89 / 108
10.三日月の真相編
48三日月××× ⑨
しおりを挟む
***
メルがピッチをスピーカーフォンにして発信する間、波音はといえば、終始そわそわビクビクとしていた。
ここから先は、未知の領域。いくら常時周りに花が浮かんでいるような朗らかさをまとう美雷とて、心ある一人の猫であり、偉大なる最高司令官なのだ。部下の命令無視で目の色が変わらないわけがない。
コール音より速い心臓の鼓動は、応答したソプラノで飛び上がった。
『もしもし?』
「美雷さん、天草芽瑠です。水鈴波音さんもそばにいます」
ひ弱そうな声をしていながら、怖じることのないメルの肝の座り方は、さしもの波音も及ばないものだ。波音自身も、入隊したしょっぱなから上司をあだ名で呼んだり、ため口をきいたりしたお転婆娘だ。今だって、美雷にも敬語を使ったことはない。だが、コウに怒鳴られるのは全くこたえなかったのに、どうしてか今の美雷の声を聞くのは震えるほど怖かった。
『ルシルちゃんのピッチは、謝罪の言葉とともに切れたわ。……何があったの?』
そう問いかける美雷の声色は、真剣さの中に憂慮が含まれたものだった。だが、それもメルの答えでどう変貌するか。
「美雷さん、すみません。止められませんでした」
『何を止められなかったの?』
「ルシルさん、大和隊長、そのほかの皆さん……波音さん以外は全員、時空洞穴に飛び込んでいきました」
メルの言葉に、ピッチの向こうで沈黙が答えた。しばらくして、美雷の静かな声が問う。
『近づいちゃダメって言ったのに?』
「はい」
再び、沈黙。表情が見えない分、重すぎる間だった。あの温かい琥珀色のまなざしが冷え切っているのを見たくはないが、これはこれで、かえって次の一言が恐ろしい。
波音は、ピッチとメルの顔の間で、何度も視線を往復させた。ピッチもメルも、互いを無表情で見つめあっている。
やがて、スピーカーフォン越しに聞こえた小さなため息には、少なくとも怒気は感じられなかった。
『……ルシルちゃんはまじめだし、霞冴ちゃんも命令違反するような子じゃない。コウ君は時々苦言を呈するけれど、彼だってベテランよ。この状況で無鉄砲なことはしないはず』
波音の肩から、少し力が抜けた。ふと、みんなのことをちゃんと見ているんだと霞冴が誇らしげに語っていた、カーキ色の元最高司令官の姿が目に浮かんだ。
次に聞こえた美雷の声には、間違いなく糾弾の色はなかった。ただ純粋な疑問と思慮でできた問いかけだった。
『メルちゃん。どうしてみんなが飛び込んでいったのか、わかる?』
その問いに、メルは少しだけうつむいて黙った後、意を決したように答えた。
「彼女らは……衝動的に飛び込みました。使命感からか、あるいはもっと個人的な私情によるものか。そのどちらであったにせよ……もしかしたら、そうしなかった私たちこそが間違っているのかもしれません」
『……どういうことかしら』
「時空洞穴が完全に開いて、接続先の景色を見たんです」
それは、メルと波音も目にしたものだった。だが、他の皆と違って、二人は美雷の指令を優先してここに留まった。逆に言えば、その光景は、二人を除く全員が葛藤を投げ捨てて指示に背くほどの扇動力をもっていた。
あの時、彼女らの頭には、その状況を具体的に描写する余裕などなかっただろう。ただぱっと目に飛び込んだ視覚的な事実に突き動かされたに違いない。
けれど、賢明か非情か、冷静さを保てていたメルには、ほんの短い間に見えたワンシーンを、端的に、正確に描写することができた。
「――吹雪の中で、雷奈さんが、氷術によると思しき氷の中に閉じ込められていました」
***
――ここは、どこだろうか。
真っ暗な闇の中、少女は誰にともなく問う。
何も見えず、何も聞こえない。ただ、寒い。というより、冷たい。自分を包む空気か何かが、容赦なしに冷たかった。そのはずなのに、体の表面よりも、もっと奥の、魂が収まっているであろう芯に近い部分が、それ以上に寒かった。
(私は……さっきまで何しとったんやっけ?)
凍り付いた記憶の糸を、少しずつ溶かしながら徐々に手繰り、見えてきたのは白い風。透明で冷たい柱。そして黒々とした姿に爛々と光る深紅――。
(そっか……私、親父と……ガオンと対峙して……)
さながら、今いるのは氷でできた棺なのだろう。まだ死んではいないようだが、それも時間の問題だ。頭は依然ぼんやりとし、視力も失われている。この身に感じる寒さも、次第に薄れていくのだろう。
体は何とか動かせそうだった。悪あがきかもしれないが、脱出に向けてあがけるだけあがいてもいいかもしれない。
けれど。
(私は……ここから出て、よかと?)
そのためらいが、腕の運動神経への指令を断つ。
(私は神殺しの娘。フィライン・エデンからすれば大敵。フィライン・エデンの皆には、もう会えない。ううん、人間ですらなかった私には、人間界にも居場所なんてない)
最後に聞こえた言葉が、胸の中で冷たく脈打つ。
――お前は普通じゃない。なにせ、罪深き神殺しの娘だからな。
今までのうのうと生きてきたことも、きっとおこがましかったのだろう。何も知らぬなど、罪だったのだろう。
自分は、絶対悪の血を引いている。見紛うことなき強大な力とともに。
(私は……ここで、永遠に凍っているのがお似合いなのかもね……)
それを最後に、雷奈は思考を手放した。なんだか、途端に楽になった気がした。昼寝のときのようなまどろみにたゆたって、薄れゆく感覚をただ眺める。何にも抗わず、何も考えず、ただなりゆくままに身を任せ――。
……――!
ふと、何かが聞こえた気がした。凍り付こうとしていた雷奈の意識が、気づいた時にはそちらへ向いていた。
今まで何も聞こえなかった中に、唐突に表れた聴覚刺激。とはいえ、先ほどまでの雷奈の精神状態なら、それも受け流してよいほどのささやかなものだった。
だが、反射的に、まるで振り返るようにそこに注意を向けていた。何が聞こえたのかはわからないまま、けれど、いつもそうしていた気がしたから。
もう一度、聞こえた。今度は、さっきよりもほんの少し鮮明だった。声だ。誰のものかはわからないし、本当にその言葉を発音しているのかもわからないが、確かに声はこう叫んだ。
――雷奈!
呼んでいる。誰かが、呼んでいる。
この凍てついた棺の中の、忌むべき存在を。
もう一度、声がする。
――戻って来い、雷奈!
「戻れんよ」
壁を張るようにつぶやく。もし本当に振り向いていたならば、その顔を再び背けていただろう。
「だって、私はガオンの娘やけん。大罪人の血を引く子やけん」
諦めたように受け入れたはずの事実でも、自分で口に出してみれば、心につららが刺さるようだった。この声が、呼び声の主に届いているのかはわからない。そもそも、何もかも幻聴なのかもしれない。だから、これは自分自身に言い聞かせる言葉でもあった。
だが、音に乗せずに意味だけが伝わってくるかのようなその声は、確かに雷奈に答えた。
――だから何だ、関係ない! あんたが傷つけたわけじゃない。ガオンとあんたは別物だろ!
きっと、嬉しいことを言ってくれている。だが、今の雷奈には響かない。硬い氷塊と化した心には、何も刺さらない。
それでも、返事をよこしはした。いまだ、自分への言い聞かせが大部分を占めながら。
「ばってん、もう合わせる顔がなか。アワにも、フーにも……誰にも」
今の雷奈を、きっと誰も歓迎しない。それは、揺るがない事実なのだと諦めていた。
だが――。
――そんなもの、いつもの顔でいいだろ! 天然で無邪気な、いつものあんたでいい!
その声の温度に触れて、氷塊の表面がほんの少しだけ溶け出した。分厚い氷の外側の、たった紙一枚分ほどだ。
だとしても、なんと心地のいい言葉だろう。雷奈は、しばらくその残響に聞きほれていた。
余韻に、さらなる声が重なる。
――もしそれで足りないっていうならな、救世主の顔をしろ。ガオンを懲らしめて、フィライン・エデンを救った正義の味方の顔で会えばいい。
「正義の、味方……?」
無明の闇に、ぼうっと何かが現れた。目の前の暗黒をぼかす、ほの白い幽光。
けれど、それに手を伸ばす勇気は、まだない。
「ガオンは、神ば……君臨者ば殺したって言ってた。私は神殺しの娘とよ。そんな私に……正義の味方なんてできる?」
――できる。
即座に返る声に、息を詰める。
――できるさ。あんたはいつだって素直で正しかった。争いを好まず、悪を許さず、誰かのために動くヤツだった。あんたは最初から正義の味方なんだよ。
そこに、綺麗事や社交辞令のにおいはしなかった。心の底から、雷奈をそう信じている者の声。きっと、雷奈をよく知り、ずっと見てきた人。
尋ねる震え声に、わずかに熱がこもる。
「戻った先に、私の居場所はある? 私は人間じゃなかったのに、人間の世界に居場所なんてあると?」
恐れと期待がないまぜになったまま、答えを待つ。
声は、少し黙った後、短く告げた。
――例えば、神社の宿坊。
心臓が、とくんと脈打つ。
――例えば、教卓から見て左の、前から三列目の席。
じわり、熱が広がる。
――例えば、私たちのそば。
溶け出す、厚い氷の壁。
――当たり前だろ。あんたの居場所なんて、いろんなところにある。他にももっとあるはずだ。
闇を照らす仄かな明かりが、次第に広がって暗澹たる色を遠ざけていく。いつの間にか、寒さは薄らいでいた。いずれ消えるだろうと思っていたその感覚。だが、それ以外の何をも感じなくなるはずだった体は、今確かに、優しい温度を感じ取っていた。
――雷奈。
声が響く。
――どんな真実が偉そうに現れたって、この真実の前には何も手出しできない。雷奈は雷奈。この絶対の真実は……未来永劫、変わらないよ。
光が広がって、闇を払いゆく。人肌に似た温かさに包まれる。
けれど、やっぱり何も見えない。まぶた越しに世界を見ているように、明暗の区別がつくだけ。
光の向こうにあるものも、声の主も、何も目に映らない。こんなにも嬉しくて、もう一度、自分のいた世界をと願ってしまうのに。
ここまでなのか。ここから先は、もう望めないのか。
(……違う)
そうだ。これが、まぶた越しの世界なら。
(何も見えないでいるのは……私が目をつぶったままだからじゃないのか。何も見ないでいるのは、私自身じゃないのか)
声を聞くだけは心地よくて、そのくせ今の自分の在り方を変えるのは怖かった。目を開けるのも、手を伸ばすのも。
だが、それももう終わりだ。
まぶたを上げる。手を伸ばす。どちらも、自分自身にしかできないこと。
自ら閉ざした世界への扉を、自ら開いていく。
――戻って来い。一緒に戦おう、雷奈。
声は、それが最後だった。伸ばした両手を、やけどしそうな熱が包んだ。同時に、まぶしすぎる光が目を刺す。
手が熱い。目が痛い。けれど、なぜか嫌じゃなかった。
焼けるように熱くて、刺すように痛くて、どうしてかそれが心地よくて、でもやっぱり、たまらなく熱くて、痛くて――。
涙が、止まらなかった。
メルがピッチをスピーカーフォンにして発信する間、波音はといえば、終始そわそわビクビクとしていた。
ここから先は、未知の領域。いくら常時周りに花が浮かんでいるような朗らかさをまとう美雷とて、心ある一人の猫であり、偉大なる最高司令官なのだ。部下の命令無視で目の色が変わらないわけがない。
コール音より速い心臓の鼓動は、応答したソプラノで飛び上がった。
『もしもし?』
「美雷さん、天草芽瑠です。水鈴波音さんもそばにいます」
ひ弱そうな声をしていながら、怖じることのないメルの肝の座り方は、さしもの波音も及ばないものだ。波音自身も、入隊したしょっぱなから上司をあだ名で呼んだり、ため口をきいたりしたお転婆娘だ。今だって、美雷にも敬語を使ったことはない。だが、コウに怒鳴られるのは全くこたえなかったのに、どうしてか今の美雷の声を聞くのは震えるほど怖かった。
『ルシルちゃんのピッチは、謝罪の言葉とともに切れたわ。……何があったの?』
そう問いかける美雷の声色は、真剣さの中に憂慮が含まれたものだった。だが、それもメルの答えでどう変貌するか。
「美雷さん、すみません。止められませんでした」
『何を止められなかったの?』
「ルシルさん、大和隊長、そのほかの皆さん……波音さん以外は全員、時空洞穴に飛び込んでいきました」
メルの言葉に、ピッチの向こうで沈黙が答えた。しばらくして、美雷の静かな声が問う。
『近づいちゃダメって言ったのに?』
「はい」
再び、沈黙。表情が見えない分、重すぎる間だった。あの温かい琥珀色のまなざしが冷え切っているのを見たくはないが、これはこれで、かえって次の一言が恐ろしい。
波音は、ピッチとメルの顔の間で、何度も視線を往復させた。ピッチもメルも、互いを無表情で見つめあっている。
やがて、スピーカーフォン越しに聞こえた小さなため息には、少なくとも怒気は感じられなかった。
『……ルシルちゃんはまじめだし、霞冴ちゃんも命令違反するような子じゃない。コウ君は時々苦言を呈するけれど、彼だってベテランよ。この状況で無鉄砲なことはしないはず』
波音の肩から、少し力が抜けた。ふと、みんなのことをちゃんと見ているんだと霞冴が誇らしげに語っていた、カーキ色の元最高司令官の姿が目に浮かんだ。
次に聞こえた美雷の声には、間違いなく糾弾の色はなかった。ただ純粋な疑問と思慮でできた問いかけだった。
『メルちゃん。どうしてみんなが飛び込んでいったのか、わかる?』
その問いに、メルは少しだけうつむいて黙った後、意を決したように答えた。
「彼女らは……衝動的に飛び込みました。使命感からか、あるいはもっと個人的な私情によるものか。そのどちらであったにせよ……もしかしたら、そうしなかった私たちこそが間違っているのかもしれません」
『……どういうことかしら』
「時空洞穴が完全に開いて、接続先の景色を見たんです」
それは、メルと波音も目にしたものだった。だが、他の皆と違って、二人は美雷の指令を優先してここに留まった。逆に言えば、その光景は、二人を除く全員が葛藤を投げ捨てて指示に背くほどの扇動力をもっていた。
あの時、彼女らの頭には、その状況を具体的に描写する余裕などなかっただろう。ただぱっと目に飛び込んだ視覚的な事実に突き動かされたに違いない。
けれど、賢明か非情か、冷静さを保てていたメルには、ほんの短い間に見えたワンシーンを、端的に、正確に描写することができた。
「――吹雪の中で、雷奈さんが、氷術によると思しき氷の中に閉じ込められていました」
***
――ここは、どこだろうか。
真っ暗な闇の中、少女は誰にともなく問う。
何も見えず、何も聞こえない。ただ、寒い。というより、冷たい。自分を包む空気か何かが、容赦なしに冷たかった。そのはずなのに、体の表面よりも、もっと奥の、魂が収まっているであろう芯に近い部分が、それ以上に寒かった。
(私は……さっきまで何しとったんやっけ?)
凍り付いた記憶の糸を、少しずつ溶かしながら徐々に手繰り、見えてきたのは白い風。透明で冷たい柱。そして黒々とした姿に爛々と光る深紅――。
(そっか……私、親父と……ガオンと対峙して……)
さながら、今いるのは氷でできた棺なのだろう。まだ死んではいないようだが、それも時間の問題だ。頭は依然ぼんやりとし、視力も失われている。この身に感じる寒さも、次第に薄れていくのだろう。
体は何とか動かせそうだった。悪あがきかもしれないが、脱出に向けてあがけるだけあがいてもいいかもしれない。
けれど。
(私は……ここから出て、よかと?)
そのためらいが、腕の運動神経への指令を断つ。
(私は神殺しの娘。フィライン・エデンからすれば大敵。フィライン・エデンの皆には、もう会えない。ううん、人間ですらなかった私には、人間界にも居場所なんてない)
最後に聞こえた言葉が、胸の中で冷たく脈打つ。
――お前は普通じゃない。なにせ、罪深き神殺しの娘だからな。
今までのうのうと生きてきたことも、きっとおこがましかったのだろう。何も知らぬなど、罪だったのだろう。
自分は、絶対悪の血を引いている。見紛うことなき強大な力とともに。
(私は……ここで、永遠に凍っているのがお似合いなのかもね……)
それを最後に、雷奈は思考を手放した。なんだか、途端に楽になった気がした。昼寝のときのようなまどろみにたゆたって、薄れゆく感覚をただ眺める。何にも抗わず、何も考えず、ただなりゆくままに身を任せ――。
……――!
ふと、何かが聞こえた気がした。凍り付こうとしていた雷奈の意識が、気づいた時にはそちらへ向いていた。
今まで何も聞こえなかった中に、唐突に表れた聴覚刺激。とはいえ、先ほどまでの雷奈の精神状態なら、それも受け流してよいほどのささやかなものだった。
だが、反射的に、まるで振り返るようにそこに注意を向けていた。何が聞こえたのかはわからないまま、けれど、いつもそうしていた気がしたから。
もう一度、聞こえた。今度は、さっきよりもほんの少し鮮明だった。声だ。誰のものかはわからないし、本当にその言葉を発音しているのかもわからないが、確かに声はこう叫んだ。
――雷奈!
呼んでいる。誰かが、呼んでいる。
この凍てついた棺の中の、忌むべき存在を。
もう一度、声がする。
――戻って来い、雷奈!
「戻れんよ」
壁を張るようにつぶやく。もし本当に振り向いていたならば、その顔を再び背けていただろう。
「だって、私はガオンの娘やけん。大罪人の血を引く子やけん」
諦めたように受け入れたはずの事実でも、自分で口に出してみれば、心につららが刺さるようだった。この声が、呼び声の主に届いているのかはわからない。そもそも、何もかも幻聴なのかもしれない。だから、これは自分自身に言い聞かせる言葉でもあった。
だが、音に乗せずに意味だけが伝わってくるかのようなその声は、確かに雷奈に答えた。
――だから何だ、関係ない! あんたが傷つけたわけじゃない。ガオンとあんたは別物だろ!
きっと、嬉しいことを言ってくれている。だが、今の雷奈には響かない。硬い氷塊と化した心には、何も刺さらない。
それでも、返事をよこしはした。いまだ、自分への言い聞かせが大部分を占めながら。
「ばってん、もう合わせる顔がなか。アワにも、フーにも……誰にも」
今の雷奈を、きっと誰も歓迎しない。それは、揺るがない事実なのだと諦めていた。
だが――。
――そんなもの、いつもの顔でいいだろ! 天然で無邪気な、いつものあんたでいい!
その声の温度に触れて、氷塊の表面がほんの少しだけ溶け出した。分厚い氷の外側の、たった紙一枚分ほどだ。
だとしても、なんと心地のいい言葉だろう。雷奈は、しばらくその残響に聞きほれていた。
余韻に、さらなる声が重なる。
――もしそれで足りないっていうならな、救世主の顔をしろ。ガオンを懲らしめて、フィライン・エデンを救った正義の味方の顔で会えばいい。
「正義の、味方……?」
無明の闇に、ぼうっと何かが現れた。目の前の暗黒をぼかす、ほの白い幽光。
けれど、それに手を伸ばす勇気は、まだない。
「ガオンは、神ば……君臨者ば殺したって言ってた。私は神殺しの娘とよ。そんな私に……正義の味方なんてできる?」
――できる。
即座に返る声に、息を詰める。
――できるさ。あんたはいつだって素直で正しかった。争いを好まず、悪を許さず、誰かのために動くヤツだった。あんたは最初から正義の味方なんだよ。
そこに、綺麗事や社交辞令のにおいはしなかった。心の底から、雷奈をそう信じている者の声。きっと、雷奈をよく知り、ずっと見てきた人。
尋ねる震え声に、わずかに熱がこもる。
「戻った先に、私の居場所はある? 私は人間じゃなかったのに、人間の世界に居場所なんてあると?」
恐れと期待がないまぜになったまま、答えを待つ。
声は、少し黙った後、短く告げた。
――例えば、神社の宿坊。
心臓が、とくんと脈打つ。
――例えば、教卓から見て左の、前から三列目の席。
じわり、熱が広がる。
――例えば、私たちのそば。
溶け出す、厚い氷の壁。
――当たり前だろ。あんたの居場所なんて、いろんなところにある。他にももっとあるはずだ。
闇を照らす仄かな明かりが、次第に広がって暗澹たる色を遠ざけていく。いつの間にか、寒さは薄らいでいた。いずれ消えるだろうと思っていたその感覚。だが、それ以外の何をも感じなくなるはずだった体は、今確かに、優しい温度を感じ取っていた。
――雷奈。
声が響く。
――どんな真実が偉そうに現れたって、この真実の前には何も手出しできない。雷奈は雷奈。この絶対の真実は……未来永劫、変わらないよ。
光が広がって、闇を払いゆく。人肌に似た温かさに包まれる。
けれど、やっぱり何も見えない。まぶた越しに世界を見ているように、明暗の区別がつくだけ。
光の向こうにあるものも、声の主も、何も目に映らない。こんなにも嬉しくて、もう一度、自分のいた世界をと願ってしまうのに。
ここまでなのか。ここから先は、もう望めないのか。
(……違う)
そうだ。これが、まぶた越しの世界なら。
(何も見えないでいるのは……私が目をつぶったままだからじゃないのか。何も見ないでいるのは、私自身じゃないのか)
声を聞くだけは心地よくて、そのくせ今の自分の在り方を変えるのは怖かった。目を開けるのも、手を伸ばすのも。
だが、それももう終わりだ。
まぶたを上げる。手を伸ばす。どちらも、自分自身にしかできないこと。
自ら閉ざした世界への扉を、自ら開いていく。
――戻って来い。一緒に戦おう、雷奈。
声は、それが最後だった。伸ばした両手を、やけどしそうな熱が包んだ。同時に、まぶしすぎる光が目を刺す。
手が熱い。目が痛い。けれど、なぜか嫌じゃなかった。
焼けるように熱くて、刺すように痛くて、どうしてかそれが心地よくて、でもやっぱり、たまらなく熱くて、痛くて――。
涙が、止まらなかった。
0
お気に入りに追加
4
あなたにおすすめの小説
倒したモンスターをカード化!~二重取りスキルで報酬倍増! デミゴッドが行く異世界旅~
乃神レンガ
ファンタジー
謎の白い空間で、神から異世界に送られることになった主人公。
二重取りの神授スキルを与えられ、その効果により追加でカード召喚術の神授スキルを手に入れる。
更にキャラクターメイキングのポイントも、二重取りによって他の人よりも倍手に入れることができた。
それにより主人公は、本来ポイント不足で選択できないデミゴッドの種族を選び、ジンという名前で異世界へと降り立つ。
異世界でジンは倒したモンスターをカード化して、最強の軍団を作ることを目標に、世界を放浪し始めた。
しかし次第に世界のルールを知り、争いへと巻き込まれていく。
国境門が数カ月に一度ランダムに他国と繋がる世界で、ジンは様々な選択を迫られるのであった。
果たしてジンの行きつく先は魔王か神か、それとも別の何かであろうか。
現在毎日更新中。
※この作品は『カクヨム』『ノベルアップ+』にも投稿されています。
辺境の最強魔導師 ~魔術大学を13歳で首席卒業した私が辺境に6年引きこもっていたら最強になってた~
日の丸
ファンタジー
ウィーラ大陸にある大国アクセリア帝国は大陸の約4割の国土を持つ大国である。
アクセリア帝国の帝都アクセリアにある魔術大学セルストーレ・・・・そこは魔術師を目指す誰もが憧れそして目指す大学・・・・その大学に13歳で首席をとるほどの天才がいた。
その天才がセレストーレを卒業する時から物語が始まる。
婚約破棄されなかった者たち
ましゅぺちーの
恋愛
とある学園にて、高位貴族の令息五人を虜にした一人の男爵令嬢がいた。
令息たちは全員が男爵令嬢に本気だったが、結局彼女が選んだのはその中で最も地位の高い第一王子だった。
第一王子は許嫁であった公爵令嬢との婚約を破棄し、男爵令嬢と結婚。
公爵令嬢は嫌がらせの罪を追及され修道院送りとなった。
一方、選ばれなかった四人は当然それぞれの婚約者と結婚することとなった。
その中の一人、侯爵令嬢のシェリルは早々に夫であるアーノルドから「愛することは無い」と宣言されてしまい……。
ヒロインがハッピーエンドを迎えたその後の話。
序盤でざまぁされる人望ゼロの無能リーダーに転生したので隠れチート主人公を追放せず可愛がったら、なぜか俺の方が英雄扱いされるようになっていた
砂礫レキ
ファンタジー
35歳独身社会人の灰村タクミ。
彼は実家の母から学生時代夢中で書いていた小説をゴミとして燃やしたと電話で告げられる。
そして落ち込んでいる所を通り魔に襲われ死亡した。
死の間際思い出したタクミの夢、それは「自分の書いた物語の主人公になる」ことだった。
その願いが叶ったのか目覚めたタクミは見覚えのあるファンタジー世界の中にいた。
しかし望んでいた主人公「クロノ・ナイトレイ」の姿ではなく、
主人公を追放し序盤で惨めに死ぬ冒険者パーティーの無能リーダー「アルヴァ・グレイブラッド」として。
自尊心が地の底まで落ちているタクミがチート主人公であるクロノに嫉妬する筈もなく、
寧ろ無能と見下されているクロノの実力を周囲に伝え先輩冒険者として支え始める。
結果、アルヴァを粗野で無能なリーダーだと見下していたパーティーメンバーや、
自警団、街の住民たちの視線が変わり始めて……?
更新は昼頃になります。
司書ですが、何か?
みつまめ つぼみ
ファンタジー
16歳の小さな司書ヴィルマが、王侯貴族が通う王立魔導学院付属図書館で仲間と一緒に仕事を頑張るお話です。
ほのぼの日常系と思わせつつ、ちょこちょこドラマティックなことも起こります。ロマンスはふんわり。
人質から始まった凡庸で優しい王子の英雄譚
咲良喜玖
ファンタジー
アーリア戦記から抜粋。
帝国歴515年。サナリア歴3年。
新国家サナリア王国は、超大国ガルナズン帝国の使者からの宣告により、国家存亡の危機に陥る。
アーリア大陸を二分している超大国との戦いは、全滅覚悟の死の戦争である。
だからこそ、サナリア王アハトは、帝国に従属することを決めるのだが。
当然それだけで交渉が終わるわけがなく、従属した証を示せとの命令が下された。
命令の中身。
それは、二人の王子の内のどちらかを選べとの事だった。
出来たばかりの国を守るために、サナリア王が判断した人物。
それが第一王子である【フュン・メイダルフィア】だった。
フュンは弟に比べて能力が低く、武芸や勉学が出来ない。
彼の良さをあげるとしたら、ただ人に優しいだけ。
そんな人物では、国を背負うことが出来ないだろうと、彼は帝国の人質となってしまったのだ。
しかし、この人質がきっかけとなり、長らく続いているアーリア大陸の戦乱の歴史が変わっていく。
西のイーナミア王国。東のガルナズン帝国。
アーリア大陸の歴史を支える二つの巨大国家を揺るがす英雄が誕生することになるのだ。
偉大なる人質。フュンの物語が今始まる。
他サイトにも書いています。
こちらでは、出来るだけシンプルにしていますので、章分けも簡易にして、解説をしているあとがきもありません。
小説だけを読める形にしています。
異世界二度目のおっさん、どう考えても高校生勇者より強い
八神 凪
ファンタジー
旧題:久しぶりに異世界召喚に巻き込まれたおっさんの俺は、どう考えても一緒に召喚された勇者候補よりも強い
【第二回ファンタジーカップ大賞 編集部賞受賞! 書籍化します!】
高柳 陸はどこにでもいるサラリーマン。
満員電車に揺られて上司にどやされ、取引先には愛想笑い。
彼女も居ないごく普通の男である。
そんな彼が定時で帰宅しているある日、どこかの飲み屋で一杯飲むかと考えていた。
繁華街へ繰り出す陸。
まだ時間が早いので学生が賑わっているなと懐かしさに目を細めている時、それは起きた。
陸の前を歩いていた男女の高校生の足元に紫色の魔法陣が出現した。
まずい、と思ったが少し足が入っていた陸は魔法陣に吸い込まれるように引きずられていく。
魔法陣の中心で困惑する男女の高校生と陸。そして眼鏡をかけた女子高生が中心へ近づいた瞬間、目の前が真っ白に包まれる。
次に目が覚めた時、男女の高校生と眼鏡の女子高生、そして陸の目の前には中世のお姫様のような恰好をした女性が両手を組んで声を上げる。
「異世界の勇者様、どうかこの国を助けてください」と。
困惑する高校生に自分はこの国の姫でここが剣と魔法の世界であること、魔王と呼ばれる存在が世界を闇に包もうとしていて隣国がそれに乗じて我が国に攻めてこようとしていると説明をする。
元の世界に戻る方法は魔王を倒すしかないといい、高校生二人は渋々了承。
なにがなんだか分からない眼鏡の女子高生と陸を見た姫はにこやかに口を開く。
『あなた達はなんですか? 自分が召喚したのは二人だけなのに』
そう言い放つと城から追い出そうとする姫。
そこで男女の高校生は残った女生徒は幼馴染だと言い、自分と一緒に行こうと提案。
残された陸は慣れた感じで城を出て行くことに決めた。
「さて、久しぶりの異世界だが……前と違う世界みたいだな」
陸はしがないただのサラリーマン。
しかしその実態は過去に異世界へ旅立ったことのある経歴を持つ男だった。
今度も魔王がいるのかとため息を吐きながら、陸は以前手に入れた力を駆使し異世界へと足を踏み出す――
転生貴族のハーレムチート生活 【400万ポイント突破】
ゼクト
ファンタジー
ファンタジー大賞に応募中です。 ぜひ投票お願いします
ある日、神崎優斗は川でおぼれているおばあちゃんを助けようとして川の中にある岩にあたりおばあちゃんは助けられたが死んでしまったそれをたまたま地球を見ていた創造神が転生をさせてくれることになりいろいろな神の加護をもらい今貴族の子として転生するのであった
【不定期になると思います まだはじめたばかりなのでアドバイスなどどんどんコメントしてください。ノベルバ、小説家になろう、カクヨムにも同じ作品を投稿しているので、気が向いたら、そちらもお願いします。
累計400万ポイント突破しました。
応援ありがとうございます。】
ツイッター始めました→ゼクト @VEUu26CiB0OpjtL
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる