フィライン・エデン Ⅱ

夜市彼乃

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10.三日月の真相編

50三日月を討つ日 ⑥

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***

 雷奈は、修学旅行から帰った次の日、自室で姉と妹と会っていた。その際、何らかの話し合いの末、急遽九州に帰ることになった。プライベートなことらしく、氷架璃と芽華実は席を外していたし、雷華も所用で一時退席していた。だから詳細は誰も知らない。なお、氷架璃と芽華実のその後の外泊は、雷奈の突然の帰郷にショックを受けて、ネットカフェで一晩泣き明かしていたことによる。
 そんな、クラスメイトや教員、氷架璃と芽華実の家族、そして神主夫婦にも通用する、美雷作のカバーストーリーを手土産に、翌日、二人はフィライン・エデンを後にした。
 すでに雷華とも口裏を合わせているらしく、「よくネットカフェなんて知っていたな、と言われてしまったわ」と笑う美雷に、愛想笑いさえ作ることもできなかった。
 表情筋一つ思い通りにならなくて、頭もぼんやりして働かないここは、きっと夢の中だ。だから、きっとそのうち目覚めて、戻ってきた現実には誰一人欠けることなくみんながいる。
 そのはずなのに、頬をつねるまでもなく、胸を締め付ける痛みがやまなかった。
 ワープフープの路地裏を出て目にした、二日ぶりの光丘。ほんの数日空いただけなのに、いやに懐かしく感じる家並み、電柱、道端のエノコログサ。
 けれど、変わらないはずのどの景色も寂しくて、空虚で、まるで遺影額を通して見ているかのようだった。屋根も、草木も、空も、全てがブロック塀と同じ無彩色に映る。死んだのは、町か、それとも。
 おぼつかない足取りで灰色の道を歩き進んだ二人は、家路の分かれ目まで、一言も発することはなかった。からっぽになった心からは、言葉一つ生まれなかった。言葉は心から出るものだと、初めて知った。
 そして、それは涙も同じなのだと、乾いた目で虚空を眺めながら、そう思った。

***

「学校は体力も気力も消耗すると思うので、しばらく休んだほうがいいですよ」
 そう深翔に釘を刺され、四日間「風邪」で欠席したのち、三年B組に復帰して今に至る。ちなみに、アワとフーは交通事故で入院中というシナリオになっていた。
 この学園で、二人は幼いころからいつも一緒にいた。氷架璃は芽華実がいれば、芽華実は氷架璃がいれば、小さな心は満たされて、ただ幸せだった。
 今だって、同じ場所に立つ校舎の中で、二人は昔と同じように、共に寄り添っている。
 学年が変わったこと以外、あの頃と変わらないはずなのに。それなのに、どうしようもなくむなしくて、あの頃にはなかったものに対する喪失感が胸に巣くっている。
 これが、失うということだ。
 日常に上乗せされていた幸福が除かれて、元のそれなりに満ち足りた日常に戻るのではない。人は貪欲で、幸運にもたらされたものさえ、あって当然の基盤に取り込んでしまう。だから、それを失うというのは、肥えた日常が深く削り取られる痛みを伴う。
 それも、すっぽりときれいに抜き去られて穴が空くのではない。誰しもにとって、世界は複雑に絡み合ってできている。パズルのように、一つ一つがきれいな境界を引いているわけではなく、繊維のように全てがつながりあっている。
 だから、どの一部が失われたとしても、ついた傷は、無理矢理引きちぎられたような形をしている。その縁はほつれて、ささくれ立って、他をも傷つけながら、そこには確かに何かがあったのだと主張してくるのだ。そして、だからこそ、破れた穴を、縫い目も継ぎ目もなく埋めなおす術など、誰も知らない。
 四日ぶりに登校してきた二人を迎えたのは、彼女らの体調を気遣う声。そして、美雷と示し合わせた雷華からの説明を受けて、最初の衝撃波が過ぎ去り、あとに残るさざ波。けれど、そのさざ波さえもかき消していくのは、きたる体育祭の足音への期待だ。
 ずれている、と感じた。まるで空間がひずんで、無邪気に笑いあうクラスメイト達とは断絶された場所を歩いているかのよう。一メートルも離れない同じ床を踏んでいるはずなのに、彼女らの足元と自分たちの足元はつながっていない。すぐそばに日常は見えているのに、歪んだドアが開かないように、いびつな断面を越えてそこへ戻ることができない。源子と契約すれば元に戻るだろうか、などと考えてしまうほどに。
 雷華がどちらの世界の住人なのか、氷架璃と芽華実にはわからなかった。
「私には、彼奴あやつが死んでいるとは思えぬのだ。根拠はない。確かに、状況からみて助からぬ可能性が高いだろう。だが、もし本当にそうならば……もっと私の中から何かが失われるような気がしてな」
 そう言って、いつも通りの表情で、動きで、学校生活を送る、雷奈の肉親の少女。
 双子は離れていても通じ合っていて、相手の状態を察することができる、などという話を耳にすることがある。片割れの雷華がそう言うのであれば、すがるように期待してしまってもいいのだろうか。
 それとも、その言葉は、雷奈の喪失を受け入れられない気持ちの裏返しだろうか。
 当初はいさかいもあったし、その後も傍若無人な振る舞いに変わりはない。それでも、雷華は雷奈の家族だ。修学旅行の夜、涙をこぼす雷奈を諭した雷華の声は、確かに親愛をたたえたものだった。
 もしかしたら、ニュースになるほどの異常気象があった種子島には、何らかの調査員が派遣されているかもしれない。雷奈の捜索が主目的でなくとも、偶然見つけることになってもおかしくはない。
いまだ、種子島で彼女が保護されたという報道は聞かないが、それは同時に、彼女が最悪の結果で発見されたわけでもないことも意味する。
 ならば、雷華の言う通り、雷奈の生存を信じてもよいのかもしれない。ハッピーエンドが見えないかわりにバッドエンドも見えない、そんな不安定で消極的な、道すがらの希望にすがって待ち続けることもできるのかもしれない。毒リンゴを食べた先、最後はきっと大団円が待っていると信じて。
 けれど、この今がエンディングでないなどと、誰が言いきれるのだろう。
 去年の夏、雷帆にとりついたチエアリ・クロガネは、雷奈を三枝岬で葬ろうとした。死体も見つからない形で。彼女の最期を告げるものを何も残さない方法で。
 もしあの時、雷奈が敗北していれば、残された者たちは結末を迎えたことも知らないまま、ありもしない予定調和の待ちぼうけ人となっていた。今回もそうでないと言いきれる保証はない。
 今こそ、自分たちは、毒リンゴに倒れた白雪姫の復活を、最後のページで永遠に待っているのかもしれない。

***

 一件の後、氷架璃と芽華実は、一度だけフィライン・エデンに足を運んだ。行き先は希兵隊本部。自分たちのプチ入院の間は会えなかった、三名の様子が気になっての見舞いだ。
 医務室を来訪して早々、カーテンの間からひょこっと顔を出して二人を迎えたのは霞冴だった。ふにゃっと笑う彼女の体を包むのは、いつかと同じ入院着。もう着たくない、という彼女の願いは、半年ほどで絶たれてしまった。それでも、ぐったりと脱力して雪に体をうずめていた霞冴が、そうして笑顔を見せてくれるのは、安心以外の何物でもなかった。
 ケガとしては最も軽傷だったものの、小柄で筋肉量も少ない霞冴は、低体温症でかなり消耗してしまったらしく、まだ休養を余儀なくされていたようだった。とはいえ、ふらつきながらも歩けるまでに回復したらしい彼女に連れられて、二人はルシルの病床も見舞った。
 ルシルのほうは、霞冴よりもずっと重症のようだった。低体温と、臓腑をむしばんだ光術のダメージも懸念されたが、もっと深刻なのは溺水による肺炎だ。高熱に喘ぐ彼女の口元には酸素マスクがあてがわれ、意識はあるものの言葉を発するに至らない状態。
「私がクロ化して倒れてた時、ルシルはこんな気持ちだったんだね」
 パルスオキシメーターをつけている方と反対の、点滴につながれている手前側の手を優しく撫でながら、霞冴は不安げに笑いかけた。ルシルの微細な表情の変化に、「えっ、もっと? そっか、私の時は昏睡状態だったもんね……心配かけてごめんね」と答えて。
 想像以上に重い容体に、氷架璃と芽華実は早めに切り上げてルシルの病床を後にした。
 その日、残る一人であるコウの見舞いは叶わなかった。霞冴によると、彼自身が拒否しているとのことだった。
 人間や正統後継者の前であれだけ手ひどくやられたのだ。つぶれた面目では会いたくもないのだろう。それに、もしかすると、先日の美雷の謝罪が聞こえていたのかもしれない。あれは、換言すれば、希兵隊の不甲斐なさの明言。もしあの時、意識があって、話を聞いてしまっていたならば、追い打ちのようにプライドを傷つけられたに違いなかった。二人とて、忸怩たる思いに傷ついているコウを見たくはない。
 霞冴曰く、彼は肋骨が折れていて、しばらくは安静を要するようだったが、気管が損傷していなかったのは不幸中の幸いだったとのこと。回復には向かってはいるようだったし、第一、誰よりも早く意識を取り戻したのは彼だったという。そこは、さすが希兵隊最強の異名をとる男だ。
 それ以降、二人は一度も、あの異世界へ通じる路地裏へは入っていない。
 だから、見舞いのタイミングを逃した、あとの二人と再会したのは、昨年と打って変わって惨敗した体育祭の翌週、十一月半ばのことだった。
 療養期間の二週間を経て、氷架璃と芽華実の前に姿を現したそれぞれのパートナーは、「人間接待の二家としてあるまじき失態をば」と、雷華の部屋の畳の上で土下座した。二人とも主体だったので、土下座というより、猫派発狂必至の「ごめん寝」にしか見えなかったが、これでも全力での謝罪だった。
 何せ、退院早々、それぞれ両親にこってり絞られたというのだ。「時空洞穴に突っ込んでいったのは私たちも同じじゃん、それに命がけで守ってくれたじゃん」という氷架璃の反論にも首を振り、「それを阻止せず、結果としてケガまで負わせた責任は重大」とアワ。「何より、パートナーではないとはいえ、雷奈の件はおおごとだ」とのセリフには、氷架璃と芽華実も何も言い返せなかった。「絞られすぎて体重げっそり減っちゃったよ……」というため息には、「そりゃ入院のせいだ」と一蹴をお見舞いしたが。
 なんにせよ、まだまだ各所への報告や今後の対応に追われて多忙を極めた二人が、再び学校に来るようになったのは、それからさらに二週間後のことだった。
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