フィライン・エデン Ⅲ

夜市彼乃

文字の大きさ
上 下
49 / 58
12.文武抗争編

59文武抗争 ⑧

しおりを挟む
***

 なぜ、あれが炎だなどと思ったのだろう。
 ルビンの壺なる図形が、向かい合った人の顔だと言われてしまえばそれにしか見えなくなるように、あの赫焉と立ち上るものが、今は(それを演じる別のもの)にしか見えない。
 遠目にしか見ていなかったからなど、言い訳にもならない。自分の特殊体質なら、源子の振る舞いの違いで見抜けたはずなのに。それも、の猫術なら、なおさら。
 土を蹴り上げ、木々の間をぬって走る。のもとへ、全身全霊の力で。
「はぁ……げほっ、はぁ……っ!」
 氷術の使用に次ぐ全速力での疾走で、体は限界目前だった。息が上がり、発作とまではいかないものの、胃のあたりがズキズキとうずく。
 それでも、時折木の幹に手をつきながら前に進んだ。目指していた火先は、走っているうちに徐々に小さくなり、すでに木々の向こうに沈んで見えない。今や、それが見えていた方向へ、鋭敏に感じ取る気配を頼りに向かっているだけだ。
 肌に感じる気配の明確さがピークに達したとき――。
「!!」
 最も恐れていた事態が、予想と異なる形で現実のものとなっていた。
 霊那、撫恋、波音。雷奈、氷架璃、芽華実。アワとフー、そして麗楽とシルク。希兵隊、人間、二家の正統後継者、学院――今宵、この森に集う全ての立場の者たちが、一堂に会していた。
 その中心にいるのは、もう大きめのキャンプファイヤー程度の勢いとなった炎をまとう小さな影。炎の揺らめきで様子はよく見えないが、うずくまっているのか立ちすくんでいるのか、動こうとしない。
「この期に及んで大した攻撃をしてこないとは」
 白髪の少女、撫恋が怪訝そうに眉をひそめて言う。波音も刀を構えながら大きく頷いた。
「あたしの水術が効かない、しかも熱くない炎なんて、最後まで不気味だったけど……でも、もうすぐ終わりだね!」
「一気にかたをつけよう」
 霊那が刀印を結んだ腕を伸ばした。
「天、万の席、穣の敷、たくみを乞う五色ごしきの糸」
 その指先に、銀色の星の輝きが集まっていく。
 せつなの足が、残された力を振り絞って地を蹴った。いくら苦しくても、倒れ込みそうでも、今走らなければ、死んでもいいほど後悔する。
 猫力学者は知っている。
 猫術の歴史を。もともとは、全て生活のための術《すべ》だったこと。炎術は暖をとるために。水術は濯《すす》ぐために。雷術は動力のために。それがやがて、発展の過程で、クロやダークに対抗するための攻撃手法としての側面を際立たせていったこと。すなわち、新しい猫術ほど、殺傷用に開発されたものだということ。
 猫力学者は知っている。
 「天、万の席、穣の敷」から始まる詠唱は、星術・銀漢のものであること。星術の中ではそう新しいものではないが、そもそも星術自体が他の猫種よりも歴史が浅いこと。
 だから、天河雪那は知っている。
 今に放たれようとしている星々の群れは、目の前のを殺そうとしていること。
「やめて!」
 命を吐き出すような叫びとともに、せつなは一同の眼前に躍り出た。
 誰も彼もが驚きに目を見開く中で、炎をまとう猫の影と、術の発動間近の霊那の前に割り込む。
「お願い、その子を――」
 炎の中に飛び込むようにして、をかばう。やけどを負わせることのない、熱量すらもたない幻の炎の中で、命を懸けて懇願する。
「――を殺さないで!」
 主の制止は一瞬遅く、銀漢は放たれた。目を見開いて硬直する霊那を振り返ることもなく、天の川はさながら雨上がりの激流のようにせつなに襲い掛かった。
「――――ッ!」
 迸る無量大数の星屑たちが、相棒を抱きしめてうずくまったせつなの脇腹を容赦なく打った。勢いよく放たれた水の噴射を受けているかのように見えて、川の流れの姿をなす大量の星粒の一つ一つが威力をもつ。絶え間ない激痛に声にならない悲鳴を上げ、座り込んだまま悶え、それでも腕に抱えたものを離さず耐え抜いたせつなは、銀河の去りし跡地に、どさりと倒れ込んだ。無限回の打擲を浴びて、衣服の脇腹のあたりは擦り切れて血がにじんでいた。
 横向きに倒れたまま、息も絶え絶えに、腕をほどく。いつの間にか炎は影も形もなく、薄いジンジャーの猫だけが隣に横たわった。彼女もまた、体中を傷だらけにして、薄く開いたエメラルドの瞳でせつなを見つめていた。
「……ユキナ、どうして」
 弱弱しい声を、すぐそばの相棒にかろうじて届ける。
「あとは私が霧になって消えていく演出さえすれば……全部うまくいくはずだったのに」
「それで、傷ついた親友を置き去りにして、飛壇へ帰れっていうの?」
 せつなも、ビターエンドに力を失ったまま、かすれた声で返す。
 ミストは否定も肯定もせず、ただ諦念だけを表情にたたえて、せつなを見つめる。そんな彼女を、せつなは非難できるはずがない。
「……ごめんなさい」
 ルビーの瞳からあふれた涙が、地面にしみこんでいく。それすら、本来は許されるはずがない。
「ごめんなさい……ごめんなさい……っ」
 薄れゆく意識の中、慌ただしく駆け寄ってきた希兵隊に応急処置を施され、人間たちに必死に呼びかけられる、その資格もない。
 だって、そうだ。
 当然だろう。
 この戦争を画策した全ての元凶は――まぎれもなく、天河せつななのだから。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

王が気づいたのはあれから十年後

基本二度寝
恋愛
王太子は妃の肩を抱き、反対の手には息子の手を握る。 妃はまだ小さい娘を抱えて、夫に寄り添っていた。 仲睦まじいその王族家族の姿は、国民にも評判がよかった。 側室を取ることもなく、子に恵まれた王家。 王太子は妃を優しく見つめ、妃も王太子を愛しく見つめ返す。 王太子は今日、父から王の座を譲り受けた。 新たな国王の誕生だった。

【完結】父が再婚。義母には連れ子がいて一つ下の妹になるそうですが……ちょうだい癖のある義妹に寮生活は無理なのでは?

つくも茄子
ファンタジー
父が再婚をしました。お相手は男爵夫人。 平民の我が家でいいのですか? 疑問に思うものの、よくよく聞けば、相手も再婚で、娘が一人いるとのこと。 義妹はそれは美しい少女でした。義母に似たのでしょう。父も実娘をそっちのけで義妹にメロメロです。ですが、この新しい義妹には悪癖があるようで、人の物を欲しがるのです。「お義姉様、ちょうだい!」が口癖。あまりに煩いので快く渡しています。何故かって?もうすぐ、学園での寮生活に入るからです。少しの間だけ我慢すれば済むこと。 学園では煩い家族がいない分、のびのびと過ごせていたのですが、義妹が入学してきました。 必ずしも入学しなければならない、というわけではありません。 勉強嫌いの義妹。 この学園は成績順だということを知らないのでは?思った通り、最下位クラスにいってしまった義妹。 両親に駄々をこねているようです。 私のところにも手紙を送ってくるのですから、相当です。 しかも、寮やクラスで揉め事を起こしては顰蹙を買っています。入学早々に学園中の女子を敵にまわしたのです!やりたい放題の義妹に、とうとう、ある処置を施され・・・。 なろう、カクヨム、にも公開中。

私はいけにえ

七辻ゆゆ
ファンタジー
「ねえ姉さん、どうせ生贄になって死ぬのに、どうしてご飯なんて食べるの? そんな良いものを食べたってどうせ無駄じゃない。ねえ、どうして食べてるの?」  ねっとりと息苦しくなるような声で妹が言う。  私はそうして、一緒に泣いてくれた妹がもう存在しないことを知ったのだ。 ****リハビリに書いたのですがダークすぎる感じになってしまって、暗いのが好きな方いらっしゃったらどうぞ。

〖完結〗その子は私の子ではありません。どうぞ、平民の愛人とお幸せに。

藍川みいな
恋愛
愛する人と結婚した…はずだった…… 結婚式を終えて帰る途中、見知らぬ男達に襲われた。 ジュラン様を庇い、顔に傷痕が残ってしまった私を、彼は醜いと言い放った。それだけではなく、彼の子を身篭った愛人を連れて来て、彼女が産む子を私達の子として育てると言い出した。 愛していた彼の本性を知った私は、復讐する決意をする。決してあなたの思い通りになんてさせない。 *設定ゆるゆるの、架空の世界のお話です。 *全16話で完結になります。 *番外編、追加しました。

婚約者に消えろと言われたので湖に飛び込んだら、気づけば三年が経っていました。

束原ミヤコ
恋愛
公爵令嬢シャロンは、王太子オリバーの婚約者に選ばれてから、厳しい王妃教育に耐えていた。 だが、十六歳になり貴族学園に入学すると、オリバーはすでに子爵令嬢エミリアと浮気をしていた。 そしてある冬のこと。オリバーに「私の為に消えろ」というような意味のことを告げられる。 全てを諦めたシャロンは、精霊の湖と呼ばれている学園の裏庭にある湖に飛び込んだ。 気づくと、見知らぬ場所に寝かされていた。 そこにはかつて、病弱で体の小さかった辺境伯家の息子アダムがいた。 すっかり立派になったアダムは「あれから三年、君は目覚めなかった」と言った――。

王子を身籠りました

青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。 王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。 再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。

愚かな父にサヨナラと《完結》

アーエル
ファンタジー
「フラン。お前の方が年上なのだから、妹のために我慢しなさい」 父の言葉は最後の一線を越えてしまった。 その言葉が、続く悲劇を招く結果となったけど・・・ 悲劇の本当の始まりはもっと昔から。 言えることはただひとつ 私の幸せに貴方はいりません ✈他社にも同時公開

強制力がなくなった世界に残されたものは

りりん
ファンタジー
一人の令嬢が処刑によってこの世を去った 令嬢を虐げていた者達、処刑に狂喜乱舞した者達、そして最愛の娘であったはずの令嬢を冷たく切り捨てた家族達 世界の強制力が解けたその瞬間、その世界はどうなるのか その世界を狂わせたものは

処理中です...