フィライン・エデン Ⅰ

夜市彼乃

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5.四人目の雷編

25迅雷馳せる 中編

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***

「ヨスガぁぁっ!」
 ズシャ、と熊の大きな手が鈍い音を立てた。その五歩ほど手前で、ルシルが目を見開く。飛び散ったのは、赤黒い血と脳漿――ではなく、煤が混じって黒ずんだ雪だ。
 熊は戸惑うように動きを止めた。打撃は、間違いなくヨスガの頭を粉砕できる軌道だった。
 もっとも、それは、の話である。
 熊は小さくなった獲物を見つめると、ぐわっと口を開いた。涎の糸を引く鋭い牙が、ヨスガの息の根を止めにかかる。だが、それよりも早く、優秀な瞬発力で飛び出したルシルが、通り過ぎざまにすくい上げるようにヨスガを拾い、推進力を殺さず跳躍、前方の木の幹を鋭く蹴って背面飛びに舞った。しなやかな跳躍は、ルシルを元居た場所まで運んでいく。空中で身をひねり、足から着地したルシルは、すぐに腕の中のヨスガをメルに突き出した。
「コウたちと一緒にラウラがいるはずだ。すぐに連れていけ。私が足止めしておく」
「しかし……」
「言ったはずだ。私の指示に従えと」
 メルはヨスガを受け取りながら逡巡した。ホムラだけなら、相性的にルシルが優勢だ。しかし、相手はチエアリ。能力値はダークの比ではない。そもそも、熱風をあそこまで器用に操り、自由自在に空を飛ぶなど、並大抵の猫にはできないのだ。極めつけは熊を御する能力。さしものルシルも、ホムラを制しながら熊の相手をするなど、ギリギリの攻防戦だ。
 ――そこまで考えるのに一秒。これ以上の時間を費やせば、ホムラに隙を突かれて全滅だ。
「承知しました。……どうかご無事で」
 メルはヨスガをしっかり抱きかかえると、踵を返して林の出口へと走った。
「待ちなさい!」
 そのあとを、ホムラの口元から噴射された炎が追う。同時に、爪にヨスガの血液を付着させた熊がルシルへ飛びかかった。ルシルはすかさず真上に跳躍し、熊から逃れると、手のひらを下方に突き出した。徐々に距離が縮まる、メルと炎の大蛇の間へ向けて。
「轟け、洪瀧!」
 滝のように流れ落ちてきた大量の水にぶつかり、炎は煙を上げて消え失せた。激流の幕が引かれるころには、その向こうにメルの姿はない。
 落下を始めたルシルは、今度は熊に照準を合わせた。落ちてきたルシルを仕留めんと、二本足で立ちあがり腕を振り上げる熊。その胸めがけて、渾身の流丸を叩き込んだ。散弾銃から放たれたような水の弾丸を食らった熊は、ゆっくりとあお向けに倒れた。しばらく様子を見ていたが、熊はもがくばかりで起き上がってはこない。熊さえ封じれば、あとは炎ごとホムラの命を水術で消し去るだけだ。
(……だが)
 一瞬だけ、ルシルの視線が林の奥地へと注がれる。それを見たホムラがにやりと口角を上げた。
「よくわかってんじゃない。そうよ、この山に生息している熊が二頭だけだと思う?」
「……だろうな」
 その気になれば、ホムラはこの山の熊を残らず冬眠からたたき起こすだろう。そんなことをすれば、熊の身がもたないのだが、利用後の道具の行く末など、チエアリが気にするわけがないに決まっている。
 場所が悪すぎた。山から離れた場所なら、操れるのはせいぜいカラスくらいだろうし、他の動物がいないフィライン・エデンで対峙したなら、彼女の特殊能力は意味をなさない。最初からルシルたちを操らない時点で、フィライン・エデンの猫を操れないことはわかっているからだ。
 ルシルの頭に、撤退の二文字が浮かんだ。しかし、ただで退けば、追ってきたホムラの餌食になるのは雷奈たちだ。よしんば彼女らが山を下りるまで食い止めたとして、ホテルは山にほど近いところに位置している。熊の群れが山を下りてくる、などということになれば大惨事だ。関係のない人間までも巻き込んでの殺戮が危ぶまれ――。
(――待てよ)
 絶望色をした思考の中に、わずかな光明を見出し、ルシルは呼吸を止めた。今だとばかりにホムラが高温の火炎を放ったのを見て、とっさに渦波で防ぎながら、必死で頭を動かす。
 天才的な頭脳を持つ従姉の存在が、本人の自覚をかき消しているが、ルシルも相当な賢女だ。目の前の敵の相手をしながら、架空の机上で一気に論理を組み上げる。言葉で考えるなど時間のかかることをせず、概念レベルでロジックを編み上げていく。
 ホムラはのべつ幕なしに炎を生み出してくる。ルシルの消火と拮抗し始めた。どうやら、体力勝負のようだ。
 ならば、言葉で相手を揺さぶり、コウたちが駆けつけるまでの時間を稼ぐ。もし隙を見つければ、あわよくば撃退する。楽観的な路線かもしれないが、今手元にある情報なら、それができるかもしれない。
 ホムラの攻撃が、ようやく一旦やんだ。息継ぎ程度だろうが、対するルシルは息継ぎどころでは済まない消耗加減だ。源子を従え、己の属性の物質に変換するのは体力を要する。チエアリは、通常の猫よりもずっと効率よく源子を扱うらしい。
「あら、もうバテちゃったの? 水猫が炎に屈したなんて知られたら、笑われちゃうわよ?」
 ホムラの嘲笑を聞き流しながら、ルシルは己の鼓動を徐々に静めていった。緊張を気取られてはなめられる。
 焦燥でのどが渇く。気づかれないよう小さく唾を嚥下して、ルシルは勝負に踏み切った。
「ホムラ。先ほどの雪崩は、お前の仕業だろう。あれで三日月雷奈以外の人間も犠牲になったぞ。それはお前のバックの意に沿わないのではないか?」
 その言葉を聞いたホムラのまぶたがピクリと動いた。動揺が不随意運動となって表れたのを、ルシルは見逃さなかった。
(……図星だ)
 三枝岬でのことは、霊那を主として三番隊から情報共有されたが、鋼のチエアリ・クロガネが黒幕の話をしたという報告など、一つもされていない。これはハッタリだ。
 だが、根拠が全くないわけではない。霊那の話では、クロガネになぜ雷奈を狙ったのか問うた時、彼はこう答えた。
 ――機密だ、と。
 もし個人行動なら、機密という表現は不自然だ。つまり、彼らは集団の可能性が高い。基本的に、どのような集団にも上下関係は存在する。それがチエアリにも当てはまることは、先の侵攻で承知済みだった。
 一点、懸念していたのは、彼がただ霊那の言葉をまねただけという可能性だった。ただの秘密を、霊那に倣って「機密」と言ったのなら、クロガネの事情には無関係だ。しかし、クロガネ自身が戦闘に出るという局面にあってなお、口を割ろうとしなかったのは、絶対に勝つという自信があってのことではないように思えた。まるで、自分が潰えてもその目的は息づき続けるかのような――。
 だから、「親玉がバックにいる」という、ルシルたちが知りえないはずの情報をちらつかせてみた。あの反応を見るに、なぜ知っている、と少なからず驚いているだろう。
 それなら、もう少し強気に出ても問題ない。ルシルはさらにたたみかけた。
「お前たちの後ろに親玉がいることは、以前雷奈を襲った鋼属性のチエアリが言い残したから知っているぞ。雷奈以外を傷つけない方針であることもな」
 クロガネとホムラが同一のボスに従っているとしたら、方針も同じだろう。夏に雷奈を狙った時、クロガネは周囲の人間を傷つけて彼女をおびき寄せてもよかったのだ。だが、彼はそうはせず、雷奈だけを狙い撃ちした。邪魔をしない限り、という制限付きであろうが、ほかの人間を皆殺しにするつもりはなかったのだ。
 第二段階のハッタリ。ホムラは大きくため息を吐いた。
「そう……先代はべらべらとそんなことを」
 ホムラの表情が、さっきまでと全く違う。笑顔が消えている。バックがいること、および雷奈以外を狙ってはいけないことはほぼ確実となった。
 ここまでで、ホムラが致命的な油断を見せれば攻撃を叩き込むつもりだった。だが、こちらが下手に動こうものなら返り討ちにせんとする威圧感が、それを躊躇させる。
 ならば、頭脳戦は延長だ。ルシルは緊張を押し込め、ハッとせせら笑って見せた。
「なぜお前の親玉は直接手を下さない? 小娘一人も殺せない腑抜けなのか?」
「何を!」
 ホムラは目を吊り上げ、毛を逆立てた。親分の悪口が許せないらしい。どうも、義務的に従わされているというより、自ら進んで従っているように見える。これは時間稼ぎ以上に、敵の情報を持って帰れそうだ。
「あの方は、その気になれば多くの人間を殺戮できるほどの力を持っているのよ。見せしめに関係ない人間を虐殺しないだけありがたく思いなさい!」
「ふむ、大量虐殺ができるだけの力を持ちながら、雷奈一人に手を出せない。やはり腑抜けではないか」
「そのために私がいるのよ。私は容赦なく彼女を殺せる。後で吠え面かかないことね!」
 興奮したホムラの言葉のかけらを冷静に分析し、ルシルは一つの仮説を見出した。
 その気になれば多くの人間を殺戮できるという、チエアリたちのボス。しかし、そのボスは表に出て、雷奈一人すら殺そうとしない。それは、なぜか。
(――おそらく、んだ。「そのために私がいる」ということは、彼女がいなければ不可能なことなんだ。数多の人間を殺傷できるそいつには、なぜか雷奈に手出しができない。いや、人間の虐殺も、実際には行わない。なぜだ? ……いや、理由はどうでもいい。今は――)
 言葉の刃を研ぎ澄ます。致命傷を与え、最善の活路を切り開く武器を。
 ルシルは口元を緩め、素朴に言い放った。
「ところで。お前の親玉は――?」
「……!?」
 目に見えて、ホムラが動揺した。しかし、あまりにも馬鹿げた話だ。すぐにハッタリだととらえた。
「もう一人ですって? 荒唐無稽な。そんなものに騙されると思っているの?」
「なんだ、知らなかったようだな。ちなみに、もう一人というのは語弊があった。正確には、雷奈と同様の性質をもつ者だ」
「……」
 ホムラは再び目つき鋭く押し黙った。
 同様の性質。実にあいまいな表現だ。雷奈の何が相手の弱点かわからない以上、具体的な点を挙げることはできなかったのだ。だが、もしその弱点が深刻なものであれば、あとはホムラが憂いから勝手に推測してくれる。一歩間違えば、もう一人の雷奈といっても過言ではない雷華が危険にさらされる。だが、ホムラの驚きようを見るに、雷華の存在にはまだ気づいていないようだ。趣向の違う帽子とスキーウェアを身に着けた彼女らを遠目にしか見ていなかったのだろう。
「ちなみに、彼女はお前の親玉の居場所を知っている風だったぞ」
 ハッタリに重ねたハッタリ。双方の緊張が、互いに気づかれないようピリピリと張り詰める。
「もう一人は今、どこにいるの」
 ホムラが平坦に問うた。
「どこだと思う?」
 ルシルが不敵な笑みとともに答えた。
 沈黙の中、腹を探り合う間があった。
(チエアリの考えていることは大方、こうだろう。ここに雷奈がいることは確実。だが、がもし親玉のところにいたら、親玉は直接手を下せない。そうなれば、危ないのは無抵抗の親玉だ。「そのために私がいる」という言葉。「私たちがいる」と言わなかった以上、今、雷奈に手出しできるのはホムラだけで、親玉の護衛もいない……。この推測は賭けだが、彼女の表情を見る限り、的を射ていると考えていい)
 ここまですべて、ルシルの読み通りに流れてきた。ここで慮外のことが起こるなど、あってはならない。
 しばらく口を閉ざしていたホムラは、くっと歯噛みしてよそを向いた。
「ここはいったん引くわ。理由は言わない。勝手に想像なさい。読み間違えないことね」
 そのまま、踵を返そうとする。
 ――油断大敵。情報戦の中、隙あらば攻撃を仕掛けようとしていたルシルが、一番わかっていたことだった。
 だが、クロやダークと一線を画す最恐の敵を一人で相手取るという、分が悪すぎる戦いが終わろうとしているのだ。緊張の糸が一瞬でも緩むのは無理からぬ話だった。
 呼吸か気配か、何かしらを伝って漏れた気の緩み。ホムラは去り際に、嗜虐的な笑みとともにその安堵を凍り付かせた。
「まあ、あなたは殺すけどね」
 戦慄。振り向いた時にはもう遅い。流丸を食らって悶えていた熊が、復活してルシルに肉薄していた。先ほど生じたわずかな安心感が、戦闘態勢への移行を遅らせた。素早く走り去っていくホムラの後ろで、洗脳状態のまま野放しにされた凶暴な熊の一撃が、容赦なくルシルを襲った。

***

 遠心力で放たれた雷華は、コウに受け止められて無事帰還した。憎きダークも、波音と因果によって制圧されつつある。氷架璃と芽華実が、こちらに向かって必死に何か叫んでいる。そんな光景を見ながら――雷奈の体は、重力によって谷へと吸い込まれようとしていた。
 時間の知覚が何倍にも引き延ばされたような、ゆっくりとした自由落下の中、雷奈は不思議な充足感を感じていた。
(姉貴、私……最後の最後まで、誰かを助けられたばい。やっぱり、間違ってなかったよね……)
 なぜか、恐怖はなかった。ただ頭から死へと向かっていく感覚を感じながら、ひっそりと目を閉じようとした――その時だ。
「行かせないっ――!」
 地を蹴り、風の速さで疾走する者がいた。素早い足の回転で崖へと走る彼女は、ふいに前傾姿勢のまま、両足をそろえて前に出した。走り幅跳びの着地直前のような体勢だ。その姿勢で、なおもスピードを殺さず前に進み続ける風猫は、雪面から数センチ上に浮いて滑空している。そのまま、ためらいもなく崖から飛び出すと、真っ逆さまに、谷底を目指す雷奈を追った。
 後から落ちてきた彼女の姿に瞠目する雷奈。風術を使ったのか、あっという間に雷奈に追いつくと、
「助けるっ……正統後継者の名にかけて!」
 正面から雷奈を抱きしめ、ブラウンのセミロングヘアを風圧にたなびかせながら、風中フーは鋭く唱えた。
「羽ばたけ、白翔はくしょう!」
 言霊に応じた源子が、白い輝きとともにスキーウェアの背中に集まる。連なった純白のそれが一つの形を成すと、大きく広がり、羽ばたき、死へいざなう重力に抗った。上昇していくフーの肩越しに雷奈が見たのは、白鳥のそれのような、腕の長さほどある美しい翼だ。崖沿いに垂直に飛翔し、地上へと文字通り舞い戻ると――。
「うわっぷ!?」
「むぐ! ごめん、着地失敗……」
 顔から雪に突っ込んで、帰還した。同時に、フーの翼が、砂糖菓子が崩れるように消えていく。唖然としていた一同は、正気に戻ると、三者三様に感情をあらわにした。
「フー! 何あれ、かっこよかったわ!」
「ありがとう、でもハラハラしたぁ……ちょっと休ませて……」
「三日月、お前死にてえのか! 無茶苦茶すんなよ!」
「まあまあ、雷奈の勇気に免じて許してやってよ」
 本気で叱ってくるコウに、頭をかきながら謝りつつ、雷奈はふとダークが消えていることに気づいた。落下中に滅してくれていたようだ。まだどこかに残党が潜んでいる可能性はあるが、ひとまず安心してよいだろう。
 なんといっても、最後の一人まで無事に助けられたのだから。
「雷華」
「……なぜ助けた」
 雪の上にぺたんと横座りした雷華は、歩み寄ってきた雷奈を見上げて問うた。いつもより力ない、戸惑うような声だった。
 雷奈の返答は、決まっていた。
「言ったっちゃろ。私は、目の前のみんなを助けたかと」
 微笑んで言う雷奈から目をそらして伏せた雷華は、「……ばってん」という声に、再度視線を上げた。
「そうは言っても……やっぱり、今回はダメかもしれないって思った。雷華を……失うかと思った」
 つい数分前の不安感を思い出したのか、雷奈の瞳が苦しげに揺れた。その表情を直視しながら、あえて問う。
「諦めなかったのか」
「諦めるはずなかろ」
 即答に、雷華は虚を突かれた。
「どんなに絶望的でも、諦めるつもりはなかったばい。自分と引き換えにでも助けたいって思った」
「なぜだ。なぜそこまで……」
「だって」
 雷奈は雷華の前にしゃがみ込むと、同じ色をした瞳をのぞき込んで、にっこり笑った。
「雷華も――姉貴や雷帆と同じ、家族やけん」
 家族。
 その単語が、雷華の胸の奥で冷たく固まっていた部分を揺り動かした。人生の大半を、三日月家と離別したまま過ごした雷華。そこにあるのは血縁だけで、心をより合わせたつながりなどないと思っていた。姉妹おそろいでつけられたこの名前さえ、分不相応だと思っていた。
 だが、会って数日の、この双子の姉はどうだ。初対面にも等しい雷華を、ともに育った姉と妹と同列に並べた。
 目の前の雷奈の瞳は穏やかだ。あれほど激昂しておきながら、敵意をむき出しにしておきながら、それでも命がけで助けようと身を投げるのは、こんな表情で見つめてくるのは、血のつながりを超える温かい絆があるから。その絆のために全てを捨てようとした彼女は、きっと不可能などわき目も振らずに突っ走って、やがてそれを可能にしてしまうのだろう。
「……雷奈」
 まっすぐな眼差しを受け、言葉を受け、彼女は、雷の名を授かった四人目の少女は、
「――すまなかった」
 瞑目して、それだけを告げた。
「うん……私こそ、カッとなってごめんね。……立てる?」
「幸い、遠くに流された分生き埋めは逃れたので、体力的には問題ないのだが、足をくじいたようでな。立てぬのだ」
「大変……ラウラ、治療することってできる?」
「ええ、お任せください」
 捜索に当たって双体になっていたラウラが、胸に手を当ててほほ笑んだ。その後ろでは、芽華実とフーが胸をなでおろしていた。
「あ、そういや、雪だるまってどうなったんだ?」
 氷架璃が思い出したように辺りを見回した。当然のこと、雪玉は雪崩の影響で行方不明になっていた。
「埋もれてしまったのかもしれないわね……」
「じゃあ、まあ……」
 双子は目を見合わせて、
「ひきわけ、でいっか」
「そうだな」
 姉は笑い、妹は無表情に肩をすくめた。
 その様子を見たコウが、軽く手をたたく。
「さて、和解成立で何よりだが、まだ気は抜けねえぞ。ダークの残りがいるかもしれねえし、ルシルたちの方も……」
「大和隊長……!」
「ほら、噂をすれ……ば……!?」
 振り返ったコウの目が戦慄の色に染まった。雪の上に赤い斑点模様を作りながら、メルが血潮で汚れた猫姿のヨスガを抱いて駆け下りてくるところだった。
「おい、何があった……!?」
「チエアリです」
 心胆を寒からしめる単語を聞いて、一同に激震が走った。
「負傷した不知火さんを逃がすために、ルシルさんが足止めをしてくれました。ですが、早くしないと彼女が……」
「すぐに行く。麹谷、不知火の治療を。悪いが三日月妹の捻挫はその後だ。早乙女はその補助。風中は人間たちとここにいろ。オレと波音と天草で行く」
「コウ、私たちも行くばい! ちょっとは戦力になれるかも!」
「……口論している時間はない、来るなら勝手について来い。絶対に前線には出るな。いいな?」
 いつになく重く低い声にうなずき、雷華をフーに任せると、雷奈たちはコウと波音に続いて斜面を駆け上がった。雪の上に点々と続く血の跡。これをたどっていけば、戦場に着くはずだ。
 しばらくして、波音が声を上げた。傾斜と平行に落ちていた血痕が、五メートルほど向こうで右手の林の中へと折れている。メルは、ヨスガを抱いてそこから林を抜けだしたのだ。
 この先に、チエアリが。そう思うと、雷奈たちの顔に緊張が走る。コウも一層表情を険しくした。
「ドンパチやってる気配はないが、気をつけろ。厳戒態勢で……」
 声を低く抑えて言う。直後、その細心の注意をも吹き飛ばすように、目の前をすごいスピードで何かが横切った。一瞬、何が飛んできたのか、誰にもわからなかったが、雪の上を転がり、静止した姿を見て、雷奈が叫んだ。
「ルシル!」
 息をつめたコウが声もなく駆け寄るのを見て、立ちすくんでいた雷奈たちも後を追った。
 黒髪を乱し、ぐったりと雪の上に倒れこんだ小柄な体躯は、浅い呼吸のたびに震えるように揺れた。苦悶の表情を浮かべ、左手で腹部をかばっているが、大きな傷は見当たらない。
 氷架璃が大きく息を吐いた。
「よかった、出血もなさそうだし、軽傷そうだな……」
「……いや」
 コウが小さく漏らすと同時、ルシルの背中がびくんと痙攣した。かすれるようなうめき声とともに、ごぽりと少量の液体を吐き出す。口元の雪を溶かすその中に深紅が混じっているのを見て、コウは剣呑に目を細めた。
「たぶん……中がやられてる」
 その意味を理解すると同時、雷奈たちは腹が底冷えする感覚を味わった。
「そ、それ……大丈夫なのかよ……!?」
「すぐに麹谷のところへ戻るぞ。あと、悪いが後でオレのいうとおりにしろ。お前たちにも協力……」
 コウが早口を中断してにらんだ方向を見て、雷奈たちは口元をひきつらせた。またも、焦げ茶色の精悍な体つきをしたヒグマが姿を現したのだ。熊はグルグルとうなり声をあげ、何やら頭をせわしなく振りながら近づいてくる。まるで、何かを振り払おうとしているかのようにも見えた。現れた方向、タイミングからして、彼がルシルを吹き飛ばした犯人であることは明らかだ。
 しゃがみこんでルシルを抱き起したコウの前で、波音が立ちはだかる。小さな体を大の字に広げ、子供特有の高い声で喚いた。
「来ないで! あたしたちが誰だかわかってるの!?」
 やはり猫術で人間界の動物を攻撃するのは憚られるのか、波音は威嚇でやり過ごそうとする。しかし、熊は少しも動きを止めずに距離を詰めてきた。波音の顔に焦りがにじむ。
「こ、来ないでって言ってるでしょ、それ以上近づかな……きゃあ!?」
 鋭い爪を生やした手が袈裟懸けに薙がれ、波音は間一髪でかわした。脅しが効かない恐怖から、相棒の後ろに隠れるが、その結果、熊に最も近い位置にさらされたのは、ルシルを抱きかかえたコウだ。
「こーちゃん……っ」
 熊は狂ったように頭を振り乱しながら、コウににじり寄っていく。狂乱の猛獣を前に、彼は微動だにしない。彼の身を案ずる波音の震え声には答えず、つと目を細めると、刃のような眼光を放った。
「……失せろ」
 一度目に雷奈たちが遭遇した熊なら、これだけで逃げ出しただろう。そう思うほどに重い威圧感だった。だが、熊は一層激しく頭部を打ち振りながら、コウの間近までやってくると、大きくあぎとを開き、牙をむきだした。肉食獣の象徴たる鋭く長い犬歯は、しゃがみこんだコウをひと噛みで血まみれにできる凶器だ。
 それを目の当たりにしてなお、コウは回避の姿勢を見せない。瀕死の幼馴染を支えたまま、その元凶を見据える若き希兵隊長の口から、黒くたぎる感情を押し込めたような、恐ろしく低い声が生まれた。
「失せろって言ってんだろうが。――殺すぞ」
 放たれたのは、怒りを通り越し、殺気という表現さえも生ぬるい、明らかな殺意。いつにない激情に彩られた瞳と風に揺れる髪の灰色が、一瞬、鋼のような銀色にきらめいた。雷奈たちでさえ呼吸を止めてしまうほどの重圧に、クマは天を仰ぐように大きくのけぞった。そして、錯乱状態のままめちゃくちゃに駆け出すと、行き着いた崖で足を踏み外し、あっけなく転落した。もう登ってくることは難しいどころか、この高さからでは生きてもいないだろう。
 谷を振り返ることもなく、コウはルシルを横抱きにして立ち上がった。雷奈たちに背を向けたまま、「……行くぞ」と声をかけてきたコウについて、一同はラウラのもとへと急いだ。
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