フィライン・エデン Ⅱ

夜市彼乃

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10.三日月の真相編

48三日月××× ⑦

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 少し長めの漆黒の髪。それが似合うほどには整った顔。特別姿勢がいいわけでもないのに、押しても揺れそうにないしっかりとした佇まい。
 何もかもが、雷奈の知る彼のままだった。
 彼女の記憶が正しければ、ガオンは今、四十一歳のはずだ。しかし、目の前の男は、どう見ても二十代後半の若者だった。
 雷奈が彼の姿を最後に見た、あの悪夢の夜でさえ六年前。つまり、時間のループ中をノーカウントとすると、当時の彼は三十七歳だ。
 その頃は、雷奈も幼かったために、年齢相応の容姿というものをつかみかねていたが、今の見識で、およそ十年分の齟齬をもつガオンを目の当たりにすると、さすがに違和感を禁じ得ない。
 いったいなぜ、いつから、彼の時は止まっていたのだろう。
 生き物のことわりから外れるという重大事象。それを指摘されても、ガオンは表情ひとつ動かさずに、口先だけで驚いて見せた。
「心外だな。もっと訊くべきことがあるだろう」
 ガオンの右手が、すっと後ろに伸ばされる。自身の背後に二体のダークを生み出しながら、もったいぶるかのようにゆっくりと告げた。
「なぜフィライン・エデンを滅ぼそうとする俺が、人間であるお前を狙うのか、とかな」
 ガオンの左後ろのダークが、首の付け根あたりの涅色くりいろから、しなる植物のつるを差し向けた。鞭のごとき動きで雷奈をとらえようとするそれを、彼女は横っ飛びにかわす。地を打ったつるは、降り積もった雪を割き、白い粉を舞い散らせた。
 見事な回避を見せて着地した雷奈だが、その瞬間、普段と違う足元の感覚に戸惑った。足がはまって動けなくなるほど深い雪ではないが、つまずいてもおかしくはないし、簡単に滑りそうだ。
 懸念を抱く雷奈に向けて、もう一体のダークが口元から星屑のごとき弾丸を放射した。再び横にかわそうとした雷奈だが、足裏の踏ん張りがきかず、跳躍のタイミングを一秒足らず遅らせた。言ってるそばから、と歯軋りしながら、肩口への衝撃で反時計周りに回転しながら後退する。
やっと踏みとどまれる程度に減速すると、雷奈は服が破れてむき出しになった左肩に目をやった。大粒の砂利で擦ったような傷口には、流れるほどではないが血がにじんでいる。痛みから転じた熱感と、寒風にさらされる冷感が拮抗していた。
 その隙を狙った草のダークから、今度は本体と同じ色の触手が伸びた。触手は雷奈の首の高さを狙って迫ってくる。剣道で培った動体視力に物を言わせて、真紅の瞳でしっかりとその先端を捉えると、雷奈は右の拳を真正面からぶつけた。ゲルのような、水風船のような、何とも言い難い低反発の感触に驚きながらも、拳に向かって力を流し込む。直後、閃光とともに走った電流に、触手は跳ねるように痙攣した。電撃は触手を伝ってダーク本体へと届く。内側からダメージを与えられた巨体は、そこここから黒い霧を噴出させた。
 ボロボロと崩れ落ちた、電撃の始点であった触手の先端。そこから拳を離すと、雷奈は追い打ちとばかりに言霊を唱え、雷砲を放った。軋む左腕を叱咤し、かかげた両手から、何発も何発も撃つ。草のダークの首筋、星のダークの眉間に着弾すると、ダメージの証拠に少しだけ体積を削った。
 幸いなことに、その攻撃で二体とも怯んでくれたようだ。ふぅっと乱暴に息をつくと、雷奈は先程のガオンの問いに答えた。
「その答えはもうわかっとーとよ。私が狙われるのは……私がフィライン・エデンと友好的だから。かつ、私が猫力に覚醒したから、っちゃろ?」
 フィライン・エデンの壊滅を目論むガオンと、フィライン・エデンと友好的な雷奈が相対した時、穏便に済まないことは火を見るより明らかだ。そして、雷奈が覚醒した猫力とは、すなわち同じ猫力に対抗できる力。
「フィライン・エデンに危害ば加えようとしたら、私はその邪魔だてをする。その私が戦力ば持っとる……。あんたからすりゃ、目の上のコブっちゃろ」
 ガオンは、自らをきつくにらみながらそう弁ずる雷奈を、切れ長の目を細めて静かに見ていた。
 沈黙が落ちてから数秒後、能面に初めて表情が宿った。
「その回答では、部分点しかやれんぞ」
 ふっとその口元に浮かんだのは、笑み。嘲笑だった。
「教えたはずだ。問いに対する答えを呈するとき、その答えで問いに対して全てを説明できるのか、逆にその他の答えでは問いに対して一部分も説明できないのかを考えろと」
 雷奈の胸奥で心臓が嫌な鼓動を奏でる。と同時に、ガオンの腕の振りに応じた星のダークが、口元から輪状の光を飛ばした。あっという間に飛来したそれは、避け損ねた雷奈の脇腹に衝撃を残して後ろへと飛び去って行く。ぱっと血しぶきが舞った。見た目に反して、切れ味は刃物そのものだ。
「……っ、はぁ……」
 ばたばたと鮮血が落ちる。真っ白い雪を汚して溶かす赤は、吐き気がするほど鮮やかだ。だが、血の色より、肉を削った音より、脳をつんざくような痛みより、体の一部をえぐられたという事実そのものが、雷奈の神経に戦慄を叩き込んだ。
 バクバクと暴れる心臓を押さえつけながら、雷奈は何とか平静を保とうと努める。努めるが、心の奥底に生まれた動揺はいかんともしがたい。
 三日月ガオン。フィライン・エデンの破壊者。それが、父・雅音と同一人物だったと知って、様々な懊悩にこそ襲われたが、疑いはしなかった。最愛の母を殺した張本人だ、血も涙もない所業をいくつ重ねていようと驚かない。
 彼が本当に、元の心を忘れた全くの別人になっていたのならば、雷奈も赤の他人と割り切って非情になろうとしていたのだ。
 だが、彼の言葉の中には、まだ雷奈の知る父親がいた。
 ――その答えで、問いに対して全てを説明できるのか?
 ――その他の答えでは、問いに対して一部分も説明できないのか?
 それは、ひたすら論理的で理性的だった雅音の教えそのものだ。
 いくつもの残酷と冷徹の中に入り混じる、確かな父の面影。先ほど雷奈の足を鈍らせたのは、雪よりも厚く積もった家族在りし日の記憶だった。
「お前の回答が答えだとしよう。すると、新たな疑問が浮上するはずだ」
 荒い呼吸と流れ出る血液に体温を奪われながら、それでも立ち続ける雷奈にガオンは告げる。
「なぜ、俺が選ばれし人間の二人を襲わないと思う?」
 選ばれし人間。今は、水晶氷架璃と美楓芽華実を指す言葉。
 凶漢の口から親友を指す語が出た瞬間、「二人を襲わない」という文意に安堵するより早く、反射的に全身の産毛が逆立った。
 だが、確かにガオンは雷奈のみを標的としているようだった。氷架璃と芽華実とて、フィライン・エデンと友好的で、かつ猫力を有するという条件を満たしているのにもかかわらず、だ。
 顔を伏せて黙り込んだ雷奈の耳に、興味なさげな声が届く。
「単純な話だ。あれらは脅威ではないからだ。猫力に覚醒しているとはいえ、あんなものは知ったかぶりに毛が生えたようなもの。それに比べて、お前はどうだ。お前の猫力は、あれらと同じく君臨者のいたずらでぽっと身に着けた力か?」
 ガオンは馬鹿げた考えを払い捨てるかのようにぞんざいに手を振った。
「否、お前は俺の血を引いている。フィライン・エデンの猫の血を直接引いているんだ。お前もわかっているはずだ。自分の力が、選ばれし人間の二人の付け焼刃よりもはるかに強大であることを」
 稲妻の閃きとともに、雷奈の脳裏によみがえる光景。初めて力に目覚めたとき、希兵隊でさえ手のかかるダークを一撃で弱らせ、電線を切るほどの雷を起こした。逃避行の夏には、氷架璃と芽華実が力のコントロールに苦戦する一方で、雷奈は力の出し入れも調節もすでに自分のものにしていた。過去世界での戦いでは、詠唱なしでも威力を落とさぬ雷術が、チエアリをも驚かせた。
「だからお前は脅威なのだ。希兵隊と同格に排除しなければならない対象。真っ先に屠るべき邪魔者なのだ」
 ひどく直接的な存在拒否。そしてそれは、実行に移される余地をはらんでいた。
 うつむいたままの雷奈は、ガオンが言葉を紡ぎ切った後も顔を上げようとしなかった。出血と痛みで朦朧としているのかもしれない、それもそのはずだ――そう見限ったガオンの耳に届いた声。
「……ふはっ」
 ガオンの黒い柳眉が寄せられる。風の音で聞き違えたか、あるいは不随意的に発せられたに近い声に付与すべき感情・表情をはき違えたか。そのどちらかでなければ、状況にそぐわない。現状解釈の初期解を合理的に否定するガオンだが、目の前の光景は、その否定こそが誤りだと知らしめる。
 面を上げた少女は、やはりどう見ても、
「ふふっ……あははっ」
 ――笑っていた。
 ひたすらおかしそうに、腹を抱え、口元に手を当てて、声を上げて笑う。まるで友人の冗談でも聞いたか、滑稽な場面にでも出くわしたように。
 肩を震わせて笑いながら、彼女は言う。
「何ね、拍子抜けったい。私、あんたのこと、めちゃくちゃ恐れとったとよ。霊那やさくら達ば倒して、フィライン・エデンば滅ぼして、もう手のつけようもなか脅威やと思っとった。ばってん、そげなことなかったね。ビビリ、弱虫、腰抜けったい」
 肩だけでなく、声も口元の手も震わせて笑いながら。
「だってそうっちゃろ。私が危険分子で排除しなきゃいけんってのに、私、一度だってあんたから直接手を下されてなかとよ? クロガネをさしむけるだけ、ホムラを送り込むだけ。今だって、クロやダークをわざわざ生み出してけしかけるだけ」
 薄茶の瞳に涙まで浮かべて笑いながら。
「あんた、私のことが怖いっちゃろ? 怖くて怖くて、自分では手出しも出来んっちゃろ? 悔しかったら頬の一発でも殴ってみんね、この小心者が」
 笑い声に便乗したような大声で、目の前の男を挑発する。平気で人を殺し、世界を滅ぼすことさえいとわない悪逆の徒を煽り立てる。
 けれど、漆黒の瞳は涼しげだ。むしろ、まるで哀れなものを見るかのようにすっと細められている。
 一つも効いていない。何も響いていない。嘲弄の刃をいくら振りかざしたところで、全部全部すり抜けるだけだ。それどころか。
「笑えるったい、あんたみたいな化け物にさえ恐れられて、直接戦うことさえはばかられて、私は……」
 広げた両手に目を落とす。振りかざしたのは、諸刃の剣。相手を傷つけることすらできずに自分だけ開いた傷口から、手のひらにぽたりぽたりと血が落ちた。血は透明だった。両目から、次々とあふれ出ていた。
「……私は、もう……普通やなかとね……」
 細く、弱く、冷え切った言葉が落ちる。もう朗笑する気力もなかった。結局、今の猛攻でずたずたに傷ついたのは自分だけだ。
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