フィライン・エデン Ⅱ

夜市彼乃

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10.三日月の真相編

49三日月の頃より待ちし ③

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「時尼ぁあッ!」
 まるで刃物を走らせるように鋭く、雪を飛び散らせて突貫する鋼の少年。ガオンの注意がそれて、手が止まった。
「させるかよ! これでも元護衛官だ!」
 コウがひとたび念じれば、言霊や詠唱を必要としないながらも十分な威力を発揮する鋼術は、飛び上がった彼の左足を鎚へと変じた。それを、的の大きなガオンの横腹に全力で叩き込む。やはり、ダークやチエアリとは違う、生身のような感触だった。忌避感を禁じ得ないが、バランスを崩したガオンはあらぬ方向へ手をつき、霞冴は一難を免れた。
 ガオンが持ち直すより早く着地すると、コウは思い切って抜刀した。剣術に比べれば、切れ味を乗せた手刀を振り回すほうが得意なのだが、刃渡りを考えれば、ここぞというときは本物に限る。
 手が届かない背後から刺してやろうと、コウは高さ三メートルの位置にある背中と並ぶように跳躍した。逆手に握った刀を、真ん中より少しずらして突き込む。背骨があるのかどうかはわからないが、念のため避けておけば、刀身はよほど深く突き刺さるだろう。
 だが、振り下ろした腕には何の感触も伝わってこなかった。空振りだ。すんでのところで、ガオンが体をさばいてかわしたのだ。
 くそ、と悪態をつこうとした瞬間、しなる尾が意趣返しとばかりにコウの脇腹を薙ぎはらった。声は、前段階の空気のまま、強制的に吐き出させられた。猛スピードで地に叩きつけられ、その衝撃で刀を手放してしまった後、彼は二メートルほど転がって制止した。
「コウ……!」
 後方で息を整えていたルシルが、よろよろと小走りで駆け寄る。
「大丈夫か?」
 コウは脇腹を押さえながら起き上がった。いったんピークを迎えた痛みは、徐々に減衰傾向にある。大丈夫だ、と返そうとしたが、
「……っ、ゲホッ」
「コウ」
 口から出たのは空気の摩擦のような音だけだった。痛みは引きつつあるのに、腹に力が入らない。心配そうなルシルに背中をさすられながら、何度か深呼吸をした後、ようやく出た声で皮肉っぽく称賛した。
「あのヤロ……いいとこ入れやがる……」
 肋骨や内臓がやられた感触はない。だが、もっと奥深く、通常は外からは届かないような、根幹的な急所を打たれたようなダメージだった。まぐれか、意図的か――前者だと思いたい。あんな突発的な攻撃で、目標の見定めと緻密なコントロールができるわけがない、はずだ。
「ルシル、コウ!」
 ガサガサと音を立てて、疲労からか雪に足を取られそうになりながら霞冴が走ってきた。左肩の服が裂け、赤く染まっている。一方で、ガオンも同様の箇所から血を流していた。カウンターを決めて逃れてきたのだ。
「はぁ……二人とも、はぁ、大丈夫?」
「ああ、だいぶ回復したよ」
「オレも問題ない。お前こそ、血が……」
「平気。鎌鼬かまいたちがかすったけど、浅いから」
「無理はするなよ。……それにしても」
 ルシルは、距離をとった先のガオンの、随所からしたたる色をにらみつけた。
「あれの体から血が出るとは、どういうことだ? あれはチエアリではなかったのか?」
「元は普通の猫だったはずだな。それがクロ化して、果てにチエアリ化した……。その場合は体の構造がそのままなのか?」
「でも、私がクロ化した時も、出血してたよね?」
 さらっと口にされたその言葉に、ルシルは胸の奥を握りつぶされるような痛みを覚えたが、今は過去の傷心を思い返している場合ではない。うなずきとともに、理性的な見解を返した。
「ああ。だが、あれはあくまでも、なりかけだった。完全にクロ化、ひいてはチエアリ化した場合は、霧が出ると思っていたんだが……コウの見立てが正解かもしれないな」
「チッ、やりにくい。けど……言ってる場合じゃねえな」
 少なからずダメージは与えられている。だが、まだあの大猫が十分な力を残しているのは事実だ。三人の消耗はガオンのそれ以上。いつ今の均衡が破られるか、知れたものではない。
 ガオンがのっそりと近づいてくる。雷奈たちが身を寄せ合い、アワとフーが目を光らせているのは、そのずっと後方だ。いざとなれば、正統後継者の二人が結界を張るだろうからとはいえ、希兵隊が邪魔だてしていない彼らを襲いにかからないのは、優先順位が低いからだろう。すなわち、希兵隊の排除が第一というわけだ。
 ガオンはさらに歩を進めてきた。三人がいる方向へ。
「ルシル、時尼」
 一気に詰め寄ってこない間にと、コウが早口でまくし立てる。
「頼む、二十秒かせいでくれ。今ならいける」
 二人の表情が、一瞬張り詰めた。踏んだ場所から崩れ落ちていきそうな、脆い吊り橋を前にしたかのような顔だ。
 一秒すら惜しい状況のもと、決断には贅沢にも二秒を要した。
「……わかった」
「無理しないでね」
「ああ」
 コウの返事を聞いたか否か、ルシルと霞冴は前に飛び出した。瞬間、地雷のように目前の地面が爆ぜたのを、辛くも二手に分かれてかわす。ガオンの牛歩はこのためだったらしい。
 飛び散った雪を熱量が溶かし、膨れ上がった黒煙が入り混じる。ガオンの炎術・爆号が残した混沌が風で流れてくる中で、コウはおもむろに左手を持ち上げた。
 親指を立てた手を口元にもっていくと、小さく舌を出し、指の腹をその先端に滑らせる。まるで指についた砂糖をなめるような仕草だが、舌に残るのは甘味とは正反対の、苦い鉄の味。ただし、宿した切れ味によって出血しているのは舌ではなく、それがかすめた親指のほうだ。
 眼前の煙が晴れると、小さくも機敏な二人の剣士が絶妙なコンビネーションでガオンを翻弄しているのが見えた。ダメージは与えあぐねているものの、彼女らもうまく反撃をかわしている。
 時間稼ぎに問題なしと判断したコウは、ふいに右の袖をまくり上げると、血の流れる左の親指を上腕に押し付けた。色白ながらもひ弱な印象を与えない、引き締まった腕の上を、朱筆と化した指が滑る。曲線を含まない幾何学模様を一筆に描きながら、コウは声量と引き換えに思念を込めた詠唱を唱えあげた。
厭世えんせいする天性、こみちにして虚空、軍勢は那由他」
 指を離すと、上から別の図形を重ね描く。短い線分と点を、記憶の中の完成形と違わぬ位置に刻み込んでいく。
「最奥の衝突を伝え聞け、原初の暴動もあかがねの鎌」
 焦慮を抑えて、正確性を最優先にする。一つでも間違えれば最初からやり直しだ。
 いくら源子の服従に長けているといえど、まだ経験の浅いコウに、は荷が重すぎる。従える源子の量も多ければ、命令も複雑で幾段階にも及ぶ。本来なら研鑽を重ねてコツをつかみ、反復によって慣れ、ようやくモノにできる利かん気だ。
 まだ形式的な発動方法を会得しただけの彼だが、今はこれを使わなければ形勢逆転が見込めない。失敗も反動も恐れずに度胸を見せるほかないのだ。
 それでも、万一の事態を最低限に抑えるための策が必要だった。詠唱と言霊だけでは足りず、ゆえに唱えながらの攻防というものがかなわない。ルシルと霞冴がいてこそ可能な賭け。
 それが、定められた文様を描き表すことによって源子への命令を補助する技法――。
「――刀画とうかくか」
 右上から斬りかかってきたルシルを前足で牽制し、左から斬り上げてくる霞冴を星飛礫ほしのつぶてで阻みながら、ガオンはそうつぶやいた。コウの詠唱はここまでは聞こえてこないが、遠目に何をしているかまでは彼にも見えていた。
「よそ見とは悠長だな!」
 とんぼ返りで打撃を逃れたルシルは、ガオンの頭の下に滑り込んで喉を狙った。頭上に半円を描くように刃を振りかざす。同じ首元でも、喉はより急所といえる場所だ。
 だが、斬撃はガキンッと硬い感触とともに止められた。一歩間違えれば大ダメージにつながる危険をいとわずに、刀身をくわえて牙で防いだのだ。
 得物を振り上げた状態で静止を余儀なくされたルシルに、大きな前足が正面から振り子のように迫る。無防備に正中線をさらしているところへ食らえば、一撃でダウンさせられてもおかしくはない。さもなくば、身をかわすために捕らえられた刀を手放すか――しかし、ルシルにはもう一つ手がある。
「……っ!」
 腰の下ギリギリをかすめた裏拳に、戦慄が体中を駆け巡った。間一髪で間に合った、握った柄を支えにした懸垂。あと少しでも遅れていれば、あるいはあと数センチでも体を持ち上げられていなければ、両足とも使い物にならなくなっていただろう。
 直後、ガオンの首筋を狙った白風が巨大な頭部を揺らした。その衝撃によってか、斬戟の傷口にしみたのか、牙にとらえられていた刀が滑り落ちる。自由の身となったルシルはバク転を決めて距離をとった。
「ありがとう、霞冴!」
「危なかったね!」
 合流した二人は刀を構えなおしてガオンに相対した。縦横無尽な体さばきを見せるルシルと、他に類を見ない速度と型にはまらぬ剣術が武器の霞冴。二人の共同戦線は、黒幕相手にしては敢闘だ。
 しかし、霞冴もルシルも肩を使わねば呼吸も難しい状態にまで追い詰められていた。特に、本来デスクワーカーである霞冴の消耗は激しい。
 ガオンが動く。その口元に、回転しながら発光する熱量の塊が生まれた。再度二手に分かれてかわすしかない。そして、その後は霞冴に矛先が向かぬよう、自分が先制するしかない――そこまで考えたルシルは。
「霞冴!」
「っ!」
 相棒の名を鋭く呼ぶと、踵を一八〇度返し、まっすぐ後方へと引き返した。霞冴も同時に隣を走り出す。その背後で閃光とともに光砲が炸裂し、二人は爆風にあおられてつんのめりかけた。
 辛くも走り続けたルシルと霞冴は、正面からこちらへ向かって疾駆してくる姿を認めた。足を止めない彼女らの間を、彼も速度を緩めずすれ違う形ですり抜ける。
 突然正面に飛び出してきた姿に、一瞬だけ面食らうガオン。その間隙に、彼は両手を突き出し、手のひらから黒煙を勢いよく噴出させた。煙突から出るというより、スプレーで噴射しているかのような速度で生まれた大量の煙が、ガオンをすっぽりと包み込む。体色が煙の色に同化し、唯一赤い瞳だけがぼんやりと見えた。
 戦況が見える程度に背中の陰に隠れたルシルと霞冴の前に、堂々と立ちはだかりながら、コウは左手で結んだ刀印を空中にすばやく滑らせた。時に複雑、時にまっすぐな線を引き、目の前に不可視の紋様を刻みこむ。所要時間は三秒。補助命令式の一つ・刀刻だ。
「叫喚と閃光、そほすみの緞帳を掲げ、安寧から閉ざし出せ」
 彼の左手が額の高さでぴたりと止まった瞬間、ガオンをとりまいていた煙が――正確には、煙のなりをした源子が震えだした。震えというには不可視な動きだ。たとえて言うなら、興奮に高鳴って抑えられない心臓の鼓動を外から見るのに似ている。
 コウの詠唱と源子の反応から、ガオンはこれがただの目くらましでないことに気づいた。
「この術、よもや……」
「若輩者と侮ったな。苦悩を乗り越えた先の努力を、痛みで味わうがいい」
 コウに背中を合わせながら、重心を固めたルシルが不敵に笑む。その隣で、同じように足元を踏みしめながら霞冴が口の端を吊り上げた。
「これが今の彼の本気。私の元護衛官は、私たちの大和コウは……希兵隊最強なんだから!」
 ガオンが身じろぎし、同時に風に流れが表れた。まとわりつく煙を風術で払う気だ。
 だが、それより早く、鬨の声を待ち武者震いをする源子へ向けて、主の着火の言霊が放たれた。
擾乱じょうらん事変に暴れ狂え――粉塵爆発ダストライオットッ!」
 直後、轟音と爆風がその場の覇者となった。地が割れたかと思うほどの爆音が、叫びながら耳元を通り過ぎ、雪だか溶けた後の水だかわからない冷たい粒が、弾丸のように乱れ飛ぶ。当初の吹雪などとは比べ物にならない規模だ。とても目を開けてなどいられない。
 踏ん張っていてもぐらつきそうになる体、バタバタと荒れ狂う袂の動き。やがて暴力的な音と風が彼方へ行き過ぎ、聴覚と視覚を取り戻したころ、漂ってくる煙が焦げたにおいを運んできた。
 ルシルと霞冴は、コウの背中の後ろからそろそろと顔を出した。もうもうと上がる煙は広範囲にわたっており、ガオンの姿が視認できない。少なくとも、動いている気配はないことだけはわかった。
 その様子を遠方から見つめていた雷奈が、愕然とした顔で問う。
「アワ、今のは……」
「鋼術・粉塵爆発ダストライオット
 わずかながら届いた爆風の余波を結界でしのいだアワが、前を見据えながら雷奈に答えた。
「宙を漂う一定濃度の粉塵が、何らかのきっかけで引火して、爆発を引き起こす現象を模した術だ。猫力学者の手によって十年ほど前に開発されて、実に数十年ぶりに鋼術の一覧を塗り替えた、威力にして現在最強の鋼術だよ」
「鋼猫が使える、従来のどの術とも一線を画す異質な技よ。鋼術でありながら炎術の真似事ができるのだから」
 治療も最終段階に入ったフーが、手を休めずにそう補足した。
 粉塵爆発ダストライオットの使用者は、極めて少ない。そもそも、いまだに番外と言っていいほど、既存の鋼術からはかけ離れた存在だ。どの猫種にも、そんな異端ともいえる術は寡少ながら存在している。
 歴史が浅いゆえに浸透しておらず、日常では不要なために習得者も少なく、危険が大きいからと義務教育の猫力学科でも教わらない。
 コウがわざわざ学院に教えを請い、仕事の合間に一人で刻苦精励し、その異端児を己がものにしようと奮起した理由は、ただ一つ。
 守りたいもの全てを守れるよう、強くなるためだ。
「……――」
 コウの陰から出てきた二人は、たゆまぬ注意を払いながら、盾となって立ちはだかり続けた少年を見上げた。彼の口からは、荒い息が絶えず白く吐き出されていた。少し上気した頬を幾筋も汗が伝う。ただでさえ扱う源子の量が膨大なのだ。刀画と刀刻を駆使したとはいえ、力の消費は半端ではない。それでも強固に立ち続ける彼は、さすが希兵隊随一の体力の持ち主といえた。
 コウが心身を削って放った渾身の一撃だ。これでやれていれば、というのは希望的観測だとわかっていながら、ルシルは煙が晴れた向こうに倒れ伏したガオンを期待した。
 自然の風が吹き、黒煙の幕が取り払われる。現れた姿を見て、やはりな、とルシルは苦く笑った。
「……まさか希兵隊の若造が粉塵爆発ダストライオットを使うとはな。未熟ながらあっぱれと言ったところか」
 ガオンの体は煤だらけの傷だらけだった。だが、致命傷といえるものはない。直前の風術で、体の表面に付着した粉塵だけでも吹き飛ばせたのだろう。そうでなければ、肉がえぐれていてもおかしくはない。彼は初見よりも緩慢な動きではあるものの、しっかりとした足取りを保てている。
 コウは呼吸を整えながら皮肉っぽく返した。
「はぁッ……希兵隊の若造が、使わずに……誰がこの技、使うってんだよ……」
「ダーク討伐への使用も視野に入れられていたものの、もとは源子による現象再現や猫種横断的な術の研究から生まれた、猫力学者の暇と好奇心の結晶だ。こうも早く実戦に使われるとは思っていなかっただけさ」
「はっ……さすが、詳しいな、元猫力学者さんよ……」
 軽口を叩きながら、体力回復の時間を稼いでいたコウは、荒い息が静まってきたのを見計らって両脇の二人に声をかけた。
「悪い、もう一発いっていいか」
「体力は」
「問題ねえ」
 本音を言えば、次に放てばさすがに膝をつくかもしれない。だが、あの大猫につかされるよりはマシだ。
 右腕の紋様は、先ほどの術の発動とともに消えていた。出血の止まった左の指を再度切って描きなおそうと、舌先に刃を宿しかけた時だ。
 ゴオォッ、と唸りをあげて、凍てつく風が襲いかかってきた。気管まで凍りそうな猛吹雪に、ルシルと霞冴は腕で顔を覆ってたたらを踏んだ。コウも顔をかばい、下を向いたまま、風の雄たけびに負けじと声を張り上げた。
「ルシル、時尼、気をつけろ! どこから来るかわからないぞ!」
「二人とも、方向感覚は確か!? いったん背中を合わせるよ!」
 霞冴の指示に従い、ルシルとコウは最小限の動きで体の向きを変えた。視界は吹雪に覆われたままだが、互いの位置関係は把握済みだった。今、五十センチメートルほどの間をあけて、視界を補い合う向きに立てているはずだ。
 吹き付ける風がやんだ。全身を打つ雪の粒が途絶えた。
 すぐさま目を見開くと、ルシルと霞冴は刀を、コウは手刀を構えた。が、誰も動き出さなかった。誰の目の前にも、斬りかかるべき敵が存在していなかった。
 おのおの、あとの二人が動き出さないことに虚を突かれた。それぞれが、自分以外のどちらかが黒い大猫の姿をとらえていると思ったのだ。
「いない……!?」
「ルシルたち、危ないッ!」
 制止するアワの腕をつかんで身を乗り出しながら、氷架璃が大声量で叫んだ。鬼気迫る表情。彼女には――否、背中合わせの三人以外には、その姿が見えていた。
「逃げろ! だ!」
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