フィライン・エデン Ⅱ

夜市彼乃

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10.三日月の真相編

49三日月の頃より待ちし ⑨

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***

 頼もしい雄たけびを聞きながら、雷奈は何度目ともわからず斬りかかる。今度こそ届く、と思った時には鋼の手で受け止められていて、毎度のことながら、意外な反射神経のよさに驚く。キャッチボールもできなかったくせに、戦闘能力は一人前にあるというのは、さすがはフィライン・エデンの出といったところか。
 相変わらず、ガオンに雷奈を傷つける意思はないようで、反撃はいつも彼女の得物を狙ったものだった。鉄の塊で叩き折ろうとしたり、刀身を丸ごと凍り付かせようとしたり。いずれも危うく難を逃れたが、油断は禁物だ。今は術らしい術は使わず、カウンターで雷奈の手をとらえようとしたり、バランスを崩させようとしたりしているが、いわばルシルの「東の三」の解除のように、唐突な術の使用を企んでいるのかもしれない。希兵隊との戦いで血まみれになっているガオンだが、この期に及んで猫術は健在なのだから予断を許さない。
 いったん遠間に退き、雷奈は息を整えた。さしもの彼女も、先の大雷撃は体力を消費したのだ。
 それも見抜いているのだろう。ガオンは、今は埋め立てられた雪解けの池を一瞥した。
「まさか、ああ来るとはな。あの口達者に気を取られて、雪の融解への注意が欠如していたか」
 悔しそうな気配は微塵も感じないが、雷奈を止めようとしなかった以上、本当に気づいていなかったのだろう。氷架璃の口八丁も侮れない。
 だが、そんな小細工が次も通用するとは限らない。あれは最後の奇跡だったのかもしれない。相手はあの怜悧な父だ。回りくどいことはせず、力で押し切るのが近道かもしれない。
 手の内を意識し、中段に構えなおす。気剣体の一致を怠る剣道経験者ではない。気概は十分だ。
「ところで、お前」
 そんな雷奈を怪訝そうに見て、ガオンは問うた。
「――なぜ笑っている?」
「そりゃ、笑うっちゃろ」
 にやり、雷奈は笑みを濃くした。こんな油断も隙もない状況なのに、意思に関係なく喜色があらわになる。
 気を高揚させ、闘志を燃やし、体に熱い力を巡らせた、あの言葉を思い出しながら、雷奈は馳せた。
 ――みんな得意不得意が違うから平等なんだ! 猫力の強さ一つだけで決まるわけでも、水泳やピアノの腕前一つで決まるわけでもない世界だから! だから私たちは肩を並べられるんだよ!
 誰にだって、得手不得手はある。きっと、何かが得意な人は、その分と同じだけ何かが不得意で、何かが不得意な分と同じだけ、何かが得意なのだ。そして、何かが得意な人の数と同じだけ、苦手な人がいて、何かが苦手な人の数と同じだけ、得意な人がいる。人の中で、人の間で、ならしてしまえば結局は平らになるようになっているのだろう。
 けれど、雷奈たちが住む人間界に、圧巻の猫力の強さを長所とする者は他にいない。極めて例外的で、同時に彼女らにとって特別な意味を持つ長所だ。水泳やピアノなどと並べられる代物ではない。頭一つ分出るような異質で、ややもすれば誰かの心に劣等を生む異端。
 なのに、あの快活な友人は、そんな点は些末とばかりに、無造作につかんでは他の「普通」の隣に並べてしまう。そして細大も軽重も関係なく混ぜこぜにして、ならして、杓子も定規も使わず「よし、同じくらいだろ」と笑う。
 叫んだのは氷架璃でも、きっと芽華実も同じ心の内だ。普通の人間でないなど関係ない。神殺しの娘などかかずらわない。目分量で「私らと同じだよな」と言う氷架璃の隣で、いつものように微笑んでうなずくのが目に浮かぶ。
(そんな二人だから、氷の中の私を見て、助けに来てくれた)
 足を狙って切り上げ、軽快な身のこなしでかわすガオンを追撃。後ろでは、言霊とともに氷架璃の得意がストロボのように明滅する。
(そんな二人だから、私はこうして背中を預けて戦える)
 腕をつかまれ、振り回すように突き飛ばされる。すぐさま体勢を整え、駆け抜ける勢いで刀を振りぬく。鋼と化した手にはじかれるも、体をねじって引き技の面で、逃げ遅れた肩口を浅く削ぐ。
(そんな二人だから……大好き。ずっと、一緒にいたい)
 剣先の数センチについた血液を、足元の雪でそそいで、構えなおす。刀身を後ろに回す、脇構え。現代剣道にはない構えだが、リーチを隠すのに最適な形だ。
 その背中に、氷架璃の詠唱が届く。
「極彩色の帰納、白色はくしょくの来訪、余熱の対話と触発の刻限、恣意の半夜に真価を語り明かせ!」
 朝日のようなまばゆさと温かさを背に、雷奈は腰を落とした。一気に間合いを詰めたら、ギリギリ刃が届く距離で水平に斬る。そのビジョンを鮮明に浮かべて、氷架璃の言霊が術を完成させると同時に地を蹴る。
「煌めけ――」
 ――しかし、その突貫は叶わぬものとなった。
「氷架璃ぃっ!」
「……え?」
 途絶えた言霊、芽華実の悲鳴。
 頭からつま先までまとっていた集中力が、ふっとくうに消える。拍子抜けした声とともに振り返った雷奈は、目に飛び込んだ赤に凍り付いた。
「氷架璃!?」
 流れるほどの血が、氷架璃の右のすねからあふれ出していた。横座りにへたりこんだ彼女は、傷口を押さえながら呆然としている。痛みより先に驚愕に支配されたのだろう。目を見開いたまま、声も出さない。右手の指が、爪との境界線もわからないほど、真っ赤に染まっている。
 五メートルほど先から、徐々に氷架璃へと近づいていくダークは、炎属性のはずだ。なぜ、大きく切られたような裂傷が生まれたのか。
 一秒後には、雷奈の疑問は解けた。雷奈とガオンがいる場所から、氷架璃たちを挟んで向こう側に、もう一体の新たなダークが出現していた。
 無論、自然発生ではない。雷奈とやりあっている間に、片手間に――。
「どうりでしばらく術も使わんとおとなしいと思ったら……!」
 歯噛みしてにらんでも、冷徹な瞳には響かない。無駄はやめ、雷奈は氷架璃に駆け寄ろうとした。だが、動転が災いしてか、後ろから伸びてきた撓葛にまんまと足を引っかけられ、無様に転倒する。
「うぐ……!」
 顔面から雪にダイブし、殴打の痛みか刺すような冷感かもわからない刺激にうめいた。刀を右手から離さないまま、とにかく顔を上げ、ぷはっと雪を吹いて呼吸を取り戻す。ぐいっと目元をぬぐって視界が開けると、芽華実がこけつまろびつ氷架璃に駆け寄ろうとするところだった。
 だが、その足も突然止まる。芽華実の顔に恐懼が浮かんだ。
 同じ顔で、氷架璃は、もうすぐそこまで来ていた炎のダークを見上げていた。正確には、を凝視していた。開いた口元で渦巻く灼熱の塊を。玉も石も、善人も悪人も、等しく灰に帰す無慈悲な業火を。
「ひ……かりっ!」
 喉を引きつらせ、震えながらも、芽華実は再び足を踏み出した。彼我の距離は約十メートル。到着が間に合ったとしても、氷架璃を連れて逃げる前に、芽華実も消し炭になる。そんな計算なしにも、本能が身をすくませる紅蓮を前にしてなお、大切な友を救おうと手を伸ばす芽華実に、氷架璃が痛みをこらえて叫んだ。
「来るなッ!」
 鋭い声にひるんだ芽華実が、再び足を止めた。けれど、目にいっぱいの涙をためた芽華実は、いや、いやと激しく首を横に振りながら、力と勇気を振り絞って前に進もうとした。
 その先で、揺らめきながらかさを増していた炎が、一瞬静かになった。氷架璃も、芽華実も、起き上がったばかりの雷奈も、直感的に察した。
 嵐の前の静けさ。今に、業火は放たれる。
「いやっ……氷架璃ぃっ……!」
「氷架璃ッ!」
 芽華実が出る。雷奈も立ち上がる。けれど、弾趾も使えない彼女らに、一瞬で氷架璃のもとへ行き、一瞬で退避する術などない。もしダークに言語能力があったなら、「バカめ、間に合わないぞ」と嘲笑していたに違いない。
 氷架璃の口からほとばしった、空を貫くような絶叫が、曇天に突き当たって響き渡った。
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