フィライン・エデン Ⅱ

夜市彼乃

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10.三日月の真相編

48三日月××× ①

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 まるで、全く見当違いの駅に降り立ってしまったかのようだった。分岐器はいつの間に轍をあらぬ方向に変えたのだろう。
 雷奈たちは、雷志とフィライン・エデンとの関わりについて読み解こうとしていた。そのはずが、開いたページには、ある一人の男との出会いが描かれていた。
 雷志と深く関係する男といえば、雷奈たちの父・雅音しかなくて。黒い髪も、白い肌も、高い身長も、彼と一致するもので。
 だから、歩道橋から身を投げようとしていたその人物も、文脈上、必然的に雅音のはずなのだ。
 なのに、彼を一目見た雷志は何と言ったかといえば。
「雷夢」
 雷華の瞳が生き別れの長女を捉える。動揺も驚愕もない、しかし平常心もあるとはいえないアンビバレントな視線。
「私たちの父は……雅音は、人間ではなかったのか」
 突き刺すように単刀直入な言葉に、雷奈の肩が弱弱しく震えた。
「私たちが先程まで聞いていた日記の記述……肝要であったのは、契約の早期満了でも、ワープフープの閉鎖でもなく、併記されていた雅音の情報であったというのか」
「……順番に説明するばい」
 まだ衝撃に揺さぶられたままの雷奈の頭に、雷夢の声ががんがんと響く。
 雷夢は、全員に目を配りながら話しだした。
「雷華の言うとおり、これまでの付箋のページで見てほしかったのは、二家やフィライン・エデンとの別れではなく、あのひとに関することでした。彼に関する詳しい情報は、これ以降の日記で少しずつ書かれていますが、付箋を貼りだすときりがないので、私が補足します」
 妹たちに、二家の猫たちに、そしてスマホ越しの耀に、雷夢は語る。
「さっきの記述に出てきた男は、まさしく私たちの父。書かれていたように、彼の正体はフィライン・エデンの猫です。そしてこれも書いてあったように、彼はかつて『元の居場所』を壊した。そしてその罪にさいなまれて人間界へやってきて、命を絶とうとし、そこで母さんと出会った」
「その『元の居場所』というのは、人間界ではなく、フィライン・エデンにあった家か職場かなんだろうね。東京から離れたかったというより、フィライン・エデンに通ずる場所、すなわちワープフープから離れたかった……ってところか。」
 バブルの言葉に対して、雷夢は首を縦にも横にも振らなかった。
「半分、正解です。確かに、彼はフィライン・エデンにあった『居場所』を壊しました。おそらく、東京から遠ざかりたかったのもその理由で合っているでしょう。でも、。彼が壊したのは、彼がいた。――フィライン・エデンそのものを壊したんです」
「なっ……」
「なんだって……!?」
 バブルと、彼女を抱えるアワが声をひきつらせた。隣で、フーとウィンディも絶句している。
 氷架璃と芽華実が身を乗り出した。
「待て待て待て、なんじゃそりゃ!?」
「フィライン・エデンを壊した!? ど、どういうこと!?」
 全く想像がついていかなかった。地震や戦争で町が壊滅的になった状況は、テレビで見たことがあるとして、世界が丸ごと壊されるなど、過程も結果も皆目見当がつかない。
 バブルがアワの腕の中で手足をバタつかせた。
「っていうか、おかしいでしょ!? 私達は当時からずっとフィライン・エデンに住んでるんだぞ!? 自分たちの世界が壊された覚えなんてないんだけど!?」
「はい。彼が壊したのは、フィライン・エデンではありません」
 雷夢はそう前置きし、信じがたい事実の、ぐらつきそうな足元を固めるように、はっきりと言い切った。
「彼が壊したのは、フィライン・エデンです。あのひとは、未来から来たんです」
 もはや、誰も一声も漏らさなかった。呼吸すら、なりを潜めた。
 だが、最初の衝撃波が行き去っても、荒波のような動揺は広がらなかった。諦めるかのように、まるまま飲み込むしかなかった。
 といっても、気がおかしくなったわけではない。そもそも、ここにいるのはフィライン・エデンという異世界に関わった人間と、まさにその住人たちだ。源子と契約すれば、時を渡ることができるのは知っているし、雷奈たちに至っては、他でもない彼女ら自身が、身をもって体験したことなのだ。あの赤い翼を携えた、金色の使者にいざなわれて。
 だからこそ、雅音が未来からやってきた猫であるという事実には驚愕しつつも、彼女らが絶句した一番大きな理由はそれではなかった。
 未来からの渡り者が、あたかも最初からこの時代の住人であったかように自然に生き、振る舞い、生活を営んでいた。その事実に、常識をひっくり返され、価値観を破壊されるショックを受けたのだ。
 氷架璃が生唾を飲み込んで声を絞り出す。
「ってことは、何か? 雷奈のお父さんは、未来から過去に時間飛躍する力があったってことか?」
「確か、時空学に精通していたら可能なのよね?」
「雅音は時空学者だったのか?」
 フィライン・エデンの知識から導かれた雷華の仮説に、雷夢は首を振った。
「確かに学院の所属者ではあったらしか。ばってん、彼自身は時空学者じゃなくて、猫力学者やったみたい。さっき書いてあった『二度と会えない大切な人』は時空学者やったみたいやけん、そのひとが関係しとるかもしれんっちゃけど」
 雷夢自身、時空学者や猫力学者がどのような学問を修めているのか、よく知らない。単に日記の内容を字面で理解し、雷帆から聞いたフィライン・エデンの知識で補完しているに過ぎなかった。雷帆も同じで、ただ頭の回転が速かった父が学者だったと知って納得できたという、その程度だった。
「源子と契約して、何らかの代償を払って過去へ飛躍し、掟を破って人間界に住み着いた猫、三日月雅音まさと。……それが、私たちの父の正体か」
 これまでの知見をまとめるように雷華が言った。予想を覆され続けはしたが、今度こそこれが答えなのだろう――そう確信して。
 しかし、雷夢はそれさえもかぶりを振って否定した。
「私たちの父のと言うなら、厳密には違う。あのひとの名前は『雅音まさと』ではなか」
「……何だと?」
 雷華に続き、その手の中で耀が声を発した。
『雷夢。私は雷志から、男の名を確かにそう教わったんだ。あの子が嘘をついたというのか』
「半分は嘘で、半分は真実だったんです。確かに、字面は『雅音』ではあった。これは、フィライン・エデンで、学者を含む公務員のみが賜るという漢字名でしょう。ただし、これを『まさと』と読むのは、結婚が決まってから、人間界になじむように訓読みした仮の名前です」
 テーブルを囲む一同を見回して、雷夢は告げる。
「あのひとの、フィライン・エデンの猫として生まれたときに授かった本当の名前は、あの名前を音読みしたものです」
 それを聞いた、一秒後。
「……お、おい」
 音韻がかちりと噛み合った直後。
「嘘……でしょう……!?」
 浮かび上がった名前が頭の中で響いた瞬間。
「そんな……まさか……」
 顔からさぁっと血の気が引く。
 ――その名は。
 優雅の「」に音楽の「おん」と書く、その男の真名は――。
「彼の名は三日月ガオン。かつて世界一つを滅ぼし、そして昨日の雷奈のメールにあった事実が本当なら、今再び同じ業を為そうとしている、大逆の猫です」
 まるで仕組まれたかのような間合いでつながる吉報と凶報。とはいえ、もはや吉報と思っていたものさえも凶報といえよう。
 愕然と絶句する雷奈の思考回路は、ぐちゃぐちゃに絡まって意味をなさなくなっていた。
 ガオンと名乗る巨大なチエアリが宣戦布告してきたことは、修学旅行帰りの新幹線の中で、メールで伝えていた。その時すでに雅音の正体を知っていた二人も、今の雷奈と同じ衝撃に揺さぶられたはずだ。よくたった一晩で正気に戻れたものだ。
 だが、それよりも。
 もつれにもつれた雷奈の思考回路、その一部がちぎれて中から漏れ出すように頭に広がったのは、全てが変わったあの夜の、
 雷奈があの鮮烈な場面を思い出すとき、いつも同じフレーズが反響していた。
 鉄のようなにおいと、目に痛い色をしたおびただしい何か。
 永遠に閉じた瞳と、永遠に変わってしまった瞳。
 そのフレーズに基づいて追憶し、誰かに話すときも同じ文言を想起していた。言葉の域を超えて、五感で触れたあの悪夢を思い出してしまうのが怖かったから。
 だから、今の今まで、考えようとも思いだそうともしなかった。
 永遠に、変わってしまった瞳だったのか?
 目にしたはずの映像に蓋をして、「変わってしまった」という言語的概念だけで記憶していた、その瞳。
 なぜそう思ったのか? 何が変わったのか?
 今、フラッシュバックのように思い出した、当時を追体験するがごときに触れて、初めてその疑問に気づき、同時に初めてその答えを知った。
 あの夜、雷奈が目にしたもの。それは、床に倒れた愛する母。ひっそりと閉じた青白いまぶた。彼女の周りに流れ出る、嘘みたいに赤い液体。こちらに背を向けて立つ男。彼もまた、雷奈が愛した父。
 父が振り返る。首だけ動かして、雷奈に視線をよこす。
 ――きっと、雷志は初めて彼に出会ったとき、それを見て人外だと悟ったのだ。
 いつも、夜を見つめるがごとき静かな闇色だった瞳。
 けれど、その時、映していたのは宵闇ではなかった。
 生々しい血の色を宿した、赤い、赤い、深紅の目。
 猫力に目覚め、術を振るう時の雷奈と同じ、深紅の目――。
「――――――ッ!」
 脳内がはじける。視界が明滅する。逃走欲求のままに手足をがむしゃらに動かし、求めるのは障子の外。
 いくつもの声が追ってくるのを振り切って、硬いローファーの感触をかかとで踏んづけて飛び出す。冷えた外気に飛び込むように、走って、走って、走り抜ける。
 走りながら、慟哭した。声は出なかった。かすれた吐息に、あふれ出す涙が重なる。喉がふさがって、息が苦しい。いつ呼吸が止まってもおかしくないほどに。
(――私は)
 どこへ向かっているのか、自分でもわからない。ただとにかく、遠く遠くを求め続ける。
 氷架璃と芽華実と肩を並べて歩いた通学路を駆け抜ける。ありふれた女子中生と同じように寄り道した店の前を突っ切る。
 同じ、だと思っていた。
 だから、あの時だって。
 下鴨神社でお守りをそろえた時だって。
 氷架璃のあの言葉に、うなずいたのに。
 ――いいか、私たちは運命共同体だ。
 ――いざというときは、このお守りにかけて必ず助け合うぞ。
 ――親友として。そして、
 ――同じフィライン・エデンに巻き込まれたとして!
(私は………!)
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