フィライン・エデン Ⅰ

夜市彼乃

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3.雷奈逃亡編

15終焉が聞こえる 前編

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「なして、ここば終着点に選んだか分かる?」
 歌うように、雷帆は問う。雷奈が黙っていると、にっと笑って解答を提示した。
「まず、孤立無援にさせたかった。当たり前っちゃろ? 地元で襲ったって、絶対仲間が来るけんね。こんなところまできたら、さすがに助けは呼べん。それだけやなか。さっきは強がっとったけど、ちょっとは精神的にこたえとろう? 疲れさせるのも作戦のうちばい」
 それともう一つ、と雷帆は崖っぷちを振り返った。
「この岬はね、海水の流れが独特で、落ちたら水面に上がらんようになっとーとよ。つまり、落ちたら最後、もう助からず、死体はいつまでも発見されないまま、文字通り海の藻屑となる……ってわけ」
「死体ごと消そうとしとーとか……!」
 雷奈は音が鳴りそうなほど強く歯を噛みしめた。
「雷帆……本当に変わったとね。そんな……そんな残酷なこと、言う子やなかった……!」
「おかしいことでもなかろ。人殺しの父に人殺しの娘。血は争えん、ってね。さあ、始めよう」
 雷帆は右手を上から背中に回し、背負った細長い布袋の口を解いた。後ろ手に中から取り出したものを、雷奈に投げてよこす。反射的にキャッチしたそれは、滑らかな手触りの硬い長物。プラスチック製の鍔がついた、赤樫の木刀だ。
「今夜は月が明かるかね」
 風流な言葉とは裏腹に嗜虐的な声。木刀に気を取られていた雷奈が、再び雷帆に目を戻すと、背中の竹刀袋からもう一振り、得物を引き抜くのが見えた。大きな満月を背負って、白樫の木刀を手にした雷帆は、もはや人間ですらないような妖気をまとっている。逆光で陰った顔。双眸だけが、獰猛に光る。
「やけん、よく見えるったい。あんたの姿も、あんたの死に顔も……ね!」
 直後、雷帆は弾丸に迫る勢いで、獲物に肉薄した。かわせたのは奇跡だろう。あるいは、猫力の発動に伴い向上した運動神経の賜物か。
 だが、雷奈は一瞬のうちに、髪の一束をもっていかれたのを見た。はらはらと舞う薄茶の髪。明らかに、の仕業によるものではない。
(まさか……手刀だけじゃなくて、持っているものにも刃物の切れ味を宿せると……!?)
 左後方に飛び退った雷奈は戦慄した。だが、呆けている場合ではない。雷帆が、初太刀で一息つくわけがないのだ。雷奈は人生最短速度でリュックを下ろし、木々のほうへと放り投げた。
 予想通り、まるで今の一撃に期待などしていなかったかのように、雷帆は次の動作に入った。右足を軸に体の向きを変え、脇構えで雷奈のほうへ突っ込んでくる。太刀筋を予想して、手に持った木刀で警戒しつつ、再び間一髪でよけてから、ハッと後ろを振り返った。雷帆は、考えなしに攻撃しているわけではなかった。雷奈に一方向だけ回避可能な逃げ道を与え、その通りにいけば崖に追い込めるようにしていたのだ。
「気づいちゃったか」
 雷帆が舌を出しながら突進してくる。後ろはない。左に逃げても素早い斬撃につかまる。右に逃げるか、あるいは、ここは――。
「!」
 雷帆が目を見開いて天を仰ぐ。彼女の頭上、雷奈は驚異的なジャンプ力で雷帆を飛び越えるように舞っていた。
 雷帆はとっさにブレーキをかけた。危うく空振りして、自身が崖下に転落するところだった。雷帆が体勢を整えるのと、雷奈が着地するのは同時。踵を返して迫ってくる雷帆を、雷奈は辛くもかわした。だが、やはり一撃では終わらない。一撃目が空振れば二撃目、二撃目が失敗すれば三撃目、三撃目がしくじれば四撃目――。
 すべての攻撃が全力なのに、仕留め損ねた際の切り返しがとてつもなく速い。捨ての振りなど一本もない。どの太刀筋も、本気で雷奈の命を刈り取るつもりだ。
 一瞬の気も抜けず、雷奈はかわし続けた。それでも、一振りごとに体のどこかに切り傷が刻まれていく。二の腕に、頬に、赤い線が現れては、焼けつくような痛みを放つ。
 これがあと何分続くのかが分かれば、幾分か気も楽だろう。だが、時計を一瞥でもすれば最後、確認した残り時間など意味もなさずに終焉が訪れる。
「なかなかやるね」
 雷帆の息は弾んでいた。だが、好戦的な態度は崩さない。木刀を構えなおすと、
「じゃあ、これはどうっちゃか?」
 思い切り木刀を振り上げ、上段の構えで飛び込んできた。ぎりぎりまで粘って、雷奈は直前で右によける。何の変哲もない正面打ちだ。何を企んでいるのか、と眉をひそめた次の瞬間。視界の端で雷帆の左手がひらめいた。
「っ!」
 手刀の形にした手の先が、雷奈の胴を薙ごうと迫る。とっさによけようとするも、右手の木刀が再び動き始めている。先ほどのように飛び上がろうにも、この距離では危険だ。持っている武器は木刀一本、両方向からの攻撃をしのぎ切れない。雷帆が口の端をつり上げる。
「残念、ゲームオー……バー……?」
 刹那、木刀がくるくると回転しながら宙を舞い、乾いた音を立てて地面で跳ねた。月の光に照らされたそれは、象牙のように白い。
 もう片方の凶器、左手の手刀は、赤樫の木刀によって止められていた。雷奈は、最後まで胴を狙われていると思っていたし、雷帆もそれを見抜いていた。だからこそ、雷帆は途中で軌道を変えて頭部を狙っていたのに、頭から胴からすべてを守るように構えられた木刀に阻まれた。
 ふっ、と手刀を跳ね返す力がなくなる。直後。
「――りゃあッ!」
 少女のものとは思えないすさまじい気迫とともに、雷帆の胸を目がけた突きが放たれた。身を退いてかわした雷帆は、そのままバックステップで己の木刀の元へとたどり着き、それを拾い上げた。
 雷帆の顔が驚愕の表情から愉悦の笑みに変わる。
「巻き上げからの三か所よけ。挙句の果てに、中学生じゃ禁じ手の突き……。やっと本気出したっちゃか?」
 全体重をかけた踏み込みの姿勢から、雷奈はゆっくりと中段の構えになった。深紅に輝くその目は、いつもの「天然」と愛される彼女のものではない。鋭く、冷たく、研ぎ澄まされた眼光。
「なまっとらんね、『ミス・道場やぶり』。さすが、一人で二十人抜きして、看板の代わりに新品の三五さぶご竹刀、たんまりせしめてきただけある」
「褒められとる気がせんね。そのミス・道場やぶりに一本すら取らせたことのないヤツは誰ね」
 雷奈が苦々しげに言い放つ。
 雷帆はニッと笑って木刀を構えなおすと、地を蹴って雷奈に迫った。雷奈は、今度はよけることなく、逆に前へと踏み込んだ。雷帆との距離を詰め、彼女が意図していたタイミングをずらす。相手の木刀をはじきながら、腰を入れた体当たりを食らわせた。
「っ……」
 雷帆がよろめく。その隙を逃さず、三日月形に振るった刃で容赦なく胴を狙った。すんでのところで防御した雷帆が反撃に入る。小手からの面を、雷奈はいずれも防ぎきった。飛び退き、着地の勢いを殺さずに前に出る。雷帆もまた迎え撃ち、竹を割ったような音ともにつばぜり合いが始まった。
「楽しかね、姉ちゃん。種子島にいたときは、よくこうやって剣道場で稽古したもんったい」
「……」
「あたしは今でも、小学校で続けとる。姉ちゃんもやっとるっちゃろ?」
「……たまに剣道部に駆り出されるだけばい。人数少ないから練習相手しろって言われて」
「それでこんだけ動けたら文句なかろ」
 両者一歩も譲らず、ぶつかりあう得物越しに言葉を交わす。
「懐かしか……道場にいたとき、月の最後はみんなでトーナメント戦して。あたしと姉ちゃんはいつも一番離れた枠だったね。二人とも勝ち進んで、必ず決勝はあたしと姉ちゃんだった。そしていつも勝つのは……あたしだった」
 遠い目をしていた雷帆が、雷奈に視線を戻して笑い声を漏らす。
「それは変わらんとよ。この戦いもあたしが勝つ。違うのは、勝敗の意味が、ちょっとだけシリアスになったことと……」
 勢いよく雷奈を突き飛ばし、雷帆は右手を前方にかざした。
「――反則も禁じ手も、何もないことったい!」
 どこからともなく、その手に柄のないクナイらしきものが大量に現れた。それらが、一斉に雷奈めがけて放たれる。雷奈は猫力による運動神経を目いっぱいに活用し、縦横無尽に回避した。今度は術を切り替えたのか、鉄の塊のようなものが飛んでくる。保険に木刀を振るいながら、辛うじてかわし続けた。周りの地面はクナイと鉄塊だらけになり、時々、流れ弾が木の幹を傷つける。
「どげんしたと? もう動きが鈍かね」
「どげんしたも、そげんしたも……あるかっ!」
 肩で息をしながら、雷奈は怒鳴った。
 ここへきて、蓄積された疲労が体を縛り始めた。足は棒のようにうまく動かず、腕は鉛をぶら下げているかのごとく上がりにくい。どれだけ呼吸しても、息切れはやまない。三日間、ほぼ休まず逃亡を続けた体が、限界を迎えていた。
「雷帆、言ったね」
 もはや肉弾戦での勝機はない。何より、先にこの戦いを武術でなくしたのは彼女だ。ならば。
って……!」
 雷奈は木刀を手放し、両手を前に突き出した。手のひらから火花が顔を出す。雷帆の瞳が驚愕に見開かれた。
「安心しな。心臓麻痺おこしたら、AEDよろしく……もう一回浴びせてやるけんね!」
 一気に力をこめると、エネルギーを爆発させるように放電した。多少、脇にそれて木を焦がしたが、気にしない。閃光にまみれて、雷帆の影も形も見えない。それでも、残った力のすべてを出し切るように、とめどなく雷を放出した。
 やがて、明滅範囲は小さくなり、数回チカチカと光ったかと思うと、光は完全に消えた。
「はあっ、はあっ……」
 膝に手をついて喘ぐ。前回、空き地でダークに向かって放出したものよりも遥かに激しい電撃をお見舞いしたのだ。さすがに平気ではいられない。だが、相手も無事ではないはずだ。
「これで……どう……っ」
 顔を上げようとした、その瞬間。
「……っ!?」
 顔を上げたときには、もう遅かった。
 滑空してきた数本のクナイが、すねと両肩に突き刺さった。
「い……っ……!」
 よろめいて、後方の木の幹にぶつかり、足を投げ出してもたれるような形で座り込む。激痛をこらえ、何とか立ち上がろうとした雷奈に影がかかった。月光を遮り、眼前に脅威が立っていた。
「ここまでだね、姉ちゃん」
「なして……平気と……!?」
結界術シールドって知っとる? 悔しかろ、渾身の一撃が防がれて」
 ビッ、と首筋に切っ先を突き付けられた。刀の切れ味を持っているとはいえ、あくまでもそれは木刀だ。だが、雷奈は木製のそれに金属の冷たさを感じた。あるいは、それは殺意の温度かもしれない。
(せっかくここまで来たのに……結局、殺されると……?)
 隙を見て距離を取りたい。木刀を拾って、太刀打ちしたい。もう一度電撃を放って、次こそ命中させたい。
 そう思うのに、もう体は言うことを聞かない。絶体絶命、万事休す。諦念だけが、頭を占めた。
「言い残すことはある?」
 雷帆が問う。無風の岬に凛と響く声。世界でただ一人、雷奈を「姉ちゃん」と呼ぶ、愛すべき声。逆光になった顔はあどけなくも整った容貌。目はこんなに残酷なのに、それでも愛しい。これほどまでに殺意を向けられても、暴力を受けても、目の前にいるのは愛してやまない唯一のかわいい妹だった。
 黙ったまま、うつろな瞳で見上げてくる雷奈に、雷帆はもう一度だけ問うた。
「これが最後ばい。……言い残すことは?」
「……きに」
「ん?」
「……好きに、すれば、よかとよ」
 ゆっくりと、雷奈の口が弧を描く。憎しみも恨みもない、純粋な微笑みで。
「私は、あんたの姉ちゃんやけん。あんたの幸せを……願っとーとよ」
 雷帆が目を大きく見開いた。そして、徐々に元の表情に戻ると、苦笑に似た微笑を浮かべ、その刃を勢いよく――。
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