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1巻 鈴の恋する女将修業
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第一章 いぬがみ湯の危機
濃い緑と淡い緑がグラデーションを作る山々の間を、タンタン、タンタンというリズムを刻む赤い二両編成の電車は縫うように走る。
大江鈴は青いリュックサックを膝に抱いて、車窓から流れる景色を眺めていた。
線路に寄り添うように流れる清流の水面が、初夏の日差しを反射させてキラキラと輝いている。水を張り田植えを待つばかりになった田んぼ、ところどころにポツンポツンと建つ古い家々、のんびりとしたこの景色は、前回鈴がここを通った約二年前と何ひとつ変わっていない。まるで時が止まっていたかのようだった。
始発駅の高倉を出発したときは、それなりにいた乗客も三十分ほど経った今、鈴の他にはヘッドホンをつけた男子高校生がひとりいるだけである。午後の日差しが差しこむ静かな車内に、カタンカタンという電車の振動だけが響いている。
しばらくすると電車は緩やかなカーブを描き、トンネルに突入する。それを抜けると視界が開けて山々に囲まれた盆地に出た。途端に、電車のスピードが落ち始める。
「次は~天河村~、天河村~」
どこかのんびりとしたアナウンスを聞いてから、鈴はゆっくり立ち上がる。リュックを背負い、脇に置いてあったスーツケースの取手を握った。
電車が完全に停車すると、プシューという音を立てて扉が開く。よいしょとスーツケースを持ち上げて、鈴はホームへ降り立った。
途端に鈴をムッとするような生暖かい空気が包む。硫黄の香りが混じる風が通り抜け、肩より少し下に伸びた黒い髪がなびく。それだけで自然と頬に力が入り、心がずんと重くなった。
この二年間、ひとり暮らしをしていたアパートも街も、決して居心地がよかったとはいえないけれど、ここまでではなかった。やっぱり帰ってきたくなかったと、鈴の頭に考えても仕方のないことが浮かんだ。
生まれ故郷であるこの町に戻るしかなかったのは、他でもない自分のせいなのに。
浮かない気持ちで無人の改札を抜けると、赤い暖簾の居酒屋と黄色いニコニコマークのコンビニ『サンマート』だけが並ぶ小さなロータリーに出る。『白狼伝説の残る町、天河温泉郷へようこそ!』と書かれた古びた看板が立っている。
ここもやっぱり二年前とまったく変わっていなかった。
「おや、鈴ちゃんじゃないか」
ロータリーに停まっている黒いタクシーの運転手から声がかかる。
「帰ってきたのかい?」
「……はい、こんにちは」
力の入った頬をさらにこわばらせて鈴は答えた。たしか、同級生の誰かの父親だったと思うが、名前までは思い出せない。
会釈して、ガラガラとスーツケースの車輪を鳴らしながら、鈴は町のメインストリートである商店街のほうに向かって歩き出す。うかうかしていると、どうして帰ってきたのか、いつまでいるのかと尋ねられてしまうからだ。
天河村は、白狼伝説の舞台といわれている天河山の裾野に広がる町である。現代の市区町村の区分では町だが、古くから天河村と呼ばれていて、今でも住民はそう呼んでいる。
鈴はスーツケースを両手で押して、人影がまばらな昼下がりの商店街をゆっくり進む。すぐに息があがって、汗が噴き出した。
この町を出てから今朝まで二年間を過ごしたアパートは、鈴が通っていた短大のすぐそばで、コンビニも近かった。歩くこと自体が少なかったから、知らず知らずのうちに、体力が落ちてしまったようだ。
距離にして五百メートルにもならない道の半分まできたところで、限界がきた。立ち止まって息を整えていると、また声をかけられる。
「鈴? 鈴か?」
今度は鈴がよく知る相手だった。反射的に身構えた肩の力がフッと抜けて、鈴はホッと息を吐く。
「けんちゃん」
幼なじみで、高校まで同じ教室で過ごした林健太郎だ。
父親同士が友人で、健太郎とは兄妹のように育った。同い年だがしっかり者の彼は、少しのんびりなところがある鈴をいつも気にかけてくれていた。この町で鈴が気を許せる数少ない人物である。
「帰ってきてたんだな」
彼は軽い足取りで坂道を上ってくる。手にはサンマートのレジ袋を持っていた。
「うん、ついさっき着いたとこ」
「随分大きな荷物じゃないか」
「……アパートは、引き払ってきたの」
「そうか」
暗に一時的な帰省ではないことを告げると、彼は納得する。そして鈴のスーツケースに手を伸ばした。
「貸せよ、重いだろ?」
「え? でもけんちゃん、仕事中じゃないの?」
鈴は躊躇して問いかけた。
健太郎が白いタオルを頭に巻いて、胸元に『林造園』と刺繍が入った作業着を着ているからだ。高校を卒業したあと、彼は造園業を営む実家の会社に入った。
「今日の分は終わりなんだ。遅い昼飯を買いに行ったとこ」
「でも……」
「いいから、いいから。帰ってくるなら言ってくれれば駅まで軽トラで迎えに行ってやったのに」
そう言って彼は鈴からスーツケースを受け取って、また坂を上りだす。
「い、いいよ、そんなに遠くじゃないし」
彼のあとを追いながら、さりげなく周囲を見回す。こんなところを誰かに見られたら困る。でもすぐに、ほとんどの同級生が今はもう町を離れているんだったと思い出し、ホッとする。
背が高く爽やかなルックスで誰にでも分け隔てなく優しい健太郎は、いつも女の子たちに人気で、こんなふうにふたりで話をしているところを見られて、ヒソヒソと噂されるのはしょっちゅうだった。大きな目とふっくらとした頬のせいで年齢よりも幼く見られることの多い地味な鈴が、彼の隣にいるのは納得できないというわけだ。そのため彼と話をするときは、誰かに見られていないかと条件反射のようにまわりを警戒してしまうのだ。
二年間ここを離れて暮らし、もう二十歳になったのに、そのくせがまだ抜けていないなんてと、鈴はまた憂うつな気分になった。
「おばさんは、鈴は向こうで就職するって言ってたけど」
先を行く健太郎が、やや遠慮がちにそう言ってチラリと鈴を振り返る。
鈴はうつむいて首を横に振った。
先々月の末で鈴は短大を卒業した。当然去年一年間は、就職活動に明け暮れて、卒業してからもさらに一ヶ月は両親から猶予をもらい頑張った。けれど、結局どこからも内定はもらえなくて、実家のあるこの町に戻ってきたのだ。
就職難というわけではなかったのに、一社も受からなかった自分が情けなかった。
「面接が、うまくいかなくて……」
知らない人と話すのは、鈴にとっては苦手中の苦手だ。
さらに言うと、どうしてもやりたい仕事があったわけではなく、ありもしない〝志望動機〟を語るのが苦痛だった。短大の就職課のスタッフからは、そんなものは適当に当たり障りのないことを話せと言われたけれど……
「鈴のよさは雇ってみないと、わからないんだろうなぁ」
健太郎はそう言うが、慰めにはならなかった。彼はどんな人に対しても悪いことは言わない。
「ま、焦らずやればいいよ。そのうち鈴にぴったりの仕事が見つかるから。なんなら林造園はどう?」
そんなことまで言ってくれる。鈴は首を横に振った。
「林造園で私にできることなんて何もないよ。覚えてるでしょ? 小学生のとき、アサガオだってうまく育てられなかったの」
毎日サボらずに真面目に水をやったのに、水色の小さい花がひとつ咲いただけだった。それに引き換え、健太郎のアサガオは綺麗な紫色の花をたくさん咲かせて、『さすが林造園の跡取り息子』なんて言われていた。
健太郎が少し勢い込んだ。
「いや、職人じゃなくてさ。事務とか。ちょうど宮下さんが、もう歳だからそろそろ辞めたいって言ってるんだ。鈴なら絶対に親父も大歓迎だよ。なんなら今からでも――」
「ニャー!」
足元から聞こえてきた鳴き声に遮られて、健太郎は口を閉じる。視線を移すと、キジトラ柄に緑の目のまん丸い猫が鈴を見上げていた。
「ちゃちゃ!」
鈴はしゃがみ込み、猫に視線を合わせた。
「元気だった?」
声をかけると、答えるようにもう一度ニャアと鳴いた。
ちゃちゃは、この町に住む野良猫だ。誰かに飼われているわけではないが、鈴が記憶にある限りずっとこの町にいて、皆に可愛がられている。
ひとりだった登下校、母に叱られて公園のブランコで泣いた夕暮れどき、いつの間にかそばにいて心を慰めてくれた。鈴にとって大切な存在だ。
手を伸ばしてふわふわの頭を撫でると、ちゃちゃは気持ちよさそうに目を細めた。
「ふふふ、久しぶり。またよろしくね。でも実は、そんな感じがしないんだ。向こうのアパートの近くにも、ちゃちゃそっくりの野良猫がいてさ、友達になったんだよ。夜コンビニに行くときなんかに一緒に歩いてくれて心強かったな。キジトラって優しい子が多いのかな?」
久しぶりの再会に胸を弾ませて鈴はちゃちゃに話しかける。
健太郎がやや呆れたような声を出した。
「相変わらず鈴はちゃちゃ相手だとよく喋るな。普段もそんなふうにしていればいいのに。就職なんか一発で決まるよ」
その言葉に、鈴は黙り込んだ。
たしかにちゃちゃと話すように、人と会話できるなら、もう少しうまく生きられるだろう。就職だって決まったかもしれない。
でもそれが、鈴にとってはハードルが高いことなのだ。
いや、話を聞くだけならまだいい。どちらかといえば人の話を聞くのは好きなほうで、飽きずにいつまでも聞いていられる。しかしそんなとき、たいてい相手は一方的に話すだけでは満足できずに、意見を求めたり大袈裟なリアクションを欲しがったりする。
これが鈴には難しかった。相手が期待するようなことを言えなくて、場がしらけてしまう。そして一度そういうことがあると、今度こそちゃんとしなくてはと考えすぎて、またトンチンカンなことを言ってしまうという悪循環だった。
『鈴ちゃんって、なんか変なこと言うよね』
『無表情だし、何考えてるかわかんない』
小学生のころ、クラスの女の子たちによく言われた言葉だった。初めは首を傾げるだけの相手も、反応の薄い鈴にだんだんと嫌気が差してくる。そのうちに、あからさまに邪険にされるようになる。
そうなるのを避けたくて、極力誰とも話をしないようにしているうちに、すっかり無口になってしまった。おそらくその反動でちゃちゃを見かけると、ついたくさん話しかけてしまうのだ。動物は鈴の声が小さいとか話がわかりにくいなどと言って、笑ったりしない。
「いや、責めてるわけじゃないんだけど……。そのままの鈴をわかってもらえたらいいのにっていう意味で」
ちゃちゃを撫で続ける鈴に、健太郎は気を取り直したようにつけ加えた。
「その点、林造園は皆鈴のことをよくわかってるからさ、鈴も働きやすいと思――」
「ニャーン」
またちゃちゃが鳴いて、坂をとことこと上り始める。
「あ、待って。ちゃちゃ」
鈴も立ち上がって追いかけるように歩き出した。そして少し考えてから口を開く。
「ありがと、けんちゃん。そう言ってくれるだけで、ちょっと元気出た」
「励ますためだけに言ったわけじゃないんだけどな……」
健太郎がつぶやいて頭をかいた。
スーツケースをガラガラさせながら、天河山に向かうようにしてふたりと一匹は商店街を行く。途中何度か声をかけられたけれど、健太郎がうまく応じてくれた。
しばらくすると郵便局に突き当たる。T字路になっていて、右に行くと学校や町役場、住宅が集まっている地域で、鈴の家もそこにある。左に行くと道はさらに上り坂になっていて、天河山の登山道への入口と、町唯一の温泉宿に続いている。林造園はその途中だ。
立ち止まり、鈴はスーツケースに手を伸ばした。
「ありがとう、けんちゃん」
「え? 家まで送るよ。結構重いじゃん、これ」
健太郎はそう言うが、鈴は首を横に振った。
「大丈夫、ここまで運んでくれただけでも大助かりだった」
ここから鈴の家までは、道が山と並行に伸びているから、スーツケースが重くても問題はない。
「けんちゃん、これからお昼ご飯でしょ」
そう言うと、健太郎は納得してスーツケースを鈴に渡した。
「いつまでいるつもりなんだ? ずっとか?」
その問いかけに、鈴は答えられなかった。
就職できないでいた鈴に、両親は〝それならば一度帰って来い〟と半ば強引にアパートの契約を打ち切った。
今ここにいるのは鈴自身の意志ではない。とにかく仕事次第なのだ。何か自分にできる仕事を見つけて、また家を出たいと思っている。
「……まだわからない」
「そうか。ま、とにかく、しばらくはいるんだろ?」
「うん」
「じゃあ、とりあえず今日はこれで。またな」
軽く手を上げて、健太郎は鈴の家とは反対方向へ歩いていく。二、三歩行きかけたところで足を止めて振り返った。
「あ、そうだ。鈴、誕生日おめでとう」
そして鈴が返事をするより早く、くるりと背を向けて立ち去った。
その後ろ姿を、鈴は意外な気持ちで見送る。この二年間、時折メッセージのやり取りをしてはいたものの、直接会わなかったのに、彼は鈴の誕生日を覚えていてくれたのだ。
小さくため息をついて、鈴は反対方向に視線を戻す。そこもやっぱり見慣れた景色が広がっていた。
肩を寄せ合うように建つ家々と、古びた町役場、赤いすべり台とぶらんこだけの児童公園。
その向こうにそびえ立つのが、鈴が毎日、鉛のように重い足どりでどうにかこうにか通っていた天河小中学校だ。建物を目にしただけで、まるで過去に引き戻されたように、その場から動けなくなってしまう。スーツケースを持つ手にじわりと嫌な汗が滲む。
あのころは早く大人になりたいと願っていた。大人になって自由になれば、この苦しさから解放される、そう信じていたからだ。
でも二十歳の誕生日を迎えた今日、鈴は再びここに立っている。
身体だけ大きくなったって心は何ひとつ成長していないと、その建物に言われているような気分だった。
足がすくんで次の一歩が出ない。そのとき。
「ニャーン」
ちゃちゃがスーツケースに飛び乗って、取手に添える鈴の手に頬をすりすりとする。
「ちゃちゃ。……家まで一緒に来てくれる?」
問いかけると、答えるようにまたニャーンと鳴く。
ふわふわとした感触と自分を見つめる澄んだ緑色の瞳に、励まされるような気持ちになって、鈴はまた歩き出した。
「駅前のサンマートがアルバイトを募集してたわよ。昨日行ったとき、張り紙が出てたから。それから林造園の宮下さんがお歳で、事務を引き継いでくれる人を探してるって話だから、一度話を聞いていらっしゃい」
両親と鈴、久しぶりに三人揃った大江家の食卓。母の大江孝子があれこれと言うのを、鈴は目の前にある山盛りのコロッケをもくもくと食べながら憂うつな気持ちで聞いている。
「天河村じゃ求人は限られるだろうけど、高倉まで行けばもっとたくさんあるはずよ。通勤に往復一時間かかるけど、それくらいは普通だし……鈴、鈴? 聞いてるの?」
「……聞いてるよ」
小さな声で鈴は答えた。
「だったらちゃんと返事をしなさい」
いら立つ母に、何も答えずに目を伏せる。
「まぁまぁ、孝子。鈴は今日帰ってきたばっかりなんだし。その話はおいおいでいいんじゃないか」
父親の大江宗一郎がとりなすように言う。それに孝子が噛みついた。
「帰ってきたばかりって……もう五月なのよ。すでに一ヶ月も遅れてるじゃない。普通なら四月から働き始めてなきゃいけないのに」
その言葉に、鈴は心の中で「出た」と思う。母は鈴が皆と違うことをしたり、皆よりも遅れたりすることを極端に嫌がるのだ。
『普通のことが、どうしてあなたにはできないの?』
『鈴だってやればできるはずなのに』
小さいころから嫌というほど言われてきた言葉だ。短大を卒業したのに皆と同じように就職できなかった〝普通でない〟鈴に母は腹を立てている。
「お父さんも、何か鈴によさそうな話があったら教えてよ。この間、非常勤職員を募集してたじゃない。あれは?」
町役場で働く父が首を横に振った。
「あれはもう締め切ったよ。それに窓口業務だから鈴にはちょっと……。合わない仕事に無理やり就いても続かないだろうし」
「初めから合う仕事なんてないわよ。自分を仕事に合わせるの! 皆そうしてるんだから。私が受け持った卒業生にだって……」
くどくどと続く母の話を聞いているふりをしながら、鈴は味噌汁を飲んだ。
教師である母は何かにつけてこうやって、自分の生徒の話をする。
〝自信はなかったけれど、チャレンジした〟
〝困難を努力で乗り越えた〟
そして最後に必ず、『どうして鈴にはできないのか』『あなただってやる気になればできるはず』と追いつめるのだ。
結局、母は恥ずかしいのだと鈴は思う。
鈴が中学を卒業するまで高倉にある小学校に勤めていた母は、鈴が卒業した次の年に天河小中学校に赴任してきた。そして、今では校長先生をしている。
生徒数はそう多くはないけれど、村の人たちからは頼りにされて尊敬されていて、進路や子育てについて相談を受けることもしょっちゅうだ。
それなのに、ひとり娘である鈴が就職せずに家にいたら、彼女は肝心の自分の子育てに失敗したことになってしまう。だから躍起になって鈴に就職しろと迫るのだ。
「とにかく、この際アルバイトでもいいからとりあえず何かはしなさい。それから正社員の仕事を探せばいいんだから」
もうすでにたくさんの面接に落ちた鈴に、とてもできそうにないことを母は言う。そんな簡単に言わないでほしいという反論が喉から出かかるけれど、なんとかそれを呑み込んだ。言ったところで通じる相手ではない。
「鈴? わかった? わかったなら返事をしなさい!」
キンキンと耳に響くような母の言葉に、鈴は頬を歪める。ため息をついて、「わかった」とだけつぶやいた。
玄関のドアをバタンと閉めて空を見上げると、満天の星が広がっている。下着とタオルが入ったバッグを肩にかけ直して、鈴は歩きだした。
五月の夜はまだ少し肌寒い。カーディガンを着てきて正解だ。
息がつまるような夕食のあと、小さめのホールケーキを囲んで家族三人で鈴の誕生日祝いをした。けれどそこでも、母の嫌味は止まらなかった。
――今年の同窓会で町に帰ってきた鈴の同級生たちは、皆立派になっていた。どこそこの息子はいい大学に通っていて、誰々さん家の娘さんは、すでに就職をしていて……実家を継ぐことが決まっている健太郎にいたっては『頼もしい』『さすがだ』と大絶賛だった。
こうなるのが嫌だから適当な理由をつけて帰らなかったのに。結局は無駄になってしまったのだ。
味のしない苺のケーキを無理やり口につめこんだ鈴は、祖母のところへ行くと告げて家を出てきたのだ。母は少し嫌な顔をしたが、特には何も言わなかった。
夏の匂いが混じる夜風に当たり、ようやく鈴は少しだけ呼吸ができるような心地がする。母がいる家はいつもどこか息苦しい。
郵便局を通りすぎ、林造園を越えてさらに坂を上ると、まわりはほとんど木ばかりになる。やがて川にかかる赤い橋に行きあたった。
その橋の前まで来て、鈴はいったん立ち止まり、目を閉じて川の音と澄んだ空気を感じとる。こうすると心と身体が洗われるような気がするのだ。
昼間にあった嫌なこと。浴びせられたつらい言葉。
古くは神さまの通り道だったという言い伝えのある、天河山の神聖な空気と綺麗な水の飛沫が汚いものを清めてくれる、そんな気になれるのだ。しばらくそうして、満足すると鈴はまた目を開けて赤い橋を渡り始めた。
橋を渡り切ったところに古びて朽ち果てそうな朱色の鳥居が建っていて、消えそうな字で『いぬがみ神社』と書いてある。両脇には苔むした猿の石像が一体ずつ。かつてここが神社だったころの名残りだと、誰かから聞いたことがあるけれど、詳しいことは知らなかった。
鳥居をくぐり右手に伸びる小道を行くと、草が生い茂りもはや誰も入ることがなくなった天河山への登山道。立入禁止を示す黄色いロープが張ってある。
そしてその反対側、小道の先に建つのが、鈴が目指す温泉宿『いぬがみ湯』だ。
伝統的な和風建築の建物の入口にはあずき色の暖簾がかかり、中からは橙色の灯りと人の話す声が漏れている。
その賑やかな雰囲気に誘われるように、ふわりと鈴の頭の上を何かが通りすぎた。イロハ紅葉の木の下の古い長椅子には、ゆらゆらと揺れる影が座り、頭から湯気を出している。誰も歩いていないのに、カランコロンと下駄の音が鈴のすぐそばを通りすぎた。
この世の光景とは違うけれど、鈴は少しも気にならない。
あの鳥居からこちら側は、これが当たり前なのだ。灯籠に飛石、ツツジや松の植栽が並ぶ前庭を抜け、鈴は型板ガラスの玄関扉をガラガラと音を立てて開けた。
「こんばんは」
中に向かって誰ともなく声をかけると、番台に座り書き物をしていた鈴の祖母、大江佳代が顔を上げた。
「ああ、鈴、おかえり。来てくれたんだね」
「うん。ただいま、おばあちゃん」
弾んだ声でそう言って、鈴は開きっぱなしになっているいくつかの下駄箱の戸をパタンパタンと閉じてから靴を脱ぐ。下駄箱は半分ほどが埋まっているようだ。
この町に帰ってくるにあたって鈴が唯一楽しみにしていたのが、祖母が女将を務めるこの温泉宿『いぬがみ湯』に来ること。
温泉宿と言っても、天河村は観光地としての知名度はない。時折温泉雑誌に〝秘湯〟として載るくらいで宿泊客は滅多に来ない。ほぼ地元の人が通う銭湯として、経営が成り立っている。
濃い緑と淡い緑がグラデーションを作る山々の間を、タンタン、タンタンというリズムを刻む赤い二両編成の電車は縫うように走る。
大江鈴は青いリュックサックを膝に抱いて、車窓から流れる景色を眺めていた。
線路に寄り添うように流れる清流の水面が、初夏の日差しを反射させてキラキラと輝いている。水を張り田植えを待つばかりになった田んぼ、ところどころにポツンポツンと建つ古い家々、のんびりとしたこの景色は、前回鈴がここを通った約二年前と何ひとつ変わっていない。まるで時が止まっていたかのようだった。
始発駅の高倉を出発したときは、それなりにいた乗客も三十分ほど経った今、鈴の他にはヘッドホンをつけた男子高校生がひとりいるだけである。午後の日差しが差しこむ静かな車内に、カタンカタンという電車の振動だけが響いている。
しばらくすると電車は緩やかなカーブを描き、トンネルに突入する。それを抜けると視界が開けて山々に囲まれた盆地に出た。途端に、電車のスピードが落ち始める。
「次は~天河村~、天河村~」
どこかのんびりとしたアナウンスを聞いてから、鈴はゆっくり立ち上がる。リュックを背負い、脇に置いてあったスーツケースの取手を握った。
電車が完全に停車すると、プシューという音を立てて扉が開く。よいしょとスーツケースを持ち上げて、鈴はホームへ降り立った。
途端に鈴をムッとするような生暖かい空気が包む。硫黄の香りが混じる風が通り抜け、肩より少し下に伸びた黒い髪がなびく。それだけで自然と頬に力が入り、心がずんと重くなった。
この二年間、ひとり暮らしをしていたアパートも街も、決して居心地がよかったとはいえないけれど、ここまでではなかった。やっぱり帰ってきたくなかったと、鈴の頭に考えても仕方のないことが浮かんだ。
生まれ故郷であるこの町に戻るしかなかったのは、他でもない自分のせいなのに。
浮かない気持ちで無人の改札を抜けると、赤い暖簾の居酒屋と黄色いニコニコマークのコンビニ『サンマート』だけが並ぶ小さなロータリーに出る。『白狼伝説の残る町、天河温泉郷へようこそ!』と書かれた古びた看板が立っている。
ここもやっぱり二年前とまったく変わっていなかった。
「おや、鈴ちゃんじゃないか」
ロータリーに停まっている黒いタクシーの運転手から声がかかる。
「帰ってきたのかい?」
「……はい、こんにちは」
力の入った頬をさらにこわばらせて鈴は答えた。たしか、同級生の誰かの父親だったと思うが、名前までは思い出せない。
会釈して、ガラガラとスーツケースの車輪を鳴らしながら、鈴は町のメインストリートである商店街のほうに向かって歩き出す。うかうかしていると、どうして帰ってきたのか、いつまでいるのかと尋ねられてしまうからだ。
天河村は、白狼伝説の舞台といわれている天河山の裾野に広がる町である。現代の市区町村の区分では町だが、古くから天河村と呼ばれていて、今でも住民はそう呼んでいる。
鈴はスーツケースを両手で押して、人影がまばらな昼下がりの商店街をゆっくり進む。すぐに息があがって、汗が噴き出した。
この町を出てから今朝まで二年間を過ごしたアパートは、鈴が通っていた短大のすぐそばで、コンビニも近かった。歩くこと自体が少なかったから、知らず知らずのうちに、体力が落ちてしまったようだ。
距離にして五百メートルにもならない道の半分まできたところで、限界がきた。立ち止まって息を整えていると、また声をかけられる。
「鈴? 鈴か?」
今度は鈴がよく知る相手だった。反射的に身構えた肩の力がフッと抜けて、鈴はホッと息を吐く。
「けんちゃん」
幼なじみで、高校まで同じ教室で過ごした林健太郎だ。
父親同士が友人で、健太郎とは兄妹のように育った。同い年だがしっかり者の彼は、少しのんびりなところがある鈴をいつも気にかけてくれていた。この町で鈴が気を許せる数少ない人物である。
「帰ってきてたんだな」
彼は軽い足取りで坂道を上ってくる。手にはサンマートのレジ袋を持っていた。
「うん、ついさっき着いたとこ」
「随分大きな荷物じゃないか」
「……アパートは、引き払ってきたの」
「そうか」
暗に一時的な帰省ではないことを告げると、彼は納得する。そして鈴のスーツケースに手を伸ばした。
「貸せよ、重いだろ?」
「え? でもけんちゃん、仕事中じゃないの?」
鈴は躊躇して問いかけた。
健太郎が白いタオルを頭に巻いて、胸元に『林造園』と刺繍が入った作業着を着ているからだ。高校を卒業したあと、彼は造園業を営む実家の会社に入った。
「今日の分は終わりなんだ。遅い昼飯を買いに行ったとこ」
「でも……」
「いいから、いいから。帰ってくるなら言ってくれれば駅まで軽トラで迎えに行ってやったのに」
そう言って彼は鈴からスーツケースを受け取って、また坂を上りだす。
「い、いいよ、そんなに遠くじゃないし」
彼のあとを追いながら、さりげなく周囲を見回す。こんなところを誰かに見られたら困る。でもすぐに、ほとんどの同級生が今はもう町を離れているんだったと思い出し、ホッとする。
背が高く爽やかなルックスで誰にでも分け隔てなく優しい健太郎は、いつも女の子たちに人気で、こんなふうにふたりで話をしているところを見られて、ヒソヒソと噂されるのはしょっちゅうだった。大きな目とふっくらとした頬のせいで年齢よりも幼く見られることの多い地味な鈴が、彼の隣にいるのは納得できないというわけだ。そのため彼と話をするときは、誰かに見られていないかと条件反射のようにまわりを警戒してしまうのだ。
二年間ここを離れて暮らし、もう二十歳になったのに、そのくせがまだ抜けていないなんてと、鈴はまた憂うつな気分になった。
「おばさんは、鈴は向こうで就職するって言ってたけど」
先を行く健太郎が、やや遠慮がちにそう言ってチラリと鈴を振り返る。
鈴はうつむいて首を横に振った。
先々月の末で鈴は短大を卒業した。当然去年一年間は、就職活動に明け暮れて、卒業してからもさらに一ヶ月は両親から猶予をもらい頑張った。けれど、結局どこからも内定はもらえなくて、実家のあるこの町に戻ってきたのだ。
就職難というわけではなかったのに、一社も受からなかった自分が情けなかった。
「面接が、うまくいかなくて……」
知らない人と話すのは、鈴にとっては苦手中の苦手だ。
さらに言うと、どうしてもやりたい仕事があったわけではなく、ありもしない〝志望動機〟を語るのが苦痛だった。短大の就職課のスタッフからは、そんなものは適当に当たり障りのないことを話せと言われたけれど……
「鈴のよさは雇ってみないと、わからないんだろうなぁ」
健太郎はそう言うが、慰めにはならなかった。彼はどんな人に対しても悪いことは言わない。
「ま、焦らずやればいいよ。そのうち鈴にぴったりの仕事が見つかるから。なんなら林造園はどう?」
そんなことまで言ってくれる。鈴は首を横に振った。
「林造園で私にできることなんて何もないよ。覚えてるでしょ? 小学生のとき、アサガオだってうまく育てられなかったの」
毎日サボらずに真面目に水をやったのに、水色の小さい花がひとつ咲いただけだった。それに引き換え、健太郎のアサガオは綺麗な紫色の花をたくさん咲かせて、『さすが林造園の跡取り息子』なんて言われていた。
健太郎が少し勢い込んだ。
「いや、職人じゃなくてさ。事務とか。ちょうど宮下さんが、もう歳だからそろそろ辞めたいって言ってるんだ。鈴なら絶対に親父も大歓迎だよ。なんなら今からでも――」
「ニャー!」
足元から聞こえてきた鳴き声に遮られて、健太郎は口を閉じる。視線を移すと、キジトラ柄に緑の目のまん丸い猫が鈴を見上げていた。
「ちゃちゃ!」
鈴はしゃがみ込み、猫に視線を合わせた。
「元気だった?」
声をかけると、答えるようにもう一度ニャアと鳴いた。
ちゃちゃは、この町に住む野良猫だ。誰かに飼われているわけではないが、鈴が記憶にある限りずっとこの町にいて、皆に可愛がられている。
ひとりだった登下校、母に叱られて公園のブランコで泣いた夕暮れどき、いつの間にかそばにいて心を慰めてくれた。鈴にとって大切な存在だ。
手を伸ばしてふわふわの頭を撫でると、ちゃちゃは気持ちよさそうに目を細めた。
「ふふふ、久しぶり。またよろしくね。でも実は、そんな感じがしないんだ。向こうのアパートの近くにも、ちゃちゃそっくりの野良猫がいてさ、友達になったんだよ。夜コンビニに行くときなんかに一緒に歩いてくれて心強かったな。キジトラって優しい子が多いのかな?」
久しぶりの再会に胸を弾ませて鈴はちゃちゃに話しかける。
健太郎がやや呆れたような声を出した。
「相変わらず鈴はちゃちゃ相手だとよく喋るな。普段もそんなふうにしていればいいのに。就職なんか一発で決まるよ」
その言葉に、鈴は黙り込んだ。
たしかにちゃちゃと話すように、人と会話できるなら、もう少しうまく生きられるだろう。就職だって決まったかもしれない。
でもそれが、鈴にとってはハードルが高いことなのだ。
いや、話を聞くだけならまだいい。どちらかといえば人の話を聞くのは好きなほうで、飽きずにいつまでも聞いていられる。しかしそんなとき、たいてい相手は一方的に話すだけでは満足できずに、意見を求めたり大袈裟なリアクションを欲しがったりする。
これが鈴には難しかった。相手が期待するようなことを言えなくて、場がしらけてしまう。そして一度そういうことがあると、今度こそちゃんとしなくてはと考えすぎて、またトンチンカンなことを言ってしまうという悪循環だった。
『鈴ちゃんって、なんか変なこと言うよね』
『無表情だし、何考えてるかわかんない』
小学生のころ、クラスの女の子たちによく言われた言葉だった。初めは首を傾げるだけの相手も、反応の薄い鈴にだんだんと嫌気が差してくる。そのうちに、あからさまに邪険にされるようになる。
そうなるのを避けたくて、極力誰とも話をしないようにしているうちに、すっかり無口になってしまった。おそらくその反動でちゃちゃを見かけると、ついたくさん話しかけてしまうのだ。動物は鈴の声が小さいとか話がわかりにくいなどと言って、笑ったりしない。
「いや、責めてるわけじゃないんだけど……。そのままの鈴をわかってもらえたらいいのにっていう意味で」
ちゃちゃを撫で続ける鈴に、健太郎は気を取り直したようにつけ加えた。
「その点、林造園は皆鈴のことをよくわかってるからさ、鈴も働きやすいと思――」
「ニャーン」
またちゃちゃが鳴いて、坂をとことこと上り始める。
「あ、待って。ちゃちゃ」
鈴も立ち上がって追いかけるように歩き出した。そして少し考えてから口を開く。
「ありがと、けんちゃん。そう言ってくれるだけで、ちょっと元気出た」
「励ますためだけに言ったわけじゃないんだけどな……」
健太郎がつぶやいて頭をかいた。
スーツケースをガラガラさせながら、天河山に向かうようにしてふたりと一匹は商店街を行く。途中何度か声をかけられたけれど、健太郎がうまく応じてくれた。
しばらくすると郵便局に突き当たる。T字路になっていて、右に行くと学校や町役場、住宅が集まっている地域で、鈴の家もそこにある。左に行くと道はさらに上り坂になっていて、天河山の登山道への入口と、町唯一の温泉宿に続いている。林造園はその途中だ。
立ち止まり、鈴はスーツケースに手を伸ばした。
「ありがとう、けんちゃん」
「え? 家まで送るよ。結構重いじゃん、これ」
健太郎はそう言うが、鈴は首を横に振った。
「大丈夫、ここまで運んでくれただけでも大助かりだった」
ここから鈴の家までは、道が山と並行に伸びているから、スーツケースが重くても問題はない。
「けんちゃん、これからお昼ご飯でしょ」
そう言うと、健太郎は納得してスーツケースを鈴に渡した。
「いつまでいるつもりなんだ? ずっとか?」
その問いかけに、鈴は答えられなかった。
就職できないでいた鈴に、両親は〝それならば一度帰って来い〟と半ば強引にアパートの契約を打ち切った。
今ここにいるのは鈴自身の意志ではない。とにかく仕事次第なのだ。何か自分にできる仕事を見つけて、また家を出たいと思っている。
「……まだわからない」
「そうか。ま、とにかく、しばらくはいるんだろ?」
「うん」
「じゃあ、とりあえず今日はこれで。またな」
軽く手を上げて、健太郎は鈴の家とは反対方向へ歩いていく。二、三歩行きかけたところで足を止めて振り返った。
「あ、そうだ。鈴、誕生日おめでとう」
そして鈴が返事をするより早く、くるりと背を向けて立ち去った。
その後ろ姿を、鈴は意外な気持ちで見送る。この二年間、時折メッセージのやり取りをしてはいたものの、直接会わなかったのに、彼は鈴の誕生日を覚えていてくれたのだ。
小さくため息をついて、鈴は反対方向に視線を戻す。そこもやっぱり見慣れた景色が広がっていた。
肩を寄せ合うように建つ家々と、古びた町役場、赤いすべり台とぶらんこだけの児童公園。
その向こうにそびえ立つのが、鈴が毎日、鉛のように重い足どりでどうにかこうにか通っていた天河小中学校だ。建物を目にしただけで、まるで過去に引き戻されたように、その場から動けなくなってしまう。スーツケースを持つ手にじわりと嫌な汗が滲む。
あのころは早く大人になりたいと願っていた。大人になって自由になれば、この苦しさから解放される、そう信じていたからだ。
でも二十歳の誕生日を迎えた今日、鈴は再びここに立っている。
身体だけ大きくなったって心は何ひとつ成長していないと、その建物に言われているような気分だった。
足がすくんで次の一歩が出ない。そのとき。
「ニャーン」
ちゃちゃがスーツケースに飛び乗って、取手に添える鈴の手に頬をすりすりとする。
「ちゃちゃ。……家まで一緒に来てくれる?」
問いかけると、答えるようにまたニャーンと鳴く。
ふわふわとした感触と自分を見つめる澄んだ緑色の瞳に、励まされるような気持ちになって、鈴はまた歩き出した。
「駅前のサンマートがアルバイトを募集してたわよ。昨日行ったとき、張り紙が出てたから。それから林造園の宮下さんがお歳で、事務を引き継いでくれる人を探してるって話だから、一度話を聞いていらっしゃい」
両親と鈴、久しぶりに三人揃った大江家の食卓。母の大江孝子があれこれと言うのを、鈴は目の前にある山盛りのコロッケをもくもくと食べながら憂うつな気持ちで聞いている。
「天河村じゃ求人は限られるだろうけど、高倉まで行けばもっとたくさんあるはずよ。通勤に往復一時間かかるけど、それくらいは普通だし……鈴、鈴? 聞いてるの?」
「……聞いてるよ」
小さな声で鈴は答えた。
「だったらちゃんと返事をしなさい」
いら立つ母に、何も答えずに目を伏せる。
「まぁまぁ、孝子。鈴は今日帰ってきたばっかりなんだし。その話はおいおいでいいんじゃないか」
父親の大江宗一郎がとりなすように言う。それに孝子が噛みついた。
「帰ってきたばかりって……もう五月なのよ。すでに一ヶ月も遅れてるじゃない。普通なら四月から働き始めてなきゃいけないのに」
その言葉に、鈴は心の中で「出た」と思う。母は鈴が皆と違うことをしたり、皆よりも遅れたりすることを極端に嫌がるのだ。
『普通のことが、どうしてあなたにはできないの?』
『鈴だってやればできるはずなのに』
小さいころから嫌というほど言われてきた言葉だ。短大を卒業したのに皆と同じように就職できなかった〝普通でない〟鈴に母は腹を立てている。
「お父さんも、何か鈴によさそうな話があったら教えてよ。この間、非常勤職員を募集してたじゃない。あれは?」
町役場で働く父が首を横に振った。
「あれはもう締め切ったよ。それに窓口業務だから鈴にはちょっと……。合わない仕事に無理やり就いても続かないだろうし」
「初めから合う仕事なんてないわよ。自分を仕事に合わせるの! 皆そうしてるんだから。私が受け持った卒業生にだって……」
くどくどと続く母の話を聞いているふりをしながら、鈴は味噌汁を飲んだ。
教師である母は何かにつけてこうやって、自分の生徒の話をする。
〝自信はなかったけれど、チャレンジした〟
〝困難を努力で乗り越えた〟
そして最後に必ず、『どうして鈴にはできないのか』『あなただってやる気になればできるはず』と追いつめるのだ。
結局、母は恥ずかしいのだと鈴は思う。
鈴が中学を卒業するまで高倉にある小学校に勤めていた母は、鈴が卒業した次の年に天河小中学校に赴任してきた。そして、今では校長先生をしている。
生徒数はそう多くはないけれど、村の人たちからは頼りにされて尊敬されていて、進路や子育てについて相談を受けることもしょっちゅうだ。
それなのに、ひとり娘である鈴が就職せずに家にいたら、彼女は肝心の自分の子育てに失敗したことになってしまう。だから躍起になって鈴に就職しろと迫るのだ。
「とにかく、この際アルバイトでもいいからとりあえず何かはしなさい。それから正社員の仕事を探せばいいんだから」
もうすでにたくさんの面接に落ちた鈴に、とてもできそうにないことを母は言う。そんな簡単に言わないでほしいという反論が喉から出かかるけれど、なんとかそれを呑み込んだ。言ったところで通じる相手ではない。
「鈴? わかった? わかったなら返事をしなさい!」
キンキンと耳に響くような母の言葉に、鈴は頬を歪める。ため息をついて、「わかった」とだけつぶやいた。
玄関のドアをバタンと閉めて空を見上げると、満天の星が広がっている。下着とタオルが入ったバッグを肩にかけ直して、鈴は歩きだした。
五月の夜はまだ少し肌寒い。カーディガンを着てきて正解だ。
息がつまるような夕食のあと、小さめのホールケーキを囲んで家族三人で鈴の誕生日祝いをした。けれどそこでも、母の嫌味は止まらなかった。
――今年の同窓会で町に帰ってきた鈴の同級生たちは、皆立派になっていた。どこそこの息子はいい大学に通っていて、誰々さん家の娘さんは、すでに就職をしていて……実家を継ぐことが決まっている健太郎にいたっては『頼もしい』『さすがだ』と大絶賛だった。
こうなるのが嫌だから適当な理由をつけて帰らなかったのに。結局は無駄になってしまったのだ。
味のしない苺のケーキを無理やり口につめこんだ鈴は、祖母のところへ行くと告げて家を出てきたのだ。母は少し嫌な顔をしたが、特には何も言わなかった。
夏の匂いが混じる夜風に当たり、ようやく鈴は少しだけ呼吸ができるような心地がする。母がいる家はいつもどこか息苦しい。
郵便局を通りすぎ、林造園を越えてさらに坂を上ると、まわりはほとんど木ばかりになる。やがて川にかかる赤い橋に行きあたった。
その橋の前まで来て、鈴はいったん立ち止まり、目を閉じて川の音と澄んだ空気を感じとる。こうすると心と身体が洗われるような気がするのだ。
昼間にあった嫌なこと。浴びせられたつらい言葉。
古くは神さまの通り道だったという言い伝えのある、天河山の神聖な空気と綺麗な水の飛沫が汚いものを清めてくれる、そんな気になれるのだ。しばらくそうして、満足すると鈴はまた目を開けて赤い橋を渡り始めた。
橋を渡り切ったところに古びて朽ち果てそうな朱色の鳥居が建っていて、消えそうな字で『いぬがみ神社』と書いてある。両脇には苔むした猿の石像が一体ずつ。かつてここが神社だったころの名残りだと、誰かから聞いたことがあるけれど、詳しいことは知らなかった。
鳥居をくぐり右手に伸びる小道を行くと、草が生い茂りもはや誰も入ることがなくなった天河山への登山道。立入禁止を示す黄色いロープが張ってある。
そしてその反対側、小道の先に建つのが、鈴が目指す温泉宿『いぬがみ湯』だ。
伝統的な和風建築の建物の入口にはあずき色の暖簾がかかり、中からは橙色の灯りと人の話す声が漏れている。
その賑やかな雰囲気に誘われるように、ふわりと鈴の頭の上を何かが通りすぎた。イロハ紅葉の木の下の古い長椅子には、ゆらゆらと揺れる影が座り、頭から湯気を出している。誰も歩いていないのに、カランコロンと下駄の音が鈴のすぐそばを通りすぎた。
この世の光景とは違うけれど、鈴は少しも気にならない。
あの鳥居からこちら側は、これが当たり前なのだ。灯籠に飛石、ツツジや松の植栽が並ぶ前庭を抜け、鈴は型板ガラスの玄関扉をガラガラと音を立てて開けた。
「こんばんは」
中に向かって誰ともなく声をかけると、番台に座り書き物をしていた鈴の祖母、大江佳代が顔を上げた。
「ああ、鈴、おかえり。来てくれたんだね」
「うん。ただいま、おばあちゃん」
弾んだ声でそう言って、鈴は開きっぱなしになっているいくつかの下駄箱の戸をパタンパタンと閉じてから靴を脱ぐ。下駄箱は半分ほどが埋まっているようだ。
この町に帰ってくるにあたって鈴が唯一楽しみにしていたのが、祖母が女将を務めるこの温泉宿『いぬがみ湯』に来ること。
温泉宿と言っても、天河村は観光地としての知名度はない。時折温泉雑誌に〝秘湯〟として載るくらいで宿泊客は滅多に来ない。ほぼ地元の人が通う銭湯として、経営が成り立っている。
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