フィライン・エデン Ⅲ

夜市彼乃

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12.文武抗争編

56ミッション・インパルシヴ ②

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***

 教授陣の研究室は、研究室棟の中央から突き出た例外的な五階部分にある学院長の部屋を除けば、全て四階にある。
 階段を上がり、廊下を挟んだ向こう側、中央寄りのやや左に位置するのが、彼女らの師の領地だ。
 ノック三回、そのままバンと扉を開くせつな。
「失礼しまーす!」
「返事を待たんか、無礼者」
 遅刻した上にほぼ無断で入ってきた教え子に返す声は渋いものだった。
 せつなとミストの部屋より少しだけ広い空間には、ドアから見て手前側と奥とを仕切るように、可動式ホワイトボードが置かれている。その向こうには、床にめり込むのではないかと思うほどの大量の書籍を抱えた本棚が三つ、それらに囲まれるように重厚なデスク。レイアウトとしては二人と同様なのだが、貫禄が違う。
 何せ、本棚に詰められている書籍は彼女らの比ではない数で、もはや踏み台がないと届かない天板の上にまで平積みでいくつか置いてある。机とて、せつなやミストが使っているのは、人間界ではぴっかぴかの一年生に贈られるような勉強机であるのに対し、中央奥にどんと鎮座するのは格段に高級感のある、なめらかな木目調のアンティークデスクだ。ついでに言うと、そこにちょんと鎮座する主も貫禄たっぷりである。
 人間界でいう茶トラのような、額に模様が入った毛並み。目の上の洞毛はぴーんと伸びており、耳からのぞくイヤータフトも立派だ。革張りの椅子の上に二本足で立ち、机の天板の上に手をついて弟子たちを迎える彼こそ、猫力学研究科の三名の教授陣の中で最も厳しいと噂される幸村教授である。
 不敬なせつなを、相棒がたしなめる。
「そうだよ、ユキナ。いい加減にしないと雷落ちるよ」
「物理的にね」
 こたえた様子のないせつなは、断りなくテーブル席についてパソコンを開き出した。彼女に見えない角度で、幸村の毛並みが放電に伴ってふわあっと逆立つ。それを見たミストは戦慄して無言で慌てふためいたが、せつなと違って礼儀正しいミストに怒っても仕方ないので、幸村は毛並みを元に戻して椅子から飛び降りた。
「では、ミーティングを始めよう。その前に」
 てちてちと歩き出した幸村と同様に、胸を撫で下ろしたミストもテーブル席に向かう。
「せつな君、体はもういいのかね」
「はい、おかげさまで!」
「そうか」
 ぴょん、とパイプ椅子に飛び乗った幸村は、もう一段階跳んでテーブルの天板に上がった。
 そして、長い洞毛の下から老成した瞳でせつなをを見据える。
「希兵隊と共闘して人間界を守ったことは称賛する。しかし、君は戦闘員ではない。生存確率は低い。ただでさえ源子侵襲症ゆえ、私も配慮しているのに」
 幸村の声色のごくわずかな変化に、せつなはパソコンから顔を上げて手を膝に下ろした。さしものせつなも聡明な少女だ。ふざけていい時とそうでない時の噛み分けくらいできる。
「私も源子の玄人だ。ゆえに源子侵襲症についても他分野の者より理解がある。指導者である限り、君を死なせるようなことはさせん。だからこそ」
 師弟の双眸が、太く強固な視線を結ぶ。
「もし私の指導下以外で死んでみろ、即刻破門だ。ゆめゆめ忘れるな」
「恐縮です」
 せつなは短く答えて一礼した。その口元には、隠しきれない嬉しさがにじみでている。
 これが、厳しいだのおっかないだのとささやかれる鬼教官の素性だ。疑うべくもない、いい師匠である。
 全員テーブル席に着き、準備を整えると、幸村は進捗報告を促した。ここで求められる報告とは、研究室ぐるみでおこなっているプロジェクト研究と、せつなとミストそれぞれの個人研究の進度だ。
 せつなとミストがタッグでおこなっているのは前者で、よって報告事項も共通だ。今日はミストの口から語られることになった。
「まずプロ研のほうですが、仮説1が立証されたので、仮説2の検討に移りたいと思っていますが、先にメカニズム解明をするという手もあります。スケジュール通りに捗っていますし」
「君はどちらがいいと考える?」
「ユキナの同意も得ていますが、メカニズム解明を先にしようかと。その方が、仮説2の検証方法のブラッシュアップにもつながりますし、仮説2、仮説3の検証とまとめて出すより、早めに発表できるものになると思います」
「今後のスケジュールに響かない範囲ならば、私もそう思う」
 幸村の首肯を得られれば、あとは次に進むだけだ。議題はミストの個人研究になった。
「猫術へのホーミング付与ですが、どうにもうまくいってなくて……。指向性を極めるところまでは完成しているのですが、途中でベクトルを変えるのに最適なアプローチが見つからず、停滞中です」
「ふむ。今後の方針は?」
「まだ試していないルートがあるので、そっちを試していく予定です」
「よろしい。袋小路になったらまた言いなさい」
「あ、あと」
 幸村の視線が次の議題提供者に向けられそうになったのを、ミストは引き留めた。
「これは偶然のたまものなのですが……先日の希兵隊からの依頼の件で、人間界に赴いた時、あることを発見しました」
「というと?」
「人間界のカラスに、毒霧が効いたんです」
 光丘中学校に、ホムラに操られた大量のカラスが飛来した時。人間たちの目には、突然それらが気を失って落ちてきたように見えていたが、その裏ではミストの霧術が働いていたのだ。そのことは、せつなも雷奈に写真を見せられた時に瞬時に理解していた。
 幸村が、猫姿のまま、人間のあごひげをなでるような仕草でうなった。
「人間界の生き物にみだりに術を使うのは感心せんな」
「カラスの大軍が、人間に襲いかかっていたんです。ミストはそれを防ごうとして、やむを得ず。それに、ミストの毒霧には麻酔作用しかなく、毒性がないのはご存じでしょう」
 せつながすかさずフォローに入ると、幸村はしぶしぶうなずいた。
「とかく、君が言いたいのは、前代未聞である人間界の動物への毒霧の作用の観測、ということか」
「はい。毒霧はわたしたち普通の猫、クロやダークには効く一方で、人間には効かないことはわかっていましたが、人間界の人間以外の動物には効く可能性がある。これは、毒霧の作用メカニズムのさらなる解明に貢献するかもしれません」
「確かに、毒霧は謎の多い術だからな。クロやダークに効果を奏する機序がまるで分っていないまま、討伐に使われもしている。メカニズムの解明は重要だろう。ただ、今回の知見は倫理審査を通した正式な研究活動ではなかった。ぜひ、今後正式な研究として形にしてもらいたい」
「その意向です」
 恭しく一礼して、ミストはせつなに番を譲った。小さくぱちぱちと拍手していたせつなは、口元に笑みを浮かべながらも、はしゃぐ時とはまるで違う、大人びた口調で話し始めた。
「プロ研の進捗についてはミストが言ったとおりですが、彼女の個研のほうに補足を。猫術にホーミング機能を付与しづらいのは、私見としては、彼女の猫種が霧であるからだと思います。彼女の技量云々ではなく、彼女が霧猫ゆえ、霧術でしか検討しえないことに原因があるかと。霧という物質には、もともと空間的指向性がないので、水術や雷術などに比べて複雑な動きを指示しにくいのでしょう。霧砲や白風のような粗大直線運動が関の山ということです。そこを工夫すれば壁は越えられるのではないでしょうか」
「なるほど。ミスト君、どうかね?」
「参考にします」
 ミストは、嬉しいような、それでもやはり悔しいような笑顔で、せつなに視線を送った。本人の一歩先を行く見解を示したせつなだが、ウインクで返す彼女の視線は、純粋なパートナーシップに満ち溢れたものだ。優秀な彼女だが、自らを誇ることはあっても、仲間を見下すことはしない。
「で、私の個研の猫種変換システムですが、氷術で生成される水を水術として扱えるには、まだもう少し時間が必要みたいです。私の体質上、あまり一度に実践はできないので。代わりといってはなんですが、その水から今度は霧を生成するプロセスは見えてきました。これはまだ仮説段階ですが、減算術式が確立すれば、そこから熱量を取り出して炎術にもつなげられるかもしれません」
「夢の猫種横断が近づいてきたようだな。その調子で、だが無理はせんよう」
「ありがとうございます。あと、もう一つ。プロ研に関連して個人で行なっていたフィールドワークの報告としては、過冷却水の急速冷凍現象を再現する命令式のヒントが得られました。あとはトライアンドエラーですが、成功すればトップレベルの発動速度と威力を兼ね備えた攻撃系氷術になる見込みです。私はこれを仮称として、喰命氷柱ブライニクルと名付けます」
「私から言うことは先ほどと同じだ」
「光栄です。……私からは以上です」
「結構だ」
 今度はミストがぱちぱちと小さく拍手をした。せつなが座ったまま、おどけるようにボウアンドスクレイプをしてみせる。
 幸村はそんな弟子二人に、やや疲れた声で言った。
「では、各々の目標に向かって進めるように。私は今日は会議が詰まっているので、連絡がつきづらいだろうがね。全く、わかりきったことを示し合わせるだけの会議は不毛だな」
 やれやれ、と首を回して見せる幸村に、二人は「お疲れ様です」と頭を下げる。その言外の意味は「目を光らせずにいてくれてありがたいです」である。
 ミーティングはお開きとなり、二人は再度一礼して、席を立つ。研究をまるっきり投げ出すつもりではないが、その不毛な会議とやらのおかげで、サボりたい時にサボれているのだ。
 せつなの足は心なしかうきうきと軽い。
「サボるなよ」
 見透かされたような声に送られ、研究室を後にした。
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