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11.七不思議編
52才媛サイエンス ⑦
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***
「で、残ってる七不思議が四、五、六の怪ってわけよ。頭脳明晰、博学多才の二番隊隊長、どう思う?」
「知らん」
歩きながら、これまでの経緯をできるだけ詳しく、できるだけわかりやすく、丁寧に説明したうえで意見を求めた氷架璃を、並ぶ河道ルシルは無表情にばっさりと切って捨てた。
「こんにゃろう」と隣で拳をわななかせる氷架璃だが、ルシルの辟易ももっともだった。
ガオンを倒したことで人間界からの撲滅が叶ったと思われたクロ。それがどこから湧いたのやら生えたのやら、夜の学校でイルミネーションをやっていたとあれば、おちおち非番を満喫してもいられない。
浮足立つ気持ちを静めないと落ち着かないので、珍しく休み時間中を理由についてきたメルを連れだって人間界へやってきて。ついでだからと検出センサーがある場所を回って稼働を確認して。けれどセンサーがどんな状態であれ、クロ出現には別の要因があるのだろうと考えると悄然としてきて。
そこへ、ひとりカラオケ帰りの上機嫌な氷架璃とばったり出くわしたというわけである。ルシルの口調もすげなくなるわけだ。
「だいたい、それだけの情報で現象の正体や原因を突き止められるわけがないだろう。氷結ウィッチクラフト一つとっても、『冷気を感じた』という事象を引き起こす要因は枚挙にいとまがない。夜風を涼しく感じただけかもしれないし、そもそもその噂を意識したがために冷感を錯覚したのかもしれない。発汗による気化熱による可能性もある。今となっては氷属性のクロの仕業だって考えられるんだ。ましてやボヤ騒ぎに迷子犬だと? 警察に言え。……ともかく、わかるのは、一つだけ。怪奇現象などという、理論的背景の空疎なものではない。それだけだ。それ以外を……推し量るには、あまりにも、検討材料に、乏しすぎる」
早口でそう言い切ると、ルシルはふぅっと小さく息を吐いてから、深呼吸を繰り返した。そのたびに、乗せているメルがずり落ちそうなほど細い肩が、遠慮がちに上下する。
「……」
「何だ、氷架璃。じろじろ見て」
「いや、あんたがその程度で息切れするなんてと思って」
透き通るような瑠璃色が、むっと不機嫌になった。その間も、彼女は押し殺すように荒い呼吸を続けている。
ルシルはもう延べ七年もの間、希兵隊の戦闘員をやっている。それ以前から、故郷の村では剣術をたしなんできた。運動に触れる機会といえば体育の授業か、たまに襲い来るフィライン・エデン関係のならず者との戦闘しかない氷架璃よりも、はるかに体力があるはずだ。その彼女が、少し長く話しただけで、肩で息をしているなど。
「もしかして、まだ肺炎治ってないのか?」
「治ったとも。見てわかるだろう。もう咳も出ないし、熱もない」
「あっそ。じゃあまたワーカホリックのお気に召すままに、仕事とか仕事とか仕事をしてたんだな」
「い、いや」
一瞬だけ、ルシルの頭が不規則に動いた。世ではこれを、動揺と呼ぶ。
「そんな、ことは」
「本当ですか?」
疑念をあらわにしたのは、肩に乗っている白猫副隊長だ。
「十中八九、いえ九分九厘、無理をしているものとお見受けしますが。例えば、稽古」
「む、無理などしていない」
「稽古の強度は段階的に戻すように、と十番隊から指導を受けているはずですが、遵守していますか? 『強くならなければ』などと焦って、かかり稽古なんてしていないでしょうね?」
ぎくっ。
平常心の軋む音が聞こえた。
「肺炎療養中と、その後の段階的な復帰で溜まっていた書類、私に少し回せと言いましたよね。一向に回ってきませんけれど」
ぎくっ。
平常心のひび割れる音が聞こえた。
「気の……せい……じゃないか……?」
「非番に検出センサーの不具合を探りにきたひとがどの口で『気のせい』ですか」
ルシルは、その同世代から見ても整った顔を手のひらで覆ってうつむき、魂をも吐き出すような盛大なため息をついた。
疑うべきだった。非番でもないメルが、本部待機という束の間の休息ともいえる時間を割いて、自分の外出に付き合ってくれるなど、いやに殊勝すぎる。自分を監視するためだったのだ――それに今さら気づいたルシルは、何年経ってもこの年上の後輩には敵わないままである。心配してくれるのは嬉しいが、彼女のやり方はデリカシーや情け容赦という単語を知らない。
氷架璃は隣で呆れ顔だ。
「……あんた、育ちがよすぎて嘘がつけないんだな。ハッタリとかはかますくせに」
「う、うるさい。とにかく私は今、お前に構っている場合では……」
ルシルの足が、息が止まる。
「ルシル?」
氷架璃も立ち止まり、彼女の顔をのぞきこんだ。口のあたりを手で覆って硬直してしまったルシルに、気分でも悪いのかと身構える。
しかし、正確には、ルシルが覆っていたのは鼻で、そうさせたのは猫の鋭い嗅覚がとらえた不吉なにおいだった。
「……メル」
「はい、においます」
ルシルはゆっくりと顔から手を離しながら、鋭い視線を巡らせた。やや上方に留めた碧眼は、前方右寄り、遠く遠くを見つめていた。氷架璃もそちらへ目をやる。
今日も文句なしの晴天だ。雲一つなく、まるで青い絵の具を溶かした水面のようで――そこに一滴の墨汁を落としたかのように、徐々に煤色にけぶっていく。
見間違いかと思った。あるいは、やんちゃな車がしぶとい排気ガスでも残していったのかと思った。だが、次から次へと上ってくる黒い気体は、明らかに存在感を増していっている。
「まさか……」
風が吹いた。ここ最近、深まり切った春の空気を運んでくる、力強い風だ。
けれど、今、氷架璃の鼻をも突いたのは、晩春の薫りではなく、むせるような焦げたにおい。
「――行くぞ!」
タッ、と鋭くルシルが駆け出す。氷架璃も慌てて追いかけた。陸上競技はあまり得意ではない氷架璃だが、それを差し引いてもルシルは駿馬だ。足音も軽やかに、ぐんぐん氷架璃を引き離していく。その肩に危うげなく乗り続けているメルも大したものである。
走りながら、氷架璃は黒煙の立ち上る方角を見据えた。空にかかる煙の面積はどんどん大きくなっている。現場に近づいているためだけではない。かさは確実に増え、黒さは濃くなっている。
ルシルがブロック塀に囲まれた十字路で足を止めた。乱れた呼吸を整えながら、右手にのびる道沿いを見上げている。そこだ。確信を抱きながら、氷架璃もルシルの隣に走り込んだ。そして、実際の現場を前にして、絶句した。
予想していたとはいえ、いざ実物に直面すると、まばたきもできないほどの衝撃に喉が震えた。気管にざらつくきな臭さ。鼻腔を通って舌に感じる煙の苦味。高い悲鳴とざわめきの混沌。過去世界でジンズウが起こしたあの爆発を鮮烈に呼び起こす橙の揺らめき。波のように押し寄せて体にまとわりつく熱。――五感で感じる、火事の現場。
「……これが、怨讐インフェルノ……」
何がボヤか。目の前のそれは、れっきとした火災だ。二階建ての一軒家の二階部分からは、屋根も見えなくなるほどの黒煙が立ち上っていた。遠目では見えなかった炎は、今やその勢いを煙に匹敵するほどに増している。割れた窓という窓から、二階部分を包み込もうと朱色の手を広げていく。
その周囲を何人もの人々が囲み、目を見開いて見上げていた。口を覆って言葉を失う主婦、「通報したか!?」「誰か、消防呼んだ人は!?」と叫ぶ男性たち。少し離れたところで、怖いもの見たさにのぞく小学生グループ。野次馬が、と一瞬思った氷架璃だが、よく考えると自分たちも今、野次馬の一角をなしている。
俊足を見せながらも相応に息が上がっていたルシルが、漂ってくる煙に体を折って咳き込んだ。風下ではなかったが、長いセリフを紡いだだけで呼吸を乱すほど弱った彼女の体は、風向きの揺らぎで気まぐれに流れてくる煙にも悲鳴をあげていた。
跳ねる背中をさすりながら、氷架璃が口と鼻を袖で覆って声を張る。
「ルシル、離れるぞ! ボヤならあんたでも消せようが、こりゃ無理だ!」
「げほ、げほっ……だが……!」
「ルシルさん、氷架璃さん。あれを」
ルシルの肩で、前足に顔の下半分をうずめながらメルが左奥を見るよう促した。氷架璃とルシルが走ってきた方向と反対側のそちらは風下で、激しく湧き出る煙が向かう方向でもあった。同時に、炎も。その先には、ブロック塀から飛び出た、隣家の庭の木の葉が――。
「まずい、隣の家に燃え移るぞ!」
「消防車はまだか!?」
「大通りで交通事故があったって! 多分そのせいで迂回してる!」
「このままじゃ全焼よ!」
周囲の人達の叫び声で、絶望的な現状が把握できた。迅速な消火は望み薄だ。ここに留まり続けていれば、爆発に巻き込まれる可能性だってある。
二人は、同時に意を決した。
「逃げるぞ、ルシル!」
「氷架璃、お前一人で逃げろ」
は、と瞠目して固まった氷架璃の手が背中を滑り落ちるのを感じながら、ルシルはゆっくりと身を起こした。ふーっと長い息を吐き切ると、碧眼は煌々として暴れる紅蓮をキッと見据えた。
「メル、燃え移りそうになっている家の方へ回るぞ。人払いを」
「しかし……」
「やらないならもう帰っていい。私一人で何とかする」
そっけなく言いながら、ルシルは野次馬のいない裏へと回る。メルはしばらく黙っていたが、やがて表情を変えずに純猫術を発動させた。ワープフープがもつ特性と同じ、通常の人間の認識をそらす術だ。得意の洪瀧で消火を試みる自分の姿を、人間たちに晒さないためだろう――氷架璃にも容易に想像がついた。
だが。
「無理だ、ルシル、この風じゃ!」
一段と強い今日の風。
煤煙と火片を隣家へと吹き流すそれは、延焼を阻止しようとするルシルの放水を阻んだ。いくら炎を吐き出す窓枠を正確に狙っても、水流は二階の高さに到達するまでに先端から風に砕かれて分散してしまう。
絶え間ない水術の使用で額に汗を浮かべながらも、ルシルは氷架璃の制止を突っぱねる。
「今ここで放水できるのは私だけだ。私がやらなければ……!」
「でも届いてないじゃんか! 爆発とか倒壊とかしたら、こっちも巻き込まれるかもしれないんだぞ!」
「だからお前は逃げろといっただろう。私はここに残る」
「なんであんたがそんなにムキになるんだよ!」
「火事になって!」
二階へ向けて突き出した両腕の間に顔をうずめるようにして、ルシルは腹の底から叫んだ。声がひび割れるほどの絶叫に鬼気迫るものを感じて、氷架璃がひるむ。
ルシルは顔を伏せながら、肩を震わせて声を絞り出した。
「火事になって……残るのは、一つだけ。燃えかす、それだけだ。大切な物も、当たり前の景色も、そして命も……鮮やかな何もかもが、色を失った燃えかすと化すんだ! そんな悲劇があるか!」
再びキッと炎を見上げたルシルの真に迫った言葉に、氷架璃は先日聞かされた先の侵攻の一連の話を思い出した。多くの犠牲者を出したチエアリの進軍は、ある事件をきっかけとした大量の負の思念が引き金だった。その事件こそ、とある町の大火事だったのだ。
当時から在籍していた水猫のルシルが、消火要員に駆り出されないわけがない。必死に消火活動を続ける中で、きっと彼女は目にしてきたのだ。燃えていく日常を、焦がされていく命を。
だからこそ、必死になるのかもしれない。自分が火に最も有効に立ち向かえる水の使い手だからというのもあるだろう。
しかし、現実は願う通りにはいかない。彼女の心血を注いだ献身は、隣家の植木に伸びる紅蓮の魔の手に届かない。
何より、強力な水術を使い続けるルシルの体力は、もう限界に近いはずだ。これ以上は体への負担が避けられない。
「よせ、もうすぐ消防車が来る! あとは消防隊に任せれば!」
「きっと誰かが助けてくれる、きっと何とかなる……そう思ったから、私はユキルを失った! 霞冴まで失いかけた!」
ルシルの叫びに悲痛な響きが混ざる。痛みに耐えるように眉をきゅっと寄せ、彼女は激情をほとばしらせる。
「もうたくさんだ! ここで逃げたら絶対に後悔する。私は、私は今度こそ、私の決めた強さを行動で示さなければならない! 私が目指した強さを……」
瑠璃色の瞳の裏によみがえったのは、かつての青龍隊員としての日々。どこか噛み合わない、けれど頼もしい二人の先輩。
時に優しく、時に厳しく、いつも慈愛の心で引っ張ってくれた少女。
大事なことは二の次で、のらりくらりと気楽そうで、けれど最後は青龍隊を守るために戦い、散った青年。
その二人に、決意を言葉にして伝えたのだ。
――ようやく見つけました。私にとっての強さとは――。
「後悔しない選択をし、それを成し遂げる! その強さを! あの日、心に決めて誓った強さを、私は!」
「――よくぞ言ったわ」
声が応えた。
氷架璃も、ルシルも、メルも、人払いされた裏道に現れた闖入者の気配に瞠目した。だが、氷架璃と他の二人の反応は微妙に違っていた。
氷架璃の動きを止めたのは、突如として予想外の四者目が現れたという事実。
対して、ルシルとメルの瞳を揺さぶったのは、彼女らの記憶の深い部分を揺り起こす響き。
「でも、私はこうも教えたはずよ」
後ろを振り返る。優しくて、淑やかで、けれどしなやかに強い芯の通った声は、今にももらい火を受けてしまいそうな隣家の屋根の上から聞こえていた。
逆光の中にたたずむ、四つ足の影。耳はフィライン・エデンの猫特有のアーモンド型で、尾の先はふさふさとした長毛になっている。ほとんどシルエットしか見えないが、背後から浴びる光に透ける毛並みは小豆色。
洪瀧を放つのも忘れて後ろを振り仰ぎ、肩を震わせるルシルに、包容力に満ちた大人びた声が降り注いだ。
「――『その強さは、一人で成し遂げるものでなくてもいい』と」
静まれ、気憩。
そう聞こえた。
直後、炎をなびかせるものが消えた。煙をたなびかせるものもなくなった。翻っていた髪が、真っ直ぐに下を向く。
風が、彼女にひれ伏した。
「今だ、ルシル!」
「轟け、洪瀧!」
周囲が全くの無風になると、ルシルは勢いよく手から奔流を放った。何にも邪魔されることなく、放物線を描いて窓に注ぎ込まれた大量の水は、縄張りを外へ広げようとしていた炎を削りながら、窓際の火元をも押さえ込んだ。
「よっしゃ! ひとまず燃え広がらずにすみそうだな!」
「……音が」
ガッツポーズを作った氷架璃の耳に、メルの蚊の鳴くような声が届いた。何の音か、と尋ねるより先に、その答えが徐々に近づいてくる。じきに赤い車体と橙の防火服がお目見えすることだろう。二階部分は大変気の毒なことになってしまったが、倒壊や爆発、延焼が起きる前に到着してくれたようだ。
引き際だ。ルシルが放水をやめ、腕を下ろすと同時に、頭上で羽ばたきが聞こえた。背中に真っ白な翼を携え、空中を滑るように下降してきた猫は、氷架璃の目線の高さでぱっと羽根を散らし、その姿を変貌させた。
はらはらと舞う羽根の中心で、足音も軽やかに降り立ったのは、小豆色のセミロングヘアをした背の高い女性。ゆったりとした袖と桜色のストールをふわりと浮かせて着地しながら、つま先の動きでゆっくりと体ごと振り向く。
視線の先、瑠璃色の双眸が潤むように揺れるのを見ながら、彼女は慈しむように微笑みかけた。
「久しぶりね、ルシルちゃん」
「……はい……っ」
瞳と同じように揺れる声で、ルシルは淡い笑みを浮かべながら、その名を呼んだ。
「お久しぶりです――うとめさん」
「で、残ってる七不思議が四、五、六の怪ってわけよ。頭脳明晰、博学多才の二番隊隊長、どう思う?」
「知らん」
歩きながら、これまでの経緯をできるだけ詳しく、できるだけわかりやすく、丁寧に説明したうえで意見を求めた氷架璃を、並ぶ河道ルシルは無表情にばっさりと切って捨てた。
「こんにゃろう」と隣で拳をわななかせる氷架璃だが、ルシルの辟易ももっともだった。
ガオンを倒したことで人間界からの撲滅が叶ったと思われたクロ。それがどこから湧いたのやら生えたのやら、夜の学校でイルミネーションをやっていたとあれば、おちおち非番を満喫してもいられない。
浮足立つ気持ちを静めないと落ち着かないので、珍しく休み時間中を理由についてきたメルを連れだって人間界へやってきて。ついでだからと検出センサーがある場所を回って稼働を確認して。けれどセンサーがどんな状態であれ、クロ出現には別の要因があるのだろうと考えると悄然としてきて。
そこへ、ひとりカラオケ帰りの上機嫌な氷架璃とばったり出くわしたというわけである。ルシルの口調もすげなくなるわけだ。
「だいたい、それだけの情報で現象の正体や原因を突き止められるわけがないだろう。氷結ウィッチクラフト一つとっても、『冷気を感じた』という事象を引き起こす要因は枚挙にいとまがない。夜風を涼しく感じただけかもしれないし、そもそもその噂を意識したがために冷感を錯覚したのかもしれない。発汗による気化熱による可能性もある。今となっては氷属性のクロの仕業だって考えられるんだ。ましてやボヤ騒ぎに迷子犬だと? 警察に言え。……ともかく、わかるのは、一つだけ。怪奇現象などという、理論的背景の空疎なものではない。それだけだ。それ以外を……推し量るには、あまりにも、検討材料に、乏しすぎる」
早口でそう言い切ると、ルシルはふぅっと小さく息を吐いてから、深呼吸を繰り返した。そのたびに、乗せているメルがずり落ちそうなほど細い肩が、遠慮がちに上下する。
「……」
「何だ、氷架璃。じろじろ見て」
「いや、あんたがその程度で息切れするなんてと思って」
透き通るような瑠璃色が、むっと不機嫌になった。その間も、彼女は押し殺すように荒い呼吸を続けている。
ルシルはもう延べ七年もの間、希兵隊の戦闘員をやっている。それ以前から、故郷の村では剣術をたしなんできた。運動に触れる機会といえば体育の授業か、たまに襲い来るフィライン・エデン関係のならず者との戦闘しかない氷架璃よりも、はるかに体力があるはずだ。その彼女が、少し長く話しただけで、肩で息をしているなど。
「もしかして、まだ肺炎治ってないのか?」
「治ったとも。見てわかるだろう。もう咳も出ないし、熱もない」
「あっそ。じゃあまたワーカホリックのお気に召すままに、仕事とか仕事とか仕事をしてたんだな」
「い、いや」
一瞬だけ、ルシルの頭が不規則に動いた。世ではこれを、動揺と呼ぶ。
「そんな、ことは」
「本当ですか?」
疑念をあらわにしたのは、肩に乗っている白猫副隊長だ。
「十中八九、いえ九分九厘、無理をしているものとお見受けしますが。例えば、稽古」
「む、無理などしていない」
「稽古の強度は段階的に戻すように、と十番隊から指導を受けているはずですが、遵守していますか? 『強くならなければ』などと焦って、かかり稽古なんてしていないでしょうね?」
ぎくっ。
平常心の軋む音が聞こえた。
「肺炎療養中と、その後の段階的な復帰で溜まっていた書類、私に少し回せと言いましたよね。一向に回ってきませんけれど」
ぎくっ。
平常心のひび割れる音が聞こえた。
「気の……せい……じゃないか……?」
「非番に検出センサーの不具合を探りにきたひとがどの口で『気のせい』ですか」
ルシルは、その同世代から見ても整った顔を手のひらで覆ってうつむき、魂をも吐き出すような盛大なため息をついた。
疑うべきだった。非番でもないメルが、本部待機という束の間の休息ともいえる時間を割いて、自分の外出に付き合ってくれるなど、いやに殊勝すぎる。自分を監視するためだったのだ――それに今さら気づいたルシルは、何年経ってもこの年上の後輩には敵わないままである。心配してくれるのは嬉しいが、彼女のやり方はデリカシーや情け容赦という単語を知らない。
氷架璃は隣で呆れ顔だ。
「……あんた、育ちがよすぎて嘘がつけないんだな。ハッタリとかはかますくせに」
「う、うるさい。とにかく私は今、お前に構っている場合では……」
ルシルの足が、息が止まる。
「ルシル?」
氷架璃も立ち止まり、彼女の顔をのぞきこんだ。口のあたりを手で覆って硬直してしまったルシルに、気分でも悪いのかと身構える。
しかし、正確には、ルシルが覆っていたのは鼻で、そうさせたのは猫の鋭い嗅覚がとらえた不吉なにおいだった。
「……メル」
「はい、においます」
ルシルはゆっくりと顔から手を離しながら、鋭い視線を巡らせた。やや上方に留めた碧眼は、前方右寄り、遠く遠くを見つめていた。氷架璃もそちらへ目をやる。
今日も文句なしの晴天だ。雲一つなく、まるで青い絵の具を溶かした水面のようで――そこに一滴の墨汁を落としたかのように、徐々に煤色にけぶっていく。
見間違いかと思った。あるいは、やんちゃな車がしぶとい排気ガスでも残していったのかと思った。だが、次から次へと上ってくる黒い気体は、明らかに存在感を増していっている。
「まさか……」
風が吹いた。ここ最近、深まり切った春の空気を運んでくる、力強い風だ。
けれど、今、氷架璃の鼻をも突いたのは、晩春の薫りではなく、むせるような焦げたにおい。
「――行くぞ!」
タッ、と鋭くルシルが駆け出す。氷架璃も慌てて追いかけた。陸上競技はあまり得意ではない氷架璃だが、それを差し引いてもルシルは駿馬だ。足音も軽やかに、ぐんぐん氷架璃を引き離していく。その肩に危うげなく乗り続けているメルも大したものである。
走りながら、氷架璃は黒煙の立ち上る方角を見据えた。空にかかる煙の面積はどんどん大きくなっている。現場に近づいているためだけではない。かさは確実に増え、黒さは濃くなっている。
ルシルがブロック塀に囲まれた十字路で足を止めた。乱れた呼吸を整えながら、右手にのびる道沿いを見上げている。そこだ。確信を抱きながら、氷架璃もルシルの隣に走り込んだ。そして、実際の現場を前にして、絶句した。
予想していたとはいえ、いざ実物に直面すると、まばたきもできないほどの衝撃に喉が震えた。気管にざらつくきな臭さ。鼻腔を通って舌に感じる煙の苦味。高い悲鳴とざわめきの混沌。過去世界でジンズウが起こしたあの爆発を鮮烈に呼び起こす橙の揺らめき。波のように押し寄せて体にまとわりつく熱。――五感で感じる、火事の現場。
「……これが、怨讐インフェルノ……」
何がボヤか。目の前のそれは、れっきとした火災だ。二階建ての一軒家の二階部分からは、屋根も見えなくなるほどの黒煙が立ち上っていた。遠目では見えなかった炎は、今やその勢いを煙に匹敵するほどに増している。割れた窓という窓から、二階部分を包み込もうと朱色の手を広げていく。
その周囲を何人もの人々が囲み、目を見開いて見上げていた。口を覆って言葉を失う主婦、「通報したか!?」「誰か、消防呼んだ人は!?」と叫ぶ男性たち。少し離れたところで、怖いもの見たさにのぞく小学生グループ。野次馬が、と一瞬思った氷架璃だが、よく考えると自分たちも今、野次馬の一角をなしている。
俊足を見せながらも相応に息が上がっていたルシルが、漂ってくる煙に体を折って咳き込んだ。風下ではなかったが、長いセリフを紡いだだけで呼吸を乱すほど弱った彼女の体は、風向きの揺らぎで気まぐれに流れてくる煙にも悲鳴をあげていた。
跳ねる背中をさすりながら、氷架璃が口と鼻を袖で覆って声を張る。
「ルシル、離れるぞ! ボヤならあんたでも消せようが、こりゃ無理だ!」
「げほ、げほっ……だが……!」
「ルシルさん、氷架璃さん。あれを」
ルシルの肩で、前足に顔の下半分をうずめながらメルが左奥を見るよう促した。氷架璃とルシルが走ってきた方向と反対側のそちらは風下で、激しく湧き出る煙が向かう方向でもあった。同時に、炎も。その先には、ブロック塀から飛び出た、隣家の庭の木の葉が――。
「まずい、隣の家に燃え移るぞ!」
「消防車はまだか!?」
「大通りで交通事故があったって! 多分そのせいで迂回してる!」
「このままじゃ全焼よ!」
周囲の人達の叫び声で、絶望的な現状が把握できた。迅速な消火は望み薄だ。ここに留まり続けていれば、爆発に巻き込まれる可能性だってある。
二人は、同時に意を決した。
「逃げるぞ、ルシル!」
「氷架璃、お前一人で逃げろ」
は、と瞠目して固まった氷架璃の手が背中を滑り落ちるのを感じながら、ルシルはゆっくりと身を起こした。ふーっと長い息を吐き切ると、碧眼は煌々として暴れる紅蓮をキッと見据えた。
「メル、燃え移りそうになっている家の方へ回るぞ。人払いを」
「しかし……」
「やらないならもう帰っていい。私一人で何とかする」
そっけなく言いながら、ルシルは野次馬のいない裏へと回る。メルはしばらく黙っていたが、やがて表情を変えずに純猫術を発動させた。ワープフープがもつ特性と同じ、通常の人間の認識をそらす術だ。得意の洪瀧で消火を試みる自分の姿を、人間たちに晒さないためだろう――氷架璃にも容易に想像がついた。
だが。
「無理だ、ルシル、この風じゃ!」
一段と強い今日の風。
煤煙と火片を隣家へと吹き流すそれは、延焼を阻止しようとするルシルの放水を阻んだ。いくら炎を吐き出す窓枠を正確に狙っても、水流は二階の高さに到達するまでに先端から風に砕かれて分散してしまう。
絶え間ない水術の使用で額に汗を浮かべながらも、ルシルは氷架璃の制止を突っぱねる。
「今ここで放水できるのは私だけだ。私がやらなければ……!」
「でも届いてないじゃんか! 爆発とか倒壊とかしたら、こっちも巻き込まれるかもしれないんだぞ!」
「だからお前は逃げろといっただろう。私はここに残る」
「なんであんたがそんなにムキになるんだよ!」
「火事になって!」
二階へ向けて突き出した両腕の間に顔をうずめるようにして、ルシルは腹の底から叫んだ。声がひび割れるほどの絶叫に鬼気迫るものを感じて、氷架璃がひるむ。
ルシルは顔を伏せながら、肩を震わせて声を絞り出した。
「火事になって……残るのは、一つだけ。燃えかす、それだけだ。大切な物も、当たり前の景色も、そして命も……鮮やかな何もかもが、色を失った燃えかすと化すんだ! そんな悲劇があるか!」
再びキッと炎を見上げたルシルの真に迫った言葉に、氷架璃は先日聞かされた先の侵攻の一連の話を思い出した。多くの犠牲者を出したチエアリの進軍は、ある事件をきっかけとした大量の負の思念が引き金だった。その事件こそ、とある町の大火事だったのだ。
当時から在籍していた水猫のルシルが、消火要員に駆り出されないわけがない。必死に消火活動を続ける中で、きっと彼女は目にしてきたのだ。燃えていく日常を、焦がされていく命を。
だからこそ、必死になるのかもしれない。自分が火に最も有効に立ち向かえる水の使い手だからというのもあるだろう。
しかし、現実は願う通りにはいかない。彼女の心血を注いだ献身は、隣家の植木に伸びる紅蓮の魔の手に届かない。
何より、強力な水術を使い続けるルシルの体力は、もう限界に近いはずだ。これ以上は体への負担が避けられない。
「よせ、もうすぐ消防車が来る! あとは消防隊に任せれば!」
「きっと誰かが助けてくれる、きっと何とかなる……そう思ったから、私はユキルを失った! 霞冴まで失いかけた!」
ルシルの叫びに悲痛な響きが混ざる。痛みに耐えるように眉をきゅっと寄せ、彼女は激情をほとばしらせる。
「もうたくさんだ! ここで逃げたら絶対に後悔する。私は、私は今度こそ、私の決めた強さを行動で示さなければならない! 私が目指した強さを……」
瑠璃色の瞳の裏によみがえったのは、かつての青龍隊員としての日々。どこか噛み合わない、けれど頼もしい二人の先輩。
時に優しく、時に厳しく、いつも慈愛の心で引っ張ってくれた少女。
大事なことは二の次で、のらりくらりと気楽そうで、けれど最後は青龍隊を守るために戦い、散った青年。
その二人に、決意を言葉にして伝えたのだ。
――ようやく見つけました。私にとっての強さとは――。
「後悔しない選択をし、それを成し遂げる! その強さを! あの日、心に決めて誓った強さを、私は!」
「――よくぞ言ったわ」
声が応えた。
氷架璃も、ルシルも、メルも、人払いされた裏道に現れた闖入者の気配に瞠目した。だが、氷架璃と他の二人の反応は微妙に違っていた。
氷架璃の動きを止めたのは、突如として予想外の四者目が現れたという事実。
対して、ルシルとメルの瞳を揺さぶったのは、彼女らの記憶の深い部分を揺り起こす響き。
「でも、私はこうも教えたはずよ」
後ろを振り返る。優しくて、淑やかで、けれどしなやかに強い芯の通った声は、今にももらい火を受けてしまいそうな隣家の屋根の上から聞こえていた。
逆光の中にたたずむ、四つ足の影。耳はフィライン・エデンの猫特有のアーモンド型で、尾の先はふさふさとした長毛になっている。ほとんどシルエットしか見えないが、背後から浴びる光に透ける毛並みは小豆色。
洪瀧を放つのも忘れて後ろを振り仰ぎ、肩を震わせるルシルに、包容力に満ちた大人びた声が降り注いだ。
「――『その強さは、一人で成し遂げるものでなくてもいい』と」
静まれ、気憩。
そう聞こえた。
直後、炎をなびかせるものが消えた。煙をたなびかせるものもなくなった。翻っていた髪が、真っ直ぐに下を向く。
風が、彼女にひれ伏した。
「今だ、ルシル!」
「轟け、洪瀧!」
周囲が全くの無風になると、ルシルは勢いよく手から奔流を放った。何にも邪魔されることなく、放物線を描いて窓に注ぎ込まれた大量の水は、縄張りを外へ広げようとしていた炎を削りながら、窓際の火元をも押さえ込んだ。
「よっしゃ! ひとまず燃え広がらずにすみそうだな!」
「……音が」
ガッツポーズを作った氷架璃の耳に、メルの蚊の鳴くような声が届いた。何の音か、と尋ねるより先に、その答えが徐々に近づいてくる。じきに赤い車体と橙の防火服がお目見えすることだろう。二階部分は大変気の毒なことになってしまったが、倒壊や爆発、延焼が起きる前に到着してくれたようだ。
引き際だ。ルシルが放水をやめ、腕を下ろすと同時に、頭上で羽ばたきが聞こえた。背中に真っ白な翼を携え、空中を滑るように下降してきた猫は、氷架璃の目線の高さでぱっと羽根を散らし、その姿を変貌させた。
はらはらと舞う羽根の中心で、足音も軽やかに降り立ったのは、小豆色のセミロングヘアをした背の高い女性。ゆったりとした袖と桜色のストールをふわりと浮かせて着地しながら、つま先の動きでゆっくりと体ごと振り向く。
視線の先、瑠璃色の双眸が潤むように揺れるのを見ながら、彼女は慈しむように微笑みかけた。
「久しぶりね、ルシルちゃん」
「……はい……っ」
瞳と同じように揺れる声で、ルシルは淡い笑みを浮かべながら、その名を呼んだ。
「お久しぶりです――うとめさん」
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