フィライン・エデン Ⅰ

夜市彼乃

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5.四人目の雷編

22鏡花水月の叶えかた 後編

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***

 主人を失った部屋に、麗楽は一人佇んでいた。物のありかを把握するほどではないが、この家には何度か来た。先生の研究を手伝ったり、昼食をご馳走になったり。最近は見舞いばかりだったが。
 裾に和柄が描かれたふすまを開け、隅々まで視線を巡らせながら、先程、愚痴のように語ってしまった過去を思い出した。
(……不敬だったかしら、先生の家で、まるで先生に不信を抱いたような話……)
 だが、彼の言葉を胸に刻みきれないのは事実だ。有言実行したならまだしも、師は夢を果たすことなく逝ってしまった。どうやって、「夢は叶う」という言葉を信じろというのか。
(まあ、人間界に移り住むなんて、ヒーリング音楽の大成よりもはるかに不可能に近い話なんですけど)
 中途半端な場所に置かれたハープをよけながら、そばにある木目調のたんすに歩み寄る。上から順番に引き出しを開け、それらしきものが見つからなければすぐに閉めた。
 一度先生の妹が来て、重要なものは持ち帰っている。後に残っているのは、資料として学院が引き取るもの、弟子である麗楽がいただくもの。そのほかは大方、処分するものだ。先生の妹がオルゴールを見かけなかったということは、重要でなさそうなものが入っているところに収納されているのだろうか。
 真ん中あたりの引き出しを開けると、ペンや付箋などの文房具が乱雑に詰め込まれているのが目に入った。本来なら、文房具の雑多の中にオルゴールは入れないだろう、と引き出しを押し戻すところだ。しかし、麗楽は、引き出しの右手前の隅に置かれた、縦十センチ強ほどの長方形のメモパッドに目をとめた。メモパッドにしては、この引き出しの高さからして分厚すぎる。
 罫線のついたシンプルなそれを、そっと持ち上げると――。
「……あった」
 ちょうど同じ大きさの木の箱が顔を出した。これだけ文房具が多い引き出しの中、まさかメモパッドの下にオルゴールが隠れているとは思わない。二階の和室といい、どこまでも整理整頓したがらないひとだ。
 壊れ物を扱うように慎重に、木箱を手に取る。何の装飾もないシンプルなもので、木の模様がそのまま柄になっている。蓋を開けると、案の定、ガラス板の下にシリンダーや振動板といったオルゴールの本体がのぞいた。ガラス板になっているのは全体表面積の三分の二ほどで、残りの部分は木目だ。指で軽くたたくと、下に空間があるのか、音が響く。
 設計ミスで空間が余ったのだろうか、などと考えていた麗楽は、
「っ!?」
 次の瞬間、落雷のような音が響き渡り、思わずうずくまった。たんすに背中を預けてしゃがみこんだ彼女は、天井が破れ、壁が変形するのを、目を大きく開いて見ていた。頭上から木くずが落ちたかと思うと、大量の雪とともに瓦が降り注いだ。ついに耐え切れなくなったのだ、と理解するも、体は思うように動かない。
 やがて、天井の穴は広がり、二階のローテーブルまでもが落下してきた。それを追うように、硬直する麗楽の真上で、重々しい瓦が崩れ落ちて――。

***

「あっぶねー……」
 半壊した家屋を呆然と眺めて、氷架璃が戦慄と安堵の入り混じった声をこぼした。間一髪で玄関から脱出した三人は、屋根を押しつぶして家の半分を廃材へと変えた雪の恐怖を身に染みて感じた。綿帽子などというかわいいものではない。あの重さは凶器だ。
 放心状態になっていた三人だが、やがて芽華実がはっとした様子であたりを見回した。
「ねえ、麗楽は?」
「あれ、おらん!?」
「一階にいたから先に逃げてると思ったのに……」
 ということは、と潰れかけた家だったものを見つめて、一気に青ざめる。
「おいおい、やばいぞ! 希兵隊呼ぶ!?」
「でも、何かの下敷きになってたら、早く助けてあげないと……!」
「わ、私、とりあえず探してくるけん、氷架璃、霞冴に電話して希兵隊呼んで!」
 小柄な雷奈は、木材が折り重なっている下の小さな空間にもぐりこんだ。木くずでむせないように袖で口元を覆いながら、よく通る声で呼びかける。
「麗楽ー! 大丈夫と!?」
「雷奈さん……!」
 声は、思っていたより近くで聞こえた。ほふく前進していた雷奈は、上体を起こせる程度開けた場所に、たんすのそばで座り込む麗楽の姿を発見した。そばには大量の雪と、ひびが入った瓦が散乱している。そして、あの大きなハープが倒れかけて、麗楽の頭上、たんすにもたれかかるように傾いていた。
「私は大丈夫です」
 まるでたんすに手をついて麗楽を見下ろしているかのような、狭山の愛用品。そのネック――弦が伸びている、上部の金箔が張られた木材部分――に走った亀裂を眩しげに見上げて、
「先生が、守ってくださいました」

***

 しばらくして到着した希兵隊は、半年ぶりにまみえる崎村蘭華の隊だった。雪の重みで半壊した狭山の家に、常盤の瞳をぱかっと見開いて驚愕していた蘭華だったが、雷奈たちが無傷であることを確認すると、少々の事情聴取を経て、「あとは何とかしておきます」と敬礼して見せた。
 その場にいる必要もないようなので、雷奈たちは目的を果たすため、人間界へとワープした。髪の色を気にしてコートのフードを被った麗楽の手には、大事そうにオルゴールが包まれている。
「それにしても、無事だったうえにオルゴールも見つかって、よかったったい」
「ええ、本当に。もし発見が遅れていたら、オルゴールの捜索は家の撤去が行われてからになっていましたから」
 人間界の空も厚い雲に覆われているが、雪は降っていない。深雪を踏むより歩きやすいアスファルトのありがたさを感じながら、雷奈たちが案内したのは、街に出る手前にある大きめの公園だ。子供心をくすぐる、アジトのような吹き抜けの建物の形をした遊具がメインだが、端のほうには季節の花々が咲き乱れる花壇も設けられている。今はシクラメンがこの花園の覇者のようだ。自然の花畑はこの辺りにはないため、狭山先生には人工の花壇で容赦願うことにした。
「では……鳴らしますね」
 気温と天気のせいで人っ子一人いない公園で、麗楽は丁寧にゼンマイを巻き上げる。ゼンマイから手を放し、両手で持ったオルゴールを花壇の上に掲げると、鉄琴のような高く澄んだ音が、あたりに響き渡った。
 切なげな旋律だった。それでいて、幸福に満ちたような穏やかさ。目を閉じれば、音色に乗って一つの映像が頭に流れ込んでくる。花々の彩り、風の香り、全てが素晴らしいこの世界。温かい、愛すべきこの世を目に焼き付け、眩しくて先も見えない空へと昇っていく。どんどん遠ざかっていく木の家を、町を、世界を、上から何度も何度も振り返りながら、果てしない光であふれた新たな世界へと旅立っていく。そう――この曲に名前を付けるなら、「新たな旅立ち」だ。
 やがて、音は静かに止み、目の前に広がっていた映像も消えていった。
 ぽつりと、氷架璃が言った。
「先生の門出の曲、なのかな」
「ええ、このためだけに作ったのかしらね」
 皆同じイメージを見ていたようで、四人はうなずきあった。箱の中で、シリンダーはしばらく無音で回っていたが、やがてその動きを止めた。
 その時だ。
 パンッ、と音がして、オルゴールの本体が見えているガラス板の横、空洞があると思しき木目の部分が上にはじけた。
「きゃ!?」
「な、なんね!?」
 危うくオルゴールを取り落としそうになった麗楽だが、辛くも目をつぶるだけにとどまった。おそるおそるまぶたを上げると、そこには幻想的な光景が広がっていた。小さな白い羽のような綿毛が、たくさん宙を舞っているのだ。まるで天使が舞い降りた後のようである。
「これは……」
「オルゴールから……。もしかして、曲が終わったらこうなる仕組みになっていたのかしら」
 ふわふわと漂うそれらに目を奪われていた雷奈は、そのうちの一つが自分の服にくっついたのに気づいて、指でつまみあげた。綿毛の根元には、茶色く細長いものがついている。振り返ってそれを見た麗楽が、澄んだ目を大きく見開いた。
「これは……ガーベラの種……!」
「そうなのか?」
「ええ、ガーベラは先生のお好きな花で、種も何度か見せていただいたことがあります。……いえ、好きという言葉では足りません。特に赤いガーベラは、先生が自身の分身であると言うほど愛してやまない花だったんです。その花言葉は、『限りない挑戦』……」
 花壇の土の上に、綿毛が舞い降りる。いくつも着地した種の中には、見事に花を咲かせるものもあるだろう。赤い花弁をいっぱいに開くのを想像して、麗楽は全てを悟った。
「ああ……このオルゴールは、そのためだったのですね。自分の魂を、愛する花に託して、人間界に根付く。どんな形であれ、夢は叶う……先生はこのような形で、一生の夢を叶えたんですね。そしてそれを、わざわざ私に見せてくれた……」
 声が聞こえた気がした。敬愛する恩師の、「次は君の番だ」という優しい声が。
 麗楽は雷奈たちのほうへ向き直ると、深々と頭を下げた。
「ありがとうございました、皆さん。おかげで私は、先生の言葉を一生胸に刻んでいけます」
 顔を上げてふわりと笑った麗楽の両目から、涙があふれて頬を伝った。

***

 しばらく一人で追悼の意を示したいという麗楽と別れ、雷奈たちは家路をたどっていた。雷奈の手には、オルゴールの木箱が乗っている。「人間に持っていてもらえたら先生も本望だろう」という麗楽の希望によるものだ。種が吹き出す仕掛けは一度きりとはいえ、オルゴール自体は何度でも聞けるのだから、時々その音色に耳を傾けるのもいいかもしれない。
「いろいろ丸く収まってよかったな」
「ええ。でも、よかったのかしら、麗楽にとっては宝物みたいなものなのに……」
「先生の気持ちば考えての判断っちゃろ。私が大事にすればよか」
 雷奈は慈しむように木箱を眺めた。その時、雷奈のポケットでスマホが震えた。
「ん? 電話? ……ユウからったい」
「ユウって……今回の麗楽の依頼を伝えてくれた猫?」
「うん。進捗が気になったのかな? 出てみるばい」
 画面の時計を一瞥して、もう夕方の五時なのかと驚きながら、雷奈は電話に出た。
「もしもしー?」
『こんにちは、雷奈。私よ、ユウよ』
「どげんしたと? ちょうど麗楽の依頼が終わったとこなんやけど……」
『突然ごめんなさい、今どこにいるの?』
「えっと、今……、っ!?」
 雷奈の言葉は、呼吸ごと止められた。
 一瞬だった。
 音もなく背後から現れた長身の人物に、右手で持っていたオルゴールをさらわれたのだ。
「ちょ、えっ……なんばすっと!?」
 動転した雷奈に背を向け、オルゴールを手にした男は脱兎のごとく走りだす。黒い帽子に黒い服を身に着けた後ろ姿が遠ざかっていく。
「ひ……ひったくりぃぃ!?」
「まさか、今朝話してた人!?」
「あの野郎、たぶん宝石かなんかだと思ったな!? いや、オルゴールでも十分高価か……!?」
「ユウ、ごめん、またあとで!」
 雷奈は乱暴に電話を切ると、すさまじい速さで駆け出した。
「待てーっ! 返せ、それは大事なものったい!」
 距離は見る見るうちに縮んでいく。大の成人男性といえど、雷奈の俊足にはかなわない。あっけなく追いついた――と思った直後。
「きゃんっ!」
「うお、大丈夫か!?」
 振り向きざまの男に足蹴にされて、小柄な体は後方へと転がった。すぐに手をついて起き上がったが、蹴られた右の太ももが痛んで、うまく走れる自信がない。
 麗楽に託された、大切な宝物が奪われた――。
 ショックで呆然とする雷奈から、男は悠々と逃げていく。
 しかし、次の瞬間、彼は盛大に転倒した。
「……え?」
 オルゴールがアスファルトの上を転がる。その近く、十字路の角からにょきっと足が出ているのが見えた。どうやら、男はそれに引っかかって転んだらしい。
 故意に出されたと思しき細い足は、角から歩み出てオルゴールのすぐそばで止まった。しゃがんで、木箱を無造作に拾うと、その人物は雷奈たちのほうへと歩んでくる。黒いスニーカーにジーンズ、小豆色のパーカーに身を包んだ小柄な姿だ。ワンポイントが付いた黒いキャスケットを目深にかぶっており、顔はよく見えない。髪も全て入れ込んでいるらしく、性別の判断すら一瞬迷うが、胸元のシルエットから少女であるとわかった。
 ゆっくりとした歩みで近づいてくる少女に目を取られていた雷奈は、その背後でうごめくものに青ざめた。
「危ないっ、後ろ!」
 よろよろと起き上がった、サングラスとマスクで顔を隠した男が、懐から折り畳み式のナイフを出していた。それを少女の首の位置に構え、切っ先を光らせて一気に迫る。
 刺される――と、誰もが思った。だが、鈍色の凶器が少女の細い首を突き刺す前に、彼女は素早い動きで身をかがめていた。頭から離れたキャスケットが地に落ちるより先に、体をひねり、男の手首をつかんで、一息にねじ上げる。
「いでででいでっ!」
 男は悲鳴とともにナイフを取り落とした。
 さして力を入れている風でもない少女の口から、静かな低い声が発せられる。
「今だ、ユウ」
「おまかせあれ。――眠れ、昏転こんてん
 声のするほうを見れば、ブロック塀の上に紅がかった藤色の猫が悠然とたたずんでいた。自然界ではありえない色の猫に、男は涙の浮かんだ目をむく。だが、それもほんの短い間だった。猫姿のユウの臙脂色の目を見たが最後、男は糸が切れた人形のように、目を閉じてその場にくずおれた。
「はい、終わり。もう夢の世界よ」
「ユウ、ご苦労。手数だが、匿名で通報しておいてくれたまえ」
「事情聴取を受ける気もないのね。わかったわ」
 深呼吸一つの間に、ユウの体がハイネックのセーターを着たポニーテールの少女の姿へと変化する。パーカーの少女は、あとは知らんと言いたげに、男に背を向けると、雷奈たちに向かって、いつの間にやらポケットにしまっていたオルゴールを突き出した。
 奪還せんと必死になっていた大切なそれに、雷奈たちは視線の一つも注ぐことができなかった。驚愕に染まった三人の目は、少女の顔を凝視したまま動かなくなっていた。
 常人離れした鋭い身のこなしだった。そんなことはどうでもいい。
 ユウと――フィライン・エデンの猫と関わっている。それさえも、些末なことだった。
「どういう、ことだよ……」
 少女は、色素の薄い容姿をしていた。帽子が取り払われて露わになった、腰まで流れる長い髪は薄い茶色。明るい茶色の瞳が乗った顔も色白。そして、近くで見て改めてわかる百四十センチほどの低身長と、特徴的な富士額。
 無表情で、血色はあまりよくなくて、冷たい無骨な雰囲気をまとっている。だが、それでも、目の前にいる彼女は。
「雷奈が、もう一人……!?」
「否」
 小さな唇から、短く否定の言葉がつぶやかれる。雷奈をコピーして、普段彼女がまとっている温度を氷点下まで下げたら出来上がったような少女は、無感動な瞳で三人を見つめた。
雷華らいかだ」
 刹那、雷奈の頭に電撃のように走るものがあった。
 なぜ、今それを思い出したのかはわからない。だが、きっと直感的に次の言葉を予感したがゆえに呼び起こされた記憶なのだろう。
 夏休みの逃亡中、身も心も疲弊した雷奈に、あの女性はこう言ったのだ。
 ――大丈夫、最初から独りじゃなかったあんたは、これからも孤独になることはない。
「私の名は三日月雷華。――雷奈の、双子の妹だ」
 生き写しの少女は、冷静沈着に、自らをそう名乗った。
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