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ウツシヨヘグイ
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「ひじり茶」と書かれた看板が妙な余白を持っている訳を、人は誰も知らない。
小春通り商店街の中に佇む一軒の店。古き良き和風の構えを見せる「ひじり茶」は、大繁盛とまでは行かずとも、ちらほら人足が出入りしていた。
「ダージリンティーには年三回の旬があるんです。この旬の時期をクオリティーシーズンと言うのですが、それによって紅茶の味や香りが違ってくるんですよ」
傾斜のある木製の台にずらりと展示された茶葉の缶の中から一つ手にとって、エプロン姿の二十代くらいの青年は言う。
「四月初めの今はファーストフラッシュという春摘みのお茶が旬です。金色に近い色をしていて、ストレートで飲むのがオススメですよ」
よどみなく解説する青年の話を、客の女子高生たちは熱心に聞いて……いなかった。話の内容よりむしろ、色素の淡い髪に端正な色白の顔をした彼そのものに夢中のようだ。
そんないつもの「ひじり茶」の店内に、チリリンとドアベルがなり、一件は始まった。
「いらっしゃいま……おや?」
青年は女子高生の接客の片手間に挨拶をしかけて、ふと動きを止めた。
入ってきたのは、黒い帽子を目深にかぶったうつむき加減の人物だった。服装は簡素だ。
一瞬目を見張った青年だったが、すぐににっこり笑う。
「少々お待ちください、こちらのお客様で最後にいたしますので」
その客に、壁際の椅子に座るよう促し、青年は一旦店の外に出た。そして、表にかけてある小さな「open」の看板を裏返す。
「closed」。
***
午後三時にして閉店した「ひじり茶」内に、人影が三つ。一人はエプロンを脱いだ、シャツにベストという服装の青年。一人は帽子を脱いだ客。そして最後の一人は。
「いらっしゃい。看板を見てきたのね。私が土御門聖。この店の本当の店主よ」
クセのある髪を茶色く染め、ひとふさを高い位置でくくった高校生くらいの少女だ。シャツブラウスにチェックのスカートという制服姿だが、今は四月の第一週目なので学校は春休み。登校していたわけではなく、あくまでも客を迎える服装である。
「表向きは僕が店主ということになっていますが、実のところ僕は働かせていただいている身です。名前は天宮アズマ。漢数字の四と書いてアズマと読みます」
青年は胸に手を当てて言う。
「あなた、『ひじり茶』の下に書かれた文字を見て来店したんでしょう?」
聖の言葉に、客は無言で頷いた。
「ひじり茶」と書かれた看板が妙な余白を持っている理由。それは、常人の目には映らない、この店のもう一つの顔の名が書かれているからだ。
「ようこそ、妖専門案内所へ。何かお困り?」
そう言われ、客はうつむけていた顔を上げ、聖を見た。
黄金の目。白い髪。頬には鱗のような模様が走っている。
「俺は巳六といいます。……この店は、現世に来た妖の困りごとを解決してくれると聞いて……」
「そうよ。迷子から観光案内、その他もろもろ受け付けているわ。ところで、その頬。あなたってこっちでは蛇だったんじゃない?」
巳六は首肯した。
死んだ生き物は、あの世――黄泉へ行く。通常、しばらくそこで過ごした魂は、霊子に分解され、転生するのだが、時折、長く黄泉にとどまり、妖力を得る者もいる。その力が強ければ、現世にやってくることもできるのだ。この世で言う妖ものとは、そうやって現世に一時的にやってきた彼らが人の目に捉えられたものである。
人間の霊が妖力を得たならば、人型の妖。動物の霊ならば、その動物の形をした妖。だが、強い妖力を持つ動物の妖は、往々にして人の形をとる。巳六もその一人だった。
「して、どのようなことでお困りですか?」
「……帰れなくなったんです」
「迷子? 任せて、すぐに霊道を……」
「いえ、霊道を通れなくなったんです」
「……といいますと?」
巳六は一度ためらった後、はっきりと言った。
「ウツシヨヘグイをしたのです」
聖と四は顔を見合わせた。
ウツシヨヘグイ。それは、黄泉の食べ物を食べれば現世に戻れなくなるというヨモツヘグイの逆。現世の物を妖が食べたり飲んだりすると、向こうに帰れなくなるのだ。
「……稀にいるのよね、そういう妖」
聖は嘆息した。
「食べたり飲んだりしたら最後、もう向こうには帰れないわ。そういう場合、この世で過ごすことになるの。ただ、原則として、妖の姿をしていると、見える類の人に驚かれたり、運が悪いと滅されたりするから、人としてやっていくことになるわ。そこで、人として生きる訓練をしてもらって、就職する手伝いをするのが私達の仕事になるのよ。こっちで生きる覚悟はある?」
「はい」
巳六は神妙に頷いた。横では四が職業一覧の本をめくっている。巳六に合う仕事を探しているのだ。
「あの……俺、やりたい仕事があるんです」
「珍しいわね。普通途方にくれるものだけれど、適応が早いというかなんというか」
「生きていた頃、命を助けてくれた人がいるんです」
巳六が生前、ただの白蛇だった頃。一軒の家の敷地内に迷い込んだことがあった。近所の人間に見つかり、殺されそうになったところを、その家に住む一人の老婆が逃がしてくれた。
――お前さんは悪いことしてないのにねぇ。お逃げ、もう来るんじゃないよ。
結局その一週間後に彼は車にひかれ、亡きものとなるのだが、助けてくれたその老婆のことが忘れられずにいるという。
「彼女は一人暮らしのようでした。あの歳で一人は何かと不便だろうと思い、何か身辺の手伝いをできたら、と……」
「ホームヘルパーみたいなものね」
「その方の名前はわかりますか?」
「いや、それは……。家の場所は覚えているのですが」
「なら、決まりね!」
聖は座っていた椅子から立ち上がると、二階へ続く階段へと足を向けた。
「四、準備を。その家に行ってみるわよ」
「わかりました。……ところで、巳六さん。こちらに来られたということは、それなりの妖力をお持ちのはず。もっと人間らしい人間の姿になれますか? その髪の色と肌では目立ちます」
四に言われると、巳六は頷いて目を閉じた。髪は見る見る黒くなり、頬の鱗も消えた。妖の変化にも段階があり、妖の姿、人間の姿、その中間の姿があるのだ。
「ありがとうございます。僕も出かける準備をします。少々お待ちくださいね」
***
着いたのは、石垣に囲まれた瓦屋根の家屋だった。しかし、そこここが傷み、とても人が住んでいるようには見えない。瓦の一部ははがれ、入り口には立ち入り禁止のテープまで施されている。
「……って、これ絶対人住んでないじゃない」
「ですが、ここで間違いないのです」
「巳六、あなたが死んだのって何年前?」
「おそらく、十年はたっているかと」
どうりで……、と聖は伏し目になって額に手をやり、嘆息した。
聖達はもぬけの殻となった家を前に立ちすくんでいた。四が注意深く周囲を観察している。
「佐原宏、サエ……と表札に書かれていますね。この方達が住人……だったのでしょうね」
ここに住んでいたのは老人。それが十年もたち、今は誰も住んでいないとなると、考えられるのは……。
と、その時。
「ちょ、巳六!」
聖が咎めるように声を上げた。巳六は石垣を登り始めたのだ。立ち入り禁止のテープを破ると厄介だからか、壁を越えて中に入ろうとしている。
「ダメだって!あんたはもう蛇じゃないんだから、そんなことしちゃ……」
巳六の服を引っ張った、直後。
「聖!」
「きゃっ!?」
足を滑らせた巳六が落下したのだ。それも聖を下敷きに。
「あ、ごめんなさい……!」
巳六はすぐに立ち上がったが、聖はその場に倒れたままだ。
「……聖?」
「足が……」
立ち上がろうとするも、糸が切れた操り人形のように、それ以上動くことが叶わない。
四がすかさず聖のもとに膝をついた。
「ひねったのですか」
「たぶん……」
「す、すみません、俺のせいで……」
「本当ですよ、自分はもう人間であることをわきまえなさい」
言うと、四はひょいと聖を抱え上げた。
「な、何すっ……!」
「病院行きますよ。さっきここに来るまでに市民病院があったでしょう。巳六、あなたもついて来なさい」
「待って! スカートが! 四、スカート気にして!」
***
お大事に、という声を背に、三人は診察室を後にした。
「折れてなくてよかったわ」
「ですが松葉杖沙汰になったのはいただけません」
「いいじゃない、巳六も反省しているんだから」
彼女の言葉通り、先ほどから巳六はうつむき加減だ。
「ここからはその佐原って人がどうなったのかを探ったほうがいいわね。とはいえ、足で稼ごうにも私はこのざまだし、いったん家に戻って……」
作戦を練り直そうと言葉をつぶやく聖の横を、看護師が通り抜けていった。その先で落ち合った他の看護師と交わした会話を、四は聞き逃さなかった。
「……聖」
「?」
「今、佐原サエさんという名前が聞こえました」
「えっ!?」
続いて、医者と思しき男性が走り抜けていく。
「先生!」
「二〇一号室の佐原様の容体が……!」
彼女らは声高になり、それは聖の耳にも届いた。
「この病院にいたなんて……。四、巳六、いくわよ!」
「待ってください、聖。巳六さんがお手伝いしたかった方は入院されている模様。彼女はもう……巳六さんがお手伝いする必要はないのでは」
それは、施設下にあるからか、あるいは先ほどの看護師の発言に基づき先が長くないことを悟ったからか。
しかし、聖は四に鋭い視線を向けた。
「何言ってんの! 佐原って人の容体が悪化してるのよ! 巳六が『ありがとう』を言うチャンスは今しかないじゃない!」
そう言って、今度は巳六に視線を投じる。
「あんた、この世界で暮らさなきゃならなくなって最初に浮かんだのがそのおばあちゃんなんでしょ? 身辺介護をしたいと思ったら、あっちに帰れない恐怖も薄らぐくらいに、あのおばあちゃんのこと好きになったんでしょ!? その人がもう危ない状態になってるんだから、急がなきゃ! ありがとうって伝えなきゃ!」
聖の迫力にたじろぐ巳六。走り出さない彼の姿に、聖は瞳に影を落としてにらむ。
「……それとも何、やりたかった仕事がなくなるってわかった瞬間帰れなくなったのが怖くなった? 自分に気持ちが向いた?」
「……いや、そうでは」
「じゃあお礼くらい言いなさい! 何つっ立ってんのよ、あんたの気持ちってそれくらいだったの!?」
「……っ」
喝を受けた巳六は、次の瞬間床を蹴っていた。看護師たちが向かった先へ。
「聖、僕達も」
「ええ……って、だから抱き上げるときはスカート気にしてって!」
***
聖を抱えた四が病室に着いた時、複数の看護師と医者がベッドを囲んで佇んでいた。その中に巳六もいた。
「あなたもご親族の方ですか?」
「え? いや……」
「ええ、そうです。サエおばあさんの容体は……」
四は聖に目配せして言った。先に入っていた巳六がそう虚言したのだろう。
「手は施していますが……もう……。施設暮らしで、旦那さんもお子さんもいないようだったので、せめてあなた方が来てくださって良かったです」
医師が不幸中のごくごくわずかな幸い、といった面持ちで言った時、小さくしゃがれた声がした。
「先生!」
「意識が戻ったのか!?」
医療従事者たちが動き出す中、巳六はじっと立っていた。
「……不思議なもんだねぇ」
今にも事切れそうなのに、不思議とよく聞こえる声で、老婆は言った。
「夫に先立たれ、子供にも恵まれなかった私を看取ってくれるのが、あの時の蛇さんだなんて。私ゃ幻でも見てるんかねぇ」
周りの医師たちは今際の際の患者の言葉だと流しているだろう。同様に、巳六の「幻じゃない、あの時の俺です」という言葉も、虚無な返歌にしか聞こえなかったに違いなかった。
おや、と声を漏らす老婆に、巳六は続ける。
「あの時逃がしてくれてありがとう、おばあさん」
「まあ、嬉しいねぇ。長生きして欲しいねぇ……」
姿を変えて想いを伝えに来た白蛇。彼の気持ちを間違いなく受け取った直後、彼女は静かに息を引き取った。
「ギリギリセーフ……でしたね」
聖にだけ聞こえる声でつぶやいた四。
「……果たしてセーフだったのかしら」
聖も、四にしか聞こえないよう囁く。
「一度別れたはずの二人が今再会し、想いを伝えてしまった。これはまた新たな想いを生んだんじゃないかしら。それも、負の想いを。そもそも、最初からアウトだったのよ。ウツシヨヘグイさえしなければ、亡くなった佐原さんとあの世でまた会えた。そこで想いを伝えることもできた。それならその後も語らうことが叶ったのに」
この世に帰らぬ人となった老婆。黄泉に帰れぬものとなった巳六。すれ違いの瞬間に刹那触れ合うことは、果たして幸せなのか。
「よかったんです、これで」
けれど、四はまっすぐな目で言う。
「だって彼女は言いましたから。『長生きして欲しい』って。黄泉で会ったら、落胆してしまいますよ」
その後、三人は病院を後にして、今後のことを話し合った。巳六は老人ホームへの就職を目指すことになり、聖と四はその手伝いをすることになり、今夜はひとまず巳六は無人の佐原宅で蛇姿で過ごすことになり。
妖専門案内所としての「ひじり茶」は本日の閉店を迎えた。
***
満月が照らす、夜の帳の降りた商店街。どこもシャッターが下りている。
その日は無風で、そのために無音で、だから壁を伝い上るシュルシュルという音が際立った。窓は、開いている。
茶葉の並ぶ、明かりの消えた店内。その丸テーブルに、一人の少女が突っ伏して眠っていた。黄金の瞳が嬉しそうに細められる。
闖入者は何の障壁に阻まれることもなくテーブルの下まで来ると、ニーハイソックスに包まれた細い足を見て、舌なめずりをした。自分自身を焦らすようにゆっくりと近づく。
あと三センチ。高鳴る鼓動。
あと二センチ。爛々たる瞳。
あと一センチ。牙をむき。
その足に突き立て……。
「ギリギリアウトです」
低い男の声がした。ハッと見上げると、しどけなくテーブルに身を預けて突っ伏していた聖が彼を見ていた。
「残念でした、巳六さん。僕です」
彼女は――いや、彼はそう言うと、煙と共に姿を変えた。白蛇は瞠目した。目の前に立っていたのは、昼間と違う装いの四だった。
白と浅葱色を基調とした狩衣。宵闇に映える銀髪。そこから飛び出ているのは、同じ銀色の三角耳――。
「化かすのは僕の十八番ですよ」
「……妖狐」
目の前のものを的確に言い得た巳六は、白髪に鱗頰の青年姿に変化した。
「巳六さん、あなたの狙いは最初から聖だったんでしょう。聖は不器用すぎて術こそ使えないものの、正当な血筋を引く強大な霊力の持ち主ですから。その霊力を飲み干せば、妖にとっては妖力としてその力が手に入る。霊力は食べ物飲み物ではありませんから、ウツシヨヘグイにも当たりませんしね」
「……」
「佐原さんの件は、確かに真実だったのでしょう。けれど、それは聖に近づく口実に過ぎなかった。聖にけがを負わせたのも彼女を弱らせるためにわざとやったのでしょう。あの『ありがとう』だって、本心から言った言葉かどうか定かではありませんね」
「……まさかお前も妖だったとはな」
巳六の気配が変わった。人畜無害なそれから、粗野で殺気立ったそれに。
「いつから気づいてた」
「ウツシヨヘグイをしたと言った時、それが嘘であることを見抜いてから怪しいとは思っていました。僕の千里眼の前ではどんな隠し事も出来ません」
ほぼ最初からではないか、と巳六は顔をしかめた。四の腰から伸びる四本の尾。千里眼と神通力を持つ天狐の証だ。
「あなたはウツシヨヘグイなどしていません。嘘をついたのは、この店の特性を知っていて、聖の懐に入るためだったんですね。霊力は生命力。聖の霊力を飲み干したりなどすれば、聖の命にかかわる。そんなの、この僕が許すと思います?」
揺れる四つの尾が光を帯びる。
この男は、危険だ。
それを察した巳六が退こうとするより早く、四が肉薄した。白い手を巳六の胸に押し付ける。
「術式・略奪!」
四の低い言霊。刹那、巳六の体から見えない力が引きずり出された。
「何をっ……!」
「妖力を吸い取らせていただきました。もうこちらに来ることのないよう」
たちまち妖力を失っていく巳六。ついに人の形をとっていられなくなり、四肢は消え、体は縮み、床を這う一匹の蛇の姿となった。
狐ににらまれた蛇は、しかしチロリと舌を出して。
「フン、戯言を。大方、再度俺に触れて現世返しの術を使う気だろうが、この姿ならそう簡単に捕まらないさ。今日のところは逃げて、機をうかがってあの子娘の血をもらい、黄泉へ帰る。残念だったな、天狐」
シュルシュル、と入ってきた窓の方へと向かった。
四は追うこともせず、ただ一言、つぶやいた。
「いえ、すでに術中ですよ。文字通り」
直後、店内の床という床が青白く光を放った。壁を上りかけていた巳六は驚愕に目を見開いた。
「なんだ、これは……!」
「初めから店内に陣を張らせていただきました。この一階にいる限り妖は悉く黄泉へ帰っていただくための術をね。仲間がいることも想定してこうさせていただきましたが、なるほど、別の意味で役に立ちました。これなら捕まえにくいあなたも逃がさずに済む」
術式の中に入っている巳六と四の体が青白い光に包まれる。
「術式・陣式現世返し」
言霊に呼応して、光が強さを増す。巳六は顔を醜く引きつらせながら叫んだ。
「自分もろとも黄泉に戻すつもりか! いいだろう、帰ったら直後その首にかみついて妖力を吸い取ってやる。俺は再度力を取り戻し、お前は二度と現世へ来られない体になるのだ!」
光に包まれ、透けていく体でがなりたてる巳六。
消える寸前、彼が最後に見たものは。
「な……なぜ……!」
“透けることなく、青白い光をはじきそこに佇む”、四の不敵で妖しげな笑みだった。
「貴様、まさか……!」
その先を言うことなく、巳六の体はこの世から消えた。
同時に、まばゆい光もやむ。
「……ふう」
袖手して息をつく四の耳に、とん、とん、と不規則な足音が聞こえてきた。
「終わったのね? 四」
「ええ」
パチン、とスイッチの音とともに、店内の明かりがついた。足を引きずりながら歩いてきたパジャマ姿の聖は、四に支えられながら椅子まで移動した。
「驚いたわ。巳六が私の霊力を狙っていたなんて」
病院から「ひじり茶」に帰ってきた後、巳六のいない隙に、四は聖に自分の考えを話した。巳六は実はウツシヨヘグイをしていないこと、聖の霊力を狙った妖である可能性があること、早ければ今晩にでも襲ってくるかもしれないこと。
聖は最初こそ信じがたいという顔をしていたが、わざわざ嘘をつかれたのだ。疑って損はない。
そこで、聖に化けた四がおとりになり、一階で寝たふりをきめていたのだ。
「妖本来の姿しか取れなくなるほどに妖力を吸い取りました。もう当分はこちらには来られません」
「向こうに返すことが出来たってことは、あなたの言う通り本当にウツシヨヘグイをしていなかったのね」
「まあ、ウツシヨヘグイなんて本当に稀な例ですからね」
「へえ?」
聖がふっといたずらっぽい笑みを浮かべた。テーブルに肘をつき、反対の手でくいっと銀狐を指さす。
「その稀な例がよく言うわね?」
人差し指の先、四は金色の瞳を気まずそうに細めた。
「仕方なかったじゃないですか」
陣式現世返しに巻き込まれながらもこの世にとどまった天狐の四。そうさせたのは、四の中に根付いてしまった、ウツシヨヘグイの呪い。
――このお店、つぶれちゃうの。お父さんとお母さんが事故で死んじゃったから。だからあなたが最後のお客さんよ。飲んで。
気まぐれで現世に来た青年の前に、少女の小さな手で差し出された一杯の緑茶。芳しい香りを放つそれは、一口喉を通せば黄泉に帰れなくなることを、四は理解していた。だが、自分の身と彼女の気持ちをはかりにかけた彼は、湯呑を手にした。
「あの時、あなたに一目ぼれしたんですから。父母をなくしながらも客にお茶を出す気丈さに、明るく振る舞う健気さに。護りたいと思ったんです。不便なこの世に縛り付けられることになっても」
遠くを見つめる四は、この店を維持し、聖を護ると決意した日を思い出していた。
聖はなおも意地悪くほほ笑む。
「千年の時を経た狐が小娘の出したお茶一杯で人生を棒に振るなんてね」
「棒に振ってなんかいませんよ。あちらではもう千年過ごしたんです。飽きちゃいました。それならいっそ、好きになった相手とこちらで過ごしたいものです。ね、聖」
四は聖のもとに跪くと、上目遣いに彼女を見つめた。
「これからもこの化け狐を、ここに置いてくれますか?」
あでやかにほほ笑む四に、聖のいたずらっぽい表情が消えた。しかし、次の瞬間には、また勝ち気な笑みを浮かべていて。
「当然よ。なんせあなたは、現世で生きていけるように私が仕立て上げて、名前まであげた妖にして、この店を救ってくれた救世主だもの」
「ありがとうございます」
妖は、嬉しそうに顔をほころばせた。
「ひじり茶」――そこに来る客は、老若男女、時々妖。
商店街の夜は、その日一人の妖が起こした事件などつゆ知らず、いつものようにふけていく。
小春通り商店街の中に佇む一軒の店。古き良き和風の構えを見せる「ひじり茶」は、大繁盛とまでは行かずとも、ちらほら人足が出入りしていた。
「ダージリンティーには年三回の旬があるんです。この旬の時期をクオリティーシーズンと言うのですが、それによって紅茶の味や香りが違ってくるんですよ」
傾斜のある木製の台にずらりと展示された茶葉の缶の中から一つ手にとって、エプロン姿の二十代くらいの青年は言う。
「四月初めの今はファーストフラッシュという春摘みのお茶が旬です。金色に近い色をしていて、ストレートで飲むのがオススメですよ」
よどみなく解説する青年の話を、客の女子高生たちは熱心に聞いて……いなかった。話の内容よりむしろ、色素の淡い髪に端正な色白の顔をした彼そのものに夢中のようだ。
そんないつもの「ひじり茶」の店内に、チリリンとドアベルがなり、一件は始まった。
「いらっしゃいま……おや?」
青年は女子高生の接客の片手間に挨拶をしかけて、ふと動きを止めた。
入ってきたのは、黒い帽子を目深にかぶったうつむき加減の人物だった。服装は簡素だ。
一瞬目を見張った青年だったが、すぐににっこり笑う。
「少々お待ちください、こちらのお客様で最後にいたしますので」
その客に、壁際の椅子に座るよう促し、青年は一旦店の外に出た。そして、表にかけてある小さな「open」の看板を裏返す。
「closed」。
***
午後三時にして閉店した「ひじり茶」内に、人影が三つ。一人はエプロンを脱いだ、シャツにベストという服装の青年。一人は帽子を脱いだ客。そして最後の一人は。
「いらっしゃい。看板を見てきたのね。私が土御門聖。この店の本当の店主よ」
クセのある髪を茶色く染め、ひとふさを高い位置でくくった高校生くらいの少女だ。シャツブラウスにチェックのスカートという制服姿だが、今は四月の第一週目なので学校は春休み。登校していたわけではなく、あくまでも客を迎える服装である。
「表向きは僕が店主ということになっていますが、実のところ僕は働かせていただいている身です。名前は天宮アズマ。漢数字の四と書いてアズマと読みます」
青年は胸に手を当てて言う。
「あなた、『ひじり茶』の下に書かれた文字を見て来店したんでしょう?」
聖の言葉に、客は無言で頷いた。
「ひじり茶」と書かれた看板が妙な余白を持っている理由。それは、常人の目には映らない、この店のもう一つの顔の名が書かれているからだ。
「ようこそ、妖専門案内所へ。何かお困り?」
そう言われ、客はうつむけていた顔を上げ、聖を見た。
黄金の目。白い髪。頬には鱗のような模様が走っている。
「俺は巳六といいます。……この店は、現世に来た妖の困りごとを解決してくれると聞いて……」
「そうよ。迷子から観光案内、その他もろもろ受け付けているわ。ところで、その頬。あなたってこっちでは蛇だったんじゃない?」
巳六は首肯した。
死んだ生き物は、あの世――黄泉へ行く。通常、しばらくそこで過ごした魂は、霊子に分解され、転生するのだが、時折、長く黄泉にとどまり、妖力を得る者もいる。その力が強ければ、現世にやってくることもできるのだ。この世で言う妖ものとは、そうやって現世に一時的にやってきた彼らが人の目に捉えられたものである。
人間の霊が妖力を得たならば、人型の妖。動物の霊ならば、その動物の形をした妖。だが、強い妖力を持つ動物の妖は、往々にして人の形をとる。巳六もその一人だった。
「して、どのようなことでお困りですか?」
「……帰れなくなったんです」
「迷子? 任せて、すぐに霊道を……」
「いえ、霊道を通れなくなったんです」
「……といいますと?」
巳六は一度ためらった後、はっきりと言った。
「ウツシヨヘグイをしたのです」
聖と四は顔を見合わせた。
ウツシヨヘグイ。それは、黄泉の食べ物を食べれば現世に戻れなくなるというヨモツヘグイの逆。現世の物を妖が食べたり飲んだりすると、向こうに帰れなくなるのだ。
「……稀にいるのよね、そういう妖」
聖は嘆息した。
「食べたり飲んだりしたら最後、もう向こうには帰れないわ。そういう場合、この世で過ごすことになるの。ただ、原則として、妖の姿をしていると、見える類の人に驚かれたり、運が悪いと滅されたりするから、人としてやっていくことになるわ。そこで、人として生きる訓練をしてもらって、就職する手伝いをするのが私達の仕事になるのよ。こっちで生きる覚悟はある?」
「はい」
巳六は神妙に頷いた。横では四が職業一覧の本をめくっている。巳六に合う仕事を探しているのだ。
「あの……俺、やりたい仕事があるんです」
「珍しいわね。普通途方にくれるものだけれど、適応が早いというかなんというか」
「生きていた頃、命を助けてくれた人がいるんです」
巳六が生前、ただの白蛇だった頃。一軒の家の敷地内に迷い込んだことがあった。近所の人間に見つかり、殺されそうになったところを、その家に住む一人の老婆が逃がしてくれた。
――お前さんは悪いことしてないのにねぇ。お逃げ、もう来るんじゃないよ。
結局その一週間後に彼は車にひかれ、亡きものとなるのだが、助けてくれたその老婆のことが忘れられずにいるという。
「彼女は一人暮らしのようでした。あの歳で一人は何かと不便だろうと思い、何か身辺の手伝いをできたら、と……」
「ホームヘルパーみたいなものね」
「その方の名前はわかりますか?」
「いや、それは……。家の場所は覚えているのですが」
「なら、決まりね!」
聖は座っていた椅子から立ち上がると、二階へ続く階段へと足を向けた。
「四、準備を。その家に行ってみるわよ」
「わかりました。……ところで、巳六さん。こちらに来られたということは、それなりの妖力をお持ちのはず。もっと人間らしい人間の姿になれますか? その髪の色と肌では目立ちます」
四に言われると、巳六は頷いて目を閉じた。髪は見る見る黒くなり、頬の鱗も消えた。妖の変化にも段階があり、妖の姿、人間の姿、その中間の姿があるのだ。
「ありがとうございます。僕も出かける準備をします。少々お待ちくださいね」
***
着いたのは、石垣に囲まれた瓦屋根の家屋だった。しかし、そこここが傷み、とても人が住んでいるようには見えない。瓦の一部ははがれ、入り口には立ち入り禁止のテープまで施されている。
「……って、これ絶対人住んでないじゃない」
「ですが、ここで間違いないのです」
「巳六、あなたが死んだのって何年前?」
「おそらく、十年はたっているかと」
どうりで……、と聖は伏し目になって額に手をやり、嘆息した。
聖達はもぬけの殻となった家を前に立ちすくんでいた。四が注意深く周囲を観察している。
「佐原宏、サエ……と表札に書かれていますね。この方達が住人……だったのでしょうね」
ここに住んでいたのは老人。それが十年もたち、今は誰も住んでいないとなると、考えられるのは……。
と、その時。
「ちょ、巳六!」
聖が咎めるように声を上げた。巳六は石垣を登り始めたのだ。立ち入り禁止のテープを破ると厄介だからか、壁を越えて中に入ろうとしている。
「ダメだって!あんたはもう蛇じゃないんだから、そんなことしちゃ……」
巳六の服を引っ張った、直後。
「聖!」
「きゃっ!?」
足を滑らせた巳六が落下したのだ。それも聖を下敷きに。
「あ、ごめんなさい……!」
巳六はすぐに立ち上がったが、聖はその場に倒れたままだ。
「……聖?」
「足が……」
立ち上がろうとするも、糸が切れた操り人形のように、それ以上動くことが叶わない。
四がすかさず聖のもとに膝をついた。
「ひねったのですか」
「たぶん……」
「す、すみません、俺のせいで……」
「本当ですよ、自分はもう人間であることをわきまえなさい」
言うと、四はひょいと聖を抱え上げた。
「な、何すっ……!」
「病院行きますよ。さっきここに来るまでに市民病院があったでしょう。巳六、あなたもついて来なさい」
「待って! スカートが! 四、スカート気にして!」
***
お大事に、という声を背に、三人は診察室を後にした。
「折れてなくてよかったわ」
「ですが松葉杖沙汰になったのはいただけません」
「いいじゃない、巳六も反省しているんだから」
彼女の言葉通り、先ほどから巳六はうつむき加減だ。
「ここからはその佐原って人がどうなったのかを探ったほうがいいわね。とはいえ、足で稼ごうにも私はこのざまだし、いったん家に戻って……」
作戦を練り直そうと言葉をつぶやく聖の横を、看護師が通り抜けていった。その先で落ち合った他の看護師と交わした会話を、四は聞き逃さなかった。
「……聖」
「?」
「今、佐原サエさんという名前が聞こえました」
「えっ!?」
続いて、医者と思しき男性が走り抜けていく。
「先生!」
「二〇一号室の佐原様の容体が……!」
彼女らは声高になり、それは聖の耳にも届いた。
「この病院にいたなんて……。四、巳六、いくわよ!」
「待ってください、聖。巳六さんがお手伝いしたかった方は入院されている模様。彼女はもう……巳六さんがお手伝いする必要はないのでは」
それは、施設下にあるからか、あるいは先ほどの看護師の発言に基づき先が長くないことを悟ったからか。
しかし、聖は四に鋭い視線を向けた。
「何言ってんの! 佐原って人の容体が悪化してるのよ! 巳六が『ありがとう』を言うチャンスは今しかないじゃない!」
そう言って、今度は巳六に視線を投じる。
「あんた、この世界で暮らさなきゃならなくなって最初に浮かんだのがそのおばあちゃんなんでしょ? 身辺介護をしたいと思ったら、あっちに帰れない恐怖も薄らぐくらいに、あのおばあちゃんのこと好きになったんでしょ!? その人がもう危ない状態になってるんだから、急がなきゃ! ありがとうって伝えなきゃ!」
聖の迫力にたじろぐ巳六。走り出さない彼の姿に、聖は瞳に影を落としてにらむ。
「……それとも何、やりたかった仕事がなくなるってわかった瞬間帰れなくなったのが怖くなった? 自分に気持ちが向いた?」
「……いや、そうでは」
「じゃあお礼くらい言いなさい! 何つっ立ってんのよ、あんたの気持ちってそれくらいだったの!?」
「……っ」
喝を受けた巳六は、次の瞬間床を蹴っていた。看護師たちが向かった先へ。
「聖、僕達も」
「ええ……って、だから抱き上げるときはスカート気にしてって!」
***
聖を抱えた四が病室に着いた時、複数の看護師と医者がベッドを囲んで佇んでいた。その中に巳六もいた。
「あなたもご親族の方ですか?」
「え? いや……」
「ええ、そうです。サエおばあさんの容体は……」
四は聖に目配せして言った。先に入っていた巳六がそう虚言したのだろう。
「手は施していますが……もう……。施設暮らしで、旦那さんもお子さんもいないようだったので、せめてあなた方が来てくださって良かったです」
医師が不幸中のごくごくわずかな幸い、といった面持ちで言った時、小さくしゃがれた声がした。
「先生!」
「意識が戻ったのか!?」
医療従事者たちが動き出す中、巳六はじっと立っていた。
「……不思議なもんだねぇ」
今にも事切れそうなのに、不思議とよく聞こえる声で、老婆は言った。
「夫に先立たれ、子供にも恵まれなかった私を看取ってくれるのが、あの時の蛇さんだなんて。私ゃ幻でも見てるんかねぇ」
周りの医師たちは今際の際の患者の言葉だと流しているだろう。同様に、巳六の「幻じゃない、あの時の俺です」という言葉も、虚無な返歌にしか聞こえなかったに違いなかった。
おや、と声を漏らす老婆に、巳六は続ける。
「あの時逃がしてくれてありがとう、おばあさん」
「まあ、嬉しいねぇ。長生きして欲しいねぇ……」
姿を変えて想いを伝えに来た白蛇。彼の気持ちを間違いなく受け取った直後、彼女は静かに息を引き取った。
「ギリギリセーフ……でしたね」
聖にだけ聞こえる声でつぶやいた四。
「……果たしてセーフだったのかしら」
聖も、四にしか聞こえないよう囁く。
「一度別れたはずの二人が今再会し、想いを伝えてしまった。これはまた新たな想いを生んだんじゃないかしら。それも、負の想いを。そもそも、最初からアウトだったのよ。ウツシヨヘグイさえしなければ、亡くなった佐原さんとあの世でまた会えた。そこで想いを伝えることもできた。それならその後も語らうことが叶ったのに」
この世に帰らぬ人となった老婆。黄泉に帰れぬものとなった巳六。すれ違いの瞬間に刹那触れ合うことは、果たして幸せなのか。
「よかったんです、これで」
けれど、四はまっすぐな目で言う。
「だって彼女は言いましたから。『長生きして欲しい』って。黄泉で会ったら、落胆してしまいますよ」
その後、三人は病院を後にして、今後のことを話し合った。巳六は老人ホームへの就職を目指すことになり、聖と四はその手伝いをすることになり、今夜はひとまず巳六は無人の佐原宅で蛇姿で過ごすことになり。
妖専門案内所としての「ひじり茶」は本日の閉店を迎えた。
***
満月が照らす、夜の帳の降りた商店街。どこもシャッターが下りている。
その日は無風で、そのために無音で、だから壁を伝い上るシュルシュルという音が際立った。窓は、開いている。
茶葉の並ぶ、明かりの消えた店内。その丸テーブルに、一人の少女が突っ伏して眠っていた。黄金の瞳が嬉しそうに細められる。
闖入者は何の障壁に阻まれることもなくテーブルの下まで来ると、ニーハイソックスに包まれた細い足を見て、舌なめずりをした。自分自身を焦らすようにゆっくりと近づく。
あと三センチ。高鳴る鼓動。
あと二センチ。爛々たる瞳。
あと一センチ。牙をむき。
その足に突き立て……。
「ギリギリアウトです」
低い男の声がした。ハッと見上げると、しどけなくテーブルに身を預けて突っ伏していた聖が彼を見ていた。
「残念でした、巳六さん。僕です」
彼女は――いや、彼はそう言うと、煙と共に姿を変えた。白蛇は瞠目した。目の前に立っていたのは、昼間と違う装いの四だった。
白と浅葱色を基調とした狩衣。宵闇に映える銀髪。そこから飛び出ているのは、同じ銀色の三角耳――。
「化かすのは僕の十八番ですよ」
「……妖狐」
目の前のものを的確に言い得た巳六は、白髪に鱗頰の青年姿に変化した。
「巳六さん、あなたの狙いは最初から聖だったんでしょう。聖は不器用すぎて術こそ使えないものの、正当な血筋を引く強大な霊力の持ち主ですから。その霊力を飲み干せば、妖にとっては妖力としてその力が手に入る。霊力は食べ物飲み物ではありませんから、ウツシヨヘグイにも当たりませんしね」
「……」
「佐原さんの件は、確かに真実だったのでしょう。けれど、それは聖に近づく口実に過ぎなかった。聖にけがを負わせたのも彼女を弱らせるためにわざとやったのでしょう。あの『ありがとう』だって、本心から言った言葉かどうか定かではありませんね」
「……まさかお前も妖だったとはな」
巳六の気配が変わった。人畜無害なそれから、粗野で殺気立ったそれに。
「いつから気づいてた」
「ウツシヨヘグイをしたと言った時、それが嘘であることを見抜いてから怪しいとは思っていました。僕の千里眼の前ではどんな隠し事も出来ません」
ほぼ最初からではないか、と巳六は顔をしかめた。四の腰から伸びる四本の尾。千里眼と神通力を持つ天狐の証だ。
「あなたはウツシヨヘグイなどしていません。嘘をついたのは、この店の特性を知っていて、聖の懐に入るためだったんですね。霊力は生命力。聖の霊力を飲み干したりなどすれば、聖の命にかかわる。そんなの、この僕が許すと思います?」
揺れる四つの尾が光を帯びる。
この男は、危険だ。
それを察した巳六が退こうとするより早く、四が肉薄した。白い手を巳六の胸に押し付ける。
「術式・略奪!」
四の低い言霊。刹那、巳六の体から見えない力が引きずり出された。
「何をっ……!」
「妖力を吸い取らせていただきました。もうこちらに来ることのないよう」
たちまち妖力を失っていく巳六。ついに人の形をとっていられなくなり、四肢は消え、体は縮み、床を這う一匹の蛇の姿となった。
狐ににらまれた蛇は、しかしチロリと舌を出して。
「フン、戯言を。大方、再度俺に触れて現世返しの術を使う気だろうが、この姿ならそう簡単に捕まらないさ。今日のところは逃げて、機をうかがってあの子娘の血をもらい、黄泉へ帰る。残念だったな、天狐」
シュルシュル、と入ってきた窓の方へと向かった。
四は追うこともせず、ただ一言、つぶやいた。
「いえ、すでに術中ですよ。文字通り」
直後、店内の床という床が青白く光を放った。壁を上りかけていた巳六は驚愕に目を見開いた。
「なんだ、これは……!」
「初めから店内に陣を張らせていただきました。この一階にいる限り妖は悉く黄泉へ帰っていただくための術をね。仲間がいることも想定してこうさせていただきましたが、なるほど、別の意味で役に立ちました。これなら捕まえにくいあなたも逃がさずに済む」
術式の中に入っている巳六と四の体が青白い光に包まれる。
「術式・陣式現世返し」
言霊に呼応して、光が強さを増す。巳六は顔を醜く引きつらせながら叫んだ。
「自分もろとも黄泉に戻すつもりか! いいだろう、帰ったら直後その首にかみついて妖力を吸い取ってやる。俺は再度力を取り戻し、お前は二度と現世へ来られない体になるのだ!」
光に包まれ、透けていく体でがなりたてる巳六。
消える寸前、彼が最後に見たものは。
「な……なぜ……!」
“透けることなく、青白い光をはじきそこに佇む”、四の不敵で妖しげな笑みだった。
「貴様、まさか……!」
その先を言うことなく、巳六の体はこの世から消えた。
同時に、まばゆい光もやむ。
「……ふう」
袖手して息をつく四の耳に、とん、とん、と不規則な足音が聞こえてきた。
「終わったのね? 四」
「ええ」
パチン、とスイッチの音とともに、店内の明かりがついた。足を引きずりながら歩いてきたパジャマ姿の聖は、四に支えられながら椅子まで移動した。
「驚いたわ。巳六が私の霊力を狙っていたなんて」
病院から「ひじり茶」に帰ってきた後、巳六のいない隙に、四は聖に自分の考えを話した。巳六は実はウツシヨヘグイをしていないこと、聖の霊力を狙った妖である可能性があること、早ければ今晩にでも襲ってくるかもしれないこと。
聖は最初こそ信じがたいという顔をしていたが、わざわざ嘘をつかれたのだ。疑って損はない。
そこで、聖に化けた四がおとりになり、一階で寝たふりをきめていたのだ。
「妖本来の姿しか取れなくなるほどに妖力を吸い取りました。もう当分はこちらには来られません」
「向こうに返すことが出来たってことは、あなたの言う通り本当にウツシヨヘグイをしていなかったのね」
「まあ、ウツシヨヘグイなんて本当に稀な例ですからね」
「へえ?」
聖がふっといたずらっぽい笑みを浮かべた。テーブルに肘をつき、反対の手でくいっと銀狐を指さす。
「その稀な例がよく言うわね?」
人差し指の先、四は金色の瞳を気まずそうに細めた。
「仕方なかったじゃないですか」
陣式現世返しに巻き込まれながらもこの世にとどまった天狐の四。そうさせたのは、四の中に根付いてしまった、ウツシヨヘグイの呪い。
――このお店、つぶれちゃうの。お父さんとお母さんが事故で死んじゃったから。だからあなたが最後のお客さんよ。飲んで。
気まぐれで現世に来た青年の前に、少女の小さな手で差し出された一杯の緑茶。芳しい香りを放つそれは、一口喉を通せば黄泉に帰れなくなることを、四は理解していた。だが、自分の身と彼女の気持ちをはかりにかけた彼は、湯呑を手にした。
「あの時、あなたに一目ぼれしたんですから。父母をなくしながらも客にお茶を出す気丈さに、明るく振る舞う健気さに。護りたいと思ったんです。不便なこの世に縛り付けられることになっても」
遠くを見つめる四は、この店を維持し、聖を護ると決意した日を思い出していた。
聖はなおも意地悪くほほ笑む。
「千年の時を経た狐が小娘の出したお茶一杯で人生を棒に振るなんてね」
「棒に振ってなんかいませんよ。あちらではもう千年過ごしたんです。飽きちゃいました。それならいっそ、好きになった相手とこちらで過ごしたいものです。ね、聖」
四は聖のもとに跪くと、上目遣いに彼女を見つめた。
「これからもこの化け狐を、ここに置いてくれますか?」
あでやかにほほ笑む四に、聖のいたずらっぽい表情が消えた。しかし、次の瞬間には、また勝ち気な笑みを浮かべていて。
「当然よ。なんせあなたは、現世で生きていけるように私が仕立て上げて、名前まであげた妖にして、この店を救ってくれた救世主だもの」
「ありがとうございます」
妖は、嬉しそうに顔をほころばせた。
「ひじり茶」――そこに来る客は、老若男女、時々妖。
商店街の夜は、その日一人の妖が起こした事件などつゆ知らず、いつものようにふけていく。
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