フィライン・エデン Ⅱ

夜市彼乃

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9.過去編

45一期一会と頬の色 ⑭

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***

 その日は、早朝からよく晴れていた。
 前の夕方に降った雪がうっすらと残り、朝日を反射してきらきらと輝く。空には雲一つなく、どこまでも青く澄んでいた。今日という特別な日のために天がしつらえてくれたのかもしれないが、寂しさを隠せない霞冴としては、それが少し切なくもあった。
「霞冴」
 窓の外を見ていた彼女に、後ろから声がかかる。ぱっと振り向いた霞冴に、ルシルは微笑むと、クローゼットから取り出した包みを手渡した。
「お誕生日、おめでとう。遅くなってしまったな」
「ありがとう、ルシル。……いろいろあって、今までずっとバタバタしてたしね」
 霞冴は青い包みをさっそく開け、中身を見て歓声を上げた。
「魔法瓶! ありがとう、いっぱい使うね!」
「今の季節はまだ使い時ではないかもしれないな。それに、今後、霞冴は……道場に出向くことも減るだろうし……」
「それでも使うよ。夏が楽しみだなあ」
「それは何よりだ。……念のため聞いておくが、保冷材はいらなかったよな?」
「保冷剤? 何のこと?」
「いや……こちらの話だ」
 ルシルが言葉を濁したので、霞冴もそれ以上は追及しないでおいた。
 会話が途切れ、霞冴は何の気なしに部屋の中を見回す。几帳面な親友の性格を反映した一室。霞冴が幾度となく訪れては、笑いあい、ときに慰められた、心安らぐ場所。
「ここへもたくさん来たけど……これからは、それも減っちゃう気がするな」
「忙しくなるだろうしな。でも、私はいつでも歓迎するよ。また一緒にベッドに座って話をしよう」
「うん、ありがとう、ルシル。こうしていろんなことが変わっても、いつまでも私の友達でいてね」
「こちらこそだ、霞冴」
 そう言って、二人は微笑みあった。この心地よい時間はいつまでも味わっていたいものだが、今朝の霞冴は少々忙しい。
「それじゃ、ルシル、私……」
「ああ、またあとでな。……そうだ、その前に二つ、聞かせてくれ」
 首をかしげる霞冴に、ルシルは「お節介かもしれないが……」と頰をかいた。
「その、彼に……気持ちは、伝えたのか?」
 ああ、と霞冴は照れ笑った。胸が苦しくなるほど待ち望んだ呼称のことは、彼女にはいの一番に打ち明けたのだ。
「伝えたかった……けど、その前に……三者会議があった日に退職を打ち明けられちゃったからさ。その……お別れが怖くて……」
「……そうか」
 ルシルはまだ何か言いたげにしていたが、「私が首突っ込んでもな、うん」とひとりごちて、話題を進めた。
「もう一つの方だが……」
「うん、何?」
 何気なく聞くと、ルシルは微笑の中に真剣な色を宿して尋ねた。
「……護衛官の件……決めたか?」
 その言葉に、霞冴も真剣なまなざしで応じた。瑠璃色の瞳に少なからず期待がこもっているのを心苦しく思いながら、それでも下手な気を遣わずきっぱり告げるのが親友としての礼儀だと心得ていた。
 だから、淡い笑みを浮かべて、いつもの調子で言う。
「うん、考えたよ。答えが出た。期待に沿えなくて、ごめんね」
「……そうか」
 ルシルは残念そうにしながらも、笑って肩をすくめた。
「私もまだまだあいつには勝てないということかな」
「やだなぁ、私はルシルのほうが好きだから、それについては勝ってるんだってば」
「はは、そうだったな」
 声をあげて笑うルシルに、じゃあね、と手を振って、霞冴はドアノブに手をかけた。その背中に、声がかかる。
「霞冴」
「んっ?」
「――似合っているぞ」
 肉親を見るように温かな微笑みに、「ありがと」と笑い、霞冴は部屋を後にした。

***

 すがすがしい寒さを肌に感じながら、白い息を弾ませる。道場裏に回り込んだ霞冴は、木にもたれかかる姿を見つけて、急いで走り寄った。
「コウ、お待た……きゃうっ!?」
 彼のすぐそばまで来たところで、霞冴は溶け残った雪で見事に滑り、前のめりに転びかけた。顔からダイブして水浸しになるかと思いきや、すんでのところで後ろ襟をひっつかんだコウに引き上げられる。
「ドジか」
「ごめんごめん」
「なんつーか……つかみやすくなったな?」
「だからってずっとつかんでないでよ、もうっ!」
 ぱっと離した手をひらひら振りながら、コウは「で?」と問うた。
「話って?」
「うん、ちょっとしたことなんだけど、ちゃんと顔を見て言いたくて。ごめんね、自主練の途中だったよね」
「構わねえよ。……もしかして、あのことか」
 霞冴はおもむろにうなずいた。そして、頭一つ分高いところにある銀の瞳をまっすぐに見つめた。
「大和コウ。キミを、私の護衛官に指名します」
 いつもクールな彼は、今もさほど驚いた様子ではなかった。ただ、意外そうに少しだけ眉を動かした。
「いいのか、オレで」
「うん」
「ルシルの方がお気に入りだろ」
「うんっ!」
「オイ」
 また首根っこを引っ掴まれそうになって、霞冴は笑いながら身を引いた。
「でもね、私はコウがいいの。ルシルも私のことを守ってくれるのはわかってる。でも、何となくだけど……そのために自分を犠牲にしちゃうような、そんな気がするんだ」
「…………」
「コウも、きっと私のことをちゃんと守ってくれる。ルシルと違うのはね、私のことも守りながら、自分がやられるつもりもないって……そんな欲張りなとこがある気がしたから」
「お前、さっきからオレのことけなしにきたのか?」
「私は真剣だよ」
 冗談に冗談で返してくると思っていたコウは、そこで意表を突かれた。気まずそうに目をそらし、前髪をいじる。
「……オレ、守るって柄じゃねえかもしれねえぞ。どちらかといえば……ただ攻撃的に戦う方が……」
「ううん、守ってくれるよ」
 霞冴はそう言い切った。コウがまだ言葉にしきっていない曖昧な部分も全て断じるように。
「私はそう信じてるから。……だから、これからよろしくね」
 霞冴はそう笑いかけると、ピッチの時計を確認した。そろそろ次へ行かなければならない。
「じゃあ、またね、コウ。自主練の続き、頑張って」
「……ああ」
 どこか上の空なコウに手を振ると、霞冴は今度こそ転ばないように気をつけながら、来た道を戻っていった。
「――……」
 跳ねる後ろ姿をぼんやりと見送っていた彼は、今朝の空と同じ色の髪が見えなくなると、ゆっくりと自分の手を見下ろした。
 時が止まったような静謐の中で、飽きることなく手のひらを見つめる。やがて、その手で一度だけ前髪をつまんで、毛先へと指を滑らせた。朝日をはじいて輝く銀色。コウがルシルのロングヘアを気に入っていたように、彼女もまた褒めてくれていた髪の色。
 コウは、一度目を閉じた。意を決する間があり、再び髪と同じ色の瞳をのぞかせると、おもむろに空中に手をかざす。その手に再構成した黒いスマホを握ると、何度かタップして耳に当てた。
 三回のコール音ののち、ハイテンションな少女の声が迎える。
『はぁい、コウ。このレポート提出期限三時間前の私に何の用かしら? あ、もしかしてその後の報告? こんな朝っぱらから、隊長さんの希兵隊革命日誌が聞けるなんて、センセーショナルね!』
 カタカタカタ、と休みなくキーボードを打つ音をBGMに、彼女はなおもはしゃぐ。
『二人が隊長になったこと、おじいちゃんには報告してなかったんだって? 私が伝えたら、次の日、垂河村ではどんちゃん騒ぎだったようよ。なかなかどうして、従姉と幼馴染として鼻が高……』
「猫力学専攻者のお前に頼みがある」
 打鍵の音がぴたりと止んだ。甲高い饒舌を遮った声が、いつになく低く重いことに気づいた相手は、ほとぼりを冷ます時間ののち、少女の声色から大人びたそれへと変えた。
『……何かしら』
「猫力の封印について教えてくれ」
 沈黙。相手が珍しく目を見開くのが、呼吸一つで分かった。
 コウは語調を変えず、平坦な、それでいて奥深くに燃える意志を秘めた声で問うた。
「外界封印でも内界封印でもいい。必要な時にだけ鋼猫の力を振るい、普段は力を持たない、何も傷つけない……そうなるには、どうしたらいい」

***

「あの子は、天才だった」
 屋根の上、少しずつ高く昇ってきた朝の日差しに目を細めながら、小豆色の猫はしっぽを揺らした。
「四歳で飛び入学する以前から、周りを驚かせるほど数字や論理に強かった。だからかはわからないけれど、学業面以外でも理性的で、客観的で、論理的で、子供としてはかわいくなかったけど……周囲の誰もが認める天才だったの」
 その隣で静かに座る長毛猫の霞冴は、まぶしそうにする栗皮色の瞳を静かに見つめながら聞いていた。
 前を向いたまま誇らしげに微笑んでいたうとめは、「でも」と視線を落とした。
「そう認められていくうち、周囲の認識は変わっていった。あの子ができたことへの驚きは少しずつ減って、できるだろうことへの期待が膨らんでいったの。それはお父さんとお母さん……あの子の両親もそうだったし、悔しいけど……私も」
 言葉にすることなく記憶の中に思いをはせる間があった後、彼女は苦しげに笑った。
「思えば、その時にはもう、あの子には完璧を求めてしまっていたのね。できることが当たり前、できなければ疑問を抱く。あの子はそれを感じ取っていて、自分を見る目にさえそれを宿してしまっていた。最高司令官になったあの子が、ずっと気負っていたのは知っていたわ。無理を続けながらも、そつなくこなし続けることが当然だって、あの子自身も思っていたこと。だから、私は……そんなプライドを傷つけるのが怖くて、プレッシャーに押しつぶされそうなあの子をそばで見ていながらも、何も言わなかった……何もしてあげなかった……そのせいで、あの子はもっと深く傷ついて……っ」
 体を震わせるうとめの頬で、朝日の欠片が光った。息を詰め、嗚咽をこらえるうとめを、霞冴は何も言わずに見守っていた。
 いくつかしずくを足元の瓦に落とした後、うとめは「だからね」と微笑んで霞冴を見た。
「あなたには感謝してる。時尼さん、あの子を……宮希を救ってくれてありがとう。あなたが出会ってくれて、本当によかった。叶うなら、別の場所でそれぞれの道を歩むことになっても、どうか……これからも、仲良くしてあげて」

***

 十時きっかりにノックが鳴った。
 返事をして振り返ると、ゆっくり扉が開き――黒いハイネックにロングコートを羽織った宮希が、一瞬だけ瞠目して動きを止めた。
「おはよう、宮希」
「ああ、おはよう。……様になっているな」
「えへへ、ありがと」
「凪原は?」
「今、道場」
 本日をもって、霞冴一人となってしまう総司令部は、しばらくの間、出動していない執行部員や手の空いている開発部員で回すことになった。正規の隊員ではないとはいえ、みちねが霞冴の次に熟知しているので、ほかの隊員たちに手ほどきをしてくれている。
 そんな彼女は、逆にルシルから戦闘やパトロールのノウハウを伝授してもらっており、学院を卒業する年度には希兵隊の入隊試験を受ける予定となった。まだ決まっていないにもかかわらず、ルシルは「六番隊あたりどうだ」と霞冴に提言してきている。
 並んだモニター、資料が詰まったラック、子供が向かうには大仰すぎるデスク。あたりを見回していた霞冴は、再び宮希と目が合うと、もじもじと体を揺らした。
「なんか……変な感じだね。宮希がここに入るのにノックするなんて」
「おかしくないだろう。そこのビジネスチェアは、もうお前のものだし、最高司令官室だってお前に引き渡したんだ。……これからは、お前がここのトップなんだ」
「私にできるかなぁ……」
「できるよ」
 短く、きっぱりと言い切った宮希に、霞冴は動きを止めて彼を見つめた。ぶっきらぼうゆえではない、ただその一言が真実だという風に断言した先輩も、まっすぐな瞳で霞冴をとらえる。
「オレの時も、今回も、ほかに最高司令官になれるヤツがいなかった状況は同じだ。オレは、できるか否かにかかわらず、オレしかいなかったから最司官になった。でも、お前はオレとは違う」
 いつからだろうか。彼のまなざしが、こんなにも信頼と親愛をたたえるものになったのは。
 見つめられるだけで心が温かく弾むまっすぐな瞳。同じくらいまっすぐな言葉が、本日をもって最高司令官となった時尼霞冴の礎に刻まれる。
「お前しかいないからじゃない。お前ならできる。オレは、お前に任せたいんだ。……やれるな、霞冴?」
「……はいっ」
 霞冴は満面の笑みで答えた。宮希もふっと笑って応じる。
 ゆっくりと流れる、二人で過ごす総司令部室での最後の時間。それも、もう終わりに近づいていた。
「……そろそろ行かないとな。お前も忙しいだろうし」
「うん……それじゃ、行こっか」
 見送りは正門の前まで。廊下を進む歩調は、これまでにないほど緩やかだった。
 肩を並べて歩く宮希が、ふと思い出したようにつぶやく。
「今さらだが……やっぱり、あの時、誕生日おめでとうって言っておいてよかったな」
「え?」
「だって、あのまま大晦日は終わってしまったじゃないか」
「あー! ほんとだよ! 宮希ってば、その後も言ってくれなかった!」
「悪かったよ」
「生きて帰ってから聞きたいって言ったのに!」
「そう怒るなよ、生きて帰れたんだから」
 だからだよ、と口を開きかけた霞冴の耳に、それより早く、遠くを見つめるような声が滑り込んだ。
「生きて帰れたんだ。――この先、何度だって言えるだろう」
 霞冴は小さく口を開いたまま、前を向いて歩き続ける宮希を見つめた。
 抗議するように胸の前で小さく握っていた拳を下ろし、「……うん」とささやき声でうなずく。胸の中と同じくらい、頬が熱かった。
 砂利を踏んで進み、建物の角を曲がれば、もう別れは目の前に迫っていた。
 もっとゆっくり歩きたい。いっそ立ち止まってしまいたい。
 そう思うのに、宮希は止まることなく進んでいく。
 ふいに視界がにじんで、霞冴は慌ててよそをむいた。喉の奥にこみあげる切なさの塊を飲み下し、わざと明るく拗ねてみせる。
「あーあ、残念だなぁ。宮希が最高司令官やめちゃうなんて」
「何だ、今さら」
「私、ちょっと期待したんだよ? 私のこと、呼び捨てにしてくれたから、護衛官にしてくれるのかと思ったのに」
 言いながら、霞冴はちらっと宮希をうかがい見た。どんな皮肉が飛んでくるだろうか、と期待しつつ。できれば、この寂しさも悲しみも吹き飛ばしてくれる傑作がいい。
 けれど、彼は黙って歩き続ける。本部の敷地の出口はもう目の前だというのに、宮希は前を向いたまま何も言わず足を動かし続ける。
 少し、わがままを言いすぎただろうか。だんだん不安になってきた霞冴に、素朴な問いがかけられた。
「護衛官にしないと、呼び捨てにしてはいけないのか?」
「えっ?」
 足が止まる。数歩先で、同じように立ち止まった宮希が、半身になって振り返った。
「呼びたいと思ったから、ではダメか?」
 その意味を、問う前に。

「――好きになったから、ではダメか?」

 音が消える。凍てつく寒さも消える。立っている地面の感触も、周囲の木々も消えてなくなる。
 まっさらになった世界にいるのは、自分のほかは宮希だけ。いつもの表情で、いつもの声で、そう言った彼だけだ。
 言葉の余韻が小さく反響する。それも消えた後、次第に風の音や冷たさ、溶け残った雪の感触や葉のない植木が戻ってきた。
 けれど、どれよりも先に霞冴の感覚がとらえたのは、頬を流れるしずくの感触。
「……ひどい、よ」
 次から次へとこぼれる、こらえていたもの。堰を切ったそれはもう、止められない。あふれだす感情も。
「どうして、別れ際にそんなこと言うの……離れられないじゃん。私だって……言うの、我慢してたのにぃ……」
 ぼろぼろと大粒の涙をこぼしながら、宮希へと走り寄る。左手で肩をつかみ、反対の肩に右手の拳を打ち付けた。何度も何度も殴りつけた後、そこに顔をうずめる。
「わ、私だって……宮希のこと、好きだったんだから! もっとずっと、ずっと前から……大好きだったんだから!」
 しゃくりあげ、泣きむせぶ霞冴の肩に手が添えられた。もう片方の手でそっと頭を撫でられ、「ありがとう」と穏やかな声がささやかれる。
「オレも、別れるのは寂しいよ。でも、言っただろう。オレたちは生きている。生きている限り、また会えるだろう?」
「……っ」
「それに、希兵隊は去るが、飛壇から離れるわけじゃない。飛梅の実家は潰れたしな。実は、うとめが昨日、二階建ての借り家の一室を力技で押さえてくれたらしくてさ。……なんだかんだ言って世話好きなヤツだよな。あいつの中では、オレはずっと小さくて未熟な弟なんだろう」
「ほんとだよ……肩の力の抜き方も知らなかった、バカ宮希」
「はいはい」
 ぽんぽんと頭を叩いて、宮希は体を離した。胸に伝わるほのかな温かさは、すぐに寒風にさらわれてしまったが、体のもっと奥底に生まれた熱は絶えることがなかった。
「まあ、でも……やっぱり未熟なんだって、オレ自身も思ったよ。当然だよな、まだ十二だ。これからもっといろんなことを知って、いろんな経験をして、成長していく。三大機関のトップから降りて、ただの茄谷に戻って、一から積み上げていって……また立派に肩書を名乗れるようになったら、その時に胸を張ってお前に会いたい。どれくらいかかるかはわからないが……それまで待っていてくれるか、霞冴」
 霞冴は涙を浮かべたまま笑顔を作って、強くうなずいた。宮希は「よし」と今までで一番優しく微笑んで、門へと足を向けた。
「じゃあな、霞冴」
「うん……またね、宮希」
 お互い手を挙げて、一度だけ視線を交わす。それを最後に、宮希は背を向け、希兵隊本部の門をまたいだ。白いセーラージャケットと漢字名を脱ぎ去った彼は、それきり振り返ることなく遠ざかっていく。
 一陣の風が馳せた。思わず目をつぶり、次にまぶたを開いたときには、もう視線で追っていた姿は見えなくなっていた。
 けれど、ここに。彼にもらった教えも、自信も、想いも、全てここに温かくしまわれている。
 そよぐ風の残滓に、まだ卸したての匂いが残る臙脂のセーラーカラーをはためかせ、霞冴は薄紅のスカーフが揺れる胸元をそっと握った。

***

 天頂で輝く太陽を横切って、夏風が吹き抜ける。木の葉がこすれる音に揺り動かされたように、霞冴はまぶたを上げた。そう時間はたっていないはずだが、ずっとこうしていた気がする。
「私、寝てた?」
 隣に腰掛けるルシルに問うと、彼女は吹き出しかけた。
「まさか、最後につぶやいてから十秒くらいだぞ」
「そっか」
 霞冴も笑って、空を見上げる。
 あれから、宮希とは会っていない。どこにいるのか、今何をしているのかもわからない。手紙を出そうにも住所はわからず、電話をかけようにも、今までピッチでやり取りしていたためにスマホの番号さえ知らなかった。
 だが、彼から連絡を取ろうとすれば容易いはずだ。希兵隊を訪ねればよいのだから。
「でもなー……私が最高司令官を解任されたこと知ったら、怒るだろうなー……」
「きっと大丈夫だよ。副最高司令官として司令には携わっているのだし、さらに護衛官も務めるようになったと知れば、怒ったりなどしないだろう」
「だといいなー……」
「何だかんだ言って、お前だって会いたいんだろう?」
「……うん」
 頬を赤らめてうなずく霞冴に、ルシルは軽く肩をたたきながら言う。
「護衛官としての適性を、剣の腕を、彼が一番間近で見て知っているはずだ。お前がほかの誰も持っていない力を存分に振るえることを、喜んでくれるのではないかな」
 霞冴はちらっと道場を振り返った。板の間の端に寄せている三本の木刀は、きちんと並んで稽古の再開を待っている。
 もう一度、空を見上げた。あの日より少し青みが強いかな、と首を傾ける。初めて臙脂襟のセーラー服に袖を通した日の、澄んだ如月の空の色を、今でも鮮明に覚えている。想いを伝えられた喜びも。そして、胸を締め付けられるような別れの切なさも。
 ――一つだけ、分からないことがある。
 彼の過去も、心も知ってなお、解き明かすことのできない唯一の謎。
 なぜ、宮希は希兵隊を去ったのか。
 彼はその理由を、侵攻に対しての責任と言った。もっともらしいといえばらしい理由だ。
 けれども、情報管理局も学院もその必要はないと言っていたらしいし、発表に先んじて辞職を告白されて、完全など求めないと言ったじゃないかと霞冴が猛反発した時も、それはわかっていると返していたのだ。辞職を余儀なくされるほど差し迫っていたわけではない。
 さらに言うなら、今後の復興や希兵隊改革の推し進めのためには、宮希が最高司令官のままでいたほうが都合がいいに決まっていた。この時期にわざわざ代替わりして新人を立てるのは、逆に非効率的であり、それは頭のいい彼ならばわかっているはずのことだった。
 なのに、茄谷宮希は希兵隊を後にした。それは、いったいなぜなのか。
 ついぞ、その理由を聞くことはできなかった。だが、もし次に会えたなら。彼が話してもいいと、そう思ってくれたなら――。
(待ってるから)
 あれから三年たち、一年を繰り返した今でも。そして、これからも。
(ずっと待ってるから……きっと、会いに来てね)
 声に出さない想いを風に乗せて届けるように、霞冴はそっと胸の奥で誓った。
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