話
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その日の夜、晃之進は朔太郎が寝てから帰ってきた。一階の小上がりで形の崩れた田楽を食べる晃之進に、のぶは徳次のことを話した。
「信州屋の徳次?」
「ええ、今『かくぜん』さんにいらっしゃるみたいです。信州屋さんの件は先日おかみさんから聞いていましたから、もしかしてと思って尋ねてみたら、当たりでした」
信州屋の騒動が公事ごとに発展しているなら、当然晃之進は知っているはず。倉之助が頭を悩ませていたという話だから、念のため伝えておこうと思ったのだ。
晃之進が難しい表情になった。
「どんな男だった?」
「どんなって……、若いのに気が利く真面目そうな人でしたよ。本人は何も悪くないのに、なんだか気の毒な話です」
言いながらのぶは晃之進の顔を伺う。周りから自分たち夫婦の状況と似ていると言われるこの騒動を、彼がどう言うか気になったのだ。
申し訳なさそうにするだろうかと考えたが、特にそんな様子はなかった。
「兄上の話だと、お奉行さまも頭を悩ませていらっしゃるようだ。どっちも頑なで一歩も譲らなねえ。信州屋のほうは主人はともかくおかみの方が頑固で、絶対に店には戻さないと言い切る。ったく、女の悋気は色恋ごとを盛り上げるくれぇがちょうどいいのよ。度が過ぎるとうっとおしいわな」
そう言って呆れたようにため息をついた。
「だいたい亭主が深川で遊ぶくれぇ大した話じゃねぇだろう。店を傾けるくらい入れ込んだわけじゃあるまいし。頑固な女子だぜ」
「でも子まで成したとなれば話は別でしょう」
のぶは思わず晃之進の言葉を遮って、彼のために淹れていた茶をどんと置いた。晃之進の口から出た『頑固な女子』という言葉に、腹が立った。
朝、徳次に会った時は、信州屋夫婦、特に徳次を問答無用で追い出したおかみのやりようを理不尽だと思ったのに、今は彼女に同情している。
「それだけ亭主に惚れているということでしょう。簡単に許せなくても仕方がないと思います」
晃之進が持っていた茶碗を置いてのぶを見た。いつもは言い返さないのぶの珍しい行動に驚いているようだ。
のぶもはっとして、首を横に振った。
「……あ、いえ、すみません」
晃之進がぽりぽりと月代をかいた。
「まぁ……、一番情けないのは女房を説得信州屋だわな。だが、徳次の方もいまいちわからねえのよ」
「わからない?」
「ああ、こうなったからには、今さら信州屋に戻っても今まで通りってわけにはいかねえだろ? 本人はただ奉公を続けられたらそれでいいと言うが、他の奉公人との関係もあるだろうし。それこそおかみさんがきつく当たるのは目に見えてる。だから同業の旦那衆の中には引き取ってやるって言ってる人もいるんだ。それなのに徳次が信州屋にこだわって首を縦に振らないんだ」
晃之進がやれやれというように首を振った。
「……実の父のそばにいたいんじゃありませんか? 母親は亡くなっているって話だし」
のぶは昼間の徳次を思い出しながら晃之進に言った。真面目だが、若さ特有の明るさがなかったように思う。
「妻が怖くて、自分を切り捨てた父親のそばにか?」
「それは……」
「まぁ、お奉行さまの前じゃ、本音は言えないのかもしれねえが。ここへ来るなら、しばらく気にかけてやってくれ」
晃之進はそう言って、話を締めくくる。
「わかりました」
のぶは頷いた。
「信州屋の徳次?」
「ええ、今『かくぜん』さんにいらっしゃるみたいです。信州屋さんの件は先日おかみさんから聞いていましたから、もしかしてと思って尋ねてみたら、当たりでした」
信州屋の騒動が公事ごとに発展しているなら、当然晃之進は知っているはず。倉之助が頭を悩ませていたという話だから、念のため伝えておこうと思ったのだ。
晃之進が難しい表情になった。
「どんな男だった?」
「どんなって……、若いのに気が利く真面目そうな人でしたよ。本人は何も悪くないのに、なんだか気の毒な話です」
言いながらのぶは晃之進の顔を伺う。周りから自分たち夫婦の状況と似ていると言われるこの騒動を、彼がどう言うか気になったのだ。
申し訳なさそうにするだろうかと考えたが、特にそんな様子はなかった。
「兄上の話だと、お奉行さまも頭を悩ませていらっしゃるようだ。どっちも頑なで一歩も譲らなねえ。信州屋のほうは主人はともかくおかみの方が頑固で、絶対に店には戻さないと言い切る。ったく、女の悋気は色恋ごとを盛り上げるくれぇがちょうどいいのよ。度が過ぎるとうっとおしいわな」
そう言って呆れたようにため息をついた。
「だいたい亭主が深川で遊ぶくれぇ大した話じゃねぇだろう。店を傾けるくらい入れ込んだわけじゃあるまいし。頑固な女子だぜ」
「でも子まで成したとなれば話は別でしょう」
のぶは思わず晃之進の言葉を遮って、彼のために淹れていた茶をどんと置いた。晃之進の口から出た『頑固な女子』という言葉に、腹が立った。
朝、徳次に会った時は、信州屋夫婦、特に徳次を問答無用で追い出したおかみのやりようを理不尽だと思ったのに、今は彼女に同情している。
「それだけ亭主に惚れているということでしょう。簡単に許せなくても仕方がないと思います」
晃之進が持っていた茶碗を置いてのぶを見た。いつもは言い返さないのぶの珍しい行動に驚いているようだ。
のぶもはっとして、首を横に振った。
「……あ、いえ、すみません」
晃之進がぽりぽりと月代をかいた。
「まぁ……、一番情けないのは女房を説得信州屋だわな。だが、徳次の方もいまいちわからねえのよ」
「わからない?」
「ああ、こうなったからには、今さら信州屋に戻っても今まで通りってわけにはいかねえだろ? 本人はただ奉公を続けられたらそれでいいと言うが、他の奉公人との関係もあるだろうし。それこそおかみさんがきつく当たるのは目に見えてる。だから同業の旦那衆の中には引き取ってやるって言ってる人もいるんだ。それなのに徳次が信州屋にこだわって首を縦に振らないんだ」
晃之進がやれやれというように首を振った。
「……実の父のそばにいたいんじゃありませんか? 母親は亡くなっているって話だし」
のぶは昼間の徳次を思い出しながら晃之進に言った。真面目だが、若さ特有の明るさがなかったように思う。
「妻が怖くて、自分を切り捨てた父親のそばにか?」
「それは……」
「まぁ、お奉行さまの前じゃ、本音は言えないのかもしれねえが。ここへ来るなら、しばらく気にかけてやってくれ」
晃之進はそう言って、話を締めくくる。
「わかりました」
のぶは頷いた。
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