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朔太郎参る!
奇妙なかけおち
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安居家で夜遅くに帰ってくる晃之進のために、勝手口を開けるのがのぶの役割りであった。勝手口脇の小部屋で寝起きしていたからである。
「よう、のぶ。なにかねえか?」
帰ってきた晃之進は決まってのぶにそう声をかけた。お役目となれば一日中物を口にできないこともあるからだ。晃之進が倉太郎の手伝いをしているのは安居家では周知の事実だったから、忠義者ののぶは晃之進がいつ帰ってきてもお腹に何か入れられるようにと、皆に作るお菜の中からあれこれ工夫をして残しておくようになったのだ
冷飯で握った味噌にぎり、鮭のほぐし茶漬け、鰯の蒲鉾……。
「のぶはお菜をこしらえるのが上手だな。忠義者だし、安居家は安泰だ」
それらを平らげたあと、晃之進は決まってそう言ってよく晴れた日の空のような笑顔を見せるのだ。
千両役者も顔負けの男前と言われてあちこちに馴染みの女がいると言われていた晃之進からの褒め言葉に、どきりとしなかったわけではない。でも彼はあくまでものぶがお仕えしている家の主人の弟。特別な気持ちなど微塵もなかったし、それは晃之進の方も同じことだった。
その二人がわりない仲になったのは、のぶが十六の時、りんりんと鈴虫が鳴く秋の夜だった。
「のぶの田楽はうめえな。平清でもこうはいかない」
いつものように夜中に帰ってきた晃之進がのぶの田楽を食べて満足そうにそう言った。拵えたお菜をほめてもらえるのは、相手が誰でも嬉しいものだ。のぶは声を弾ませた。
「豆腐屋のおかみさんにおしえてもらった作り方なんですよ。豆腐を一度油で揚げてありますから、こくが出るんです。たれは火にかけながらよく練って。晃之進さまの分には少し甘くするために水飴を加えてあります」
「へぇ」
「水飴を加えるやり方は倉太郎ぼっちゃまのためにおしえてもらったんですが、晃之進さまも甘いものがお好きですから、お口に合うかと思いまして」
晃之進は甘党な男だった。大福も団子も桜もちも、当時四つだった倉之助の長男倉太郎が喜ぶものは同じように彼も顔を綻ばせてよく食べる。
「おれは、ちびと同じか」
田楽の最後の一欠片を口に放り込み、晃之進がふっと笑った。
「まったく同じじゃありません。ぼっちゃまよりは少し水飴を少なくして代わりに胡麻を多めに」
たかが田楽でもおいしく食べるためには、あれこれ工夫が必要だった。
「なるほど、一人一人に合わせて作っているというわけだ。そののぶのまごごろが、うめえ田楽のひけつだな」
晃之進はそう言って切れ長の目を細めた。その彼の瞳を綺麗だなと思っているうちに、腕を引かれたのである。
その夜から時々、彼はのぶの小部屋に来るようになった。でもだからといってその時のふたりが恋仲だったのかと言われたら、そうではないとのぶは思う。
のぶにとって晃之進は主人一家の一人だ。一緒になりたいなど思ったこともなかったし、それは晃之進も同じだっただろう。彼はいずれは他家へ養子へ出る身だった。
ではどういうつもりだったのかと言われたら、答えにくい。のぶは世帯を持たず安居家のために身を捧げる覚悟であったから、晃之進との出来事もどこかでその一環のように思っていたのかもしれない。
一年ほど続いたその二人の関係が、また大きく動いたのは、安居の主人夫婦に知られたことかきっけだった。
主人の弟と女中がわりない仲になっていたという事実に、烈火の如く怒ったのは、倉之助ではなく彼の妻りんだった。
「いったいどういうおつもりです⁉︎ 晃之進さま!」
りんは普段は優しくて上品な女性でのぶの憧れの人だ。このように声をあげたところを見たのはこの時が初めだった。りんはのぶを妹のように可愛がっていた。
「私がいながらこんなことになってしまったなんて、のぶを可愛がっていたお義母さまになんとお詫び申し上げたらいいのやら……」
「いや、義姉上さま。私はべつにのぶを手篭めにしたわけじゃあ……」
晃之進は言いかけるが。
「のぶは、忠義者ですから、晃之進さまから誘われて断れるわけがありませんっ!」
りんに一喝されて口を閉じた。
「お前さま」
彼女は倉之助をきっと睨んだ。
「かくなる上は、のぶと晃之進さまを一緒にするしかありません。お前さまは、明日、お奉行さまに致仕を願いでてください。晃之進さまに安居家を継いでいただきましょう」
これには一同目を剥いた。
兄の跡目を年の離れた弟が継ぐことは珍しくないが、倉之助には倉太郎という立派な跡継ぎがいる。弟に継がせる道理はない。それに、同心の家に町家出身ののぶが嫁ぐのはあまりにも不都合だ。
普段のりんは、それくらいわからない人ではないが、今は少々頭に血が昇っているようだ。のぶ可愛さに……というのもあるだろうが、家のことを任せられている立場として責任を感じているのだろう。
「り、りん、落ち着きなさい。そういうわけにはいかん」
倉之助はりんを諌めるが、いつもの家長としての威厳はない。普段は怒らない妻が激昂していることに面食らっているのだろう。
「そのようなことは世間が許さ……」
「じゃあ、お前さまはのぶがどうなってもいいとおっしゃるのっ!」
声をあげるりんに、倉之助はあわあわと言う。
「い、いやそういうわけではない。もちろん、わしものぶのことは大切に思っておる。大切にせよというのがお袋の遺言でもあるからな。晃之進と……というのは意外だったが。晃之進もそろそろ妻帯させねばならぬ歳だし、さりとてこの通り掴みどころのない男だからなかなか難しいと思っとったんだがしっかり者ののぶなら、ちょうどいい。なかなか良い組み合わせだと思う。わしに考えがある」
「考え?」
「そうだ。どうかな、二人をかけおちさせてはどうだろう?」
「かけおちさせる……? お前さま、いったいなにをおっしゃってるの?」
自分とて、ついさっきとんでもないことを言ったのを棚に上げて、りんは眉を寄せた。
のぶも心底驚いた。倉之助は隠密廻同心として有能な人物として知られている。それなのに、こんなことを言うなんて。実家の主人がかけおちを勧めるなんて聞いたことがない。
隣の晃之進を盗み見ると彼は口元に笑みを浮かべて、おもしろいものを見た、というような表情だ。こちらの反応は、予想通りだった。
「わしものぶは可愛いが、さすがに晃之進と一緒になるのを正式に認めるわけにはいかんだろう。だから、深川あたりに家を用意してそこへかけおちさせるのだよ。のぶはしっかり者だから何か商売をやればいい。晃之進は今のままわしの手先として働けば、夫婦ふたりくらいは食べていけるだろう。どうだ?」
倉之助が水を向けると、晃之進は平伏した。
「なかなか良い案にござりまする」
完全におもしろがっている。
「のぶはどうだ?」
のぶのほうは、尋ねられてもすぐには答えられなかった。晃之進に心底惚れているならばこんなにありがたい話はないのだろう。だがそのときののぶの頭には、安居家を出る方がつらいことのように思えた。
りんも納得できないようだった。
「そんな日陰者みたいなこと、のぶが可哀想だわ」
不満そうに呟いている。
「なに形だけだ」
「でも、のぶにはいい縁談を見つけて家から嫁にだそうと思っていたんですよ。今年十七ですから、さぁこれからと思っていたのに……それがかけおちだなんて」
そう言って、晃之進を睨む。
晃之進が「あい、申し訳ありませぬ」と平伏した。
倉之助が口を開いた。
「だがこれで、すべてまるく収まるではないか。晃之進は今まで通りわしの手伝いが……」
それにりんが噛みついた。
「丸く収まるとはなんです⁉︎ そもそも今まで晃之進さまには、良いご養子先が降るほどあったじゃございませんか。それをすべてお断りしていたのは、お前さまが、お仕事のお手伝いをしていただきたかったからでございますわね? 晃之進さまのためを思ってのことではありません。それを養子の話が減ってきた今……これじゃまるで、のぶに尻拭いさせるみたいじゃないですか! 丸く収まるなんて、すべてお前さまの良いようになったというだけじゃありませんかっ!」
「いや、義姉上さま。私は兄上ののなさりように不満があるわけじゃありません」
口を挟む晃之進を、りんが一喝した。
「晃之進さまはお黙りなさいっ! あぁ、口惜しい……。のぶには、実直で真面目なお相手に縁づいて欲しかったのに……」
そう言って唇を噛んで晃之進を睨む。まるで晃之進はそうではないと言わんばかりだ。……実際、晃之進にはあちらこちらに馴染みの女がいるという話だから、あながち間違いではないのだ。
とどのつまりは、彼女は、のぶの相手が晃之進だということが納得できないのだと気がついて、晃之進は月代をぽりぽりとかいて、口を閉じた。
りんは、はらはらと涙を落とした。
「わたくし、お前さまがこのように心根の冷たい方だとは知りませんでした」
「いや、り、りん。わしは……」
「もうなにもおっしゃいますな。お前さまのお心は、よぉくわかりました。とても残念ですけれどわたくし……」
「こ、これ、りん。な、何を言う……!」
不穏な主人夫婦のやり取りに、たまらなくなって、のぶは思わず口を開く。
「お、お待ちください、おかみさん。私、晃之進さまとかけおちいたします!」
三つ指をついて、頭を下げる。
顔を上げると、倉之助はホッとしたような、晃之進は愉快そうな、りんは訝しむように三者三様の表情でのぶを見ていた。
「私、晃之進さまに心底惚れております。どうしても晃之進さまと一緒になりたいです。どうかお認めくださいませ」
のぶは、りんに向かって訴えた。
もちろん嘘だ。
第二の実家とも言うべき安居家を出るなんて、寂しくてたまらない。りんと離れるなど、考えただけで涙が出そうなくらいだ。安居家のために、ふたりの間の一粒種である倉太郎が一人前になるまでお世話するのが、のぶの望みだったのだから。
自分のせいで倉之助とりんの夫婦仲が悪くなるのはもっと嫌だった。そんなことになるならば、かけおちする方がよっぽどいい。
「のぶ……。本当に?」
青々とした眉を寄せて心配そうに尋ねるりんに、のぶの胸は痛くなる。のぶがここへ来たばかりころ、りんも嫁いできたばかり。二人は本当の姉妹のように心を寄せ合った。
『のぶ、こっちへおいで。これをお食べ』
そう言って、手に乗せてくれた金平糖の優しい甘さが、両親を亡くして傷ついたのぶの心を癒してくれた。
りんには幸せになってほしい、その一心で、のぶは彼女の隣の倉之助に向かって口を開いた。
「旦那さま、私と晃之進さまをかけおちさせてくださいませ。晃之進さまが今まで通りお役目を果たせますよう、しっかりとお支えすることをお約束いたします」
まだ心配そうなりんの隣で、倉之助が満足そうに「うむ」と頷く。
「まるでおれが嫁入りするみてぇだな」
晃之進がふっと笑い月代をつるりとなでた。
「よう、のぶ。なにかねえか?」
帰ってきた晃之進は決まってのぶにそう声をかけた。お役目となれば一日中物を口にできないこともあるからだ。晃之進が倉太郎の手伝いをしているのは安居家では周知の事実だったから、忠義者ののぶは晃之進がいつ帰ってきてもお腹に何か入れられるようにと、皆に作るお菜の中からあれこれ工夫をして残しておくようになったのだ
冷飯で握った味噌にぎり、鮭のほぐし茶漬け、鰯の蒲鉾……。
「のぶはお菜をこしらえるのが上手だな。忠義者だし、安居家は安泰だ」
それらを平らげたあと、晃之進は決まってそう言ってよく晴れた日の空のような笑顔を見せるのだ。
千両役者も顔負けの男前と言われてあちこちに馴染みの女がいると言われていた晃之進からの褒め言葉に、どきりとしなかったわけではない。でも彼はあくまでものぶがお仕えしている家の主人の弟。特別な気持ちなど微塵もなかったし、それは晃之進の方も同じことだった。
その二人がわりない仲になったのは、のぶが十六の時、りんりんと鈴虫が鳴く秋の夜だった。
「のぶの田楽はうめえな。平清でもこうはいかない」
いつものように夜中に帰ってきた晃之進がのぶの田楽を食べて満足そうにそう言った。拵えたお菜をほめてもらえるのは、相手が誰でも嬉しいものだ。のぶは声を弾ませた。
「豆腐屋のおかみさんにおしえてもらった作り方なんですよ。豆腐を一度油で揚げてありますから、こくが出るんです。たれは火にかけながらよく練って。晃之進さまの分には少し甘くするために水飴を加えてあります」
「へぇ」
「水飴を加えるやり方は倉太郎ぼっちゃまのためにおしえてもらったんですが、晃之進さまも甘いものがお好きですから、お口に合うかと思いまして」
晃之進は甘党な男だった。大福も団子も桜もちも、当時四つだった倉之助の長男倉太郎が喜ぶものは同じように彼も顔を綻ばせてよく食べる。
「おれは、ちびと同じか」
田楽の最後の一欠片を口に放り込み、晃之進がふっと笑った。
「まったく同じじゃありません。ぼっちゃまよりは少し水飴を少なくして代わりに胡麻を多めに」
たかが田楽でもおいしく食べるためには、あれこれ工夫が必要だった。
「なるほど、一人一人に合わせて作っているというわけだ。そののぶのまごごろが、うめえ田楽のひけつだな」
晃之進はそう言って切れ長の目を細めた。その彼の瞳を綺麗だなと思っているうちに、腕を引かれたのである。
その夜から時々、彼はのぶの小部屋に来るようになった。でもだからといってその時のふたりが恋仲だったのかと言われたら、そうではないとのぶは思う。
のぶにとって晃之進は主人一家の一人だ。一緒になりたいなど思ったこともなかったし、それは晃之進も同じだっただろう。彼はいずれは他家へ養子へ出る身だった。
ではどういうつもりだったのかと言われたら、答えにくい。のぶは世帯を持たず安居家のために身を捧げる覚悟であったから、晃之進との出来事もどこかでその一環のように思っていたのかもしれない。
一年ほど続いたその二人の関係が、また大きく動いたのは、安居の主人夫婦に知られたことかきっけだった。
主人の弟と女中がわりない仲になっていたという事実に、烈火の如く怒ったのは、倉之助ではなく彼の妻りんだった。
「いったいどういうおつもりです⁉︎ 晃之進さま!」
りんは普段は優しくて上品な女性でのぶの憧れの人だ。このように声をあげたところを見たのはこの時が初めだった。りんはのぶを妹のように可愛がっていた。
「私がいながらこんなことになってしまったなんて、のぶを可愛がっていたお義母さまになんとお詫び申し上げたらいいのやら……」
「いや、義姉上さま。私はべつにのぶを手篭めにしたわけじゃあ……」
晃之進は言いかけるが。
「のぶは、忠義者ですから、晃之進さまから誘われて断れるわけがありませんっ!」
りんに一喝されて口を閉じた。
「お前さま」
彼女は倉之助をきっと睨んだ。
「かくなる上は、のぶと晃之進さまを一緒にするしかありません。お前さまは、明日、お奉行さまに致仕を願いでてください。晃之進さまに安居家を継いでいただきましょう」
これには一同目を剥いた。
兄の跡目を年の離れた弟が継ぐことは珍しくないが、倉之助には倉太郎という立派な跡継ぎがいる。弟に継がせる道理はない。それに、同心の家に町家出身ののぶが嫁ぐのはあまりにも不都合だ。
普段のりんは、それくらいわからない人ではないが、今は少々頭に血が昇っているようだ。のぶ可愛さに……というのもあるだろうが、家のことを任せられている立場として責任を感じているのだろう。
「り、りん、落ち着きなさい。そういうわけにはいかん」
倉之助はりんを諌めるが、いつもの家長としての威厳はない。普段は怒らない妻が激昂していることに面食らっているのだろう。
「そのようなことは世間が許さ……」
「じゃあ、お前さまはのぶがどうなってもいいとおっしゃるのっ!」
声をあげるりんに、倉之助はあわあわと言う。
「い、いやそういうわけではない。もちろん、わしものぶのことは大切に思っておる。大切にせよというのがお袋の遺言でもあるからな。晃之進と……というのは意外だったが。晃之進もそろそろ妻帯させねばならぬ歳だし、さりとてこの通り掴みどころのない男だからなかなか難しいと思っとったんだがしっかり者ののぶなら、ちょうどいい。なかなか良い組み合わせだと思う。わしに考えがある」
「考え?」
「そうだ。どうかな、二人をかけおちさせてはどうだろう?」
「かけおちさせる……? お前さま、いったいなにをおっしゃってるの?」
自分とて、ついさっきとんでもないことを言ったのを棚に上げて、りんは眉を寄せた。
のぶも心底驚いた。倉之助は隠密廻同心として有能な人物として知られている。それなのに、こんなことを言うなんて。実家の主人がかけおちを勧めるなんて聞いたことがない。
隣の晃之進を盗み見ると彼は口元に笑みを浮かべて、おもしろいものを見た、というような表情だ。こちらの反応は、予想通りだった。
「わしものぶは可愛いが、さすがに晃之進と一緒になるのを正式に認めるわけにはいかんだろう。だから、深川あたりに家を用意してそこへかけおちさせるのだよ。のぶはしっかり者だから何か商売をやればいい。晃之進は今のままわしの手先として働けば、夫婦ふたりくらいは食べていけるだろう。どうだ?」
倉之助が水を向けると、晃之進は平伏した。
「なかなか良い案にござりまする」
完全におもしろがっている。
「のぶはどうだ?」
のぶのほうは、尋ねられてもすぐには答えられなかった。晃之進に心底惚れているならばこんなにありがたい話はないのだろう。だがそのときののぶの頭には、安居家を出る方がつらいことのように思えた。
りんも納得できないようだった。
「そんな日陰者みたいなこと、のぶが可哀想だわ」
不満そうに呟いている。
「なに形だけだ」
「でも、のぶにはいい縁談を見つけて家から嫁にだそうと思っていたんですよ。今年十七ですから、さぁこれからと思っていたのに……それがかけおちだなんて」
そう言って、晃之進を睨む。
晃之進が「あい、申し訳ありませぬ」と平伏した。
倉之助が口を開いた。
「だがこれで、すべてまるく収まるではないか。晃之進は今まで通りわしの手伝いが……」
それにりんが噛みついた。
「丸く収まるとはなんです⁉︎ そもそも今まで晃之進さまには、良いご養子先が降るほどあったじゃございませんか。それをすべてお断りしていたのは、お前さまが、お仕事のお手伝いをしていただきたかったからでございますわね? 晃之進さまのためを思ってのことではありません。それを養子の話が減ってきた今……これじゃまるで、のぶに尻拭いさせるみたいじゃないですか! 丸く収まるなんて、すべてお前さまの良いようになったというだけじゃありませんかっ!」
「いや、義姉上さま。私は兄上ののなさりように不満があるわけじゃありません」
口を挟む晃之進を、りんが一喝した。
「晃之進さまはお黙りなさいっ! あぁ、口惜しい……。のぶには、実直で真面目なお相手に縁づいて欲しかったのに……」
そう言って唇を噛んで晃之進を睨む。まるで晃之進はそうではないと言わんばかりだ。……実際、晃之進にはあちらこちらに馴染みの女がいるという話だから、あながち間違いではないのだ。
とどのつまりは、彼女は、のぶの相手が晃之進だということが納得できないのだと気がついて、晃之進は月代をぽりぽりとかいて、口を閉じた。
りんは、はらはらと涙を落とした。
「わたくし、お前さまがこのように心根の冷たい方だとは知りませんでした」
「いや、り、りん。わしは……」
「もうなにもおっしゃいますな。お前さまのお心は、よぉくわかりました。とても残念ですけれどわたくし……」
「こ、これ、りん。な、何を言う……!」
不穏な主人夫婦のやり取りに、たまらなくなって、のぶは思わず口を開く。
「お、お待ちください、おかみさん。私、晃之進さまとかけおちいたします!」
三つ指をついて、頭を下げる。
顔を上げると、倉之助はホッとしたような、晃之進は愉快そうな、りんは訝しむように三者三様の表情でのぶを見ていた。
「私、晃之進さまに心底惚れております。どうしても晃之進さまと一緒になりたいです。どうかお認めくださいませ」
のぶは、りんに向かって訴えた。
もちろん嘘だ。
第二の実家とも言うべき安居家を出るなんて、寂しくてたまらない。りんと離れるなど、考えただけで涙が出そうなくらいだ。安居家のために、ふたりの間の一粒種である倉太郎が一人前になるまでお世話するのが、のぶの望みだったのだから。
自分のせいで倉之助とりんの夫婦仲が悪くなるのはもっと嫌だった。そんなことになるならば、かけおちする方がよっぽどいい。
「のぶ……。本当に?」
青々とした眉を寄せて心配そうに尋ねるりんに、のぶの胸は痛くなる。のぶがここへ来たばかりころ、りんも嫁いできたばかり。二人は本当の姉妹のように心を寄せ合った。
『のぶ、こっちへおいで。これをお食べ』
そう言って、手に乗せてくれた金平糖の優しい甘さが、両親を亡くして傷ついたのぶの心を癒してくれた。
りんには幸せになってほしい、その一心で、のぶは彼女の隣の倉之助に向かって口を開いた。
「旦那さま、私と晃之進さまをかけおちさせてくださいませ。晃之進さまが今まで通りお役目を果たせますよう、しっかりとお支えすることをお約束いたします」
まだ心配そうなりんの隣で、倉之助が満足そうに「うむ」と頷く。
「まるでおれが嫁入りするみてぇだな」
晃之進がふっと笑い月代をつるりとなでた。
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