フィライン・エデン Ⅲ

夜市彼乃

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12.文武抗争編

60ヒメゴト ③

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***

「……で、なぜここに来る」
 書架の整理をしていた青年が、渋面で振り返って言った。相変わらず絶妙な塩梅の呆れ・鬱陶しさブレンドの視線の先で、パイプ椅子に座ってテーブルに突っ伏しながら、せつなは気だるげに答える。
「コーパイのところなんて、誰も訪ねてこないでしょ。一人になるにはうってつけなの」
「一人か。私は頭数に入っていないのか」
 度し難い、とかぶりを振って、書架の整理を続ける紅焔。新たに増えた書籍を限られたスペースに詰め込むべく、あっちの本を抜き、こっちの本を差しと大移動を繰り広げている。それぞれ厚さの違う書籍を、どのような組み合わせで各列に収めるかを工夫するだけで、新たに一冊分のスペースができるのだ。
 手を動かしながらも、視線はくれないものの、せつなに言葉をよこす。
「私が断った例の作戦はどうなった」
「ああ、あれね」
 せつなは体を起こし、頬杖をついて苦笑いした。紅焔がいる方向と浜反対の壁に向かって答える。
「失敗したわ。惨敗よ」
「……ということは、希兵隊は断固否認したのか。それとも、学院の早とちりだったか?」
「否認も早とちりもないわ。元々希兵隊は無実だったもの」
「……なに?」
「全部、希兵隊と学院が衝突するよう、私が仕組んだ茶番だったの」
 がん、とハードカバーが本棚の仕切りに頭突きした。
 手元を狂わせた紅焔は、めったにお目にかかれない驚愕の表情でせつなを凝視していた。
「どういうことだ……!?」
「ああ、お説教ならやめてよね。さっきお偉い方々に三方向から射すくめられたところなんだから」
 心底食傷気味な顔で、払いのけるように手を動かす。表情豊かな彼女ではあるが、不快感をあらわにするのは比較的珍しい。
 彼女が誰に紛糾されたのか、紅焔はすぐに理解した。想像したくもない、と思った。
 茶番、という割には、いつものいたずらがバレた時の表情とは違う。何か、彼女なりの志があったのかもしれない。そう思ったから、紅焔は何も言わなかった。希兵隊と学院をぶつけて成し遂げられる志など、見当もつかないが。
 だが、現に、せつなは叶わなかった目的をこう表現した。
「全部、私の身勝手な野望だったんだ。うららも、シルクも、ミストもそれに巻き込まれただけ。……ううん、巻き込まれたんじゃなくて、利用された、んだよね、私に」
 紅焔から顔を背けて、せつなは変わらず頬杖を突いたまま、乾いた声で笑った。空回る車輪のような、そんな響きだった。
 紅焔からの返事はなかった。せつなも黙って、テーブルの角を見つめ続けていた。
 しばらくして、移動する足音と、容器に液体を注ぐ音が、後ろから聞こえた。やがて、視界の端に、すっと滑り込んでくるものがあった。
 テーブルの上に、紙コップが置かれていた。中からは、ふわりとアールグレイの香りが立っていた。
 ほどほどに冷えたそれをそっと手で包み、水面を見つめる。濃い水色と、水面の揺らめきで、映っているはずの自分の顔はよく見えない。
 どんな顔をしているか、分からない。
「……謝らなきゃ、だよね」
 ぎこちない声で、彼女は言った。
「……ちゃんと訳を話して、謝らなきゃ。……でも、許してもらえるかどうだか。私は、あの子達に嘘をついたんだから。信用を裏切ったんだから」
 斜め後ろに立つ紅焔は、やはり答えない。せつなは紅焔に背を向けながら、声の震えを押し殺し、精一杯の平常通りを装って言った。
「ねぇ、コーパイ。友達に裏切られるって、どんな気持ちだろう。どう感じて、どう考えて、これからどうなるんだろう」
 裏切り。
 せつながミストやコウに向けた言葉だが、本当の裏切り者はせつな自身だ。なにせ、ミストや麗楽、シルクを最初からだましていたのは、彼女なのだから。友情に比例して積みあげられた信頼を、無残にひっくり返したのは、せつなだ。
 宙に放たれて消えたのは、問いのようで、独り言。
 先輩に宛てたようで自分の中に渦巻く泣き言。
 なぜなら、相手は墨ヶ原紅焔だから。同じ研究者であるせつなに輪をかけて理詰めの精神をもった、主観をそぎ落として研がれた論理の刃だから。
 だから、感情などという対極に位置するものは、彼には地平線の向こう側に見えない。
 少なくとも、せつなは彼をそう評していた。
 だから。
「……ショックだよ」
 その一言が、問いに対する答えなのだと理解するのに、少しの間があった。
 言葉を忘れて目を見開くせつなと視線を合わせないまま、紅焔は続ける。
「ショックなんだ。ショックのあまり、頭が滅茶苦茶に沸騰したみたいになって、何もかもを壊したくなる。目に映るもの、声をかけてくれるひと、何もかもに当たり散らすんだ。友に裏切られたというその事実が現実だなど信じられなくて、まるで悪い夢の中にいるんじゃないかとばかり思えて……どう考えても自分は昨日の続きの現実に立っているんだと悟った時には、世界の何もかもを呪う。呪って、恨んで、そいつのことさえも憎みたくなって……それでも、本当の友達なら、どうしても嫌いきれなくて、心のどこかではまた共に歩みたいと、そう思うんだ」
 体ごと振り向いて、せつなは紅焔を見つめた。けれど、今度は彼が斜を向いていて、相変わらず視線は合わないままだった。
 せつなは、胸の痛みも忘れて驚いていた。あの寡黙で簡潔な発言しかしない紅焔が、こんな個人的で感情的な問いに答えるとは思っていなかったのだ。それも、学者・墨ヶ原紅焔の硬く冷たい理詰めではなく、まるでコーエンという一人の男の中からわき出したような、叙情的で人間臭い言葉で。
 いつもならすげなく一蹴するはずの彼は、なぜ答えてくれたのだろう。
 なぜ、彼の言葉はこんなにも真に迫っているのだろう。
 なぜ、まくしたてるような口調の端っこは、微弱に震えていたのだろう。
 そして、脈絡もなく、ふとせつなは思った。
 ――なぜ、このひとは、猫力学者を辞めたのだろう。
「だからな」
 あふれかけた何かを飲み込むような間の後、紅焔はわずかに、わずかに切なげな微笑を浮かべて、振り向いた。
「和解できるうちは、和解しておけ。お前にはまだそのチャンスがあるだろう」
「コーパイ……」
「……もっとも、和解が必要なほど深刻な状況だったら、の話だが」
 え? とせつなの表情と思考が固まる。
 紅焔は普段通りのすました顔に戻ると、頭の動きで、部屋の手前と奥とを仕切るホワイトボードの向こうを示した。
 ――ホワイトボードの影から、笑顔が三つのぞいた。
「みっ……ミスト!? シルクと麗楽も……!?」
「やほー」
「どういうこと!? え、いたの!?」
「一人になりたいとき、ユキナならここに来るだろうなーと思って」
 紅焔がやれやれと額に手を当てるのをよそに、三人はわっとホワイトボードの向こうから飛び出し、せつなを囲んだ。
 さしもの利発な彼女も、まだついていけていない様子で、黒い目をしばたたかせている。
「事情は学院長から聞いたよ。別に怒ったりしてない。悪意があったわけでもなし」
「村のおきてと妹の両方を守ろうとして奮闘していたんですってね。大変だったでしょう。頑張りましたね、せつなちゃん!」
「シルク……麗楽……」
 瞳を揺らし、何か言いかけたせつなは、一度それを飲み込むと、つま先に視線を落として、代わりの言葉を差し出した。
「……でも、私は……あなたたちを利用した。だました。……友達として、やってはいけないことをした」
 声にしてみるとわかる。その業は、底なしの穴のように深く、落ちたが最後、二度と戻れない。自分で掘って、自ら中に身を投げた、悪因悪果の奈落だ。
 だが、シルクの素朴な声は、物理法則を無視してその穴をよそへ蹴飛ばした。
「じゃあ、どうすりゃよかったのって話じゃん」
 麗楽も、どこかへ転がっていく業の穴をさらっと見送って、笑顔で頷く。
「もちろん、完全に歓迎されることではないかもしれません。でも、ありのままを相談できる状況でなかったのはわかっています。せつなちゃんの身勝手でもありませんし、責めようがないんですよ」
「それに、あれじゃん? 本当に悪いことだったら、クロになるはずじゃん」
 希薄な表情のシルクと、朗らかな笑顔の麗楽。どちらもいつも通りの、友人に向ける顔だ。
 二人を何度も、何度も交互に見た後、せつなはゆっくりと最後の一人に目を向けた。
「そういうわけだから」
 待ってましたとばかりの人懐っこい笑みを浮かべて、ミストは両腕を広げる。
「一人になりたいなんて思わないで。ユキナはみんなを巻き込んでみんなに囲まれる、そんなあなたでいいんだよ」
 せつなが細く息を吸い込む。その両目から、大粒の涙があふれた。
 言葉を紡ごうとする。けれど、熱いものが胸いっぱいに膨れ上がりすぎて、言葉を生み出す回路は熱暴走で動かず、喉は押しつぶされて声も出せない。
 だから、思考も言語も放棄して、体の動くままに任せた。相棒に飛びつき、その体を抱きしめる。迎え入れたミストも、笑って抱きしめ返す。その腕に支えられ、ようやく、喉がたった一言を絞り出した。
「……ありが、とう……っ」
「いいえ、どういたしまして」
 幼い子をあやすように、ミストはその頭をぽふぽふと撫でた。シルクは隣で一件落着とばかりに胸を張り、麗楽は反対側で小さく拍手をしている。
 ただ一人、この部屋の主だけが、話が見えずに困惑していた。
「村のおきて? 妹? 何のことだ? ……おい、お前たちは全容を分かっていたのか?」
「……おっと、これ以上は禁則」
 せつなはミストに抱き着いたまま、涙をぬぐっていたずらっぽい目を紅焔に向けた。
「ガールズトークは男子禁制。よそでやりましょ、みんな」
 そう言ってミストの腕を抱えて部屋の外へ連れ出すせつな。間際に「失礼しましたー」といい置いていくミスト。何も言わずに無表情のまま出ていくシルク。お騒がせしました、と丁寧にお辞儀して退室する麗楽。
 ぱたん、と扉が閉まれば、嵐が過ぎ去った後の静寂と、ぽつんとたたずむ紅焔だけが残された。
「……なんだったのやら」
 呆れたような顔をしていた彼だったが、肩をすくめると、せつなが残していった紅茶のコップを下げた。その水面には、淡い淡い笑みが浮かんでいた。届かぬ光を見つめるような、羨望と諦念を含んだ微笑だった。
 彼の背中を、キャビネットの上の写真だけが見つめていた。
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