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1巻 鈴の恋する女将修業
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祖母が座る番台兼受付を中心として、右側にある階段を上った二階が客室で、左側が大浴場。そのふたつは、前庭を見渡せる渡り廊下で繋がっている。客室へ続く階段の灯りがついていないということは、今夜も宿泊客はいないのだろう。
対するお風呂のほうは、常連客で賑わっている。鈴のあとから来た客が「佳代さんこんばんは。あら、鈴ちゃん久しぶり」と挨拶をして、番台の下に置かれた賽銭箱にチャリンと小銭を放り込んだ。
いぬがみ湯では、こうやって入湯料を支払うことになっている。はっきりとした理由は知らないが、これも神社だったときの名残りなのだろう。
「いつ着いたんだい?」
祖母に問いかけられて、鈴は番台のそばに歩み寄る。
「お昼過ぎだったかな? すぐに来られなくてごめんね」
「いや、おばあちゃんこそ。鈴が帰ってくるのは知ってたけど、会いに行けなくてごめんよ。何しろここの準備があるからね」
そう言って申し訳なさそうにする。
それは仕方がないことだった。いぬがみ湯は祖母ひとりで切り盛りしているのだ。開けるのは夕方だが、それまでに風呂掃除、ドリンク補充とやることは際限なくある。
それに祖母が鈴の家に来ること自体が、鈴には想像できない。祖母と鈴の母――孝子は折り合いがあまりよくなくて、お互いに極力顔を合わせないようにしている。祖母が鈴の家に来ることはないし、その逆もまた然りだった。
とはいえ、鈴にとっては何の問題もない。ここに来ればいつでも祖母に会えるのだから。
厳しい母親とは違って、祖母は鈴にあれをしろ、これをしろと言わないから、鈴は祖母が大好きで、自分ひとりで来られるようになった小学生のころから毎日お風呂はいぬがみ湯で入る。叱られた夜に、泣きながら走ってここまで来たこともある。どんなときも祖母は番台に座って温かく迎えてくれた。
そんな鈴を母がよく思っていないのは確かだが、行くなと言われたことはない。ただ、あまり甘やかさないでほしいと父親に愚痴を言っているのを聞いたことがあるくらいだ。
「鈴、お誕生日おめでとう。ケーキが裏の冷蔵庫にあるから持っておかえり」
誕生日ケーキをバラバラに用意してもらって、それぞれに祝ってもらうのも、毎年のことだった。
「ありがとう」
鈴は答えながら、酒屋が運んできたドリンクが番台横の大きな冷蔵庫の前にそのままになっていることに気づいた。すぐにバッグを脇に置いて、冷蔵庫にドリンクを補充していく。オレンジジュースやコーヒー牛乳、瓶のラムネ……ラインナップは二年前と変わらない。
「いいよ、鈴そのままにしておいて。あとで私がやるから。今日は疲れただろうから、ゆっくり湯に浸かっておいで」
祖母にはそう言われるが、鈴は手を止めなかった。やれることは手伝うというのが身体に染みついている。ドリンクをそのままにして風呂に入るほうが、気持ち悪いくらいだった。そうでなくても、八十歳になる祖母には力仕事はつらいだろう。
「明日は朝から来て、お風呂掃除を手伝うからね」
すべてのドリンクを入れ終えて少し張り切って鈴が言うと、祖母がうれしそうににっこりと笑った。
「ああ、助かるよ。じゃ、ゆっくり入っておいで」
頷いて大浴場へ続く渡り廊下を鈴は行く。古い木の床がキシキシと鳴った。廊下の先は休憩処になっていて椅子や机が置いてある。さらにその先に藍色と朱色の暖簾が並んでいた。
朱色のほうをくぐると、脱衣所はガヤガヤと話をする声でいっぱいだ。靴箱にあった靴の数よりも脱衣籠に置かれている荷物のほうが、はるかに多いのがいぬがみ湯の特徴だ。
――あらこんにちは、お久しぶりですね。
――これから湯にお入りですか? 今日は少し熱めですよ。
あちらこちらからそんな会話が聞こえてくる。
半分は町から来る常連客、もう半分は……
空いている籠を見つけ服を脱ぎ、鈴は黒い髪を持ってきたゴムでお団子にする。そして白い手ぬぐいを手に、浴室へ続くガラス戸をガラガラと開けた。
大浴場の中は硫黄の匂いがする湯気が、もうもうと立ち込めている。古い木枠の大きな湯船がふたつ縦に並んでいて、手前があつ湯、奥がぬる湯だ。
圧巻なのは、男湯、女湯、両方にまたがる天井まである大きなタイル画である。いぬがみ湯の名前の由来であり、この町で〝白妙さま〟と呼ばれ崇められている犬神すなわち白狼が、天河山を背に堂々と描かれている。その白狼に見守られるようにして、入浴客が気持ちよさそうに湯に浸かっていた。
すぐにでも入りたいのを我慢して鈴は空いている洗面台へ行き、入念に身体を洗い始める。
天河村の温泉は白妙さまの恵みの湯、必ず身体を清めてから浸かるというのが決まりごとで、小さなころから耳にタコができるほど言われた。頭から爪の先までピカピカになって頭に手ぬぐいをくるりと巻いてから、鈴はようやく湯船に向かう。
鈴は、もっぱらぬる湯派だ。ゆっくりと湯船に浸かると、じわ~と身体が温かくなっていく。途端に頭の中がすっきりとして、鈴はこの町の正体を思い出した。
「おや、鈴ちゃん。久しぶりだねえ。帰ってきたのかい?」
頭に手ぬぐいをのせ気持ちよさそうに目を閉じていた狸の女が、鈴に向かって問いかけた。
「はい、今日戻りました」
答える鈴の後ろでは、蛇を身体に巻きつけた女性が、人間のお年寄りと世間話に興じている。洗い場では、紫色の鳥の親子が羽の手入れをしてた。
ここ天河村は、あやかしと人間が混ざり合って生活している町。
その昔、修行のために天河山を訪れた修験者が行き倒れていたところを、天河山に住む白狼に助けられた。修験者はたいそう感謝し、白狼を山神として祀るためにこの地で村を開いたと言われている。
いぬがみ湯には、人間の他に天河山をねぐらにしているあやかしたちが疲れを癒しに湯に浸かりにくる。だからここで生まれた者にとっては、湯船にあやかしが浸かっている光景は当たり前だ。
鈴が今それを思い出したのには理由がある。
町の者は高倉へ向かう赤い電車に乗り町を出ると、あやかしの存在を忘れてしまうのだ。町に戻り温泉の香りが混ざる風に当たり、いぬがみ湯の湯に浸かれば再び村の秘密を思い出す。中には長く村から離れ、あやかしの存在を忘れたまま生きていく者もいるけれど……
鈴はほぅっと息を吐き、とろりとした湯を両手ですくって楽しんだ。湯の温かさが残る両手を顔にギュッと押しあてると、心が解れていく。鈴が唯一心からくつろぐことができるひとときだ。
白狼のタイル画が天河山を背に、優しげな眼差しで鈴を見下ろしている。その白狼に向かって、鈴は心の中で挨拶をした。
――しろさま、ただいま戻りました。
白狼を〝しろさま〟と呼び、その日あったことを心の中で話すのが、小さいころからの日課だった。
学年でひとりだけ逆上がりができなくて笑われたこと。テストの点数が悪すぎて、母親に叱られたこと。悲しかったこと。うれしかったこと。
何から何まで話すと、不思議と気持ちが落ち着くのだ。二年ぶりにここへ戻ってきた鈴には、白妙に話したいことがたくさんある。
――しろさま、短大は無事に卒業できました。勉強はおもしろくて、もっと続けたいくらいでした。でも就職活動がうまくいきません。どうしたらいいと思いますか?
こうやって、相談ごとをするのも昔からの習慣。タイル画の前の鈴はお喋りだ。
――面接がどうしてもうまくいかないんです。
もちろんタイル画が答えてくれるわけではない。でもこうやって話をすれば、なぜかいつも自然と前向きな気持ちになれる。具体的な解決策が思いつくこともあるのだから不思議だった。
――会ったばかりの人の前で、志望動機を言うのが一番難しかったです。そんなの適当に話せばいいって言われたけど。本当は思っていないのに、適当なことを言うなんて。嘘をつくのって、私すっごく苦手です。
鈴は正直な気持ちを訴える。言葉にするのが苦手なだけで、鈴にだって言いたいことはたくさんある。
――なんだか、嘘をついた者勝ちみたいですよね。
するとタイル画がにっこりとする。温泉の湯気のせいでそう見えるだけなのだが、なんだか〝それでいいよ〟と言われているような気分になって、少し心が落ち着いた。
――そもそも私にできる仕事なんてあるんでしょうか。
問いかけて、鈴は白狼の優しい眼差しをジッと見つめる。
すると、もやもやと胸に渦巻く不安な思い、そこにぽとりと澄んだ雫が落ちたような心地がする。そして、それはゆっくりと胸の中に広がっていく。
焦らずにやってみよう。きっと何か見つかるはず。
そんな考えが頭に浮かぶ。
――しろさま、ありがとうございます。
やっぱりしろさまに相談してよかったと、タイル画にお礼を言って、鈴は顎まで湯に浸かり目を閉じた。
そのとき、脱衣所のあたりが急に騒がしくなって、ドタドタと誰かが走るような音がする。何事かと鈴が目を開けて振り返ると、ガラガラと大きな音を立てて脱衣所へ続く扉が開いた。
「鈴ちゃん! 鈴ちゃんはいるかね!」
名を呼ばれてもすぐには声が出てこない。代わりに狸のあやかしが答えた。
「鈴ちゃんは、ここにおりますよ」
白い湯気の向こうで扉を開けた人物の切羽つまった声が大浴場に響き渡った。
「ああ、鈴ちゃん、すぐに来ておくれ! 大変だ。佳代さんが、佳代さんが……!」
鈴と母が父の運転する車で自宅へ帰ってきたのは、日付が変わるころだった。番台で倒れ意識を失った祖母は、すぐさま救急車で高倉の大きな病院に運ばれた。町にも病院はあるが、難しい手術はできない。
病名は心筋梗塞。一命は取り留めたが、まだ完全に安心とは言えない状況で、いつ意識が戻るかもわからないと医者は言った。そのまま入院することになり、鈴たち三人は帰ってきたところである。
玄関で靴を脱ごうとして、鈴は自分がいぬがみ湯の玄関にあった客用のつっかけを履いていることに気がついた。
風呂に入る前に、ゆっくりと入っておいでと優しい声をかけてくれた。もしあれが最後の会話になったら、どうしよう。
救急車で運ばれていく、いつもとは違う土気色の祖母の顔が頭から離れない。心配でどうにかなってしまいそうだ。
重苦しい空気のまま三人は家に入り、なんとなくリビングダイニングに留まった。
「明日は俺が休みを取るよ。入院の準備があるし」
暗い声で父が言うと、母が頷いた。
「私も休みます。持っていく物、準備しておくわ。保険証はおばあちゃんの家にあるから、家に寄ってから行かないと。……どこにしまってあるかわかる?」
「うーん、実家にはしばらく行ってないからなぁ」
父と母が話すのを、鈴はソファに座りふたりに背を向けた格好でぼんやりと聞いている。
まだ現実のこととは思えなかった。
いぬがみ湯の番台の裏には小さな和室があって、そこが祖母の事務所兼居住スペースになっている。彼女が長期で家を空けたことは鈴が知る限りではない。いつ行っても、必ず祖母が迎えてくれた。番台に座って、穏やかに笑って。
それなのに、今はいぬがみ湯にはいないなんて。
「どっちにしても宿は閉めるしかなさそうね。でも、ただのお店じゃないんだし、町内に回覧板でも回してもらったほうがいいかしら?」
「そうだなぁ……」
〝閉めるしかない〟という言い方に引っかかりを覚え、鈴はハッとして振り返った。
「それって、おばあちゃんが目を覚ますまでだよね?」
思わず口を挟むと、両親は驚いたように鈴を見る。そして顔を見合わせてから、母が口を開いた。
「この状況で再開は無理よ。お医者さまだっておっしゃってたでしょう? 目を覚ますのがいつになるか――」
「おばあちゃんは目を覚ますよ! 必ず元気になるんだから!」
鈴が声をあげて言葉を遮ると、母がため息をつき口を開く。
「もちろんそれはそうだけど、身体がすぐに動くとは限らないでしょう? リハビリすることになるだろうし。そもそもおばあちゃんはもう八十なんだから、ひとりで宿を切り盛りするのは限界だったのよ。ねえ、お父さん?」
「……うん、まぁな」
母の言葉に、父が曖昧に頷いた。
「でもあそこは、村の人たちの大切な場所なのに!」
母が眉を寄せた。
「そんなこと言っても仕方がないじゃない。それに、昔はともかく今の村にお風呂がない家があるわけじゃないんだし。役割を終えたのよ」
冷たい言葉に、鈴の頭に血が上った。
「いぬがみ湯は、お風呂がない人のためだけにあるわけじゃない、白妙さまの恵みの湯なんだよ? なくなったりしたら……!」
そこまで言いかけて、複雑な目でこちらを見ている父の様子に気がついて言葉を切って口をつぐんだ。
――外から来た者はあやかしが見えない。
昔、町に嫁いできた嫁が秘密を知って逃げだすことが頻発したから、町の人もわざわざ教えはしない。もちろん中には町に溶け込んで、秘密を知ってもそのままここにとどまり続ける者もいるという話だけれど。
そう、母は高倉の出身で父との結婚を機に天河村にやってきたから、いぬがみ湯があやかしたちが集まる場所だということも天河村の秘密についても知らないのだ。おそらくはあやかしを見ることもできない。
「恵みの湯って……そういう伝統は大事だけれど、だからって現実的に考えないと」
母が呆れたような声を出した。もちろん母も白狼伝説については知っているが、あくまで昔話としてであって、あやかしたちが湯に浸かりにくるとは思っていないのだ。
「切り盛りする人がいないなら、閉めるしかないじゃない」
同意を求めるように父を見る。父が鈴をちらりと見て申し訳なさそうにしてから、また曖昧に頷いた。
「まぁ……そうだな」
「だからって、今決めなくてもいいじゃない‼ おばあちゃんは、必ず元気になるんだから。そしたらまたいぬがみ湯をやるって言うよ! 勝手に決めないで!」
鈴は感情を爆発させ、玄関を飛び出した。
夜の村を全力で走り抜け鳥居の下で立ち止まった鈴は肩で息をしながら、灯りが消えたいぬがみ湯を見つめる。こめかみから伝う汗が顎から落ちた。
どこへ行こうと考えたわけではないけれど、つらい気持ちになったとき、鈴が来る場所はここだけだ。
ここへ来ればいつも少し救われる。番台には祖母がいて、白狼のタイル画が自分を見守ってくれていて……
でも今のいぬがみ湯は、真っ暗で誰もいない。
そのことが途方もなく寂しかった。こんなこと絶対にあってはならないと強く思う。
恐る恐る近づいて、そぉっと玄関の扉を開ける。暖簾は下ろされていて、しーんと静まりかえった中は整然としていた。常連客たちが片づけてくれたのだろう。
ガラガラと浴室への扉を開けて灯りをつけると、湯気の中に天河山を背にした立派な白狼が浮かび上がった。
いつもと変わらぬその気高く優しい眼差しに、鈴の視界は滲んでいく。喉の奥が熱くなって嗚咽が漏れるのを止めることができなかった。
この場所がなくなるなんて、絶対に嫌だ。
まわりにうまく合わせられなくて、いつも疎外感を抱きながら生きてきた。つらいつらいと思うときも、もうどうにもならないとギリギリまで追いつめられたときでさえ、どうにかこうにかやってこられたのは、この場所があったからなのだ。もしこの場所がなくなってしまったら、自分はこれからどうやって生きていけばいいのだろう。
「くっ……つっ……」
涙はあとからあとから溢れ出て、鈴の頬を伝い落ちる。しゃがみ込み、うずくまって鈴は泣き続けた。
「……ろさま、しろさま……!」
腕に顔を埋めたまま、無意識のうちに鈴はそうつぶやいていた。
「しろさま……しろさま、私……どうしたらいいですか? おばあちゃん、このまま帰ってこなかったらどうしよう……!」
声に出して、タイル画に呼びかけるのは初めてだ。心の中で白狼と話をする習慣は、祖母にも誰にも秘密だった。
優しい祖母といぬがみ湯。大切なものをふたついっぺんに失うかもしれないという大きくて真っ黒な不安が鈴を襲う。
「大丈夫、帰ってくるよ」
優しい言葉が降ってくる。それに鈴は頭を振った。
「でも倒れたときのおばあちゃんの顔、真っ青だった……、あんなおばあちゃんは初めて。すごく、すごく苦しそうだった!」
「佳代はそんなにやわじゃないよ。あれくらいでくたばらないさ」
「でも……!」
そこで違和感を覚えて、はたと鈴は口を閉じる。心の中で答えてもらえたように感じたことはたくさんあるが、こんなにはっきり聞こえたことはない。
腕から顔を少し離し、鈴はしばらく考えた。
聞き間違い? それとも都合のいい妄想? 自分は動揺しているから……
そんなことを考えながら恐る恐る顔を上げると、古い湯船の木枠に腰かけている男性が目に飛び込んできた。
「つっ……⁉」
鈴は言葉もなく目を剥いた。
さっき電気をつけたときは、たしかにここには誰もいなかったはずなのに!
男性がにっこりと笑って立ち上がる。
「ひっ……!」
声を漏らして、鈴はその場に尻もちをついてしまった。濡れた床に手をついて言葉もなく彼を見つめる。
男性は少し長い銀色の髪を後ろで緩くひとつに結び、切長の薄い黄色の瞳とスッと通った鼻筋の涼やかな顔立ちだ。藍色のしじら織の浴衣をさらりと着こなしている。
……明らかに人間ではない。後ろから髪と同じ色のふわふわの立派な尻尾が覗いているからだ。十中八九あやかしなのは間違いないが、鈴が知るそれらとは大きく様子が違っていた。
存在感がまったくもって異なっているのだ。
いぬがみ湯に来るあやかしたちは、みな山にまぎれ人間にまぎれて、目立たないように暮らしている。だからその存在感はいつもどこか薄いのだ。
あやかしがどのくらい見えるかは人によって違う。よく見えるほうの鈴でさえ、入浴時に空いている洗い場を見つけたと思って椅子に座ろうとしてぶつかってしまい、そこにいたのだと気がつくこともしばしばだった。
それなのに、今目の前にいるあやかしはそれとまったく逆だ。ずっしりとした存在感は、まるで生身の人間のように感じられる。のみならず、出会っただけでありがたいような、そら恐ろしいような空気をまとっている。これは……?
「鈴? どうしたんだ?」
動けないままの鈴に男性が首を傾げる。そのことに鈴はまたもや目を剥いた。
どうしてこのあやかしは自分の名前を知っているのだろう。
ぺたりと座り込んだまま、お尻でずるずると少し下がる。とにかくなるべく離れたかった。
「鈴?」
それなのに銀髪のあやかしは、あろうことか名を呼びながら、こちらへやってくるではないか。
「……!」
恐怖に顔を引きつらせて、鈴はまたずるずると下がる。
鈴は彼があやかしだから怖いと思っているわけではない。この異様な存在感には圧倒されているが、問題はそこではなかった。
彼が人間でいう超絶イケメンだからである。
人間は元々苦手な鈴だけれど、その中でも特に苦手なのが若くてカッコいい男性だ。
カッコいい男性にはかわいい女性が集まって、イケてるグループができるというのが世の常で、それが鈴にとっては天敵ともいえる存在だ。いやそのグループは別にいい。それ自体は否定しない。
だが彼らは気まぐれに、退屈しのぎのように鈴をからかい傷つけることがあって、それが怖いのだ。関わりたくないと思うのに、同じ空間にいなくてはならない学校ではよく嫌な思いをした。今や反射的に美男美女を避けるようになっていて、話をするなどもっての他だ。
突然の出来事に、鈴の頭は混乱して正常な判断ができない。それなのに相手はどんどんこちらに近づいてくる。
負けじと鈴もずりずり下がりなるべく距離を取ろうとするが、背中が扉にぶちあたってしまう。
イケメンが残念そうに首を傾げた。
「鈴? もしかして怖いのかな? やっとこうして会えたのに」
そこでようやく鈴の口から声が出る。
「だだだだ……誰……?」
「ん? 私が誰かって?」
相手からの問いかけに、鈴がこくこくと頷くと、彼は後ろのタイル画を指差した。その指に導かれるように視線を送り、鈴は「あ」と声を漏らす。
タイル画が、もぬけの殻だった。背景の天河山だけがそこにあり、一緒に描かれているはずの白狼の姿がどこにもない。
唖然としながら鈴は視線を戻し、改めてまじまじと男性を見た。
銀色の美しい髪、満月を思い出させる輝く薄い黄色の瞳、ふさふさの尻尾は、タイル画に描かれていた白狼とぴたりと一致する。
人と狼という違いはあるけれど、まさか……
その鈴の考えを肯定するように男性が口を開いた。
「鈴が呼んだんじゃないか。だからこうして出てきたのに」
「ええ⁉ ままままさか、ししし、しろさま⁉」
大きな声が鈴の口から飛び出した。
「正解」
白妙がにっこりと笑う。けれど鈴は次の言葉を見つけることができない。
白狼の白妙は村の守り神とされている。長い村の歴史の中で土砂災害や地震など大きな災害に見舞われることがなかったのは、白妙のお陰だと皆常々口にしていた。
しかし、実際にその姿を見たことはなかった。
言い伝えの中だけの存在か、あるいは本当に存在したとしても天河山にいて人里には下りてこないのだと思っていた。なんせ神さまなのだから。
「ほほほほ本当に……?」
思わずそう問いかけると、彼はひょいと飛び上がりくるりと宙で一回転、着地したときはタイル画に描かれていた白狼になっていた。
「そうだ、私は鈴がよく知るしろさまだ」
白狼が目を細めて穏やかに微笑んだ。
「しろさま……!」
満月色の瞳で見つめられて、鈴の胸が熱くなった。
疑問はたくさんあるけれど、彼が白妙ということは間違いない。こんなに綺麗な白狼は、神さまだとしか思えない。
「しろさま……」
対するお風呂のほうは、常連客で賑わっている。鈴のあとから来た客が「佳代さんこんばんは。あら、鈴ちゃん久しぶり」と挨拶をして、番台の下に置かれた賽銭箱にチャリンと小銭を放り込んだ。
いぬがみ湯では、こうやって入湯料を支払うことになっている。はっきりとした理由は知らないが、これも神社だったときの名残りなのだろう。
「いつ着いたんだい?」
祖母に問いかけられて、鈴は番台のそばに歩み寄る。
「お昼過ぎだったかな? すぐに来られなくてごめんね」
「いや、おばあちゃんこそ。鈴が帰ってくるのは知ってたけど、会いに行けなくてごめんよ。何しろここの準備があるからね」
そう言って申し訳なさそうにする。
それは仕方がないことだった。いぬがみ湯は祖母ひとりで切り盛りしているのだ。開けるのは夕方だが、それまでに風呂掃除、ドリンク補充とやることは際限なくある。
それに祖母が鈴の家に来ること自体が、鈴には想像できない。祖母と鈴の母――孝子は折り合いがあまりよくなくて、お互いに極力顔を合わせないようにしている。祖母が鈴の家に来ることはないし、その逆もまた然りだった。
とはいえ、鈴にとっては何の問題もない。ここに来ればいつでも祖母に会えるのだから。
厳しい母親とは違って、祖母は鈴にあれをしろ、これをしろと言わないから、鈴は祖母が大好きで、自分ひとりで来られるようになった小学生のころから毎日お風呂はいぬがみ湯で入る。叱られた夜に、泣きながら走ってここまで来たこともある。どんなときも祖母は番台に座って温かく迎えてくれた。
そんな鈴を母がよく思っていないのは確かだが、行くなと言われたことはない。ただ、あまり甘やかさないでほしいと父親に愚痴を言っているのを聞いたことがあるくらいだ。
「鈴、お誕生日おめでとう。ケーキが裏の冷蔵庫にあるから持っておかえり」
誕生日ケーキをバラバラに用意してもらって、それぞれに祝ってもらうのも、毎年のことだった。
「ありがとう」
鈴は答えながら、酒屋が運んできたドリンクが番台横の大きな冷蔵庫の前にそのままになっていることに気づいた。すぐにバッグを脇に置いて、冷蔵庫にドリンクを補充していく。オレンジジュースやコーヒー牛乳、瓶のラムネ……ラインナップは二年前と変わらない。
「いいよ、鈴そのままにしておいて。あとで私がやるから。今日は疲れただろうから、ゆっくり湯に浸かっておいで」
祖母にはそう言われるが、鈴は手を止めなかった。やれることは手伝うというのが身体に染みついている。ドリンクをそのままにして風呂に入るほうが、気持ち悪いくらいだった。そうでなくても、八十歳になる祖母には力仕事はつらいだろう。
「明日は朝から来て、お風呂掃除を手伝うからね」
すべてのドリンクを入れ終えて少し張り切って鈴が言うと、祖母がうれしそうににっこりと笑った。
「ああ、助かるよ。じゃ、ゆっくり入っておいで」
頷いて大浴場へ続く渡り廊下を鈴は行く。古い木の床がキシキシと鳴った。廊下の先は休憩処になっていて椅子や机が置いてある。さらにその先に藍色と朱色の暖簾が並んでいた。
朱色のほうをくぐると、脱衣所はガヤガヤと話をする声でいっぱいだ。靴箱にあった靴の数よりも脱衣籠に置かれている荷物のほうが、はるかに多いのがいぬがみ湯の特徴だ。
――あらこんにちは、お久しぶりですね。
――これから湯にお入りですか? 今日は少し熱めですよ。
あちらこちらからそんな会話が聞こえてくる。
半分は町から来る常連客、もう半分は……
空いている籠を見つけ服を脱ぎ、鈴は黒い髪を持ってきたゴムでお団子にする。そして白い手ぬぐいを手に、浴室へ続くガラス戸をガラガラと開けた。
大浴場の中は硫黄の匂いがする湯気が、もうもうと立ち込めている。古い木枠の大きな湯船がふたつ縦に並んでいて、手前があつ湯、奥がぬる湯だ。
圧巻なのは、男湯、女湯、両方にまたがる天井まである大きなタイル画である。いぬがみ湯の名前の由来であり、この町で〝白妙さま〟と呼ばれ崇められている犬神すなわち白狼が、天河山を背に堂々と描かれている。その白狼に見守られるようにして、入浴客が気持ちよさそうに湯に浸かっていた。
すぐにでも入りたいのを我慢して鈴は空いている洗面台へ行き、入念に身体を洗い始める。
天河村の温泉は白妙さまの恵みの湯、必ず身体を清めてから浸かるというのが決まりごとで、小さなころから耳にタコができるほど言われた。頭から爪の先までピカピカになって頭に手ぬぐいをくるりと巻いてから、鈴はようやく湯船に向かう。
鈴は、もっぱらぬる湯派だ。ゆっくりと湯船に浸かると、じわ~と身体が温かくなっていく。途端に頭の中がすっきりとして、鈴はこの町の正体を思い出した。
「おや、鈴ちゃん。久しぶりだねえ。帰ってきたのかい?」
頭に手ぬぐいをのせ気持ちよさそうに目を閉じていた狸の女が、鈴に向かって問いかけた。
「はい、今日戻りました」
答える鈴の後ろでは、蛇を身体に巻きつけた女性が、人間のお年寄りと世間話に興じている。洗い場では、紫色の鳥の親子が羽の手入れをしてた。
ここ天河村は、あやかしと人間が混ざり合って生活している町。
その昔、修行のために天河山を訪れた修験者が行き倒れていたところを、天河山に住む白狼に助けられた。修験者はたいそう感謝し、白狼を山神として祀るためにこの地で村を開いたと言われている。
いぬがみ湯には、人間の他に天河山をねぐらにしているあやかしたちが疲れを癒しに湯に浸かりにくる。だからここで生まれた者にとっては、湯船にあやかしが浸かっている光景は当たり前だ。
鈴が今それを思い出したのには理由がある。
町の者は高倉へ向かう赤い電車に乗り町を出ると、あやかしの存在を忘れてしまうのだ。町に戻り温泉の香りが混ざる風に当たり、いぬがみ湯の湯に浸かれば再び村の秘密を思い出す。中には長く村から離れ、あやかしの存在を忘れたまま生きていく者もいるけれど……
鈴はほぅっと息を吐き、とろりとした湯を両手ですくって楽しんだ。湯の温かさが残る両手を顔にギュッと押しあてると、心が解れていく。鈴が唯一心からくつろぐことができるひとときだ。
白狼のタイル画が天河山を背に、優しげな眼差しで鈴を見下ろしている。その白狼に向かって、鈴は心の中で挨拶をした。
――しろさま、ただいま戻りました。
白狼を〝しろさま〟と呼び、その日あったことを心の中で話すのが、小さいころからの日課だった。
学年でひとりだけ逆上がりができなくて笑われたこと。テストの点数が悪すぎて、母親に叱られたこと。悲しかったこと。うれしかったこと。
何から何まで話すと、不思議と気持ちが落ち着くのだ。二年ぶりにここへ戻ってきた鈴には、白妙に話したいことがたくさんある。
――しろさま、短大は無事に卒業できました。勉強はおもしろくて、もっと続けたいくらいでした。でも就職活動がうまくいきません。どうしたらいいと思いますか?
こうやって、相談ごとをするのも昔からの習慣。タイル画の前の鈴はお喋りだ。
――面接がどうしてもうまくいかないんです。
もちろんタイル画が答えてくれるわけではない。でもこうやって話をすれば、なぜかいつも自然と前向きな気持ちになれる。具体的な解決策が思いつくこともあるのだから不思議だった。
――会ったばかりの人の前で、志望動機を言うのが一番難しかったです。そんなの適当に話せばいいって言われたけど。本当は思っていないのに、適当なことを言うなんて。嘘をつくのって、私すっごく苦手です。
鈴は正直な気持ちを訴える。言葉にするのが苦手なだけで、鈴にだって言いたいことはたくさんある。
――なんだか、嘘をついた者勝ちみたいですよね。
するとタイル画がにっこりとする。温泉の湯気のせいでそう見えるだけなのだが、なんだか〝それでいいよ〟と言われているような気分になって、少し心が落ち着いた。
――そもそも私にできる仕事なんてあるんでしょうか。
問いかけて、鈴は白狼の優しい眼差しをジッと見つめる。
すると、もやもやと胸に渦巻く不安な思い、そこにぽとりと澄んだ雫が落ちたような心地がする。そして、それはゆっくりと胸の中に広がっていく。
焦らずにやってみよう。きっと何か見つかるはず。
そんな考えが頭に浮かぶ。
――しろさま、ありがとうございます。
やっぱりしろさまに相談してよかったと、タイル画にお礼を言って、鈴は顎まで湯に浸かり目を閉じた。
そのとき、脱衣所のあたりが急に騒がしくなって、ドタドタと誰かが走るような音がする。何事かと鈴が目を開けて振り返ると、ガラガラと大きな音を立てて脱衣所へ続く扉が開いた。
「鈴ちゃん! 鈴ちゃんはいるかね!」
名を呼ばれてもすぐには声が出てこない。代わりに狸のあやかしが答えた。
「鈴ちゃんは、ここにおりますよ」
白い湯気の向こうで扉を開けた人物の切羽つまった声が大浴場に響き渡った。
「ああ、鈴ちゃん、すぐに来ておくれ! 大変だ。佳代さんが、佳代さんが……!」
鈴と母が父の運転する車で自宅へ帰ってきたのは、日付が変わるころだった。番台で倒れ意識を失った祖母は、すぐさま救急車で高倉の大きな病院に運ばれた。町にも病院はあるが、難しい手術はできない。
病名は心筋梗塞。一命は取り留めたが、まだ完全に安心とは言えない状況で、いつ意識が戻るかもわからないと医者は言った。そのまま入院することになり、鈴たち三人は帰ってきたところである。
玄関で靴を脱ごうとして、鈴は自分がいぬがみ湯の玄関にあった客用のつっかけを履いていることに気がついた。
風呂に入る前に、ゆっくりと入っておいでと優しい声をかけてくれた。もしあれが最後の会話になったら、どうしよう。
救急車で運ばれていく、いつもとは違う土気色の祖母の顔が頭から離れない。心配でどうにかなってしまいそうだ。
重苦しい空気のまま三人は家に入り、なんとなくリビングダイニングに留まった。
「明日は俺が休みを取るよ。入院の準備があるし」
暗い声で父が言うと、母が頷いた。
「私も休みます。持っていく物、準備しておくわ。保険証はおばあちゃんの家にあるから、家に寄ってから行かないと。……どこにしまってあるかわかる?」
「うーん、実家にはしばらく行ってないからなぁ」
父と母が話すのを、鈴はソファに座りふたりに背を向けた格好でぼんやりと聞いている。
まだ現実のこととは思えなかった。
いぬがみ湯の番台の裏には小さな和室があって、そこが祖母の事務所兼居住スペースになっている。彼女が長期で家を空けたことは鈴が知る限りではない。いつ行っても、必ず祖母が迎えてくれた。番台に座って、穏やかに笑って。
それなのに、今はいぬがみ湯にはいないなんて。
「どっちにしても宿は閉めるしかなさそうね。でも、ただのお店じゃないんだし、町内に回覧板でも回してもらったほうがいいかしら?」
「そうだなぁ……」
〝閉めるしかない〟という言い方に引っかかりを覚え、鈴はハッとして振り返った。
「それって、おばあちゃんが目を覚ますまでだよね?」
思わず口を挟むと、両親は驚いたように鈴を見る。そして顔を見合わせてから、母が口を開いた。
「この状況で再開は無理よ。お医者さまだっておっしゃってたでしょう? 目を覚ますのがいつになるか――」
「おばあちゃんは目を覚ますよ! 必ず元気になるんだから!」
鈴が声をあげて言葉を遮ると、母がため息をつき口を開く。
「もちろんそれはそうだけど、身体がすぐに動くとは限らないでしょう? リハビリすることになるだろうし。そもそもおばあちゃんはもう八十なんだから、ひとりで宿を切り盛りするのは限界だったのよ。ねえ、お父さん?」
「……うん、まぁな」
母の言葉に、父が曖昧に頷いた。
「でもあそこは、村の人たちの大切な場所なのに!」
母が眉を寄せた。
「そんなこと言っても仕方がないじゃない。それに、昔はともかく今の村にお風呂がない家があるわけじゃないんだし。役割を終えたのよ」
冷たい言葉に、鈴の頭に血が上った。
「いぬがみ湯は、お風呂がない人のためだけにあるわけじゃない、白妙さまの恵みの湯なんだよ? なくなったりしたら……!」
そこまで言いかけて、複雑な目でこちらを見ている父の様子に気がついて言葉を切って口をつぐんだ。
――外から来た者はあやかしが見えない。
昔、町に嫁いできた嫁が秘密を知って逃げだすことが頻発したから、町の人もわざわざ教えはしない。もちろん中には町に溶け込んで、秘密を知ってもそのままここにとどまり続ける者もいるという話だけれど。
そう、母は高倉の出身で父との結婚を機に天河村にやってきたから、いぬがみ湯があやかしたちが集まる場所だということも天河村の秘密についても知らないのだ。おそらくはあやかしを見ることもできない。
「恵みの湯って……そういう伝統は大事だけれど、だからって現実的に考えないと」
母が呆れたような声を出した。もちろん母も白狼伝説については知っているが、あくまで昔話としてであって、あやかしたちが湯に浸かりにくるとは思っていないのだ。
「切り盛りする人がいないなら、閉めるしかないじゃない」
同意を求めるように父を見る。父が鈴をちらりと見て申し訳なさそうにしてから、また曖昧に頷いた。
「まぁ……そうだな」
「だからって、今決めなくてもいいじゃない‼ おばあちゃんは、必ず元気になるんだから。そしたらまたいぬがみ湯をやるって言うよ! 勝手に決めないで!」
鈴は感情を爆発させ、玄関を飛び出した。
夜の村を全力で走り抜け鳥居の下で立ち止まった鈴は肩で息をしながら、灯りが消えたいぬがみ湯を見つめる。こめかみから伝う汗が顎から落ちた。
どこへ行こうと考えたわけではないけれど、つらい気持ちになったとき、鈴が来る場所はここだけだ。
ここへ来ればいつも少し救われる。番台には祖母がいて、白狼のタイル画が自分を見守ってくれていて……
でも今のいぬがみ湯は、真っ暗で誰もいない。
そのことが途方もなく寂しかった。こんなこと絶対にあってはならないと強く思う。
恐る恐る近づいて、そぉっと玄関の扉を開ける。暖簾は下ろされていて、しーんと静まりかえった中は整然としていた。常連客たちが片づけてくれたのだろう。
ガラガラと浴室への扉を開けて灯りをつけると、湯気の中に天河山を背にした立派な白狼が浮かび上がった。
いつもと変わらぬその気高く優しい眼差しに、鈴の視界は滲んでいく。喉の奥が熱くなって嗚咽が漏れるのを止めることができなかった。
この場所がなくなるなんて、絶対に嫌だ。
まわりにうまく合わせられなくて、いつも疎外感を抱きながら生きてきた。つらいつらいと思うときも、もうどうにもならないとギリギリまで追いつめられたときでさえ、どうにかこうにかやってこられたのは、この場所があったからなのだ。もしこの場所がなくなってしまったら、自分はこれからどうやって生きていけばいいのだろう。
「くっ……つっ……」
涙はあとからあとから溢れ出て、鈴の頬を伝い落ちる。しゃがみ込み、うずくまって鈴は泣き続けた。
「……ろさま、しろさま……!」
腕に顔を埋めたまま、無意識のうちに鈴はそうつぶやいていた。
「しろさま……しろさま、私……どうしたらいいですか? おばあちゃん、このまま帰ってこなかったらどうしよう……!」
声に出して、タイル画に呼びかけるのは初めてだ。心の中で白狼と話をする習慣は、祖母にも誰にも秘密だった。
優しい祖母といぬがみ湯。大切なものをふたついっぺんに失うかもしれないという大きくて真っ黒な不安が鈴を襲う。
「大丈夫、帰ってくるよ」
優しい言葉が降ってくる。それに鈴は頭を振った。
「でも倒れたときのおばあちゃんの顔、真っ青だった……、あんなおばあちゃんは初めて。すごく、すごく苦しそうだった!」
「佳代はそんなにやわじゃないよ。あれくらいでくたばらないさ」
「でも……!」
そこで違和感を覚えて、はたと鈴は口を閉じる。心の中で答えてもらえたように感じたことはたくさんあるが、こんなにはっきり聞こえたことはない。
腕から顔を少し離し、鈴はしばらく考えた。
聞き間違い? それとも都合のいい妄想? 自分は動揺しているから……
そんなことを考えながら恐る恐る顔を上げると、古い湯船の木枠に腰かけている男性が目に飛び込んできた。
「つっ……⁉」
鈴は言葉もなく目を剥いた。
さっき電気をつけたときは、たしかにここには誰もいなかったはずなのに!
男性がにっこりと笑って立ち上がる。
「ひっ……!」
声を漏らして、鈴はその場に尻もちをついてしまった。濡れた床に手をついて言葉もなく彼を見つめる。
男性は少し長い銀色の髪を後ろで緩くひとつに結び、切長の薄い黄色の瞳とスッと通った鼻筋の涼やかな顔立ちだ。藍色のしじら織の浴衣をさらりと着こなしている。
……明らかに人間ではない。後ろから髪と同じ色のふわふわの立派な尻尾が覗いているからだ。十中八九あやかしなのは間違いないが、鈴が知るそれらとは大きく様子が違っていた。
存在感がまったくもって異なっているのだ。
いぬがみ湯に来るあやかしたちは、みな山にまぎれ人間にまぎれて、目立たないように暮らしている。だからその存在感はいつもどこか薄いのだ。
あやかしがどのくらい見えるかは人によって違う。よく見えるほうの鈴でさえ、入浴時に空いている洗い場を見つけたと思って椅子に座ろうとしてぶつかってしまい、そこにいたのだと気がつくこともしばしばだった。
それなのに、今目の前にいるあやかしはそれとまったく逆だ。ずっしりとした存在感は、まるで生身の人間のように感じられる。のみならず、出会っただけでありがたいような、そら恐ろしいような空気をまとっている。これは……?
「鈴? どうしたんだ?」
動けないままの鈴に男性が首を傾げる。そのことに鈴はまたもや目を剥いた。
どうしてこのあやかしは自分の名前を知っているのだろう。
ぺたりと座り込んだまま、お尻でずるずると少し下がる。とにかくなるべく離れたかった。
「鈴?」
それなのに銀髪のあやかしは、あろうことか名を呼びながら、こちらへやってくるではないか。
「……!」
恐怖に顔を引きつらせて、鈴はまたずるずると下がる。
鈴は彼があやかしだから怖いと思っているわけではない。この異様な存在感には圧倒されているが、問題はそこではなかった。
彼が人間でいう超絶イケメンだからである。
人間は元々苦手な鈴だけれど、その中でも特に苦手なのが若くてカッコいい男性だ。
カッコいい男性にはかわいい女性が集まって、イケてるグループができるというのが世の常で、それが鈴にとっては天敵ともいえる存在だ。いやそのグループは別にいい。それ自体は否定しない。
だが彼らは気まぐれに、退屈しのぎのように鈴をからかい傷つけることがあって、それが怖いのだ。関わりたくないと思うのに、同じ空間にいなくてはならない学校ではよく嫌な思いをした。今や反射的に美男美女を避けるようになっていて、話をするなどもっての他だ。
突然の出来事に、鈴の頭は混乱して正常な判断ができない。それなのに相手はどんどんこちらに近づいてくる。
負けじと鈴もずりずり下がりなるべく距離を取ろうとするが、背中が扉にぶちあたってしまう。
イケメンが残念そうに首を傾げた。
「鈴? もしかして怖いのかな? やっとこうして会えたのに」
そこでようやく鈴の口から声が出る。
「だだだだ……誰……?」
「ん? 私が誰かって?」
相手からの問いかけに、鈴がこくこくと頷くと、彼は後ろのタイル画を指差した。その指に導かれるように視線を送り、鈴は「あ」と声を漏らす。
タイル画が、もぬけの殻だった。背景の天河山だけがそこにあり、一緒に描かれているはずの白狼の姿がどこにもない。
唖然としながら鈴は視線を戻し、改めてまじまじと男性を見た。
銀色の美しい髪、満月を思い出させる輝く薄い黄色の瞳、ふさふさの尻尾は、タイル画に描かれていた白狼とぴたりと一致する。
人と狼という違いはあるけれど、まさか……
その鈴の考えを肯定するように男性が口を開いた。
「鈴が呼んだんじゃないか。だからこうして出てきたのに」
「ええ⁉ ままままさか、ししし、しろさま⁉」
大きな声が鈴の口から飛び出した。
「正解」
白妙がにっこりと笑う。けれど鈴は次の言葉を見つけることができない。
白狼の白妙は村の守り神とされている。長い村の歴史の中で土砂災害や地震など大きな災害に見舞われることがなかったのは、白妙のお陰だと皆常々口にしていた。
しかし、実際にその姿を見たことはなかった。
言い伝えの中だけの存在か、あるいは本当に存在したとしても天河山にいて人里には下りてこないのだと思っていた。なんせ神さまなのだから。
「ほほほほ本当に……?」
思わずそう問いかけると、彼はひょいと飛び上がりくるりと宙で一回転、着地したときはタイル画に描かれていた白狼になっていた。
「そうだ、私は鈴がよく知るしろさまだ」
白狼が目を細めて穏やかに微笑んだ。
「しろさま……!」
満月色の瞳で見つめられて、鈴の胸が熱くなった。
疑問はたくさんあるけれど、彼が白妙ということは間違いない。こんなに綺麗な白狼は、神さまだとしか思えない。
「しろさま……」
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