フィライン・エデン Ⅲ

夜市彼乃

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11.七不思議編

55焔フォーミュラ ④

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***

 希兵隊本部の医務室にあたる、十番隊隊舎の一角。
 基本的には、そこは負傷したり、体調不良に見舞われたりした隊員が利用する場所だが、隊員でない雷奈たちも戦闘後に運び込まれたことはある。
 曰く、人間は特別扱いなので、希兵隊が同伴していた場合は、すぐに手配できるこの医務室を貸してもらえるのだという。
 では、希兵隊員以外のフィライン・エデンの猫で、希兵隊に発見された負傷者・体調不良者はどうなのかと訊けば、それは場合によるとのことだった。
 今回のケースについて、明確な答えは聞いていないが、推察されるに、運び込まれた彼女が――天河雪那せつなが、チエアリが絡む一連の事件を俯瞰できる人物だったからだろう。
「せつなは、私の従姉だ」
 寝台の傍らに座ったルシルはそう言った。後ろに立っている雷奈たちに向けたものだ。
「私たちの二年後に、飛壇に上京してきた。それで頻繁な交流も再開してね。私が皇学園に潜入していたころ、高齢者施設で披露する合唱用の曲が必要になったことがあっただろう。あの時、透里麗楽に口利きしてくれたのはこいつだ。同じ学院の研究者同士、仲がいいというか、こいつの顔が広いというか」
 はは、と笑みをこぼすルシル。だが、その目は悲しげなまま、点滴につながれて眠る少女を見つめている。浅かった呼吸は落ち着いてきているが、その額には時折汗が浮かんでくる。
 ルシルは懐から出したハンカチで優しく押さえてやりながら続けた。
「優秀な頭脳をもつこいつにとって、研究者は天職なのだと私は思う。だが、当初こいつがなりたかったのは研究者ではなく、希兵隊員だった。体調が優れず留年が重なり、二年遅れで卒業した後、私たちに加わろうとしたが……書類で落とされた。当然だ、病気が病気だからな」
 その病名を、雷奈たちは以前にも聞いたことがあった。概要も少しだが知っている。
 今は亡き霞冴の姉・みらいと同じその病の名を、雷奈が呟いた。
「……源子侵襲症」
「ああ」
 源子侵襲症。本来は体の外で扱うだけのはずの源子が、体内に入ってしまう体質のせいで、日常的に疲労感や吐き気に見舞われる病気だ。
 主体時にはどういうことはないのに、双体時には症状が出るのが特徴。そのため、極論を言えば常に主体でいればよいのだが、人間と同じ生活スタイルをとる彼らにとって、それは極めて難しい提案である。
 この病気のもう一つの特徴は、純猫術以外の、すなわち源子を各々の属性に対応した物質に変える術の使用を禁忌とする点だ。
 源子が体内に入りやすいというのは、裏を返せば源子とその猫との親和性が高いことを意味する。そのため、ひとたび術を使えば、健常者よりもよほど強力なものになる。雷奈たちも目の当たりにした、せつなの氷術がいい例だ。
 だが、術を使うと周囲の源子がより体内に入り込みやすくなり、悪ければ発作を起こして倒れる。発作の症状は個体差があり、時尼みらいのそれは胸痛と呼吸器症状だったそうだが、せつなの場合はひどい腹痛のようだ。
 今だからわかる。ルシルがなぜ、死に物狂いで叫んだのか。
 ――せつなにこれ以上猫力を使わせるな、と。
「こいつのチョーカーは症状を抑えるための外界封印アウトサイドシールだ。氷術を使えない代わりに源子に侵されない、そういう状態になる。新しく開発された薬が処方されるようになったのもあって、最近はだいぶ調子がよくなってきていたんだ。猫力学研究者として、実験的に氷術を使っても問題ない程度には」
 だが、とルシルは顔をゆがめた。悔しそうに、苦しそうに。
「研究の道を固めても、夢を諦めきれなかった果てが、『猫力の攻撃応用』……こいつが今の師を選んだ一番の理由だ。本当は今でも戦いたいんだ。なまじ源子侵襲症のおかげでひと並み外れた強力な術で、敵を蹴散らしたいと思っている。体力づくりに始めたなぎなたの真似事でも発散できない、そんな欲求を、ずっとずっと抑圧している。……だから、ああやってタガが外れたが最後、手加減を忘れて力を使い、暴れたがる。たとえ、その後に地獄の苦しみがあるとわかっていても」
 承認が欲しいわけではない。性根が攻撃的なわけでもない。ただ、疲労困憊になるまで走りたくなる時があるのと同じように、声が枯れるまで大声で歌いたくなる時があるのと同じように、普段抑えている力を思い切りほとばしらせたいという衝動は、耐え難いものなのだ。
 心理的解放と身体的平穏のトレードオフ。その狭間で自制し続ける彼女を見てきたのは、雷奈たちと並んで立っているミストも同じだ。
「ユキナは天才。理論家になっても実践家になっても申し分ない能力を持ってる。理論家の才能のタネが地頭の良さなら、実践家としての才能のタネは源子侵襲症。わたしより源子の気配に敏感なのも、その副産物。だけど、高度な術の発動を繰り返す実践家としてはやっていけないのも、また源子侵襲症のせいなんだ」
 役割分担をしているとはいえ、それでも、せつな自身が実践を試みることはままある。継続的な治療のおかげで、多少の氷術の使用なら、疲労感を覚える程度で済んでいるのは幸いだ。だが、大量の源子を使えば、そのまま発作を起こすことも少なくない。
 だから、ミストは決めていた。大切なパートナーの有事には、必ず自分が迅速に、適切に対処すると。そのために、自分にとっては一切必要のない源子侵襲症の頓服薬を、常に肌身離さず持ち歩いている。
 雷奈たちは、光丘中学校で見せるせつなの笑顔や茶目っ気にあふれた言動を思い出していた。
 村長本家の血筋も頷ける気品をまといながらも、明るく活発な姿勢。友人との会話、状況、たとえそれが不穏であったとしても、一つ一つを楽しむような振る舞い。
 光強ければ影もまた濃いとは、誰が言ったのだったか。
「失礼します」
 ふと、聞きなれたソプラノが聞こえて、雷奈たちは振り返った。バイタルを確認していた柊花が「あ」と声を漏らす。
「美雷さん」
「お疲れ様、柊花ちゃん。せつなちゃんの様子はどう?」
「まだ意識は戻らないままですが、経過は良好です」
「そう、よかった。ルシルちゃんと雷奈ちゃんのケガも大丈夫?」
「脳震盪を起こしたので簡易検査をしてもらいましたが、大事なさそうです。ありがとうございます」
「私も湿布貼ってもらったけん、平気ったい!」
「貼ったのは柊花じゃなくて芽華実だけどな」
「湿布分けてあげたのはあたしよ」
 つん、とそっぽを向く柊花は相変わらずだ。美雷はその態度をとがめる様子もなく、「あらあら」と笑うと、雷奈たちに向き合った。
「せつなちゃんの様子を見に来たのもあるんだけど、あなたたちに伝えなくちゃいけないことがあってね」
「何ね?」
 雷奈が首をかしげて尋ねると、美雷は口を開きかけて――視線を脇に持っていかれた。
「あら」
 美雷の琥珀色の双眸と、せつなの寝ぼけ眼が見つめあっていた。
「おはよう、せつなちゃん」
「……あなたは」
「希兵隊総司令部・最高司令官の時尼美雷です。お噂はかねがね」
「あなたが、美雷さん……」
 言葉を発しているうちに、だんだん意識が覚醒してきたらしく、せつなはいつも通りの大きな瞳を見せてゆっくりと起き上がった。
「そっか、私、発作起こして……。あ、雷奈たちもいてくれてるのね。ごめんね、心配かけて」
「ホントだよ」
「心配したとよ~」
「でも、よくなったようでよかったわ」
 口々に答える雷奈たち。
「ありがとう。ミストも、薬飲ませてくれてありがとね」
「パートナーの務めだからね!」
 無邪気に笑って敬礼して見せるミスト。
「ルシル……は、怒ってるわよね」
「あ、た、り、ま、え、だ!」
 陽炎でも立ちそうな形相のルシルは、ご名答の立腹加減であった。
「何が『才能よ、源子侵襲症は』だ! 何を考えているんだ、お前は! その才能が諸刃の剣だということはお前が一番わかっているだろう!」
「いやー、かわいい従妹の敵討ちに張り切っちゃって」
「敵討ちにしては楽しそうだったじゃないか、ええ?」
 この期に及んでふざけた返しに、口元をひくひく震わせながら詰め寄るルシル。相手が病人でなければ胸ぐらをつかんでいそうな勢いである。
「腹痛と昏倒で済んだだけでも御の字だ。扱った源子の量から言えば、内臓を損傷してもおかしくなかったんだぞ! お前、内臓損傷の末路を知っているか!? 痛いし苦しいし何も口にできないし……ああ、あのチエアリのせいで嫌なことを思い出した!」
「知ってる知ってる、私も何回か大発作でやらかしてるから。っていうか、ルシルも知ってるでしょ、村で何度か吐血してるの」
「……そうだったな」
「飛壇でも一回やらかしたし」
「そうだったか。……懲りていないな!」
 こいつはー、と頭にげんこつをぐりぐりねじこむルシルに、せつなは動じず笑うだけだ。顔色もよくなってきており、すっかりいつもの彼女だ。
 柊花も、「点滴が終わったらすぐ帰っても大丈夫そう」とミストと美雷に説明している。雷奈たちのほうはちらりとも見ないのは、わかりきった扱いである。
 柊花を改めてねぎらった美雷は、そうそう、と雷奈たちに朗らかな微笑を向けた。 
「忘れかけてたけど、雷奈ちゃんたち」
「そうやった、何か言いたいことがあったとよね」
「ええ。あなたたち、チエアリと対峙したでしょう?」
「したな」
「それ以前にも、クロと遭遇したのに、ルシルちゃんにしか報告しなかったでしょう?」
「そうね……?」
「流清家と風中家の正統後継者がおかんむりよ」
 ガララッ、と引き戸が開く音がした。
 カーテン付きの寝台が並ぶ医務室の奥にある区画にいたので、ここからは出入り口を直接見ることはできないが、何者かの来訪を予期した一同がそちらを向いた。
 直後、寝台のカーテンの陰から飛んできた水色の猫が、氷架璃の右頬に猫パンチを叩き込んだ。
「この不良娘がー! 夜の学校でクロと遭遇!? チエアリと戦闘!? なんでそんな危ないことするかな、そんな子に育てた覚えはないよ!」
「ぶべらッ」
 その隣で、およそ同時に飛んできた白色の猫が、芽華実の左頬に猫パンチを叩き込んだ。
「ちゃんと報告してよ! 連絡してよ! 相談してよ! これ社会人の基本!」
「ふにゅうっ」
 そろって情けない声を上げてパンチを食らったパートナの前で、二匹の猫は鮮やかに着地した。
 頬をさする二人の後ろで、雷奈が他人事のように言う。
「忙しく修行してたのはそっちっちゃろ。あと、チエアリと戦闘は突発的やったけん、戦うしかなかったし。それに、私たちは社会人じゃなか」
「「問答無用ー!」」
 パートナーではない雷奈に対しても、同じ人間の友人として、同等に愛情のこもった説教をお見舞いするのが当代の正統後継者。
 二匹同時に、雷奈の両頬にそれぞれの猫パンチを繰り出そうと飛びかかる。
 しかし、彼女の低身長をなめてはいけなかった。一三八センチの小躯は、ひょいと少ししゃがんだだけで、仰角をつけて襲ってきた猫二匹を、後方の壁へと送り込んだ。
「ぶべらッ」
「ふにゅうっ」
 パートナーとの相性の良さがうかがえる鳴き声を発して壁に激突し、ずるずると壁沿いに滑り落ちていく二匹を眺めていると、足音とともに声が聞こえた。
「仲間外れにされてすねてる正統後継者二名をお届けに上がりましたっと」
「コウ!」
 振り返ると、灰色の髪をした背の高い少年が歩み寄ってくるところだった。一番隊隊長にして、ルシルやせつなと同じ垂河村出身の大和コウだ。いつものクールな表情だが、そのまま雷奈たちに「よ」と片手をあげてくれるほどには気さくだ。
「お届けありがとう、コウ君。せつなちゃんもさっき起きたところよ」
 どうやら美雷が依頼したようである。執行部最強の男の使いどころを完全に間違っている気がするが、本人はこのような雑用にも慣れてしまったらしく「いーえ」と適当に返事している。
 そして、ベッドの中で上体を起こした幼馴染に目を向けた。
「よう、天河」
「こんにちは、コウ」
「調子はどうだ」
「元気いっぱいよ!」
「嘘つけよ」
 せつなの茶化しにも動じず、コウは表情を変えずに返すと、小さくため息をついた。
「三日月からチエアリ出現の通報があったっていうんで、一番隊総出で馳せ参じたのに。チエアリは影も形もねえし、やった仕事といえば、お前をここに運んだくらいだ」
「あら、あなたが? それはありがとう」
「これで貸し借りなしだな」
「あと一息ね」
「まだ残ってんのかよ! とんだ高利貸だな!?」
 苦虫を嚙み潰したような顔をするコウに、ふふんとせつなは指を立てていく。
「五年前、レポート締め切り三時間前に電話をよこされたことによる進捗の遅れ。内界封印インサイドシールのプロトコルを考案した手間と時間。そしてそれをあなたにレクチャーした手間と時間。そりゃー高くつくわよ」
「友情割引はねえのかよ」
 コウは肩をすくめると、くるりと背を向けて歩き出した。
「これ以上たかられないうちに仕事に戻るわ。お大事に」
「また何かあったらいつでもいらっしゃい。私も来るわね」
「来るならアポ取ってからな」
 振り返りもせずひらひらと手を振ると、コウは出口のほうへ曲がり、カーテンの陰に姿を消した。
 彼の背中に手を振っていたせつなは、ちょうど終わった点滴を柊花に外してもらいながら言った。
「コウに内界封印インサイドシールの技術を教えたのは私よ。この辺りは猫力学の専門だからね」
「そう……なんだ」
 コウが猫力を封印するようになったのは、時間のループを含めて五年前に起こった「先の侵攻」と呼ばれるチエアリの襲撃が終結した直後だ。その理由も、雷奈たちはすでに聞いている。なまじ頭角を現した鋼術の才が、強力な力でチエアリを撃破したものの、勢い余って暴走し、コウの大切な仲間を傷つけてしまったのだ。
 訓練次第では、手なずけることのできた力だった。だが、コウが受けたショックはあまりにも大きく、以来、必要時以外は鋼術を使えない状態になる、すなわち猫力を封印する道を選んだのだという。
 その際に手を借りたのがせつなだったということは、今回初耳だったが。
 掛け布団をめくり、衣服を整えるせつなの表情は、いつもの天真爛漫なものではなく、しっとりと何かに思いをはせているように見えた。
 コウの事情を知ったうえで、猫力封印の手助けをした。それはつまり、かつてコウが負った傷に、せつなも向き合ったということだ。
 癒えない傷に触れた時のことを思い出しているのだろうか。
 それとも、彼の開花しかけた才能を封じ込めることに、思うところがあったのかもしれない。
 傷つきたくなくて才能を閉じ込めようとする友の望みを叶えたのは、傷つくことを承知で、アイデンティティに据え置いた才能を叫ぶ少女だったのだから。
 せつなは切り替えるようにゆっくりとまばたきをすると、壁際から歩いてきた二匹を見下ろした。
「で、アワとフーは何で職務放棄してたの?」
「職務放棄じゃないよっ!」
「これから先、氷架璃と芽華実をちゃんと守れるように、修行してたのよ」
「それで目を離した隙にパートナーたちが危ない目にあってたら世話ないわね」
 ぐぅの音も出ない二匹は、しゅうんと耳を垂れてしまった。
 どうやら、アワとフーもせつなとは知り合いのようだ。まったくもって、正統後継者は顔が広い。
 ベッドから降りたせつなは、シーツを軽く伸ばしながら雷奈たち三人を振り返った。
「ところで、フェスはあの後どうなったの?」
「あー、どこから話すかな」
「とりあえず、朝季からメールが来たところからっちゃかね」
 雷奈はスマホを取り出し、メッセージを追いながら順に話した。
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