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10.三日月の真相編
46三日月のひそむ風雲 ⑧
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***
「オーライ、オーライ」
さながら今日が初現場の交通整理員のような意気込んだ声でガイドするのは、濡縁の手すりに肘から先を乗せて下をのぞきこむ氷架璃。その隣で、芽華実も同様に中庭をのぞきこんでいた。
しかし、楽しげな氷架璃に対し、芽華実の顔には緊張が張り付いている。
「クレーンゲームなんてしたことないから、ちょっと自信ないけど……」
「だから私がサポートしてるんじゃん。まあ、私もそこまでベテランではないけど、リーズナブルにぬいぐるみ取れはするよ。オーライ、はいストップー」
氷架璃の合図で、芽華実は「んしょ」と手元を操作する。地味な作業に励む二人の後ろ姿を、ほかの三人は部屋から見守っていた。
「撓葛で引き上げるとは、また器用なこと考えたっちゃねー……」
「でも、私が白翔で降りるより見つかりにくいのは確かね。細い一本のツルだし。枕をつかんだら葉っぱで隠して暗がりに溶け込ませる……っていう作戦も、いい線いってるかも」
ささやくフーに頷きながら、雷奈はスマホのスリープを起こして時刻を確認した。九時四十分、と表示するディスプレイが、暗闇の中で雷奈の顔をぼうっと照らす。消灯時刻を過ぎているので、念のためそれに従って電灯を消していた。氷架璃と芽華実は建物や中庭の照明を頼りにしているので、あまり支障はない。
ともあれ、氷架璃の声が廊下に漏れて先生に聞き咎められては大変である。「声量落としてー」と小声で訴えれば、氷架璃は後ろ手に指でオッケーサインを出した。
「しっかり巻けた? じゃあ葉っぱで隠して……。ちょっとこっちにずれて。窓の真ん前を通らないようにしたほうが、見つからなくて安全」
意気揚々とした囁きという器用な声量で、氷架璃が正念場の指示を出す。
「できるだけ揺らさないように……オーライ、オーライ……」
何度かオーライを唱え続けた氷架璃の声が、ふいにやんだ。すわ、落としたか、と肝を冷やす雷奈を、しばらくして二人が振り返る。氷架璃の手にはピースサインが、芽華実の手には濃い色の葉に覆われた枕が携えられていた。
雷奈とフーは、胸に手を当てて大きく息を吐いた。
「危機一髪だったったい……」
「よかったぁ……。芽華実、ありがとうね」
「いいえ、私もほっとしたし。枕カバー、軽く洗ってくるから、みんな先に布団に入ってて」
そう言うと、芽華実は早足でユニットバスへ向かった。その間に、雷奈たちはそれぞれの布団に潜り込む。
「なーなー、今年のクリスマスだけどさ」
「寝る気なかね?」
枕を抱えてうつぶせになった氷架璃は、「いいじゃんか」と長丁場を予感させる話題を続ける。
「去年は終業式に芽華実がクッキー焼いて教室に持ってきてくれたじゃん? あれでちょっとはクリスマス気分は味わえたけどさ、こう、パーティーっぽいこともしてみたいわけよ。ケーキにチキンにクリスマスツリー。ぱーっとやろうや!」
「唐突ったいね……。まあ、楽しそうやけど」
「ふむ、騒がしそうだな。勝手にやっておれ」
ごろんと背を向けて横向きになった雷華に、氷架璃はチッチッチと人差し指を振る。
「そうはいかない。なぜかって? パーティー会場はあんたらの部屋だからさ!」
「然もありなんと思ったとも」
反発するのも億劫、という響きのため息一つ。
「誰を誘おうかねー? 去年はクラスメイトでワイワイしたから、今回はフィライン・エデンメンバー縛りで招待しようか?」
「誘いやすいのは、やっぱりリーフやファイ、リン、ユウかしら」
「お、フーも乗り気だねぇ?」
「あら、まだ寝てなかったの?」
そこへ、枕カバーをタオル干しにかけた芽華実が戻ってきた。氷架璃の左隣で布団にもぐると、そのさらに左隣、一番濡縁に近い位置のフーにささやきかける。
「一緒に京都に来るくらいだもの、ユメやうらら、シルクも誘える仲ではあるのよね?」
「なんだ、芽華実も乗り気じゃん」
枕に顔をうずめて、気恥ずかしそうに笑う芽華実がかわいくて、氷架璃の気分はいやがうえにも上がる。
「ルシルたちって忙しいかな? 霞冴とコウも誘えたらいいな。日を分けたら、霊那たち他のメンツも誘えるか?」
「美雷は難しいかしら。最高司令官だし」
「でも、霞冴が最高司令官の時も、神社の杜に入ったり、肝試しをしたり、割と自由に抜け出してきてたじゃない?」
「確かに」
それは霞冴が自由奔放過ぎるのであって、美雷はその限りではないのでは……という言葉を、雷奈は飲み込んだ。
口を挟む隙がなかったわけではない。ただ、この温かさが――かぶっている羽毛布団でも、弱くかけている暖房でも為し得ない、胸が沸くような温度の上昇が心地よくて、それを止めたくなかった。
「じゃあ、三日くらいに分けて開催しちゃう? クリスマスイブと、当日と、おまけの後日って感じで。準備委員会は私と芽華実、雷奈に雷華、それからアワとフー」
「忙しくなりそうね」
「だから遅刻厳禁だぞ! 遅れてきた場合は罰ゲームだかんな!」
「ええっ、な、何させられるの……?」
「サンタの格好で参加」
「なあんだ……それくらいなら……」
「ミニスカ・オフショルのサンタコスな」
「前言撤回よ!? え、まさかアワが遅刻してもそうなの!?」
「ふむ、私と雷奈は遅刻の可能性皆無だな。会場に住まっているゆえ」
「わからないぞ~? 寝坊したらどうなる~?」
「何時までいぎたなくするつもりだ。終業式も欠席ではないか」
無意識に高揚していく声音は、いつしか廊下を巡回していた担任・黒田教諭の耳に届き、扉をあけられて苦笑交じりに「早く寝なさい」と諫められるまで続いた。
おしゃべりがやんだ後も、暗い静けさの中には、見えない余熱がただよっていた。
横向きに寝転んだ雷奈は、ゆっくりと枕元のスマホに手を伸ばした。正確には、そこにストラップとしてさげられたお守り。絵馬の形をした、結束の具現。
そして、彼女が運命に負けてなどいないことを示す、一つの証。
暗闇の中、小さなそれを指でなぞって微笑むと、雷奈はそっと手を布団の中に引っ込めて、子守唄を聞く子供の表情でまぶたを閉じた。
今夜は、昨晩よりも幾分か暖かかった。
***
今日は一日、晴れなさそうだ。
猫の嗅覚が、そう告げていた。
夜の延長線上のようでありながら、人の目でも景色の輪郭をとらえ始める程度には薄らいだ闇。厳かにさえ感じられる静謐を聞きながら、アワは空の色と境界を曖昧にする稜線を、ぼんやりと目でなぞっていた。
何というわけでもなく、早くに目が覚めてしまったのだ。二度寝するには中途半端な時間というのと、少しは一人になる時間が欲しかったのとで、寝巻の上に上着を羽織って濡縁に出ていた。
まだぐっすり熟睡中の相部屋人らは、昨夜も大げさなモノマネで教員を揶揄するのに盛り上がり、消灯時刻を過ぎてもスマホの明かりを頼りに大富豪を続けるような、年相応にやんちゃな少年たちだ。辟易はしたが、それで人間が嫌になったりはしない。私立校ということもあってか、根はいい人たちであることは知っている。
ただ、皇学園中等部三年B組の生徒ではなく、フィライン・エデンの住人としての流清アワに戻る時間が、ひとときでも欲しかっただけだ。
(まあ、ワープフープから離れた場所に滞在するっていうのも、ちょっと気を張るし、疲れるんだけどね。そう考えると、あいつら、本当に勇気があるというか、図太いというか……)
アワやフーに比べれば人間界に疎い分、逆に緊張感がないだけかもしれない。だが、考えてみれば、学院でぴっかぴかの一年生になったころから、リーフとファイはわんぱくだったし、意外とユウも物怖じしない性格だった。
見習うべきだったかなあ、と苦笑する。と、そんなアワを遠慮がちにつつくように、スマホのバイブが、ポケットの中から鳴った。
画面を開くと、まず時刻表示が目に入った。まだ六時にもなっていない。
次いで、バイブが知らせた用件。メールを一件、受信していた。
こんな朝早くに誰から、と通知バナーの差出人欄を見る。
早朝の静寂の中では、驚愕に息を詰める音さえ、くっきりと響いた。
「……」
火花が散るように、胸がちりちりとした。メールを開く。差出人は、あのひと。宛先はアワと、もう一人の正統後継者。
件名、早朝のメールを詫びる一言と読み進め――。
「――ッ!?」
激しく体を震わせ、口を押さえた。目の動きだけで、窓ガラスと障子で仕切られた室内へと目をやる。当然、中の様子は見えないが、障子紙の向こうは陰影の動きもない。起こしてしまった可能性はなさそうだ。それを確認して初めて、アワは自分がうまく声を押しとどめられたのだという確信を持てた。
心拍を落ち着かせ、画面をスクロールさせて続きに目を通す。最後まで読み終わると、アワは放心したように立ちすくんだ。スマホの画面が一段階暗くなり、やがてスリープモードになっても、しばらくその状態だった。
カラスが鳴いた。その声に揺り動かされるように、我に返った。
アワは生気を吐き出すような盛大なため息をついて、手すり壁にもたれかかった。朝から心臓に悪い。どっと疲れた心地がした。
そのまま首だけを動かして、西館へ視線を投じると、彼は苦し紛れの笑みを浮かべた。
「……どうしようかね、フー……?」
***
修学旅行も四日目、最終日。
よって、朝のうちに旅館を後にしなければならない雷奈たちは、朝食前に布団の片づけと並行して荷物の整理を行っていた。
干しっぱなしのタオルはないか、何の気なしに置いた私物を忘れてはいないか、部屋の隅々までチェックする。後で旅館スタッフが見回りをしてくれるし、私物にはほぼ全て名前を書くように言われているので、手元に戻ってこないということはないだろうが、自分の手で鞄に詰めるに越したことはない。何せ、持ち主の名前が書かれているのだ。下着などを置き忘れた日には、公開処刑である。
そんな悲劇を回避するべく――というのは大げさだとしても、忘れ物をしないために、入念なチェックを行っていた一同。ふと、洗面所の氷架璃が居間に顔をのぞかせた。
「誰か、今何時かわかる人ー? 朝食、間に合うかー?」
「あ、見るったい」
ちょうど手の届く場所にスマホがあったので、雷奈が応じた。スリープを起こして、ロック画面の時計を確認しようとして――それよりも先に、下に表示された一件の通知に目を奪われる。
反射的にロックを解除、通知から直接メッセージアプリを開いていた。
「おーい、どうした?」
氷架璃の声は耳には入れど、頭を素通りしていく。
未読一件。十分前の受信。
早朝の連絡も気兼ねない間柄の送信者名をタップし、本文を開く。
一文目の挨拶も読み飛ばし、二文目に書かれた用件に、雷奈の口から驚嘆が漏れた。
「……ええっ……!?」
「ど、どうした、もう時間過ぎてたか!? 言い訳考えながら超特急で食堂に下りるか!?」
「あ、いや、ごめん、時間は六時四十分……まだ大丈夫ったい」
「な、何だよ、脅かすなよ」
「じゃあ、今の反応は……?」
芽華実も雷奈を振り返る。フーと雷華も、鞄に手を突っ込んだまま雷奈の言葉を待っていた。
雷奈はうわずった声で、まず簡潔に事実を述べた。
「……メールが来てた」
「メール? 朝から? 誰からだよ」
「……姉貴」
「姉貴!?」
気の置けない姉妹とはいえ、雷奈の二つ上の姉は、四方山話のために連絡してくる人ではない。連絡があるとすれば、ほとんどは用件があるか、誕生日や新年といった節目の挨拶かのどちらかだ。
今回は、前者。
起きて間もない雷奈たちの胸中だけではない、やがて安閑たる世界一つをも揺るがしうる用件、一言。
「――三日月雷志の秘密がわかった」
「オーライ、オーライ」
さながら今日が初現場の交通整理員のような意気込んだ声でガイドするのは、濡縁の手すりに肘から先を乗せて下をのぞきこむ氷架璃。その隣で、芽華実も同様に中庭をのぞきこんでいた。
しかし、楽しげな氷架璃に対し、芽華実の顔には緊張が張り付いている。
「クレーンゲームなんてしたことないから、ちょっと自信ないけど……」
「だから私がサポートしてるんじゃん。まあ、私もそこまでベテランではないけど、リーズナブルにぬいぐるみ取れはするよ。オーライ、はいストップー」
氷架璃の合図で、芽華実は「んしょ」と手元を操作する。地味な作業に励む二人の後ろ姿を、ほかの三人は部屋から見守っていた。
「撓葛で引き上げるとは、また器用なこと考えたっちゃねー……」
「でも、私が白翔で降りるより見つかりにくいのは確かね。細い一本のツルだし。枕をつかんだら葉っぱで隠して暗がりに溶け込ませる……っていう作戦も、いい線いってるかも」
ささやくフーに頷きながら、雷奈はスマホのスリープを起こして時刻を確認した。九時四十分、と表示するディスプレイが、暗闇の中で雷奈の顔をぼうっと照らす。消灯時刻を過ぎているので、念のためそれに従って電灯を消していた。氷架璃と芽華実は建物や中庭の照明を頼りにしているので、あまり支障はない。
ともあれ、氷架璃の声が廊下に漏れて先生に聞き咎められては大変である。「声量落としてー」と小声で訴えれば、氷架璃は後ろ手に指でオッケーサインを出した。
「しっかり巻けた? じゃあ葉っぱで隠して……。ちょっとこっちにずれて。窓の真ん前を通らないようにしたほうが、見つからなくて安全」
意気揚々とした囁きという器用な声量で、氷架璃が正念場の指示を出す。
「できるだけ揺らさないように……オーライ、オーライ……」
何度かオーライを唱え続けた氷架璃の声が、ふいにやんだ。すわ、落としたか、と肝を冷やす雷奈を、しばらくして二人が振り返る。氷架璃の手にはピースサインが、芽華実の手には濃い色の葉に覆われた枕が携えられていた。
雷奈とフーは、胸に手を当てて大きく息を吐いた。
「危機一髪だったったい……」
「よかったぁ……。芽華実、ありがとうね」
「いいえ、私もほっとしたし。枕カバー、軽く洗ってくるから、みんな先に布団に入ってて」
そう言うと、芽華実は早足でユニットバスへ向かった。その間に、雷奈たちはそれぞれの布団に潜り込む。
「なーなー、今年のクリスマスだけどさ」
「寝る気なかね?」
枕を抱えてうつぶせになった氷架璃は、「いいじゃんか」と長丁場を予感させる話題を続ける。
「去年は終業式に芽華実がクッキー焼いて教室に持ってきてくれたじゃん? あれでちょっとはクリスマス気分は味わえたけどさ、こう、パーティーっぽいこともしてみたいわけよ。ケーキにチキンにクリスマスツリー。ぱーっとやろうや!」
「唐突ったいね……。まあ、楽しそうやけど」
「ふむ、騒がしそうだな。勝手にやっておれ」
ごろんと背を向けて横向きになった雷華に、氷架璃はチッチッチと人差し指を振る。
「そうはいかない。なぜかって? パーティー会場はあんたらの部屋だからさ!」
「然もありなんと思ったとも」
反発するのも億劫、という響きのため息一つ。
「誰を誘おうかねー? 去年はクラスメイトでワイワイしたから、今回はフィライン・エデンメンバー縛りで招待しようか?」
「誘いやすいのは、やっぱりリーフやファイ、リン、ユウかしら」
「お、フーも乗り気だねぇ?」
「あら、まだ寝てなかったの?」
そこへ、枕カバーをタオル干しにかけた芽華実が戻ってきた。氷架璃の左隣で布団にもぐると、そのさらに左隣、一番濡縁に近い位置のフーにささやきかける。
「一緒に京都に来るくらいだもの、ユメやうらら、シルクも誘える仲ではあるのよね?」
「なんだ、芽華実も乗り気じゃん」
枕に顔をうずめて、気恥ずかしそうに笑う芽華実がかわいくて、氷架璃の気分はいやがうえにも上がる。
「ルシルたちって忙しいかな? 霞冴とコウも誘えたらいいな。日を分けたら、霊那たち他のメンツも誘えるか?」
「美雷は難しいかしら。最高司令官だし」
「でも、霞冴が最高司令官の時も、神社の杜に入ったり、肝試しをしたり、割と自由に抜け出してきてたじゃない?」
「確かに」
それは霞冴が自由奔放過ぎるのであって、美雷はその限りではないのでは……という言葉を、雷奈は飲み込んだ。
口を挟む隙がなかったわけではない。ただ、この温かさが――かぶっている羽毛布団でも、弱くかけている暖房でも為し得ない、胸が沸くような温度の上昇が心地よくて、それを止めたくなかった。
「じゃあ、三日くらいに分けて開催しちゃう? クリスマスイブと、当日と、おまけの後日って感じで。準備委員会は私と芽華実、雷奈に雷華、それからアワとフー」
「忙しくなりそうね」
「だから遅刻厳禁だぞ! 遅れてきた場合は罰ゲームだかんな!」
「ええっ、な、何させられるの……?」
「サンタの格好で参加」
「なあんだ……それくらいなら……」
「ミニスカ・オフショルのサンタコスな」
「前言撤回よ!? え、まさかアワが遅刻してもそうなの!?」
「ふむ、私と雷奈は遅刻の可能性皆無だな。会場に住まっているゆえ」
「わからないぞ~? 寝坊したらどうなる~?」
「何時までいぎたなくするつもりだ。終業式も欠席ではないか」
無意識に高揚していく声音は、いつしか廊下を巡回していた担任・黒田教諭の耳に届き、扉をあけられて苦笑交じりに「早く寝なさい」と諫められるまで続いた。
おしゃべりがやんだ後も、暗い静けさの中には、見えない余熱がただよっていた。
横向きに寝転んだ雷奈は、ゆっくりと枕元のスマホに手を伸ばした。正確には、そこにストラップとしてさげられたお守り。絵馬の形をした、結束の具現。
そして、彼女が運命に負けてなどいないことを示す、一つの証。
暗闇の中、小さなそれを指でなぞって微笑むと、雷奈はそっと手を布団の中に引っ込めて、子守唄を聞く子供の表情でまぶたを閉じた。
今夜は、昨晩よりも幾分か暖かかった。
***
今日は一日、晴れなさそうだ。
猫の嗅覚が、そう告げていた。
夜の延長線上のようでありながら、人の目でも景色の輪郭をとらえ始める程度には薄らいだ闇。厳かにさえ感じられる静謐を聞きながら、アワは空の色と境界を曖昧にする稜線を、ぼんやりと目でなぞっていた。
何というわけでもなく、早くに目が覚めてしまったのだ。二度寝するには中途半端な時間というのと、少しは一人になる時間が欲しかったのとで、寝巻の上に上着を羽織って濡縁に出ていた。
まだぐっすり熟睡中の相部屋人らは、昨夜も大げさなモノマネで教員を揶揄するのに盛り上がり、消灯時刻を過ぎてもスマホの明かりを頼りに大富豪を続けるような、年相応にやんちゃな少年たちだ。辟易はしたが、それで人間が嫌になったりはしない。私立校ということもあってか、根はいい人たちであることは知っている。
ただ、皇学園中等部三年B組の生徒ではなく、フィライン・エデンの住人としての流清アワに戻る時間が、ひとときでも欲しかっただけだ。
(まあ、ワープフープから離れた場所に滞在するっていうのも、ちょっと気を張るし、疲れるんだけどね。そう考えると、あいつら、本当に勇気があるというか、図太いというか……)
アワやフーに比べれば人間界に疎い分、逆に緊張感がないだけかもしれない。だが、考えてみれば、学院でぴっかぴかの一年生になったころから、リーフとファイはわんぱくだったし、意外とユウも物怖じしない性格だった。
見習うべきだったかなあ、と苦笑する。と、そんなアワを遠慮がちにつつくように、スマホのバイブが、ポケットの中から鳴った。
画面を開くと、まず時刻表示が目に入った。まだ六時にもなっていない。
次いで、バイブが知らせた用件。メールを一件、受信していた。
こんな朝早くに誰から、と通知バナーの差出人欄を見る。
早朝の静寂の中では、驚愕に息を詰める音さえ、くっきりと響いた。
「……」
火花が散るように、胸がちりちりとした。メールを開く。差出人は、あのひと。宛先はアワと、もう一人の正統後継者。
件名、早朝のメールを詫びる一言と読み進め――。
「――ッ!?」
激しく体を震わせ、口を押さえた。目の動きだけで、窓ガラスと障子で仕切られた室内へと目をやる。当然、中の様子は見えないが、障子紙の向こうは陰影の動きもない。起こしてしまった可能性はなさそうだ。それを確認して初めて、アワは自分がうまく声を押しとどめられたのだという確信を持てた。
心拍を落ち着かせ、画面をスクロールさせて続きに目を通す。最後まで読み終わると、アワは放心したように立ちすくんだ。スマホの画面が一段階暗くなり、やがてスリープモードになっても、しばらくその状態だった。
カラスが鳴いた。その声に揺り動かされるように、我に返った。
アワは生気を吐き出すような盛大なため息をついて、手すり壁にもたれかかった。朝から心臓に悪い。どっと疲れた心地がした。
そのまま首だけを動かして、西館へ視線を投じると、彼は苦し紛れの笑みを浮かべた。
「……どうしようかね、フー……?」
***
修学旅行も四日目、最終日。
よって、朝のうちに旅館を後にしなければならない雷奈たちは、朝食前に布団の片づけと並行して荷物の整理を行っていた。
干しっぱなしのタオルはないか、何の気なしに置いた私物を忘れてはいないか、部屋の隅々までチェックする。後で旅館スタッフが見回りをしてくれるし、私物にはほぼ全て名前を書くように言われているので、手元に戻ってこないということはないだろうが、自分の手で鞄に詰めるに越したことはない。何せ、持ち主の名前が書かれているのだ。下着などを置き忘れた日には、公開処刑である。
そんな悲劇を回避するべく――というのは大げさだとしても、忘れ物をしないために、入念なチェックを行っていた一同。ふと、洗面所の氷架璃が居間に顔をのぞかせた。
「誰か、今何時かわかる人ー? 朝食、間に合うかー?」
「あ、見るったい」
ちょうど手の届く場所にスマホがあったので、雷奈が応じた。スリープを起こして、ロック画面の時計を確認しようとして――それよりも先に、下に表示された一件の通知に目を奪われる。
反射的にロックを解除、通知から直接メッセージアプリを開いていた。
「おーい、どうした?」
氷架璃の声は耳には入れど、頭を素通りしていく。
未読一件。十分前の受信。
早朝の連絡も気兼ねない間柄の送信者名をタップし、本文を開く。
一文目の挨拶も読み飛ばし、二文目に書かれた用件に、雷奈の口から驚嘆が漏れた。
「……ええっ……!?」
「ど、どうした、もう時間過ぎてたか!? 言い訳考えながら超特急で食堂に下りるか!?」
「あ、いや、ごめん、時間は六時四十分……まだ大丈夫ったい」
「な、何だよ、脅かすなよ」
「じゃあ、今の反応は……?」
芽華実も雷奈を振り返る。フーと雷華も、鞄に手を突っ込んだまま雷奈の言葉を待っていた。
雷奈はうわずった声で、まず簡潔に事実を述べた。
「……メールが来てた」
「メール? 朝から? 誰からだよ」
「……姉貴」
「姉貴!?」
気の置けない姉妹とはいえ、雷奈の二つ上の姉は、四方山話のために連絡してくる人ではない。連絡があるとすれば、ほとんどは用件があるか、誕生日や新年といった節目の挨拶かのどちらかだ。
今回は、前者。
起きて間もない雷奈たちの胸中だけではない、やがて安閑たる世界一つをも揺るがしうる用件、一言。
「――三日月雷志の秘密がわかった」
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こちらでは、出来るだけシンプルにしていますので、章分けも簡易にして、解説をしているあとがきもありません。
小説だけを読める形にしています。
稀代の大賢者は0歳児から暗躍する〜公爵家のご令息は運命に抵抗する〜
撫羽
ファンタジー
ある邸で秘密の会議が開かれていた。
そこに出席している3歳児、王弟殿下の一人息子。実は前世を覚えていた。しかもやり直しの生だった!?
どうしてちびっ子が秘密の会議に出席するような事になっているのか? 何があったのか?
それは生後半年の頃に遡る。
『ばぶぁッ!』と元気な声で目覚めた赤ん坊。
おかしいぞ。確かに俺は刺されて死んだ筈だ。
なのに、目が覚めたら見覚えのある部屋だった。両親が心配そうに見ている。
しかも若い。え? どうなってんだ?
体を起こすと、嫌でも目に入る自分のポヨンとした赤ちゃん体型。マジかよ!?
神がいるなら、0歳児スタートはやめてほしかった。
何故だか分からないけど、人生をやり直す事になった。実は将来、大賢者に選ばれ魔族討伐に出る筈だ。だが、それは避けないといけない。
何故ならそこで、俺は殺されたからだ。
ならば、大賢者に選ばれなければいいじゃん!と、小さな使い魔と一緒に奮闘する。
でも、それなら魔族の問題はどうするんだ?
それも解決してやろうではないか!
小さな胸を張って、根拠もないのに自信満々だ。
今回は初めての0歳児スタートです。
小さな賢者が自分の家族と、大好きな婚約者を守る為に奮闘します。
今度こそ、殺されずに生き残れるのか!?
とは言うものの、全然ハードな内容ではありません。
今回も癒しをお届けできればと思います。
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