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10.三日月の真相編
49三日月の頃より待ちし ②
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「封印解除、内界解放」
厚いガラスが一息に砕かれたような壮絶な音とともに、透明なかけらが飛び散った。大小入り乱れる氷の破片。その間を埋め尽くす、細かい粒子の群れ。視認できる形をもった砕片が地に落ちてもなお漂い続ける、ダイヤモンドダストの白銀のきらめきの向こうに、細氷の清美さとは正反対の、硬質な凛々しさをたたえた輝きが垣間見えた。
まばたきほどの速さの手刀が、袈裟懸けに薙がれる。剣を切り払うようなその仕草で、滞留していた白い霧は一掃される。雪煙の奥から現れた、悠然とたたずむ銀髪の少年の姿に、ガオンの動きが止まった。その隙を、鋼色の瞳は見逃さない。
「この程度で驚いてんじゃねえ……よッ!」
疾風。
否、弾丸だ。
半ば弾趾を用いて、すさまじい速度で肉薄したコウは、ガオンの目前で跳躍、その喉に鋭角の膝蹴りを叩き込んだ。
「……ッ」
呼吸を詰める大猫の、跳ね上がった顎を蹴って離れると、彼は着地してから二、三歩大きく後退した。ちょうどそこへ合流してきたルシルと霞冴に、背を見せたまま言葉をよこす。
「悪いな、出遅れて」
「いやいや、最強さんは遅れて来たほうがそれっぽいよ」
おどけたように返す霞冴に、コウは軽く苦笑しながらも、内心で感謝を述べた。
かつて、激情に任せて源子を興奮させた末に、制御能力を失い、大切な仲間を傷つけたコウ。刃物でふさがった手では、瀕死の彼女を助け起こすことすらできなかった。
その無念と屈辱は、コウの胸中に濃い影を落とし、彼に一つの決断を下させた。開花しかけた才能を、鞘の中に押し込めたのだ。
以来、執行部最強の名を背負いながらも、牙のない口で噛みつき、爪のない指でひっかくような戦闘スタイルに甘んじてきた。もう、周りの誰も傷つけないために。そして、自分自身が傷つかないために。
だが、時としてそう甘くないときはある。そうなって初めて、彼は隠し持っていた牙をむき、爪を伸ばす。周りの誰をも守るために、たとえ自分自身の傷をえぐってでも。コウにとって猫力の解放とは、かさぶたをはがす行為だ。
だから、解放する際は、どんな状況でも万全の慎重を期すのだ。浮き足立てばトラウマが呼吸を乱し、勇み足をすれば手綱がのたくって暴れだす。そのどちらへもかたよらないよう中庸を保つためなら、たとえ目の前で親友が源子に食われかけようとも、最凶の敵が立ちはだかっていようとも、呼吸を落ち着け、源子の合意を確認する、その手順を怠らない。ゆえに、彼が「本気」を出せるまでにはタイムラグが生じる。
とはいえ、だからといって今の肩書を下ろされる由はない。特大のバールで殴られたような一撃を食らったガオンは、今も乱れた呼吸を隠しながら様子見を貫いている。出足の遅さを補って余りあるほど、銀色の大和コウは――強い。
「気をつけろ、蹴ったときの感触がダークやチエアリより硬かった。オレたちみたいな実体ある体に近い。やっぱり、こいつ、何か違うぞ」
言い終えると、すぐさまコウはガオンへとまっすぐ駆け出した。うなずいた二人も、ルシルは向かって左手、霞冴は右手へ疾走する。
ガオンは一つ大きく息を吐きだすと、右前足を目の前の地面に勢いよく叩きつけた。直後、その一メートル先で、先のとがった木の根が雪を突き破って生えた。間髪おかずに、さらに一メートル先、そのまた一メートル先にと、人間大の鋭い根が一直線上に立ち並ぶ。延長線上の自分が狙われているのだと気づいたコウは、すぐさま急ブレーキをかけ、地を蹴って高く跳躍した。もう一歩踏み出していれば、次に飛び出した根の先端に足を貫かれていたところだ。
地上約四メートルの空中から俯瞰した、等間隔にそびえる円錐の根は、まるで人食いの怪物の歯並びのようだ。と、そのうちの一本が急激に丈を増し、自由落下を待つ真上のコウに迫った。風猫ならまだしも、彼に空中での回避手段はない。
必殺の牙が、その鋭利な先端をコウに向ける。そして、顔をこわばらせる彼の体を貫いて串刺しに――することあたわず、ほろりと頭三十センチを地に落とした。
直前に錐の首を一閃した白刃は、黒髪の少女とともに後方に遠ざかっていく。さすが垂河村の道場で敵なしの剣姫といえる、わずかな引っ掛かりもなく水平に伐採された切り口が、コウのすぐ真下に残されていた。心の中で短く礼を述べると、コウはその断面に左足だけで着地。それも一瞬、すぐさま足場を蹴ってガオンまでの最後の距離を詰める。
「食らいやがれ――ッ!」
思い切り体を捻り、生み出せる限りの勢いを生み出して蹴りを繰り出す。眉間を狙って肉薄してくるコウを、ガオンはハエでも払うように前足ではたこうとした。だが、突如吹き荒れた白い強風が肘から先を襲い、軌道がわずかにコウからそれる。突風の向こうの洋装の少女のしたり顔を、恨めしそうににらみつけながら、ガオンは眉間に命中した鉄骨の如き重みに、視界が明滅するような眩暈を覚えた。
ほんのわずかとはいえ、体勢が崩れたのをルシルは見逃さない。剣先を落とし、雪を蹴散らしながら、カーブを描く軌道で左からガオンに攻め寄ると、しなやかなジャンプとともに刀を振りかぶった。
襲撃には気付いているだろう。だが、今の彼には片腕を上げてルシルを払い除けられるだけの余裕はないはずだ。
次こそ――と首を斬り落とすつもりで一太刀を振り下ろすが、またしても刃はガオンの体に触れることすらできなかった。
ガオンの気勢の一声に突き動かされたように、どこからともなく巻き起こった突風が、小柄なルシルを軽々と吹き飛ばした。どこからともなくとはいえ、おおよその発生源はガオンの肩のあたりだ。通常、術は自分の体としての感覚が強く、意識を向けやすい部位――例えば手足、口元、尻尾――を発生源とするが、源子の扱いの練度によってはその限りではない。ましてや、彼はチエアリの王だ。
油断したつもりはなかったが、その可能性を失念していたのは事実だ。ルシルは逆さまに浮いたまま歯噛みすると、巧みに体をひねって宙返りで着地した。風から逃れて近くに避難していたコウが、鋭い視線はガオンに向けたまま苦笑する。
「氷に草に風……マジで複数猫力を使いやがる。バケモンかよ」
「村長本家の誰かさんも似たようなものだがね」
「ありゃ巨人の肩の上に立っただけだろ。こんな説明不能な力ってわけじゃねえ。それに、あいつがバケモンなのは頭脳のほうだ」
「違いない」
口元だけで笑うと、ルシルは一気に距離を詰め、ガオンの目を狙って刀を振るった。身を引いてよけるガオンに、コウが走り寄る。
「涼やかなる童謡、冷徹なる均衡、十の徳と利口の才」
回避姿勢で重心を預け切っている方向から、指をそろえて開いた左手を突き出して、詠唱を開始。
ガオンは前足で払ってルシルを遠ざけると、次いでコウも掻き退けようと反対側の前足を動かした。攻撃をかわすというのは、少なからず体勢を崩す行為だ。体勢が崩れれば、術の発動も遅れる。あわよくば隙ができれば、そこに追撃を打ち込める。そもそもかわし切れなければ、少なからずダメージを与えられる。
それらを見越しての攻めだったのだが――あろうことか、ガオンの屈強な腕は、銀髪の少年に爪すら当てられずに空振った。
「……!?」
「胸を背に灰白の歯を突き立てよ」
再度、今度は上から叩き潰そうとした。だが、コウの頭を砕いて首を折るつもりで振り下ろした前足は、なぜか惜しくも彼の右側の空を切った。
コウ自身は足も動かさずに詠唱を続けている。まるで、ガオンの狙いが狂わされているように。さもなくば、コウの姿が数十センチずれて見えているかのように――。
「……霧術」
「せいか~い」
ガオンの視界の外、頭上高くから、アリスブルーをなびかせて少女が舞い降りた。先ほどガオンが地面から生やした堅肢の一つ、コウが足場にした切り株が残っていたのを物見台にしていたのだ。
姿を現すと同時、霧猫は術を解いた。霧で光を屈折させ、物体の位置を錯誤させる、術式というより技術に近い業。視認していたよりも一歩分奥、一歩分左手に立っていたコウに、ガオンは改めて狙いを定めるが、直後、目の前は一面の白に多い尽くされた。
「キミは真っ白白な霧でも見てて!」
「催涙ガスじゃないだけ感謝しやがれ」
すれ違いざまの霞冴とコウの右手が、パァンと小気味良い音を立てて連携成功を祝福する。そのまま、コウは右手で霞冴を後ろにかばいながら、指先をそろえた左手を振り下ろし、その延長線上に携えた、源子でできた大ぶりな斧形の鋼を落とした。
「刃向かえ、斬戟!」
手の動きに呼応して、空中に浮いた斧がガオンの首を深く斬りつけた。さすがに、一撃でギロチンの真似事ができるほどのシロモノではない。それでも、初めてこの怪物の体から黒い霧を流れ出させられるなら重畳だ。
クロやダークを退治るたびに目にする、実は源子でできているどす黒い霧。図体の大きなガオンのことだ、相当な量になるだろう。
――そう思い込んでいた三人は、予想より遥かに鮮やかで生々しい命の色に、心臓を凍り付かせた。
それは、離れたところで戦闘の行方を見守っていたアワたちも同じだった。
「ど……どういうことだよ……!?」
「おい、アワ。チエアリって、血とか出たっけ?」
「出ないから、驚いてるんじゃないか……!」
「何なの、あれ……まるで私たちと同じ猫のような……」
フーも動転している。ましてや、その色を流させる所業を働いた希兵隊三人は、微動だにできずに目を見開いていた。
これまで、何十と敵を葬ってきたルシルとコウ。そして、実戦経験は少ないとはいえ、先の侵攻で執行部ばりに敢闘して見せた霞冴。いずれも、無論のこと血の通う者を意図して手にかけたことなどない。むしろ、そんなことは当然あってはならない。クロ化を免れ得ない、ただのひと殺しだ。
まさか、今、自分たちは倒してはならないものと戦っているのか――。
「うわの空が過ぎるぞ、ガキどもが」
首筋から血を滴らせながら、三人をにらむ深紅の双眸。霧はとうに晴れ、狂いなく対象をとらえた目が、ただ視覚のために使われているわけではないことに、彼らは遅きに失して気づいた。視線から逃れようとした時には、すでに念術が発動しており、三人の体は重力に逆らって宙に持ち上げられていた。
「この程度の不測の事態で、戦場で呆けるなど、青いにも程があるだろう。痛みをもって理解しろ、未熟者」
直後、はじかれたように三方向へ散り散りに飛ばされ、彼らは受け身も取れないほどの速度で雪にたたきつけられた。新雪ならクッションがわりになったかもしれないが、積もってしばらく経った雪はそれなりに硬い。
「うあっ……」
「くそ……」
彼らはくらくらと揺れる頭を抱えながら、手に触れる雪面の感触で方向感覚を探った。重力の向きを認識すれば、おのずと平衡感覚が戻ってくる。ガオンが追撃を行う前に構えなければと体を起こそうとして――いち早く平衡感覚を取り戻したはずのルシルは、それができないことに気づいた。
「なっ……」
腕が言うことを聞かない。雪に触れた冷感や独特の硬さは感じるのに、指先までピリピリとしびれて動かない。体幹にも力が入らず、寝返り一つ打てなかった。
すでに後手に回っていた。ガオンの追撃、運動神経への電気信号を阻害する雷術――雷縛だ。
「ルシル!」
コウと霞冴はすでに体勢を持ち直していた。ターゲットを一人に絞って狙い撃ちしたのだろう。
雷縛は動きを封じる程度の術で、心臓が弱いなどの例外を除けば、実質的なダメージはほとんどない。構うな、と反撃をうながそうとしたルシルは、ガオンの視線がまだ自分から離れていないことに気づいた。
指一本動かせずに倒れ伏した敵を警戒する由などない。だとすれば、先ほどと同じく、目的は視認することではない。
気づいたところで、為す術などなかった。発動まで、標的へのしばらくの注視を要する特殊な光術・暁蝕が、淡紅の光とともに牙をむいた。
「っく……ぅう……!?」
味わったことのない感覚だった。内臓を灼熱の五本指で引っ掻き回されているような、熱感を伴う痛みと不快感。徐々に感覚を取り戻した左腕で腹部を抱えこんでも、手の届かない体内で荒れ狂う暴力の塊はどうすることもできない。ガオンの赤い視線を受けている限り永遠に続く、回避不能の責め苦だ。
「ルシルッ!」
コウは脇目もふらずにルシルのもとへと走り出した。行く手を阻もうとするガオンの前足を、飛び出した霞冴が鋭く斬りつける。やはり飛び散るのは、鮮血のしぶきだった。
霞冴の妨害の甲斐あってルシルのそばにたどり着いたコウは、内側から壊される苦しみに悶える彼女をすくいあげるように抱き上げた。一瞬、弱い電流がコウの腕にも流れて、息を詰める。だが、しばらく地面に伏していた体からは、おおかた電気が逃げていることは見越していた。
コウは一層強くルシルを抱きかかえると、すぐさまガオンの視線から外すように飛びのいた。
光術が途切れると、ガオンはすぐさま霞冴への攻撃に転じた。至近距離で発生する雷を辛く避けながら、霞冴は一人でガオンを相手取る。そもそも、彼女は長期戦に耐えられるだけの体力を持ち合わせていない総司令部員だ。いつ何を食らってもおかしくない、ギリギリの戦況だった。
そちらに気を取られそうになりつつも、コウはしゃがんだまま、腕の中のルシルをゆっくりと起こした。目を固くつぶり、体をぎゅっとこわばらせて喘ぐ彼女の背中を、強めにさする。
「ルシル、しっかりしろ。落ち着け……深呼吸できるか」
術中から逃れても、息を乱し、時折咳き込むルシルは、コウの執行着の襟を強く握りしめていた。
コウ自身も、先の侵攻で、光のチエアリから同じ光術を受けたことがあるので知っている。見えない攻撃に内側を侵食されるというのは、相当な恐怖をもたらすのだ。
大丈夫、大丈夫と声をかけているうちに、ルシルは浅い呼吸を繰り返しながらも、緩慢に目を開いた。すまない、とかすれた声を漏らしながら、手のひらを結んだり開いたりする。雷縛も完全に解けたようだ。
そっと地に降ろされ、自力で座位の姿勢をとったルシルだが、立とうとした瞬間、体内でくすぶっていた余波が胃を突き上げた。思わず口を押さえるルシルの背中を二、三度上下にさすってから、コウが立ち上がる。
「無理すんな、ちょっと休んでろ」
「悪い……っ、けほッ」
目を閉じて深呼吸に努めるルシルを背に、コウは駆け出した。その先で、ちょうど霞冴の刀とガオンの爪が切り結ぶ。だが、競り合いは一秒と続かなかった。
「ああ……ッ」
弾き飛ばされた霞冴が、仰向けで地に叩きつけられた。左手に刀を握ったまま、しかし起き上がるのに必要なエネルギーが、四肢に伝わる前で消えてしまう。大きく胸を上下させて激しい呼吸を繰り返す彼女は、体力の限界に近かった。
無防備な霞冴へ歩み寄ったガオンが、刀傷を負った前足を、ゆっくりと持ち上げる。黒々とした腕が落とす影が、霞冴の華奢な体に重なっても、彼女はやっとのこと寝返りを打つので精一杯だった。
手負いの前足が、わずかに上へ浮かされた直後、勢いをつけて振り下ろされる。霞冴は何とか左手の刀を掲げたが、しのげるだけの力も体勢も整っていない。肋骨を粉砕して踏み潰されるどころか、己の刀の峰に追い討ちをかけられるのがとどのつまりだ。
想像を絶する痛みを覚悟し、ぎゅっと目をつぶる。
刹那、耳元でざわめく恐怖心をも引き裂く咆哮が、鼓膜を震わせた。
厚いガラスが一息に砕かれたような壮絶な音とともに、透明なかけらが飛び散った。大小入り乱れる氷の破片。その間を埋め尽くす、細かい粒子の群れ。視認できる形をもった砕片が地に落ちてもなお漂い続ける、ダイヤモンドダストの白銀のきらめきの向こうに、細氷の清美さとは正反対の、硬質な凛々しさをたたえた輝きが垣間見えた。
まばたきほどの速さの手刀が、袈裟懸けに薙がれる。剣を切り払うようなその仕草で、滞留していた白い霧は一掃される。雪煙の奥から現れた、悠然とたたずむ銀髪の少年の姿に、ガオンの動きが止まった。その隙を、鋼色の瞳は見逃さない。
「この程度で驚いてんじゃねえ……よッ!」
疾風。
否、弾丸だ。
半ば弾趾を用いて、すさまじい速度で肉薄したコウは、ガオンの目前で跳躍、その喉に鋭角の膝蹴りを叩き込んだ。
「……ッ」
呼吸を詰める大猫の、跳ね上がった顎を蹴って離れると、彼は着地してから二、三歩大きく後退した。ちょうどそこへ合流してきたルシルと霞冴に、背を見せたまま言葉をよこす。
「悪いな、出遅れて」
「いやいや、最強さんは遅れて来たほうがそれっぽいよ」
おどけたように返す霞冴に、コウは軽く苦笑しながらも、内心で感謝を述べた。
かつて、激情に任せて源子を興奮させた末に、制御能力を失い、大切な仲間を傷つけたコウ。刃物でふさがった手では、瀕死の彼女を助け起こすことすらできなかった。
その無念と屈辱は、コウの胸中に濃い影を落とし、彼に一つの決断を下させた。開花しかけた才能を、鞘の中に押し込めたのだ。
以来、執行部最強の名を背負いながらも、牙のない口で噛みつき、爪のない指でひっかくような戦闘スタイルに甘んじてきた。もう、周りの誰も傷つけないために。そして、自分自身が傷つかないために。
だが、時としてそう甘くないときはある。そうなって初めて、彼は隠し持っていた牙をむき、爪を伸ばす。周りの誰をも守るために、たとえ自分自身の傷をえぐってでも。コウにとって猫力の解放とは、かさぶたをはがす行為だ。
だから、解放する際は、どんな状況でも万全の慎重を期すのだ。浮き足立てばトラウマが呼吸を乱し、勇み足をすれば手綱がのたくって暴れだす。そのどちらへもかたよらないよう中庸を保つためなら、たとえ目の前で親友が源子に食われかけようとも、最凶の敵が立ちはだかっていようとも、呼吸を落ち着け、源子の合意を確認する、その手順を怠らない。ゆえに、彼が「本気」を出せるまでにはタイムラグが生じる。
とはいえ、だからといって今の肩書を下ろされる由はない。特大のバールで殴られたような一撃を食らったガオンは、今も乱れた呼吸を隠しながら様子見を貫いている。出足の遅さを補って余りあるほど、銀色の大和コウは――強い。
「気をつけろ、蹴ったときの感触がダークやチエアリより硬かった。オレたちみたいな実体ある体に近い。やっぱり、こいつ、何か違うぞ」
言い終えると、すぐさまコウはガオンへとまっすぐ駆け出した。うなずいた二人も、ルシルは向かって左手、霞冴は右手へ疾走する。
ガオンは一つ大きく息を吐きだすと、右前足を目の前の地面に勢いよく叩きつけた。直後、その一メートル先で、先のとがった木の根が雪を突き破って生えた。間髪おかずに、さらに一メートル先、そのまた一メートル先にと、人間大の鋭い根が一直線上に立ち並ぶ。延長線上の自分が狙われているのだと気づいたコウは、すぐさま急ブレーキをかけ、地を蹴って高く跳躍した。もう一歩踏み出していれば、次に飛び出した根の先端に足を貫かれていたところだ。
地上約四メートルの空中から俯瞰した、等間隔にそびえる円錐の根は、まるで人食いの怪物の歯並びのようだ。と、そのうちの一本が急激に丈を増し、自由落下を待つ真上のコウに迫った。風猫ならまだしも、彼に空中での回避手段はない。
必殺の牙が、その鋭利な先端をコウに向ける。そして、顔をこわばらせる彼の体を貫いて串刺しに――することあたわず、ほろりと頭三十センチを地に落とした。
直前に錐の首を一閃した白刃は、黒髪の少女とともに後方に遠ざかっていく。さすが垂河村の道場で敵なしの剣姫といえる、わずかな引っ掛かりもなく水平に伐採された切り口が、コウのすぐ真下に残されていた。心の中で短く礼を述べると、コウはその断面に左足だけで着地。それも一瞬、すぐさま足場を蹴ってガオンまでの最後の距離を詰める。
「食らいやがれ――ッ!」
思い切り体を捻り、生み出せる限りの勢いを生み出して蹴りを繰り出す。眉間を狙って肉薄してくるコウを、ガオンはハエでも払うように前足ではたこうとした。だが、突如吹き荒れた白い強風が肘から先を襲い、軌道がわずかにコウからそれる。突風の向こうの洋装の少女のしたり顔を、恨めしそうににらみつけながら、ガオンは眉間に命中した鉄骨の如き重みに、視界が明滅するような眩暈を覚えた。
ほんのわずかとはいえ、体勢が崩れたのをルシルは見逃さない。剣先を落とし、雪を蹴散らしながら、カーブを描く軌道で左からガオンに攻め寄ると、しなやかなジャンプとともに刀を振りかぶった。
襲撃には気付いているだろう。だが、今の彼には片腕を上げてルシルを払い除けられるだけの余裕はないはずだ。
次こそ――と首を斬り落とすつもりで一太刀を振り下ろすが、またしても刃はガオンの体に触れることすらできなかった。
ガオンの気勢の一声に突き動かされたように、どこからともなく巻き起こった突風が、小柄なルシルを軽々と吹き飛ばした。どこからともなくとはいえ、おおよその発生源はガオンの肩のあたりだ。通常、術は自分の体としての感覚が強く、意識を向けやすい部位――例えば手足、口元、尻尾――を発生源とするが、源子の扱いの練度によってはその限りではない。ましてや、彼はチエアリの王だ。
油断したつもりはなかったが、その可能性を失念していたのは事実だ。ルシルは逆さまに浮いたまま歯噛みすると、巧みに体をひねって宙返りで着地した。風から逃れて近くに避難していたコウが、鋭い視線はガオンに向けたまま苦笑する。
「氷に草に風……マジで複数猫力を使いやがる。バケモンかよ」
「村長本家の誰かさんも似たようなものだがね」
「ありゃ巨人の肩の上に立っただけだろ。こんな説明不能な力ってわけじゃねえ。それに、あいつがバケモンなのは頭脳のほうだ」
「違いない」
口元だけで笑うと、ルシルは一気に距離を詰め、ガオンの目を狙って刀を振るった。身を引いてよけるガオンに、コウが走り寄る。
「涼やかなる童謡、冷徹なる均衡、十の徳と利口の才」
回避姿勢で重心を預け切っている方向から、指をそろえて開いた左手を突き出して、詠唱を開始。
ガオンは前足で払ってルシルを遠ざけると、次いでコウも掻き退けようと反対側の前足を動かした。攻撃をかわすというのは、少なからず体勢を崩す行為だ。体勢が崩れれば、術の発動も遅れる。あわよくば隙ができれば、そこに追撃を打ち込める。そもそもかわし切れなければ、少なからずダメージを与えられる。
それらを見越しての攻めだったのだが――あろうことか、ガオンの屈強な腕は、銀髪の少年に爪すら当てられずに空振った。
「……!?」
「胸を背に灰白の歯を突き立てよ」
再度、今度は上から叩き潰そうとした。だが、コウの頭を砕いて首を折るつもりで振り下ろした前足は、なぜか惜しくも彼の右側の空を切った。
コウ自身は足も動かさずに詠唱を続けている。まるで、ガオンの狙いが狂わされているように。さもなくば、コウの姿が数十センチずれて見えているかのように――。
「……霧術」
「せいか~い」
ガオンの視界の外、頭上高くから、アリスブルーをなびかせて少女が舞い降りた。先ほどガオンが地面から生やした堅肢の一つ、コウが足場にした切り株が残っていたのを物見台にしていたのだ。
姿を現すと同時、霧猫は術を解いた。霧で光を屈折させ、物体の位置を錯誤させる、術式というより技術に近い業。視認していたよりも一歩分奥、一歩分左手に立っていたコウに、ガオンは改めて狙いを定めるが、直後、目の前は一面の白に多い尽くされた。
「キミは真っ白白な霧でも見てて!」
「催涙ガスじゃないだけ感謝しやがれ」
すれ違いざまの霞冴とコウの右手が、パァンと小気味良い音を立てて連携成功を祝福する。そのまま、コウは右手で霞冴を後ろにかばいながら、指先をそろえた左手を振り下ろし、その延長線上に携えた、源子でできた大ぶりな斧形の鋼を落とした。
「刃向かえ、斬戟!」
手の動きに呼応して、空中に浮いた斧がガオンの首を深く斬りつけた。さすがに、一撃でギロチンの真似事ができるほどのシロモノではない。それでも、初めてこの怪物の体から黒い霧を流れ出させられるなら重畳だ。
クロやダークを退治るたびに目にする、実は源子でできているどす黒い霧。図体の大きなガオンのことだ、相当な量になるだろう。
――そう思い込んでいた三人は、予想より遥かに鮮やかで生々しい命の色に、心臓を凍り付かせた。
それは、離れたところで戦闘の行方を見守っていたアワたちも同じだった。
「ど……どういうことだよ……!?」
「おい、アワ。チエアリって、血とか出たっけ?」
「出ないから、驚いてるんじゃないか……!」
「何なの、あれ……まるで私たちと同じ猫のような……」
フーも動転している。ましてや、その色を流させる所業を働いた希兵隊三人は、微動だにできずに目を見開いていた。
これまで、何十と敵を葬ってきたルシルとコウ。そして、実戦経験は少ないとはいえ、先の侵攻で執行部ばりに敢闘して見せた霞冴。いずれも、無論のこと血の通う者を意図して手にかけたことなどない。むしろ、そんなことは当然あってはならない。クロ化を免れ得ない、ただのひと殺しだ。
まさか、今、自分たちは倒してはならないものと戦っているのか――。
「うわの空が過ぎるぞ、ガキどもが」
首筋から血を滴らせながら、三人をにらむ深紅の双眸。霧はとうに晴れ、狂いなく対象をとらえた目が、ただ視覚のために使われているわけではないことに、彼らは遅きに失して気づいた。視線から逃れようとした時には、すでに念術が発動しており、三人の体は重力に逆らって宙に持ち上げられていた。
「この程度の不測の事態で、戦場で呆けるなど、青いにも程があるだろう。痛みをもって理解しろ、未熟者」
直後、はじかれたように三方向へ散り散りに飛ばされ、彼らは受け身も取れないほどの速度で雪にたたきつけられた。新雪ならクッションがわりになったかもしれないが、積もってしばらく経った雪はそれなりに硬い。
「うあっ……」
「くそ……」
彼らはくらくらと揺れる頭を抱えながら、手に触れる雪面の感触で方向感覚を探った。重力の向きを認識すれば、おのずと平衡感覚が戻ってくる。ガオンが追撃を行う前に構えなければと体を起こそうとして――いち早く平衡感覚を取り戻したはずのルシルは、それができないことに気づいた。
「なっ……」
腕が言うことを聞かない。雪に触れた冷感や独特の硬さは感じるのに、指先までピリピリとしびれて動かない。体幹にも力が入らず、寝返り一つ打てなかった。
すでに後手に回っていた。ガオンの追撃、運動神経への電気信号を阻害する雷術――雷縛だ。
「ルシル!」
コウと霞冴はすでに体勢を持ち直していた。ターゲットを一人に絞って狙い撃ちしたのだろう。
雷縛は動きを封じる程度の術で、心臓が弱いなどの例外を除けば、実質的なダメージはほとんどない。構うな、と反撃をうながそうとしたルシルは、ガオンの視線がまだ自分から離れていないことに気づいた。
指一本動かせずに倒れ伏した敵を警戒する由などない。だとすれば、先ほどと同じく、目的は視認することではない。
気づいたところで、為す術などなかった。発動まで、標的へのしばらくの注視を要する特殊な光術・暁蝕が、淡紅の光とともに牙をむいた。
「っく……ぅう……!?」
味わったことのない感覚だった。内臓を灼熱の五本指で引っ掻き回されているような、熱感を伴う痛みと不快感。徐々に感覚を取り戻した左腕で腹部を抱えこんでも、手の届かない体内で荒れ狂う暴力の塊はどうすることもできない。ガオンの赤い視線を受けている限り永遠に続く、回避不能の責め苦だ。
「ルシルッ!」
コウは脇目もふらずにルシルのもとへと走り出した。行く手を阻もうとするガオンの前足を、飛び出した霞冴が鋭く斬りつける。やはり飛び散るのは、鮮血のしぶきだった。
霞冴の妨害の甲斐あってルシルのそばにたどり着いたコウは、内側から壊される苦しみに悶える彼女をすくいあげるように抱き上げた。一瞬、弱い電流がコウの腕にも流れて、息を詰める。だが、しばらく地面に伏していた体からは、おおかた電気が逃げていることは見越していた。
コウは一層強くルシルを抱きかかえると、すぐさまガオンの視線から外すように飛びのいた。
光術が途切れると、ガオンはすぐさま霞冴への攻撃に転じた。至近距離で発生する雷を辛く避けながら、霞冴は一人でガオンを相手取る。そもそも、彼女は長期戦に耐えられるだけの体力を持ち合わせていない総司令部員だ。いつ何を食らってもおかしくない、ギリギリの戦況だった。
そちらに気を取られそうになりつつも、コウはしゃがんだまま、腕の中のルシルをゆっくりと起こした。目を固くつぶり、体をぎゅっとこわばらせて喘ぐ彼女の背中を、強めにさする。
「ルシル、しっかりしろ。落ち着け……深呼吸できるか」
術中から逃れても、息を乱し、時折咳き込むルシルは、コウの執行着の襟を強く握りしめていた。
コウ自身も、先の侵攻で、光のチエアリから同じ光術を受けたことがあるので知っている。見えない攻撃に内側を侵食されるというのは、相当な恐怖をもたらすのだ。
大丈夫、大丈夫と声をかけているうちに、ルシルは浅い呼吸を繰り返しながらも、緩慢に目を開いた。すまない、とかすれた声を漏らしながら、手のひらを結んだり開いたりする。雷縛も完全に解けたようだ。
そっと地に降ろされ、自力で座位の姿勢をとったルシルだが、立とうとした瞬間、体内でくすぶっていた余波が胃を突き上げた。思わず口を押さえるルシルの背中を二、三度上下にさすってから、コウが立ち上がる。
「無理すんな、ちょっと休んでろ」
「悪い……っ、けほッ」
目を閉じて深呼吸に努めるルシルを背に、コウは駆け出した。その先で、ちょうど霞冴の刀とガオンの爪が切り結ぶ。だが、競り合いは一秒と続かなかった。
「ああ……ッ」
弾き飛ばされた霞冴が、仰向けで地に叩きつけられた。左手に刀を握ったまま、しかし起き上がるのに必要なエネルギーが、四肢に伝わる前で消えてしまう。大きく胸を上下させて激しい呼吸を繰り返す彼女は、体力の限界に近かった。
無防備な霞冴へ歩み寄ったガオンが、刀傷を負った前足を、ゆっくりと持ち上げる。黒々とした腕が落とす影が、霞冴の華奢な体に重なっても、彼女はやっとのこと寝返りを打つので精一杯だった。
手負いの前足が、わずかに上へ浮かされた直後、勢いをつけて振り下ろされる。霞冴は何とか左手の刀を掲げたが、しのげるだけの力も体勢も整っていない。肋骨を粉砕して踏み潰されるどころか、己の刀の峰に追い討ちをかけられるのがとどのつまりだ。
想像を絶する痛みを覚悟し、ぎゅっと目をつぶる。
刹那、耳元でざわめく恐怖心をも引き裂く咆哮が、鼓膜を震わせた。
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