フィライン・エデン Ⅲ

夜市彼乃

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11.七不思議編

51降臨コーリング ⑥

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***

 それから、雷志はガオンに積極的に人間界のことを教えた。ガオンもまた、精力的に学ぶ姿勢を見せた。特に、収入と社会勉強を兼ねたアルバイトには熱心に取り組み、元々の頭のキレもあってか、たちまちこの世界の常識を我が物にした。
 振る舞いだけではない。この時には、自ら猫力を封印し、深紅の瞳を漆黒のそれに変えていた。抜き身の刃のような気配と、軍人のような隙のなさは抜けないものの、黒髪黒目になるだけで随分と人間らしく見えた。素人なら一ヶ月ほどかけて完成させるという内界封印インサイドシールを、三日で成し遂げてみせるところなど、さすが元猫力学者だ。
 梅雨が明け、夏休みに入ると、雷志は耀や同世代の猫達と過ごすことが多くなった。それでも、格安の携帯電話を持たせたガオンと一日に一度はメールを交わし、時々勉強を教えてもらいに行き、他愛ない話をした。
 ガオンは相変わらず感情の起伏に乏しく、言葉少なだった。けれど、雷志が無邪気に名を呼び、天使の笑顔で話を弾ませるたび、彼の心を覆う角張った氷塊は、確かに少しずつ融かされていった。
 大学入試問題集の残りページが減っていき、ショッピングモールに合い物が並び始め、ツクツクボウシが合唱の主役となり――そして、別れを告げられた。
「遠くへ行きたい」
 茜差す夕暮れ、決意を聞いた土手を歩きながら、ガオンはそう言った。
「この町は……光丘は悪くない。のどかで、人々の気性も穏やかで、住みよい場所だ。だが、この町には……ワープフープがある」
 目を伏せたガオンの口から絞り出されたその用語に、雷志はこの世界の一員となった男の本当の正体を再確認した心地だった。同時に、彼が何に囚われ続けているのかも。
 人間界とフィライン・エデン。物理的距離で論じることのできない隔たりをもつ二つの世界は、しかし、超常的な青い扉を挟んで一歩向こうにある。いわば、光丘の隣町。それが、彼が葬り去った故郷だ。
 この時代のフィライン・エデンは、もちろん健在だ。バブルやウィンディ、その他の友人たちも平和に暮らしている。そうであったとしても、ガオンにとっては死の淵に指をかけたくなるほど忌まわしい記憶を呼び起こさせる場所だ。そこからできる限り距離を置きたい。そう思うのも無理からぬ話なのだ。
「光丘から、いっそ東京から離れたい。ワープフープもフィライン・エデンも頭をよぎることのない、遠い地で人間として暮らしたい。だから……」
 ガオンは、まるで上目遣いのような視線で、自分よりはるかに身長の低い雷志を見つめた。そこで言葉を止めるガオンの内心が透けるように見えて、雷志は思わず笑ってしまった。
 謝るべきか。礼を言うべきか。それとも、これ以上言葉を重ねざるべきか。どうすれば、世話になった雷志に報いることができるのかわからない。
 そんな、どこまでも不器用な男に、雷志は微笑んで首を横に振った。
「別れる必要などありません、ガオンさん。私も行きます」
「な……」
「あなた一人ではまだ心配ですもの。私は看護師にさえなれれば、居住地には特にこだわりません。もともと親元を離れて暮らしていますし。ただ、あと半年。高校を卒業するまで待ってもらえませんか。そしたら……」
 きっと実家の埼玉からも遠く離れる。皇学園の友人たちとも簡単には会えなくなる。そんな、並みの少女なら二の足を踏んでしまいそうな決断も、九頭竜雷志には一点の曇りも与えない。それどころか、一新される未来に胸を躍らせ、期待に顔を輝かせ、大きく両腕を広げる。朱色の斜陽に染まりながら、この世界のどこまでも手が届きそうなほどに。
「どこへ行きましょうか、ガオンさん。北海道は夏は涼しくて自然が豊かです。京都は古き良き町並みで、きっといろんな和菓子が食べられますよ。晴れた日が多くて水と緑に恵まれた広島も魅力的です。沖縄なんて、まるで違う国のような情緒があって、海がきれいです。どこへだって行けますよ。あなたが望むどこへでも、私が連れていってあげますから」
 朗々たる声が、ガオンの迷い躊躇いを吹き飛ばす。猫の目にも暗くて見通せなかった道の向こうを、あふれ出す笑顔が夕日よりまばゆく照らし出す。
 その姿を、ガオンはまぶしそうに見つめていた。一度、顎を引いて瞑目する。白い喉がわずかに動いた。
 まぶたを上げた彼の瞳には、一つの決意が宿っていた。これから先、生きていく居場所――それよりも遥か遠くを見据えたまなざしで。
「雷志」
 夕風に長い髪をなびかせる少女に、彼は呼びかける。
「お前は俺に多くを教えてくれた。信号機もバスの乗り方も知らなかった俺に、教科書には載っていなかった人間界の数多を。きっとこれからは、自分自身でもこの世界での生き方を学んでいける。だが、一つだけ、きっと俺一人ではわからないことがある。願わくば、それは他ならぬお前に教えてほしい」
「もちろん」
 雷志は両手を後ろに回し、前に乗り出すようにして笑いかけた。
「何をご希望ですか?」
 これまで、彼には何度も訊かれ、問われ、尋ねられてきた。公共機関の利用法、インフラの仕組み、社会体制や歴史。内容は高度ながら、子供のように旺盛な好奇心に、雷志は教員になったような高揚感を覚えながら、しかし一方的に教えるというより、共に学ぶようにして応えてきた。一緒にバスや電車を乗り継いで遠出をしてみたり、インフラツアーに参加してみたり、博物館に足を運んだり。
 学ぶなら、共にその世界に飛び込むのが信条。さあ、次は何を一緒に見に行きましょうか?
 そんな、今までと同じ顔で質問内容を待つ雷志に、ガオンは最後の願いを口にした。
を教えてほしい。この世界の、家族を」
 少女は目を見開いて動きを止めた。夕日に透ける髪だけが、のんきに風に乗って揺れ動いていた。
 いかに雷志が花恥じらう初心な少女でも、その言外の意味を見逃すほど野暮ではない。
「……いいん、ですか?」
 口をついて最初に出たのは、その一言だった。
「だって、あなたには……」
「あいつには、二度と会えない」
 ガオンは重くかぶりを振った。平気を装っているようだったが、深く根差した感情をえぐりだし、切り捨てた場所からは、痛々しい血が流れていた。
「俺は決めたんだ。人間として生きると。この先、あいつに寄り添える可能性は万に一つもない。ならば、雷志。この世界のだれよりも、俺は……お前にそばにいてほしい」
 血を流しながらも、ガオンはまっすぐに雷志を見ていた。顔を上げ、前を向いて。
 うつむき、歩道橋の下を見下ろしてばかりいた三日月ガオンは、もういない。
「ガオンさん」
 これまで、男子生徒に勇気を振り絞られたことは何度もあった。体育館裏に呼び出され、靴箱に恋文をしのばされ、学校行事の終わりに告白を受けた。
 今、この瞬間に受けた告白は、これまでのどれよりも付き合いの短いひとからの、どれよりもハードルの高いものだった。それなのに、これまでのどれよりも胸が膨らんで。これまでのどれよりも、幸せな未来が鮮明に目に浮かんで。
 その背景に見たのは、母の故郷の南の島だった。
「種子島へ行きましょう。そこが、あなたの……私たちの新天地です」

***

「そうして、私は高校卒業後、ガオンさんとともに九州に渡った。鹿児島の看護学校に行くことにしたから、初めは九州本島に住んでいたのだけどね。働き始めると同時に、種子島に引っ越したの。急な人生設計だったけれど、父母が快く資金を貸してくれたから、いろいろ困らずにすんだわ」
 そこまで話して、雷志はティーカップを傾けた。彼女がお気に入りのフレーバーティーに頬を緩めている間に、芽華実が雷奈に目を向ける。
「前にも話していたものね。母方のご両親が裕福だったって」
「埼玉に住んどるけん、ほとんど会ってなくて、よく覚えとらんけど。今どうしとるかもわからんし」
「雷奈ちゃんたちも、雷夢ちゃんと雷帆ちゃんが身を寄せた私の従姉も、私の父母の当時の連絡先を知らなかったしね。あの二人なら、喜んで三人とも迎えてくれたかもしれないけど……いまさら言っても仕方ないわね。二人とももう高齢だし、何よりあなた達は自分の居場所をすでに確立してるんだから。……父も母も、元気でいるといいのだけど」
 長いまつげを伏せてため息をこぼす雷志は、もうこの世にはいないはずの人物だ。フィライン・エデンと関わりのない雷志の父母には、彼女の蘇りを説明できるわけもなく、よって、もう二度と会うことは叶わない。せっかくこの世界に戻ってこられたのに、「ただいま」の一言さえ伝えられない。
 雷奈は一度、強く唇を引き結んだ後、裏返りかけた明るい声で問うた。
「で、おじいちゃんとおばあちゃんが資金ば工面して、母さんが夜勤だの何だのって働いている一方で、親父はアルバイトでちまちま小遣い稼ぎっちゃか?」
「いいえ、とんでもない」
 雷志は穏やかな笑みを浮かべながらも、ガオンの尊厳を守るようにきっぱりと首を振った。
「彼はちゃんと大黒柱になったのよ。資産運用を覚えてね。あのひと、頭が切れるから、普通のサラリーマン以上に稼いでて」
「ええー……?」
「それだけじゃなくて、オンラインで高校生向けの教材を作るサービスを見つけて、在宅勤務していたのよ。お父さん、普段ずっと家にいたでしょう?」
「言われてみればそんな気も……?」
「どうりで潤沢なわけだよ……」
「しかれども」
 肩をすくめる氷架璃の言葉の余韻を遮るように、雷華がぴしゃりと言った。
「娘の幸せな将来を想って経済環境を設えた雷志の両親は、ヤツに恩を仇で返されたわけだ」
 水を打ったように静まり返った六畳の間。雷志は再びティーカップの水面に視線を落とし、物憂げに微笑んだ。
「そうね……そう思われた、でしょうね」
 祝儀の内祝いに愛娘の遺骨を送られた両親の胸中を慮らないわけではない。されど、自身を手にかけた夫に矛先を向けるでもない。
 誰も恨みたくはない。その博愛の姿勢は、少女のころから変わらない、親友の言「オリーブを携えたハト」そのものだ。
「……しばらくは、本当に穏やかな日々が続いていたのよ。雷帆ちゃんも生まれて、みんなすくすく育って……。でも、ちょうど雷帆ちゃんが小学校に上がる二年ほど前かしら、ガオンさんの様子がおかしくなり始めたのは」
「おかしく、とは?」
 美雷が慎重に尋ねる。雷志は、なぜか美雷には丁寧な口調を崩さず答えた。
「時々、ぼーっとしていることがあったんです。いつも隙を見せなかったあのひとが上の空になっているなんて珍しくて、当時は少し心配していて」
 雷志の言葉を、美雷はわずかに身を乗り出すようにしてじっと聞いている。続く情報を待つ彼女に応えようと、テーブルのふちに視線を滑らせてさらに記憶の糸を手繰り寄せていた雷志は、「あ、そうそう」と雷奈に目を向けた。
「それから、雷奈ちゃん達は気づいていなかったでしょうけど……たまに、猫力の封印が解けていたの。見間違いじゃなく、赤い目になっていることがあったわ」
「え……っ!?」
 驚愕に、雷奈は手のひらで口を覆った。氷架璃や芽華実たちの視線に、声も出せない口で「気づいとらん、気づいとらん」と伝えながらふるふると首を振る。
「時がたつにつれて、だんだんその頻度は増えていったわ。その時に話しかけて、彼に向けられた目が、冷ややかでとても怖いこともあった。……ああ、あと、この頃だったわね」
 雷志はふいに、神妙な面持ちで目をすっと細めた。ここへ来て初めて見る表情だ。温かな微笑の消えた、温度のない面差し。
 嫌悪ではない。怒りでもない。彼女は、そんな黒く濁った感情を持ち合わせない。
 強いていうなら、晩春の桜に、落花を傍観する純黒の一輪を見つけたような瞳。
「その……頃?」
「ええ」
「……何が、っちゃか?」
「あのひとの容姿が……ほとんど変わらないことに気づいたのが」
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