フィライン・エデン Ⅱ

夜市彼乃

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10.三日月の真相編

48三日月××× ②

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 希兵隊本部、寄合室にもたらされた旋風は、まるで寒風が体温を奪い去るように、隊員たちから平静さをさらった。
 神社を飛び出した雷奈の捜索に出る三日月姉妹と別れて、希兵隊へ駆け込んだ氷架璃と芽華実、そのパートナーたち。彼女らから聞かせられた、驚愕の事実の数々に、集った隊長たちの体の中を震撼と混乱が走り抜けた。
 沈黙を貫きながらも、焦燥感がビリビリと駆け巡る室内。そんな中、さながらそこだけ切り取られた時間の流れであるかのように、ゆっくり、ゆっくりとした動きで、一つの湯呑みが持ち上げられた。誰もが他ならぬその人物の発言を待っているというのに、急かすような一同の注目を浴びてもなお、彼女はおっとりとした姿勢を崩さない。
 湯気のたつお茶で喉を潤す彼女の、至って落ち着き払った動作を見つめているうち、一同のはやる気持ちは、風の止んだ水面のように徐々に沈静化していった。まるで彼女のペースに呑み込まれるようだった。
 タイミングを見計らってか、あるいは最初からその間合いで十分と見越していたのか、ちょうど部屋の空気に静穏が戻った頃に、机の上に湯呑みがことりと置かれる。地に足をつけるような音の後、彼女は、やはりゆったりとした所作でため息をついた。
「なるほどね……これでいくつかの謎が解かれたわね」
 上座に坐する最高司令官・美雷の声は、こんな状況でもしとやかに落ち着いていた。ただ、いつも太陽のような笑顔を浮かべる面には、今は月のごとき静けさが映し出されていた。
「去年度、北海道へ修学旅行へ行った後、雷華ちゃんが持論を展開してくれたそうね。曰く、氷架璃ちゃん、芽華実ちゃん、雷奈ちゃん、雷華ちゃんの四人とも、ワープフープや時間のループを認識しているものの、猫力の有無によって雷華ちゃんとそれ以外で分けるのではなく、氷架璃ちゃんと芽華実ちゃん、雷奈ちゃんと雷華ちゃんで分けるのではないか、と。そして後者の基準で分かれた二人ずつのグループでは、ワープフープを認識したメカニズムが違うのでは、と。それが的を射ていたのね」
 美雷の言葉に、そばに座る霞冴が、当時を追憶しながらうなずいた。
「……あの時の会話では、雷奈のお母さんである雷志さんがカギではないかという話でした。だから、雷奈のお姉さんと妹さんは、雷志さんの遺品を調べて手掛かりを探った。雷志さんが、雷奈と雷華のフィライン・エデン認識に大きく携わっているのではないか、と。でも……」
「ええ。確かに、雷奈ちゃんのお母さんも関わっていた。けれど、もっと直接的に、理由そのものとなっていたのは、お父さんのほう……。三日月雅音さん改め、先日現れた巨大なチエアリ、三日月ガオンだったというわけね」
 雷奈の父親が、フィライン・エデンの猫。しかも、クロ化を通り越して進化した、チエアリ。
 その等式をはっきりと耳にして、氷架璃と芽華実は唇をかんでうつむいた。同じ机を囲んで座る、三角巾で左腕をつった霊那と、首に包帯を巻いたままの神座を直視できなかった。
 父親が、仲間たちを傷つけた。今この時代ではないとはいえ、彼女らの住む世界一つさえ滅ぼした。雷奈の心中たるや、察するに余りある。かてて加えて、彼女は人間として生きてきたのだ。人間社会で生活してくる中で、当然自分も周りと同じ人間なのだと信じてきた。なのに、その信条は一息に突き崩された。
 なまじ猫力に覚醒し、フィライン・エデンの猫と同等の力を振るえることが、心身を侵食するような実感を生んだのだろう。ときに人間離れした運動能力で、ときに雷の姿で現れる、人ならざる血の具象。それを宿しているからこそ、父は同じでも他の人間とほぼ変わりない姉や妹たちのようには割り切れなかったのだ。
 かつて、アワは問うた。君臨者の招待状なしにフィライン・エデンに現れた彼女に向って、「君は何者なんだい」と。
 対する答えは、「選ばれし人間の娘」では及第点に及ばなかった。
 「フィライン・エデンの猫の血を引く者」――これが付け加えられて初めて、真実に迫ったことになる。
「ガオンは未来世界でフィライン・エデンを壊滅に追い込み、過去へ時間飛躍した。そして罪悪感にさいなまれて、人間界で命を絶とうとしたところで雷志さんに出会い、共に過ごし……けれど、何かをきっかけに、フィライン・エデンを滅ぼした当時の残虐な彼に戻り、雷志さんを殺害……といったところなのかしらね」
 美雷は斜め上を見上げ、頬を人差し指の腹でとんとんと叩きながら話し続ける。
「選ばれし人間でもないのに、雷奈ちゃんがフィライン・エデンを認識していたのは、フィライン・エデンの住人の血を引いていたから。それは雷華ちゃんも同じだったから、彼女もフィライン・エデンを認識した。あとのお二人がその限りでなかったのは、単純にガオンの血を濃く引き継がなかったからということでしょうね。それでも、フィライン・エデンと関わることになったからとはいえ、去年の記憶がはっきりあるということは、他の普通の人間とは一線を画しているわ」
 彼女の淡々とした口調に、氷架璃と芽華実の胸の中には表現しがたい心地悪さが湧き出していた。だが、それをどのような形で外に出したものかわからない。怒り、嫌悪、糾弾……どう表出したところで、それはただ、現実を受け入れられない内心を露呈するだけだ。
 けれど。
「私も、雷奈ちゃんはお父さん似だと思ったのよね。確かに外見上はお母さん似だったけれど、フィライン・エデンの猫特有の雰囲気とか面影が、写真越しにも伝わってきていたのね」
「……美雷」
「なあに、氷架璃ちゃん?」
「……、……っ」
「……続けていい?」
「いいわけ……ないだろッ!」 
 それでも、立ち上がらずには、叫ばずにはいられなかった。声を上げる勇気はなくとも顔をくしゃくしゃにする芽華実を代弁して、人間とフィライン・エデンの間で板挟みになるパートナーたちの懊悩を背負って、生来の気の強さに任せて氷架璃が吠える。
「もっと……もっとさ、言うことあるだろ! 浮かべる表情あるだろ! なんでそんなに淡白でいられるんだよ……。そりゃ、希兵隊のトップである美雷にしたら、ガオンの正体とか、弱点の手がかりとか、そういうもののほうが大事ってのはわかってるよ。けど……ちょっとくらい雷奈に寄り添ってやってくれよ。自分が普通の人間じゃなくて、父親が人間ですらなくて、挙句の果てにその父親は、この世界じゃ絶対悪で……。それを知って傷ついて傷つき果てた雷奈を前にしても、あんたはその顔で、その調子で話をするのか!?」 
 息継ぎもそこそこに言い切った氷架璃は、肩で呼吸を繰り返した。その間も、美雷は眉一つ動かさない。
 暖簾に腕押し、ぬかに釘。時尼美雷には、感情論の一切が通用しないのか。
 ――そんなはずはなかった。苦悩の果てに生死の境をさまよった霞冴が生還した時、その肩を抱き寄せながら見せたあの表情は、まぎれもなく本物だったから。
 そして、今だって。
「氷架璃ちゃん。芽華実ちゃんたちも」
 相変わらずの、物静かな声。けれど、美雷自身のペース一色だと思われていたそこに、いくつもの色彩が繊細に入り乱れていることに、彼女らは初めて気づいた。
 最高司令官として取るべき立場。氷架璃と芽華実の言い分への理解。そして、ここにはいない、あの取り乱しようを目の当たりにもしていないはずの雷奈の心中への配慮。
 ややもすればぶつかり合うそれらを丸ごと内包する、際限なく寛大な器こそ、今の美雷が見せる面持ちであり、発する言葉であった。
「私は雷奈ちゃんじゃないから、彼女の苦しみにまるごと共感してあげることはできない。彼女の長年の親友ではないから、あなたたちのように一緒に悩みぬいてあげることはできない。でもね、だからこそ……私はその美しくも狂おしいしがらみに囚われるわけにはいかないの。私はただ希兵隊を率い、彼女の父親を倒すだけ。これ以上、あのチエアリに罪を重ねさせないために。これ以上、あの子の尊厳を傷つけさせないために」
 美雷の瞳の奥で、琥珀色が一瞬だけ、炎のように苛烈に踊ったように見えた。まるで、積年の旅の途中で刹那の光輝を見せる彗星のようだった。
 次の瞬間には、それが幻だったかのように、穏やかなまなざしに戻っていた。微笑む美雷が「それに」と続ける。
「雷奈ちゃんが、いくら自分の出生で悩んでいようと、私たちまで同じように悩む必要なんてないわ。だって、お父さんが人間じゃなくたって、たとえ悪者であったって、これから先、変わるものなんて何もない。何も関係ないの。彼女は、今までもこれからも、私たちのお友達である一人の女の子。あの子の正体は、三日月雷奈。ただ、それだけよ」
 美雷の声の残滓が消えてからも、しばらく氷架璃は黙って立ちすくんでいた。けれど、さっきとは違う清涼な空気が、肺を満たしているような気がしていた。まるで、胸の中を奔流が駆け抜け、そこかしこをすすぎ流していったかのよう。
 直後、ほとんど無意識に、氷架璃はこうべを垂れかけた。途中でそれに気づき、照れ臭くなって、ごまかすようにそそくさと座る。美雷は笑みをこぼすと、再び月の厳かさをまとった柔和な表情で話し出した。
「さて……そういうわけで、雷奈ちゃんのためにも、ガオン対策をしっかり練らないと。現状、時空震が起きたらそこへ出動する態勢を整えているけれど……そうね……」
 美雷はほんのわずか首を傾けて、机の上を見つめながら思案した。
「いったんは、雷奈ちゃんを探すのが先決かしら。ガオンの目的は、フィライン・エデンの破壊。でも、それとは別に、今まで雷奈ちゃんを狙ってきてもいる。彼は雷奈ちゃんに直接手を下さないとはいえ、ダークやチエアリは差し向けてくる。すでに宣戦布告し、動き出している状況。そして、雷奈ちゃんは自衛できる程度に強力な雷術を使うとはいえ、今は精神的に参っている状態。……万が一ということもあるわ」
「たっ……確かに……!」
 ダークやチエアリなど、そうほいほいと出てくるものではないが、今は事情が違う。ガオンが本格的に目的を果たしに来てもおかしくはないのだ。
「早く雷奈と合流しないと……」
「美雷、お願い。希兵隊の力を貸して。私たちじゃ、万が一チエアリやガオンと戦うことになっても、かないっこないわ」
 芽華実も声を重ねる。
 だが、美雷は、唇に人差し指を当てて、机に視線を落としたままだ。
 黙ったままの彼女を、隣の霞冴がおずおずとのぞきこむ。
「美雷さん……?」
 いつもなら、飛んできた羽を軽やかに打ち返すように、すぐさま最適な答えを返す美雷。その頭の回転の速さは、着任時の抜き打ちテストに始まり、何度も発揮されてきた。
 しかし、その彼女が、今、発出すべき司令をためらっているように見えた。
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