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10.三日月の真相編
49三日月の頃より待ちし ⑥
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「斬り裂け、游断ッ!」
鋭利な水が奔った。ガオンの右手の付け根が、一センチほどピッと切れて血を飛ばす。手を引くのがもう少し遅ければ、小指と薬指くらいは落としていただろう。
驚いて振り向く雷奈たちの前に飛び出した術者は、続けて言霊を放つ。
「巡れ、渦波!」
突き出した両手から水がほとばしったかと思うと、大きく渦を巻いてガオンへと向かっていった。人の身長ほどもあるすり鉢状の渦潮は、初速度から予想されるより遥かに速くガオンに接近し、その体を飲み込んだ。ひとたび捕えられれば、洗濯機の中に放り込まれたかのようにもみくちゃにされる。
雷奈たちは息を詰めながら、このまま押し切れやしないかと淡い期待を抱いた。だが、その期待も、水しぶきとともに散って消える。大人の男一人閉じ込められる渦潮といえど、高さ四メートルもある大猫に変化されては容量オーバーだ。
再び巨大なチエアリの姿になったガオンは、赤い瞳で目の前の相手をあざけった。
「たかが正統後継者が、希兵隊を返り討ちにした大敵に一人で歯向かうか」
「正統後継者だからだよ」
彼は渦波を放った両手を下ろしながらガオンをにらんだ。
「他に誰も残っちゃいないんだ。この状況で歯向かわなきゃ、ボクはもう二度と流清家の門をくぐれない」
中性的な声質ながら、ざらついた硬い響きが、まるで彼の立つ戦場に錨を落とすかのようだった。
いつも素直さと気弱さが災いして、パートナーやその他の仲間に振り回されがちな苦労体質の少年だが、今の彼は見違えるほどに毅然としていた。黒い瞳に、頑として引かない強固な覚悟を宿し、友人たちには決して向けない厳しい目つきで、ひるむことなく最悪の敵を見据える。
「アワ……」
氷架璃はルシルをコウの隣に横たえると、固唾を飲んでパートナーの背中を見つめた。細身で、お世辞にも強そうとは言えない体つき。立ち姿だって、あまりにも無防備で素人丸出しだ。次の瞬間には吹っ飛ばされていてもおかしくない。それほど、力量差は歴然としていた。
だが、氷架璃の目に映る彼の後ろ姿に、「無謀」という言葉はどうしても重ならなかった。ならば、今、氷架璃の目を奪って離さない、その態度の物珍しさ以上の感情は、何と名付ければいいのか。
端的には表せないが、決定的に言えることがある。
今のアワの隣に、氷架璃は立てない。あまりにもおこがましくて、肩を並べるなど許されない。
この安全地帯から見える、体の横に下ろした彼の手は、一ミリも震えていなかったから。
「そうか。まあ、どちらにせよ……お前が実家の門をくぐることはもうないだろうな」
冷たく言い放つと、ガオンは身をそらして天を仰いだ。猫の姿をしていながら、まるでオオカミが遠吠えをするような格好に、どこか不気味さを覚える。何か仕掛けてくる――そう身を固くした雷奈たちは、閃光が頭上で炸裂するのを予期できなかった。
轟音と同時に奔るのは落雷。閃いてから逃げては間に合わぬ、超高速のエネルギー。それが、一瞬のうちにアワに襲いかかった。
「アワ……!」
氷架璃が叫ぶ間に、まばゆい稲妻はまっすぐに落ちた。が、地上約三メートルあたりで、何かにぶつかったように放射状に広がった。まるでドームの外壁を伝うように湾曲しながら、地面に降りて見えなくなる。光度が失われたあとに見えたのは、透ける橙色をした半球と、その中心で右手を真上に掲げるアワの姿。ガオンの視線を読んだ彼は、落雷よりも一刹那早く、頭上を始点として結界を張ったのだ。
だが、結界術には決定的な欠点がある。なにせ、結界を張っている間、術者は移動もできず、殻に閉じこもった状態だ。敵の攻撃が結界を越えてこない代わりに、敵への反撃も結界の外へは届かない。相手を倒さない限り終わることのない攻撃なのに、そこから身を守るのに手いっぱいという、根本的な手段を全て捨てている主客転倒の状態だ。
今も、新たにガオンの周囲から放たれる電撃が、結界の左右から正面から絶えず浴びせられる。手を突き出す方向を前方に変え、そちらを中心に結界強度を上げるも、このままでは膠着状態だ。我慢比べにもつれ込めば、どちらが先に屈するかなど知れている。
「そこからどうする気だ?」
目もくらむような電撃を発しながら、ガオンは挑発的に言った。
それに対して、アワは不敵に笑んだ。
「こうする気さ」
突き出した両手、その片方で刀印を結ぶ。右手で結界を維持したまま、一言一言歯切れよく詠唱した。
「誕りて始、紀めて終、瀑布を飲み干しここに捧げ、緘黙を罰し、佇立を刑し、世統より濃く誘い呼べ!」
象徴化された命令に従い、周囲の源子が水の様態をとる。まるで湧き水のようにかさを増していき、やがてアワの周りで螺旋を描く水流が巻き起こった。川の上流のように激しい流れだ。
しかし、それが結界の壁を越えることはない。だからといって、ガオンが電撃を止めない以上、結界を解くわけにはいかず、水術もただのこけおどしの域を出ない。
「どういうつもりだ、アワ……!?」
不安げな氷架璃をよそに、詠唱は完了した。あとは、言霊とともに放つだけだ。だが、今放ったところで、結界の内壁に衝突してアワ自身に跳ね返ってくるだけである。
それを見越しているがゆえに、ガオンは攻撃の手を緩めない。
そして、同じくそれを見越しているがゆえに、アワは――。
「轟け、洪瀧!」
結界を張る手はそのまま、急に腰を落としたかと思うと、片膝をついた姿勢で左の手のひらを足元の雪にたたきつけた。とたん、周囲で龍のように舞っていた水流が、左手の動きを無邪気に真似て、勢いよく積雪の中に飛び込んだ。まるで大型犬が穴を掘るように、雪のしぶきをあげながら、大量の水は白い地面の奥へと消えていく。
状況は、数十秒ほど前に巻き戻ったかのように見えた。片手で御していた結界は、電撃の圧に耐えかねて軋みだしている。ガオンがもう少しでも力を加えれば、アワを守る防壁はあっけなく崩壊するだろう。
まさにガオンはそのシナリオに沿おうとしていた――だが、直後。
「……!」
ブワァッ! と、ガオンの前方に積もった大量の雪が、水しぶきとともにガオンの顔めがけて吹き上がった。あまりに突然の出来事に、さしものガオンも、回避も防御も間に合わなかった。みぞれのような白い煙幕をもろにかぶると同時、電流が途切れる。
自分にかかってきたわけでもないのに、つられて身をそらした氷架璃が声を上げる。
「なんだ、今の!? どうなったんだ!?」
「そっか!」
事態を飲み込めた雷奈の視線の先で、アワがすばやく結界を解く。
「アワの結界、地面にぴったり蓋ばかぶせとるみたいに見えてた。やけん、水が通る隙間なんてないと思っとったけど……本当は雪の表面までしか張られてなくて、水はその下ば掘って外に出たとよ!」
「牢の床下を通って脱獄するみたいなアレか!? アワにしては狡いな!?」
「聞こえてるよ、氷架璃っ!」
シュッと空を切り裂いた刀印の軌跡が、再び水の刃を生み出した。二つ同時に飛来した三日月形の水圧は、さながら顔を洗う猫の仕草で雪をぬぐうガオンの軸足を鋭く斬りつけ、身じろぎ程度にバランスを崩させた。そのままダメ押しの水術を放とうとして、しかし言霊いらずの反撃が先んじる。
「う……っ」
文字通り電光石火の雷砲が肩に着弾して、アワの身動きを痛みとしびれで縛る。足までもが奇妙に硬直して、膝を折りかけたが、一歩踏み出して何とかとどまった。熱感に似た痛覚をこらえて、被弾したほうの腕をつかみ、アワは一時的な不整脈に喘いだ。
ガオンは頭部を震わせて水滴を振るい落としながら、雷砲を放った前足を下ろした。視界が悪くなければ、今の一撃も心臓を狙い打っていただろう。
再び開かれた赤い瞳が、痛みに慣れていない素人らしい苦悶の表情を睥睨する。
「諦めろ、流清の青二才」
声は、道理を説くように平坦なものだった。
「お前はしょせん家柄だけの存在だ。神託を受け、相応の権限を持つ、あの世界における選ばれし者。だが、それだけだ。『流清』の名も『風中』の名も、戦場では物言わぬ飾りにすぎん。血筋も権力も、お前たちを騎士にはしてくれんのだ」
フィライン・エデンではときに敬遠の対象ともなる名を、大猫は洪瀧でえぐれた地面に吐き捨てる。
選ばれし人間と対になる、選ばれし猫。生まれる家を選ぶこともなく、彼らは「特別」の名を着せられる。
学者たちが帰納に帰納を重ねて机上におぼろげに描き出す神の、その御心に直に触れられるのも、人間に関しては枢機組織たる三大機関の権力を凌駕するのも、全ては人間界の新たな風を吹き入れてフィライン・エデンを発展させることで繁栄してきた二家の、規格外の特殊性によるもの。
正統後継者となった時点で決められた道。権限と表裏一体に与えられた使命。されど心に刻むのは、誇りと名誉と、誰にも譲れないアイデンティティ。
彼らを彼らたらしめる、重く尊い黄金に縁どられた名が「それだけ」だなど――。
「――知ってるよ」
白い息に乗せて、彼は言った。声を揺らしたのは、苦痛か、自嘲か。
「そんなこと……もうずっと前からわかってる。誰よりも人間のそばにいることを許されて、希兵隊にも情報管理局にも学院にも進言することを認められて、だけどパートナーを守らなきゃいけない他でもないボクに、流清の名はその力を与えてはくれなかった。名前を振りかざしたって君には傷一つ付けられない。権力を盾にしたって君の術一つ防げないんだよ」
ふらつきながらも体勢を整えると、彼は荒い呼吸を二つ繰り返した。白い煙の塊が一つ、二つ。おまけのもう一つは、かすれた笑い声と同時に生まれた。
「希兵隊に稽古をつけてもらったところで、彼らには遠く及ばない。当たり前だよね。彼らが誰かを守るために戦っている間、ボクたちは人間と笑いあうことを考えているんだ。これで有事の際は人間を守れなんて、無茶もいいところだよ。ダークが相手だって、チエアリが相手だって、勝てるわけないだろ。刀じゃなくパートナーの手を握るためのこの手で、一体どうしろっていうんだよ」
腕を押さえていた手を胸元に持ってくると、上着を巻き込んできゅっと握りこんだ。その握力は、小柄な少女であるルシルや霞冴にも敵わない。
ガオンの周囲に、手のひらほどの大きさの、鋭い氷の欠片がいくつも現れ、アワを冷ややかに見つめた。浮遊する氷片は、弱々しくうつむく少年をせせら笑いながら、彼の首筋に飛び掛かった。
「……だけど」
顔を伏せたままのアワの腕が、さっと左から右へ空間を薙ぐ。直後、その動きを追うように急流が駆け抜け、氷の弾丸を食い尽くした。
宙を泳ぎ、Uターンでアワの元に戻ってきた水の流れが、アワを取り囲むように螺旋にとぐろを巻く。上げた顔を寄せ、まるで龍の子をあやすかのように手をかざすさまは、どこか芸術的で華麗だった。
「だけど、そういう問題じゃない。勝てるから戦うとか、勝てないから逃げるとか、そういう理屈じゃないんだ。ボクは流清アワ。命を懸けて人間を守ることを課された正統後継者。だから戦うんだ。たとえ刺し違えようと、無駄死にしようと……立ち向かうには十分な理由なんだよ!」
じゃらすような手つきから一変、熾烈にガオンへと突き付けられた右手。そろえた指先の示すほうへ、とぐろをほどいた水の龍が翔ける。左目を狙った一点集中があぎとを開く。
だが、あと少しのところで、すぐさま動いたガオンの前足が、破裂音に似た響きとともに水流を叩き折った。前部三十センチメートルほどは、推進力を失ってしたたり落ちた。後続はといえば、極寒の冷気を注ぎ込まれ、前部と切り離された断面からすさまじい速度で凍りついていく。そして、凍ったそばから時間差で、まるで導火線を伝うように苛烈に爆ぜていく。
勢いよく飛び散った破片は、顔をかばいながら傍らを駆け抜けるアワの手の甲とこめかみに赤い筋をひいた。食いしばった歯の間から、小さなうめきを漏らしながらも、立ち止まることなくガオンの側面に回りこむ。
「陽向の庭、日陰の葵、銀の鉤に薄羽の神」
風を切り、鋭い爪が迫る。後ずさり気味に反対方向へかわしながら、刀印と反対の手が鼻面に水砲を見舞った。詠唱の傍らで別の術を放つのに要する途方もない集中力が、アワの眉間に深い溝を刻む。
その労力をあざ笑うかのように、ガオンの前足の一振りは、いとも簡単にかまいたちを生み出した。舌打ちをこらえて、迫りくる二つの風の刃を、こちらは四つの水砲で迎撃する。さすがに連続で術を繰り出そうとすれば、一度口をつぐまざるを得ない。それでも、幸いにしてかまいたちが脇にそれていくと、最後の詠唱を紡ぎきる。
「一字の道を遅疑なく辿れ!」
アワの声が、とどめの気概を源子に注ぎ込む。どれだけ力を込めたところで、きっと希兵隊が片手間に放つ攻撃にしか届かない。
だとしても、むしろそれならば、放てるだけの全力を放つのみだ。できる限りの速さにのせて、最大限の集中力を注いで、ありったけの力強さで水の刃を飛ばす、その命令を叫ぶ。
「斬り裂け、游だ……」
――その声をかき消したのは、迫る風切り音だったか、氷架璃の叫び声だったか。あるいは彼自身が呼吸ごと声を止めたのかも知れない。実際どうだったかなどわからないほどに、それは一瞬の出来事で、実際どうだったかなどどうでもいいほどに、飛び散った液体は赤かった。
鋭利な水が奔った。ガオンの右手の付け根が、一センチほどピッと切れて血を飛ばす。手を引くのがもう少し遅ければ、小指と薬指くらいは落としていただろう。
驚いて振り向く雷奈たちの前に飛び出した術者は、続けて言霊を放つ。
「巡れ、渦波!」
突き出した両手から水がほとばしったかと思うと、大きく渦を巻いてガオンへと向かっていった。人の身長ほどもあるすり鉢状の渦潮は、初速度から予想されるより遥かに速くガオンに接近し、その体を飲み込んだ。ひとたび捕えられれば、洗濯機の中に放り込まれたかのようにもみくちゃにされる。
雷奈たちは息を詰めながら、このまま押し切れやしないかと淡い期待を抱いた。だが、その期待も、水しぶきとともに散って消える。大人の男一人閉じ込められる渦潮といえど、高さ四メートルもある大猫に変化されては容量オーバーだ。
再び巨大なチエアリの姿になったガオンは、赤い瞳で目の前の相手をあざけった。
「たかが正統後継者が、希兵隊を返り討ちにした大敵に一人で歯向かうか」
「正統後継者だからだよ」
彼は渦波を放った両手を下ろしながらガオンをにらんだ。
「他に誰も残っちゃいないんだ。この状況で歯向かわなきゃ、ボクはもう二度と流清家の門をくぐれない」
中性的な声質ながら、ざらついた硬い響きが、まるで彼の立つ戦場に錨を落とすかのようだった。
いつも素直さと気弱さが災いして、パートナーやその他の仲間に振り回されがちな苦労体質の少年だが、今の彼は見違えるほどに毅然としていた。黒い瞳に、頑として引かない強固な覚悟を宿し、友人たちには決して向けない厳しい目つきで、ひるむことなく最悪の敵を見据える。
「アワ……」
氷架璃はルシルをコウの隣に横たえると、固唾を飲んでパートナーの背中を見つめた。細身で、お世辞にも強そうとは言えない体つき。立ち姿だって、あまりにも無防備で素人丸出しだ。次の瞬間には吹っ飛ばされていてもおかしくない。それほど、力量差は歴然としていた。
だが、氷架璃の目に映る彼の後ろ姿に、「無謀」という言葉はどうしても重ならなかった。ならば、今、氷架璃の目を奪って離さない、その態度の物珍しさ以上の感情は、何と名付ければいいのか。
端的には表せないが、決定的に言えることがある。
今のアワの隣に、氷架璃は立てない。あまりにもおこがましくて、肩を並べるなど許されない。
この安全地帯から見える、体の横に下ろした彼の手は、一ミリも震えていなかったから。
「そうか。まあ、どちらにせよ……お前が実家の門をくぐることはもうないだろうな」
冷たく言い放つと、ガオンは身をそらして天を仰いだ。猫の姿をしていながら、まるでオオカミが遠吠えをするような格好に、どこか不気味さを覚える。何か仕掛けてくる――そう身を固くした雷奈たちは、閃光が頭上で炸裂するのを予期できなかった。
轟音と同時に奔るのは落雷。閃いてから逃げては間に合わぬ、超高速のエネルギー。それが、一瞬のうちにアワに襲いかかった。
「アワ……!」
氷架璃が叫ぶ間に、まばゆい稲妻はまっすぐに落ちた。が、地上約三メートルあたりで、何かにぶつかったように放射状に広がった。まるでドームの外壁を伝うように湾曲しながら、地面に降りて見えなくなる。光度が失われたあとに見えたのは、透ける橙色をした半球と、その中心で右手を真上に掲げるアワの姿。ガオンの視線を読んだ彼は、落雷よりも一刹那早く、頭上を始点として結界を張ったのだ。
だが、結界術には決定的な欠点がある。なにせ、結界を張っている間、術者は移動もできず、殻に閉じこもった状態だ。敵の攻撃が結界を越えてこない代わりに、敵への反撃も結界の外へは届かない。相手を倒さない限り終わることのない攻撃なのに、そこから身を守るのに手いっぱいという、根本的な手段を全て捨てている主客転倒の状態だ。
今も、新たにガオンの周囲から放たれる電撃が、結界の左右から正面から絶えず浴びせられる。手を突き出す方向を前方に変え、そちらを中心に結界強度を上げるも、このままでは膠着状態だ。我慢比べにもつれ込めば、どちらが先に屈するかなど知れている。
「そこからどうする気だ?」
目もくらむような電撃を発しながら、ガオンは挑発的に言った。
それに対して、アワは不敵に笑んだ。
「こうする気さ」
突き出した両手、その片方で刀印を結ぶ。右手で結界を維持したまま、一言一言歯切れよく詠唱した。
「誕りて始、紀めて終、瀑布を飲み干しここに捧げ、緘黙を罰し、佇立を刑し、世統より濃く誘い呼べ!」
象徴化された命令に従い、周囲の源子が水の様態をとる。まるで湧き水のようにかさを増していき、やがてアワの周りで螺旋を描く水流が巻き起こった。川の上流のように激しい流れだ。
しかし、それが結界の壁を越えることはない。だからといって、ガオンが電撃を止めない以上、結界を解くわけにはいかず、水術もただのこけおどしの域を出ない。
「どういうつもりだ、アワ……!?」
不安げな氷架璃をよそに、詠唱は完了した。あとは、言霊とともに放つだけだ。だが、今放ったところで、結界の内壁に衝突してアワ自身に跳ね返ってくるだけである。
それを見越しているがゆえに、ガオンは攻撃の手を緩めない。
そして、同じくそれを見越しているがゆえに、アワは――。
「轟け、洪瀧!」
結界を張る手はそのまま、急に腰を落としたかと思うと、片膝をついた姿勢で左の手のひらを足元の雪にたたきつけた。とたん、周囲で龍のように舞っていた水流が、左手の動きを無邪気に真似て、勢いよく積雪の中に飛び込んだ。まるで大型犬が穴を掘るように、雪のしぶきをあげながら、大量の水は白い地面の奥へと消えていく。
状況は、数十秒ほど前に巻き戻ったかのように見えた。片手で御していた結界は、電撃の圧に耐えかねて軋みだしている。ガオンがもう少しでも力を加えれば、アワを守る防壁はあっけなく崩壊するだろう。
まさにガオンはそのシナリオに沿おうとしていた――だが、直後。
「……!」
ブワァッ! と、ガオンの前方に積もった大量の雪が、水しぶきとともにガオンの顔めがけて吹き上がった。あまりに突然の出来事に、さしものガオンも、回避も防御も間に合わなかった。みぞれのような白い煙幕をもろにかぶると同時、電流が途切れる。
自分にかかってきたわけでもないのに、つられて身をそらした氷架璃が声を上げる。
「なんだ、今の!? どうなったんだ!?」
「そっか!」
事態を飲み込めた雷奈の視線の先で、アワがすばやく結界を解く。
「アワの結界、地面にぴったり蓋ばかぶせとるみたいに見えてた。やけん、水が通る隙間なんてないと思っとったけど……本当は雪の表面までしか張られてなくて、水はその下ば掘って外に出たとよ!」
「牢の床下を通って脱獄するみたいなアレか!? アワにしては狡いな!?」
「聞こえてるよ、氷架璃っ!」
シュッと空を切り裂いた刀印の軌跡が、再び水の刃を生み出した。二つ同時に飛来した三日月形の水圧は、さながら顔を洗う猫の仕草で雪をぬぐうガオンの軸足を鋭く斬りつけ、身じろぎ程度にバランスを崩させた。そのままダメ押しの水術を放とうとして、しかし言霊いらずの反撃が先んじる。
「う……っ」
文字通り電光石火の雷砲が肩に着弾して、アワの身動きを痛みとしびれで縛る。足までもが奇妙に硬直して、膝を折りかけたが、一歩踏み出して何とかとどまった。熱感に似た痛覚をこらえて、被弾したほうの腕をつかみ、アワは一時的な不整脈に喘いだ。
ガオンは頭部を震わせて水滴を振るい落としながら、雷砲を放った前足を下ろした。視界が悪くなければ、今の一撃も心臓を狙い打っていただろう。
再び開かれた赤い瞳が、痛みに慣れていない素人らしい苦悶の表情を睥睨する。
「諦めろ、流清の青二才」
声は、道理を説くように平坦なものだった。
「お前はしょせん家柄だけの存在だ。神託を受け、相応の権限を持つ、あの世界における選ばれし者。だが、それだけだ。『流清』の名も『風中』の名も、戦場では物言わぬ飾りにすぎん。血筋も権力も、お前たちを騎士にはしてくれんのだ」
フィライン・エデンではときに敬遠の対象ともなる名を、大猫は洪瀧でえぐれた地面に吐き捨てる。
選ばれし人間と対になる、選ばれし猫。生まれる家を選ぶこともなく、彼らは「特別」の名を着せられる。
学者たちが帰納に帰納を重ねて机上におぼろげに描き出す神の、その御心に直に触れられるのも、人間に関しては枢機組織たる三大機関の権力を凌駕するのも、全ては人間界の新たな風を吹き入れてフィライン・エデンを発展させることで繁栄してきた二家の、規格外の特殊性によるもの。
正統後継者となった時点で決められた道。権限と表裏一体に与えられた使命。されど心に刻むのは、誇りと名誉と、誰にも譲れないアイデンティティ。
彼らを彼らたらしめる、重く尊い黄金に縁どられた名が「それだけ」だなど――。
「――知ってるよ」
白い息に乗せて、彼は言った。声を揺らしたのは、苦痛か、自嘲か。
「そんなこと……もうずっと前からわかってる。誰よりも人間のそばにいることを許されて、希兵隊にも情報管理局にも学院にも進言することを認められて、だけどパートナーを守らなきゃいけない他でもないボクに、流清の名はその力を与えてはくれなかった。名前を振りかざしたって君には傷一つ付けられない。権力を盾にしたって君の術一つ防げないんだよ」
ふらつきながらも体勢を整えると、彼は荒い呼吸を二つ繰り返した。白い煙の塊が一つ、二つ。おまけのもう一つは、かすれた笑い声と同時に生まれた。
「希兵隊に稽古をつけてもらったところで、彼らには遠く及ばない。当たり前だよね。彼らが誰かを守るために戦っている間、ボクたちは人間と笑いあうことを考えているんだ。これで有事の際は人間を守れなんて、無茶もいいところだよ。ダークが相手だって、チエアリが相手だって、勝てるわけないだろ。刀じゃなくパートナーの手を握るためのこの手で、一体どうしろっていうんだよ」
腕を押さえていた手を胸元に持ってくると、上着を巻き込んできゅっと握りこんだ。その握力は、小柄な少女であるルシルや霞冴にも敵わない。
ガオンの周囲に、手のひらほどの大きさの、鋭い氷の欠片がいくつも現れ、アワを冷ややかに見つめた。浮遊する氷片は、弱々しくうつむく少年をせせら笑いながら、彼の首筋に飛び掛かった。
「……だけど」
顔を伏せたままのアワの腕が、さっと左から右へ空間を薙ぐ。直後、その動きを追うように急流が駆け抜け、氷の弾丸を食い尽くした。
宙を泳ぎ、Uターンでアワの元に戻ってきた水の流れが、アワを取り囲むように螺旋にとぐろを巻く。上げた顔を寄せ、まるで龍の子をあやすかのように手をかざすさまは、どこか芸術的で華麗だった。
「だけど、そういう問題じゃない。勝てるから戦うとか、勝てないから逃げるとか、そういう理屈じゃないんだ。ボクは流清アワ。命を懸けて人間を守ることを課された正統後継者。だから戦うんだ。たとえ刺し違えようと、無駄死にしようと……立ち向かうには十分な理由なんだよ!」
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勢いよく飛び散った破片は、顔をかばいながら傍らを駆け抜けるアワの手の甲とこめかみに赤い筋をひいた。食いしばった歯の間から、小さなうめきを漏らしながらも、立ち止まることなくガオンの側面に回りこむ。
「陽向の庭、日陰の葵、銀の鉤に薄羽の神」
風を切り、鋭い爪が迫る。後ずさり気味に反対方向へかわしながら、刀印と反対の手が鼻面に水砲を見舞った。詠唱の傍らで別の術を放つのに要する途方もない集中力が、アワの眉間に深い溝を刻む。
その労力をあざ笑うかのように、ガオンの前足の一振りは、いとも簡単にかまいたちを生み出した。舌打ちをこらえて、迫りくる二つの風の刃を、こちらは四つの水砲で迎撃する。さすがに連続で術を繰り出そうとすれば、一度口をつぐまざるを得ない。それでも、幸いにしてかまいたちが脇にそれていくと、最後の詠唱を紡ぎきる。
「一字の道を遅疑なく辿れ!」
アワの声が、とどめの気概を源子に注ぎ込む。どれだけ力を込めたところで、きっと希兵隊が片手間に放つ攻撃にしか届かない。
だとしても、むしろそれならば、放てるだけの全力を放つのみだ。できる限りの速さにのせて、最大限の集中力を注いで、ありったけの力強さで水の刃を飛ばす、その命令を叫ぶ。
「斬り裂け、游だ……」
――その声をかき消したのは、迫る風切り音だったか、氷架璃の叫び声だったか。あるいは彼自身が呼吸ごと声を止めたのかも知れない。実際どうだったかなどわからないほどに、それは一瞬の出来事で、実際どうだったかなどどうでもいいほどに、飛び散った液体は赤かった。
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「不細工なお前とは婚約破棄したい」と言ってみたら、秒で破棄されました。
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「不細工なお前とは婚約破棄したい」
この一言が重要な言葉だなんて思いもよらずに。
※約4000文字のショートショートです。11/21に完結いたします。
※1回の投稿文字数は少な目です。
※前半と後半はストーリーの雰囲気が変わります。
表紙は「かんたん表紙メーカー2」にて作成いたしました。
❇❇❇❇❇❇❇❇❇
2024年10月追記
お読みいただき、ありがとうございます。
こちらの作品は完結しておりますが、10月20日より「番外編 バストリー・アルマンの事情」を追加投稿致しますので、一旦、表記が連載中になります。ご了承ください。
1ページの文字数は少な目です。
約4500文字程度の番外編です。
バストリー・アルマンって誰やねん……という読者様のお声が聞こえてきそう……(;´∀`)
ロイ王子の側近です。(←言っちゃう作者 笑)
※番外編投稿後は完結表記に致します。再び、番外編等を投稿する際には連載表記となりますこと、ご容赦いただけますと幸いです。
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