フィライン・エデン Ⅱ

夜市彼乃

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10.三日月の真相編

49三日月の頃より待ちし ⑧

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「氷架璃、つるが……!」
 生命力みなぎる、しなやかな植物の腕も、巨大な怪物の抵抗の前に限界を見せ始めていた。ダークの頭部に近い箇所で、ぶちぶちと音を立てて繊維が綻び始める。一度顕現させたツルを修復する技術までは、芽華実は持ち合わせてはいない。
 グンッ、大きく頭が振られる。直後、耐えかねたつるは、布を裂くような音とともに引きちぎれた。
「うお!?」
「きゃっ!」
 体重をかけて引いていた二人は、案の定、慣性に抗えず後ろに転んだ。雪の上についた手は、すでにツルとの摩擦でひりつきを放っており、冷感が刺すような痛みに変わる。雪の粒に噛みつかれたかのようだ。
 だが、手の痛みごときに構っている場合ではない。体ごと、ゆっくりと二人の方を向いたダークが、口元に赤白い光を蓄え始めた。
「やべぇっ、逃げろ芽華実!」
 氷架璃と芽華実は、互いに背を向けて逆方向へ飛び出した。足跡だけが残った場所に、散弾のような火の弾が降り注ぐ。ダークはしばらく、穿たれた雪面を見ていたが、やがてのっそりと首を回した。距離を取りながらも、逃げ惑うことなく様子をうかがう黒髪の少女のほうへ。
 一瞬だけたじろいだものの、口元だけで笑って走り出した彼女へ、ダークの触手が伸びる。背中をかすめんばかりのギリギリのタイミングでそれをかわしながら、氷架璃は手元に源子を集めた。
「よっしゃ、こっちだこっち! 差せ、光砲!」
 かつては集中して詠唱から始めなければならなかった光術も、雷奈の逃避行で一念発起して続けた修行のおかげで、走りながらの言霊で撃てるようになった。
 だが、その威力はいまだ微々たるものだ。首筋に一発、一呼吸置いて中腹右寄りに一発を見舞うものの、致命的なダメージは見込めない。
 それでも、氷架璃の狙いの一つは達成されていた。猫の俊敏性を借りてちょこまかと動き回り、時折光砲を放つ彼女を、ダークは触手で追いかけ回す。この分では、雷奈など眼中にないだろう。
 体力には自信のある氷架璃だが、さすがに呼吸は乱れていた。青息吐息ながら、口八丁はやめない。
「そうそう、そのまま私の相手してな! 正直、光術を習っただけで、戦闘なんて素人だが……もうこうなったらやぶれかぶれだ。これで世界を救えるなら……!」
 挑発に夢中になっていたのか、いまだ無傷であることに慢心していたのか。幼馴染の声が激しく飛んでくるまで、氷架璃はに全く気づいていなかった。
「氷架璃、ダメ! 右っ……逃げて!」
 氷架璃から見て、ダークは正面にいた。触手は今、収縮したところで、さっき放たれた炎の砲弾は、左の視界の端に着弾したはずだ。何を恐れるのか。
 ――最も恐れる深紅の目が、その無表情もはっきり見える距離から氷架璃を捉えていた。
「――ッ!?」
 手が伸ばされる。攻防戦の最中、いつの間にか何も隔てぬ一直線上に立ってしまっていた氷架璃に向けて。
 その手に、閃光が宿る。
「やべっ……!」
 頭が回避を叫ぶが、困憊気味の体はすぐには言うことを聞いてくれない。
 ガオンの手のひらがひときわ激しく光力を増した、直後。
「こっち!」
 金切声に近い叫びと同時、氷架璃の手がグイッと引っ張られた。あまりに唐突で、危うく脱臼しそうになる。引っ込み思案な彼女にしては、相当に思い切った力だ。もつれかける足が二歩踏んだところで、氷架璃のうなじをかすめて白色のレーザー光線が空を切り裂いた。
 ぶわっ、と総毛立ちながら、氷架璃は芽華実に手を引かれるままに、ダークが盾になる位置に逃げ込んだ。しかし、一寸先は闇。逆にダークの視界に入った二人は、後ろからしなりながら迫った触手に打ち据えられ、大きく飛ばされて雪の上を転がった。
「氷架璃、芽華実……っ!」
 反射的に名を呼んでから、雷奈はキッとガオンをにらみつけた。腹の底が燃え上がる。手心なく氷架璃を射殺そうとしたガオンはもちろん、彼に氷架璃を狙う余裕を与えてしまった自分自身への感情も焚きつけにして、その火を原動力に斬りかかった。
 だが、感情のレールに乗せた攻撃は、単調な直線軌道をたどる。ガオンは体を横にさばき、いとも簡単に斬撃をかわすと、刀を振り下ろした雷奈の左手首を力強くつかんだ。そして、そのまま上へと捻り上げる。
「うぅ……っ!」
 ケガをする寸前にとどめる力加減。それでも、下手に動けば関節が外れそうな、危うげな痛みにうめいた。柄を離しそうになるのを、意地に任せてこらえている。けれど、動きを封じられている以上、反撃に移れない。一撃必殺の急所を熟知しているガオンだ。捻り上げる部位も、角度も、力も、全て一挙手一投足さえ許さないための計算ずくだろう。
 体をよじることすらできない雷奈から視線を外し、ガオンは転がったままの二人に向かって口を開いた。
「愚かな人間だな。世界を救う? 付け焼刃の半端者が、力もないくせによく言う」
 嘲笑することも、高圧的に声を上げることもない、それすらも必要ないとばかりの蔑みを漂わせて、彼は言う。
「こいつは自らの剣を抜いて立ち向かっているかもしれん。だが、お前たちは、ただ拾った木の枝を振り回して勇んでいる子供だ。ごっこなのだ。ただの人間ごときが、君臨者の気まぐれで与えられた中途半端な力で、世界を救えるわけがないだろう」
「侮辱せんで!」
 刀を握ったまま、頭上に手を固定された姿勢で、雷奈が怒号する。大声を出したときの体のブレさえ、手首に響いた。骨の軋みに肩を震わせて耐えながら、雷奈はなおも声を上げる。
「氷架璃も芽華実も、半端者やなか! チエアリと対峙したことだってあるとよ! その気になったら……!」
「お前は何か勘違いをしているな」
 血の色の双眸が、つと雷奈を見下ろした。
「共に過ごす中で、あの二人と自分が同等のものだと思っているようだが、それは違う。俺の正体がわかって、思い知っただろう。お前とあいつらは、本質的に違うのだ。お前の持つ強さを、あいつらにも求めてはいけない」
 一方的に押し付けるような、残酷な諭しの中、彼の瞳がうっすらと光りだす。雷奈はハッと凍り付いた。凝視により発動する術。念術だ。気づいたところでどうすることもできず、手を離された雷奈は無重力に浮かび上がり、見えない手によって二メートルほど突き飛ばされた。手首に残る、淡く赤い手形に、雪の冷たさがしみる。
「それは逆もしかりだ、人間ども。お前たちは雷奈と行動を共にすることで、こいつに比肩するものだと思いこんでいるようだが、本当は気づいているだろう。術のセンスも、力も、雷奈には遠く及ばないことを」
 聞きようによっては、雷奈への賛辞かもしれない。だが、彼女本人は微塵も嬉しくなどなかった。親友たちを蔑まれ、彼女らと肩を並べたいと思う自分を否定されて、嬉しいはずがない。
 起き上がった雷奈は、しゃがみこんだまま、手首を押さえて痛みをこらえていた。手首は、まだ痛いのだと思う。確信が持てないのは、違和感の残る骨の継ぎ目より、胸の奥が激しく痛むから。
 彼は雷奈を傷つけない。確かにそうだ――肉体だけは。
「お前たちが戦う本当の理由は、世界を救うなどという高尚な目的のためではない。ただ雷奈に並んでいたいからだ。置いてけぼりにされたくないだの、認められたいだの、そんなくだらない私情で、その命を危険にさらしているのだろう」
 唇を強くかんだ雷奈は、引きつる喉を叱咤して反論しようとした。が、それより早く、力ない笑い声がガオンに応じた。
「確かに……あんたの言うとおり、私と芽華実は半端者かもしれないな」
 氷架璃が、雪の中に手をついて座り込んだまま、深く頭を垂れていた。
「猫力の発動だって、初めはうまくいかなかったし、術の成功率だって低かった。今でこそ、すぐに力を呼び覚ますことはできるけど……アワたちみたいな応用が利くわけでもないし、威力だって雷奈と比べるべくもない。……母さんの仇でさえ、雷奈なしでは取れなかったんだ。あんたなんか……その仇の親玉であるあんたなんか、憎くて憎くてたまらないのに、私じゃ手も足も出ない。……まして、世界を救う力なんて……ないんだろうな」
 ガオンがすっと目を細める。対照的に、雷奈は目を見開いて氷架璃を見つめた。それは、彼女の言葉に絶望を見たからではない。泣き言を言うには、その声は力強すぎた。
「でもな、見てわかるだろ。私たちがダークの相手をすることで、雷奈はあんたに集中できる。そして、あんたさえ倒せば平和になる。……私たちは、雷奈が世界を救う手伝いが出来るんだよ」
「そう銘打って、名誉のおこぼれを頂戴ということか。賤劣な」
「ちげーわッ!」
 苛烈な怒声とともに、氷架璃がバッと顔を上げた。諤々たる態度を辞さない、正義に一途な強気な瞳でガオンを見据える。
「だいたいな、なんで私たちが雷奈に置いてけぼりにされたくないだの、認められたいだの、劣等感を抱かなくちゃいけないんだ! いいか、確かに雷奈は頭いいし、かわいいし、戦っても強い。でもな!」
 この場の全ての視線を受けながら、四つ這いの姿勢のまま、衰えぬ気迫をそのままにぶつける。
「私は雷奈より身長高いし、水泳が得意だ! 芽華実だって、雷奈よりピアノうまいし、手先が器用だ! 縫い物編み物、織り物だってできちゃうんだぞ! いいか、みんな得意不得意が違うから平等なんだ! 猫力の強さ一つだけで決まるわけでも、水泳やピアノの腕前一つで決まるわけでもない世界だから! だから私たちは肩を並べられるんだよ!」
 まばゆい啖呵がはじけ飛び、吹き付ける雪の粒たちさえも照らしたかのように感じられた。名前負けしない、名すら恥じるほどの燦燦たるバイタリティは、まるで生命に熱と希望を与える太陽。彼女がくありたいと望むそれだ。委員長を務める学級で、時に皆の前で、時に皆の中心で見せる気勢は、最凶の巨悪の前でさえ衰えない。誰を相手にしたところで臆面もない、氷架璃らしい氷架璃がそこにいた。
 けれど、その威容に目を奪われていた雷奈は、ポツリと頭の中で呟いた。
(――らしくない)
 ただ一つだけ、らしくない。
 普段の氷架璃なら、そんな決め台詞は仁王立ちして拳を握って叫ぶところだ。なのに、今ときたら、ずっと四つ這いに座り込んだまま、言葉だけを意気軒昂に吐き出している。
 体が恐怖に負けた? 深手を負った? それでも、彼女ならば意地で立ち上がるだろう。
 にもかかわらず、ここ一番の局面で、その素振りさえ見せなかった氷架璃は、ハッ、と白い息とともに短く笑って。
「……って言ったら、雷奈が身長やら何やら気にするから、『世界の平和』って素敵な言葉で隠してたのに! 言わせんな、この野郎! 台無しじゃねーか! あーあ、雷奈に怒られる! お得意の雷で丸焼きにされる! もし今、放電されたら大惨事だ! なんたって、!」
 早口でそう叫んで、バッと勢いよく立ち上がった。光術の熱量でほぼ溶け切った、かつて雪だった液体が指先からしたたる。雪解けの清水は、融解を逃れた周囲の雪にせき止められて歪な三角形を描き、雷奈とダークを湖中に囲い込んでいた。
(本当に、らしくない)
 二度、声に出さずに独り言ちる。
 らしくない。
 ――氷架璃が、策士なんて。
「ってことで……」
 言い終わらぬうちに、身をひるがえし、遅ればせながら氷架璃の意図に気づいてぽかんとする芽華実に駆け寄った。彼女の手を強くつかむと、ぐいと立ち上がらせる。そして、その手を引いて、全速力で雷奈やダークたちとは反対方向へと遁走。
 遁走しながら、大絶叫。
「やっちゃって雷奈ぁぁぁ!」
「誰がチビとかぁぁぁ!」
 直後、巻き起こった雷電は、爆弾の炸裂に等しかった。激しい明滅、耳をつんざく轟音。安全地帯へ逃れた氷架璃と芽華実の頬にまで、空気を介した振動が伝わってくるかのように感じられた。まして、水を伝ってその衝撃を受けたダークはひとたまりもない。白光の中、硬直した巨体から、黒いものが噴き出す。
 バリバリバリバリ! と轟く、頭痛を誘うようなすさまじい音は、十秒弱ほど響き渡った。やがて、徐々に細くなると、吹きつける風音に消えた。光が消えてあらわになったのは、まだパチパチとスパークを散らしながら肩で息をする雷奈。そして、その後方数メートル先、半分以上縮んで氷架璃の身長と変わらぬほどになったダーク。
「っし!」
 歯を見せてガッツポーズし、氷架璃は芽華実を振り返った。
「芽華実、あの水まだ怖いから、足場、作れるか?」
 まだ鼓膜がじんじんしていた芽華実は、耳をいたわるように覆いながらうなずいた。
「うまくできるかどうか……。でも、やってみるわ!」
「任せた!」
 氷架璃は振り返ることなく走り出す。その後ろで、芽華実は深呼吸すると、両手を突き出して術を選んだ。
 彼女が今使える術は、草を育てる養叢、根を生やす堅肢、ツルを操る撓葛の三種類。足場にするのに最も適した木材、つまり幹に当たる部分を生み出す術を会得していないのだ。
 草は足場になるはずもない。堅肢は所詮は根。太めのものを召還したとて、橋にしかならない。複数呼び出せば埋めつくせないこともないが、円柱の形をしたそれらの間には溝ができてしまい、足を引っかけてしまいかねない。ツルも同様である上、弾性がありすぎて、さらに足元が不安定になる。
 氷架璃はまっすぐに三角江を目指す。スピードを緩めることなく、全速力で。自信のなさげな芽華実に、全幅の信頼を寄せて。
 きっと、失敗したところで、彼女はただ笑ってくれるだろう。その安心感は、いつも芽華実の背中を押す。
 だから、彼女は思い切ってその詠言を叫んだ。
二穴ふたあなの足、惰気飾る苦悩、意思超えるがんと心得よ、思考の広原に盲目に踊れ! 這え、堅肢!」
 詠唱に勢いづけられた細い根が、三角江の最も手前、一頂点の近くの、人の足の長さほどの幅をちょこんと橋渡す。一秒もたたないうちに、一本分隙間を空けて隣を、直後にはやはり一本分空けたそのまた隣を。人の腕より細い根が、三角江を斜線で色を塗るように埋めていく。途切れることなく、頂点を始点としてダークまでの水面を次々に覆っていく滑らかさは、まるでピアノのグリッサンドを奏でるかのよう。使用した根は、二十本はくだらない。
 だが、たかだか間をあけて並んだ細い根だ。隙間に足を取られかねない上、強度も心もとない。
 だから、汗を浮かべながらも、芽華実は第二段階に移る。
「墓無き命、感情無き魂、ことならば裁きは有る者に帰せよ、指数えつながれた自由に従え! 伸びろ、撓葛!」
 雪の中から顔を出したのは、今度は緑色が深いツル。またも一瞬ずつずれて、立て続けに現れた大量のつるは、根と垂直に交差する方向に伸びた。それも、まるで波打つように、根の上下を交互に通る形に浮き沈みして。
 そこへ到達した氷架璃の足が、根とツルで織りなされた足場を踏んだ。強度の保証も何もない、初めて目にするその場しのぎの床を、思いっ切り。ぎし、と少したわんだものの、それは壊れることなく、程よい反発力を氷架璃の足の裏に返す。
 突発的な源子の大量服従と、いつになく細かな指示による疲弊で、膝に手をつきながらの芽華実が、吐息交じりに笑った。
「平織り……伸縮性が少なくて硬めだから、いけると思ったのよ」
 普通の木の床のようとまではいかないものの、走るに差し支えない足場を駆け抜ける氷架璃。人間の丈ほどに縮んだダークは、それまでと比べて拍子抜けするほど、威圧感を欠いていた。結局、またしても雷奈の手を借りてしまったが、ここからなら。
 士気に乗って距離を詰め、氷架璃は手元に小さな太陽を蓄える。
「あんたは私の手で消されるダーク第一号だ! 誇りに思え、そして覚悟しろ!」
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