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涙、涙の蒲鉾板

信州屋

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 うららかな午前の日差しが降り注ぐ江戸の町、永代橋へ続く通りを、のぶは朔太郎の手を繋ぎ歩いていく。途中魚屋から声がかかる。

「おや、のぶさん。今日は店は休みかい?」

「ええ……親戚のところに用事があって。夕方までには戻ります」

 のぶは曖昧に答えた。
 行き先は、八丁堀の安居家だ。毎月五日はきよの月命日だから、店は休みにして線香をあげに行くことにしている。でもそれをそのまま言うわけにはいかなかった。のぶと晃之進は、表向き安居家から一緒になるのを反対されてかけおちことになっている。

「おう、殿ちびちゃん、おはようさん」

 魚屋が朔太郎に向かって声をかけると、"殿ちびちゃん"と呼ばれた朔太郎が答えた。

「うむ」

 朔太郎がのぶの家に来てから十日が経った。
 朔太郎はのぶと一緒にいることにすっかり慣れたようで、ただ店の様子を眺めているだけでなく田楽屋に一日中入り浸るようになったまると遊んだり時にはひるねをしていることもある。
 客たちは、そんな彼に気楽に声をかけたり、飴玉や煎餅をくれたりする。
 朔太郎もそれに可愛く応えていて、小上がりに彼がまると一緒にちまっと座っているのが、田楽屋の名物となりつつあった。

『まるでちっちぇえ殿さまみてえだな』

と誰かが感想を漏らしたのをきっかけに、朔太郎は『殿ちびちゃん』と呼ばれるようになったのだ。
 のぶが、"さくちゃん"と呼んだときは、はじめの頃は腑に落ちない様子だった朔太郎は、『殿ちびちゃん』と呼ばれることに関してはすぐに受け入れたのがおかしかった。

「いきのいい鰹の刺身が入ったんだ、晃さんにどうだい?」

「あら、嬉しい。そしたら、帰りに寄りますから、取っておいてくださいます?」

「食べられるようにして、うちのやつに夕方に届けさせるよ」

「ありがとうございます。九つまでには帰ります」

 そんなやり取りをしてから、またのぶは朔太郎の手を引いて歩き出す。
 魚屋とこんなやり取りをするのははじめてだ。
 彼は普段から晃之進の帰りが遅いことを知っていて足の早い刺身をのぶには勧めない。でもここ最近、晃之進が日のあるうちに帰ってくると耳にしているのだろう。

 そう、晃之進はこの十日間、早く家に帰ってくる。

 朔太郎を湯屋へ連れて行き、のぶの作る夕食を三人で囲むのだ。
 幼い子の面倒を見ながら、亭主の帰りを待つ。そこらのかみさん連中が毎日当たり前にしていることが、のぶにとっては新鮮で、複雑な気分だった。

 晃之進の帰りが早いのは、朔太郎が自分の息子だからだろうか?

 のぶひとりが待つだけならば早く帰る必要がないけれど、息子がいるなら話は別?

 なにも言わなかったが、本当はのぶに子ができないことを不満に思っていた?

 そんなことが頭に浮かび、のぶは唇を噛み、その思いを頭から追い払った。
 途中、茶っぱを買い求める。
 朔太郎に、

「今日お会いになる人へのお供えよ」

と説明した。

 安居家は八丁堀坂本町にある、裏口から声をかけると、待ちかねたようにりんが出てきた。

「のぶ、待ってたわ」

 朔太郎を連れていることに、驚いた様子はなかった。倉之助から事情を聞いているのだろう。

「こんにちは、坊や。のぶ、元気そうでよかったわ。困っていることはない? なにか必要なものがあるならすぐに言うのよ」

 まるで実家の母か姉かというくらい心配してくれる。のぶのほうも安居家に来ると実家に帰ってきたような気分になる。

「おかげさまで、順調です。おかみさんもお変わりないですか? 旦那さまと倉太郎ぼっちゃまは?」

「ええ、皆元気よ。倉太郎は今手習所に行っているけど、昼前には帰ってくるわ。お昼は食べていくでしょう? 今日は坊やが来ると思ってうどんの準備をしてあるの」

「ありがとうございます」

 そんなやり取りをしてから、のぶは台所を借りて買ってきた茶っぱで茶を淹れ、きよの仏壇に備えた。
 武士の妻らしく質素倹約に努めていたきよの唯一の楽しみは美味しい茶を飲むことだった。

『のぶや、茶を淹れておくれ』

 亡くなる直前、もう起き上がるのもやっとになって、ほとんど食べられなくなっても、茶だけは飲みたがったのだ。
 のぶは彼女のために、湯の熱さや葉を蒸らす時間を工夫した。

『ああ、のぶの淹れた茶を飲むと生き返るようだねぇ』

 そう言ってくれるのが、何より嬉しかった。
 仏壇の前でのぶは手を合わせる。
 今月もつつがなく生活できたことは、きっときよが見守ってくれたからだ。
 目を開くと、隣の朔太郎が不思議そうに首を傾げて湯呑みを指差した。

「だれもおらぬ」

 どうやら、のぶが位牌の前に茶を供えたのが不思議に思ったようだ。飲む人がいないというのだろう。

「この板にね、名前が書いてあるでしょう? 亡くなった方の名前よ。この前で手を合わせたら、心の中でお話ができるの。好きだったものをお供えすれば、口にしていただけるのよ」

 のぶの説明を朔太郎は黙って聞いていた。
 そのあと、のぶとりんの分も茶を淹れてそこでおしゃべりをする。きよが生きていた頃も、よくそうしていた。きよは、ふたりの話を聞きながら眠るのだ。
 驚いたことに朔太郎も茶を飲みたがった。
 ふうふう冷まして彼の前においてやると、子供らしくない仕草でずずずと飲み満足そうに目を細めている。

「よき茶じゃ」

「そう? よかった」

 のぶはふふふと笑みを漏らした。朔太郎のこのような少し風変わりな振る舞いにはもう慣れた。それどころか、こんなところを可愛らしいと感じている。
 一方で、りんは目を丸くしているが、何も言わなかった。
 そこへ倉太郎が手習場から帰ってきた。朔太郎に気がついてにっと笑った。

「おお、こいつだな。のぶが預かったってぼうずは」

 自分だってこの前までぼうずと呼ばれていたのに、そんなことを言う。
 とはいえ今年八つになった彼は、見るたびに背が伸びて随分頼もしくなった。通っている道場での成績は一番だという。

「こいよ、駒回しをおしえてやる」

 そう言って朔太郎を連れていく。近所の子らに混じるのは、まだできないでいる朔太郎だが、素直について行った。
 倉太郎の誰とでもすぐに親しくなれるところは、叔父の晃之進譲りだとのぶは密かに思っている。
 ふたりが部屋を出ていくと、りんが口を開いた。

「のぶがあの子を預かったって旦那さまから聞いて、私心配してたのよ。様子を見に行こうかと思ったんだけど、旦那さまに止められていたの」

 安居家から出た後も彼女はのぶと晃之進夫婦を気にかけてくれている。

「なんとかやってます。あの通り、ちょっと変わった子ですけど、おとなしいですし」

「でも……」

「それに私、男の子の世話は倉太郎ぼっちゃまで慣れていますから」

 小さな頃の倉太郎はやんちゃだった。それこそ朔太郎くらいの頃は、いつも家中走り回っていてのぶは追いかけてばかりだったのだ。

「倉太郎で……。それもそうね」

 その頃のことを思い出したのか、りんはふふっと笑って納得した。でもまたすぐに深刻な表情になり、声を落とした。

「晃之進さまから、事情は聞いてるの?」

「詳しいことはなにも。母親が亡くなっていることと、しばらく預かることくらいです。おかみさんは?」

「私も、同じことを旦那さまから聞きました。のぶは商売をやっていますから、私が預かりますと申し上げたのに、晃之進さまのところがよいとおっしゃったのよ」

 りんが不満そうにした。

「旦那さまがそうおっしゃるなら、その方がよいのでしょう。お役目のことなら、詳しいことを話せなくても仕方がありません」

 のぶが言うと眉を寄せて唇を噛んだ。

「でも旦那さまは、晃之進さまのことに関しては信用できないわ」

 晃之進の名を出して憤る。彼女もまた、朔太郎が晃之進の隠し子ではないかと疑っているのだ。
 無理もない、とのぶは思う。
 一緒になる前の晃之進に、なじみの女が何人もいたのは有名な話だ。隠し子の一人や二人いてもおかしくはない。加えて一緒になって三年たつ女房に子ができないとなれば、連れてきて育てさせたって問題はないと世間は見るだろう。
 とは言っても、優しい彼女は許せないのだろう。

「でも……」

 と、口を開きかけたとき。

「こんにちは~。信州屋ですー」

 勝手口から声がした。

「そうだわ。お味噌をお願いしてたんだった」

 りんが言って立ち上がった。
 一緒にのぶも行く。
 のぶと晃之進が出てからは、安居家に下男しか置いていないから、そのまま昼食作りを手伝おうと思ったのだ。
 台所脇の勝手口にいたのは、信州屋と染め抜かれた羽織を着た四十がらみの男だった。

「おかみさん、こんにちは。いつもありがとうございます」

「あら番頭さん。番頭さんがお持ちくださるなんて申し訳ありませんでした。まだ徳次さんは戻れそうにないんですか?」

 味噌を受け取ったりんが尋ねた。

「ええ、まぁ……」

 番頭が曖昧に答えると、りんが眉を寄せた。

「徳次さん真面目ないい方だったのに……。なんとかならないかしら」

「……しばらくは難しいかもしれません。なにしろ事情が事情ですから」

 番頭が気まずそうに言葉を濁してそそくさと帰っていった。
 それを見送ってから、りんがのぶに説明をする。

「家に来てくださっていた手代さん、徳次さんっていう方なんだけど、ひと月前に信州屋を追い出されたのよ」

「何かあったんですか?」

「なんでも、ご主人の隠し子だったらしいの」

「隠し子……?」

 そのまま二人は上り口に座り話し込む。

「深川の芸者に産ませた子なんだそうよ。女性の方はすでに亡くなっていて、それをおかみさんに内緒で奉公人として家に入れていたそうなの。折を見て身が立つようにしてやる、だからそれまでは誰にも言うなって本人には言っていたらしいわ」

「誰にも言うなって、親子だというこを隠せって言われてたんですか?」

「そう、ひどい話よね。自分の父親からそんなふうに言われるなんて。あそこのおかみさん、悋気が強いんですって。それで結局、何年もおかみさんに言えずにいたそうよ」

 りんがため息をついた。

「徳次さん、頭が切れるし気が利くし。なにも知らないおかみさんがすっかり気に入って、ひとり娘と一緒にして信州屋を継がせようと言い出したらしいの。それで仕方なくお話ししたそうよ。娘さんと徳次さんは異母兄妹になるんもの。一緒にはなれないし……」

「それで、追い出されちゃったんですか?」

 思わずのぶは口を挟んだ。ひどい話だ。本人が真面目に働いていたというのに。

「そうなのよ。今は同業の味噌屋さんのところにいるようなんだけど。本人は店を継ぐなんて大それたことは考えていない。ただ奉公を続けさせてほしいって訴えたんだけど、問答無用だったらしいわ。おかみさん気が強いから……。徳次さんに調子のいいことを言っていたご主人さんなんか、小さくなってしまって、まったく役に立たないそうよ」

 そう言ってりんは顔をしかめた。

「見かねた同業の旦那衆やら名主さんたちが、間に入って、とりなしてくれたんだけどらちがあかないそうよ。それで公事ごとにまでなってるのよ。旦那さまが頭を悩ませていたわ」

 公事、つまり奉行所に訴え出たということだ。本来ならば、奉公人が主人を訴えることはできないが、あまりにひどい事情があれば可能である。
 おそらく間に入った名主や旦那衆からの口添えがあったからだ。
 ここまで聞いて、朔太郎が来た次の日につねが『信州屋といい』と口走っていたのを思い出した。彼女はこのことを知っていた。妻のすぐそばで、妻に言わずに隠し子を育てる。この状況が、今ののぶと同じだと彼女は言いたかったのだ。
 そしてそれはりんも同意見のようだ。

「本当に、どこもかしこもそんな話ばっかりで、嫌になってしまうわ……」

 ため息をついて、心配そうにのぶを見る。その視線から逃れるように、のぶは目を逸らして立ち上がった。

「ち、昼食の準備してしまいましょうか。手伝いますよ」

 わざと明るく言って、無理やり話題を断ち切ると、りんがため息をついた。
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