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9.過去編
45一期一会と頬の色 ⑫
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***
霞冴が宮希の看病をしている時間は、昼間よりも夜のほうが長かった。
昼間は、霞冴自身の回復具合を診てもらったり、みちねに指示を出して少しずつ仕事を回したり、あるいは疲れからかうとうとしていることもある。ときどき宮希の様子を見に行けば、深翔とすれ違うこともしばしばだ。介抱は霞冴に任せる、と言った本人がちょくちょく通っているとなると、相当心配している、ひいてはそれほど悪いのだろうと推測された。
逆に、霞冴が夜に長時間宮希を見守っている――というより、夜通しそこに入り浸る理由は、彼女自身によるものだった。寝ようとしても寝られなかったのだ。
一日目、私室の布団にもぐりこんだ霞冴は、夢を見た。朝、始業時間に総司令部室に行っても誰もいない夢。宮希、宮希と呼びながら探し回っても見つからず、誰に聞いても見ていないと首を振られる。泣きじゃくりながら敷地内を奔走する霞冴は、なぜとも知らず、彼は死んでしまったのだと悟っていた。
そんな悪夢で飛び起きた霞冴は、落ち着いてから再度眠りについた。今度は、彼女は真っ白な空間に立っていた。正面には身長の倍以上ある巨大な扉。その手前に、人間姿の宮希。彼は唇の動きだけで何かを言うと、ひとりでに開いた扉の向こうへと歩いていく。霞冴が追いかけようとすると扉は固く閉まり、それきり開くことはなかった。何度も何度も拳を打ち付けて泣き叫んだ霞冴は、自分の声で目を覚ました。
もう一度意識を落とした時に見たのは、今と似た状況でベッドに横たわった宮希が、目の前で灰になっていく夢。指先からさらさらと消えていき、取りすがれば灰になったところからぼろぼろと崩れていく。今度は飛び起きることも泣き叫ぶこともなかった。ただ、静かに滂沱と涙を流しながら起き上がると、ベッドを降りて、一枚羽織って総司令部室へと向かった。
こうして、夜は宮希のそばで様子を見守りながら過ごすようになった。ときどきうたた寝しているが、そこでは絶望的な夢に襲われることはなかった。
三日目の晩も、霞冴は汗をぬぐってあげているうちに睡魔に襲われ、椅子に座ったままこくこくと舟をこいでいた。永遠にも感じられる夜の時間を、どっちつかずのまどろみで送っていく。
舟をこぐ動きも休めて穏やかな水面にたゆたっていた、その時だ。
「……めろ……」
かすかな声に揺らされ、霞冴は覚醒した。
「宮希?」
小さく呼んで、目の前の宮希をのぞき込み、ハッと息をのんだ。あれからどれだけ時間がたったのかわからないが、きちんと拭いたはずの汗が、額や首筋にびっしりと浮かんでいた。
苦悶の表情でわずかに体をよじり、彼は再び声をこぼす。
「やめろ……もう……!」
うなされている。
それに気づくや否や、霞冴は慌てて立ち上がり、宮希の肩をたたいて呼び掛けた。
「宮希、宮希! しっかり!」
「永遠……時尼……行くな……危ない……っ」
無意識に動く左手を、霞冴は両手のひらでぎゅっと包み込んだ。早く連れ戻さなければ。彼はまだ、並の悪夢より凄惨だった侵攻の中にいる。
「宮希、大丈夫だよ! 私はここにいるよ!」
「……ぅ……」
早い呼吸を繰り返す宮希が、うっすらと目を開けた。生気を失った目が、うつろに霞冴のほうを見る。
「時……尼……?」
ほとんど唇を動かさずに呼ぶ。まだ意識が混濁しているようだ。霞冴がもう一度強く呼びかけようとしたとき。
かっと昏い瞳が見開かれた。驚く間もなく、宮希は突然、霞冴に握られていた左手で、逆に霞冴の手をつかみなおし、思いきり引っ張った。
「わっ!?」
手に体がもっていかれてつんのめる。足が引っかかり、盛大な音とともに椅子が転がった。
思わずベッドの上に反対の手をついた霞冴を、後ろ手にかばうようにしながら、宮希が跳ね起きた。
「宮希!? ど、どうし……」
「極彩色の帰納、白色の来訪!」
霞冴はぎょっと目を見開いた。右手で刀印を結んだ宮希の指先で、まばゆい光が生まれて夜目を刺す。この詠唱は燎光、広範囲に熱量を伴う光を飛ばす術のものだ。間違っても、目の前のクローゼットに放っていいものではない。
「ま、待って宮希、落ち着いて! ここで飛ばしちゃダメだよ!」
霞冴はとっさに宮希の右手をつかんだ。すでに集まっていた光の熱で軽くやけどしたが、その瞬間、詠唱はぴたりと止まった。一拍おいて、指先の輝きは徐々に薄れていく。代わりに、宮希の瞳に光が戻ってきた。
彼は肩で息をしながら、しばし呆然と前を見つめた後、緩慢に左に首をひねった。
「時尼……」
「落ち着いた?」
「敵は……」
「いないよ。ここは希兵隊本部。宮希の部屋だよ」
言われて、彼はゆっくりとまばたきした。霞冴は放心した顔にタオルを当て、伝う汗を拭きとってやった。
霞冴がタオルを机に置きなおしていると、宮希はのろのろと首を巡らせた。そこで初めて、今ここの本当の景色と、自分の視線の先にあったのが見慣れたクローゼットだと気づいたようだった。
まだ自失とした様子で、ぎこちなく霞冴のほうへ首を戻す。
「……じゃあ……永遠は……」
これには、すぐには言葉を返せなかった。悪夢の中では、小さな剣士はまだ生きていたのだろう。けれど、これが現実だ。悪夢より残酷な現実だ。
宮希は無言のうちに悟り、ぐったりと肩を落としてうなだれた。
「そうか……そうだよな……。永遠は……もう……」
再び目から力を失い、掛け布団のしわを見つめる宮希。その額にそっと手を伸ばせば、ずっと炎天下にさらされていたのではと思うほどの温度が伝わってきた。
「宮希、熱が高いよ。やっぱり、医務室で休んだほうがいいよ。深翔さんに言って……」
「そんなわけに、いかないだろう」
彼はそう言うが、最初に医務室での療養を拒んだ時とはわけが違う。このままでは、どんどん衰弱していくうえ、脱水症状にもなりかねない。今の彼には継続的な処置が必要なのだと、そう言おうとして、口切りを先んじられた。
「オレが楽な思いをするわけにはいかない。今回の件は、全部オレのせいだから。だから受けうる恩恵は、全部譲らないと……」
霞冴は予想に反した言葉に目をしばたたかせた。一瞬、何を言っているのかわからないほど驚いていた霞冴は、そろそろと聞き返す。
「どういうこと……?」
「最高司令官のオレは、侵攻で失われた命も、傷ついた心も、全ての責任を負わなければならない。食い止められたはずの侵攻を、食い止められなかったのは……オレのせいだから」
「ちょ、ちょっと待ってよ」
霞冴は慌てて待ったをかけた。何か、あらぬ方向へ行こうとしている気がした。
「どうして? 宮希のせいなんかじゃないよ」
「いや、オレのせいだ。あの夜、宣戦布告の夜……オレは言っただろう。必ず何とかする、必ずうまくやると。なのに、オレは有言実行できなかった。こんなに大きな被害を出してしまった。オレは最高司令官として、三大機関の一角のトップとして、最善策を取らなければならなかったのに」
「宮希は頑張ったじゃない。そんな風に思う必要ないよ」
「頑張ってこれなら世話ないだろう」
ぎゅっと布団が握りしめられる。白いシーツのしわが濃くなった。
霞冴はなおも言い聞かせる。
「頑張ってこれならって言うけど、初めから頑張って何とかなるものじゃなかったの。何とかなるなら、誰もチエアリなんて怖くないよ。もう……こうなっちゃったのは、仕方ないんだよ。でも、宮希が頑張って最善を尽くしてくれたから……」
「仕方ないなんて言葉で、あいつらが浮かばれるわけないだろう。こんなに仲間が死んで、ほかの住人を危険にさらして、何が最善だ!」
宮希の声が怒気をはらんだ。感情の高ぶりについていけない体が、呼吸のたびにせわしなく上下する。
「仲間が死んだのだってオレのせいだ! 強い信頼関係が結べなかったから欅沢さんたちは逃げた。誰かの死を目の当たりにする可能性があったにもかかわらず、その耐性をつけてやれなかったから麒麟隊の二人は心を病んだ。何もかもコミュニケーション不足だった……オレはあいつらのことをちゃんと見て、知ってたのに」
ぎりっと奥歯をかみしめ、眉間に深いしわを刻む。
「欅沢さんは面倒ごとを嫌うが、思い切った時の力はひと並み以上だった。麒麟隊の二人はそれぞれ看護師の母親に憧れてここへきた。あいつらだけじゃない。術が得意な靭永が、それ以上に得意なのは気配りだったってことも。竈戸さんはわざと必要以上に肩の力を抜いていたってことも。報告書を渡すついで、会議中、隊の方針の相談……そんな中で顔を合わせ、見聞きした言動から、全部全部知っていた。知っていたのに……どれも仕事中に一方的にオレが気づいたことだった。生活も業務も共にする仲間だっていうのに、たわいない話一つしなかった……しないまま、永遠に言葉を交わすこともできなくなってしまった!」
そう吐き出した後、宮希は激しく喘いだ。喉の奥で、かひゅっと痛々しい音がする。霞冴は慌てて背中をさすった。
「やめて、そんなに自分を責めないでよ! 仲間が死んじゃったのはすごく悲しいよ。でも、それは宮希のせいなんかじゃない。第一、こんな状態になってる宮希だって被害者だよ! ご両親のことだって……」
被害者。その単語に火をつけられたように、彼は苛烈に怒鳴った。
「オレは被害者である以前に、最高司令官なんだよ!」
「キミは最高司令官である以前に、茄谷宮希だよ!」
同じだけの語勢をぶつけた霞冴に、宮希はほんの少しの間だけ黙った。視線を再び布団の上に落とし、力なく言葉をこぼす。
「だから何だ……オレはこの侵攻で、誤算の一つも悪手の一つもあってはならなかった。もっといい作戦を、もっと妥当な策略を練られていれば、誰も被害にあわなかったのに」
いや、と首を振って呼吸を荒らげる。
「元はといえば、あの大火事……あれをうまくさばけなかったから、今回の侵攻が起きたんだ。あの時……あの時、非の打ちどころのない対応をしていなければならなかった。オレは、オレはいつだって、完璧に、完全に、何もかもうまくやらなければならなかったのに! 一つも! ただの一つも失敗してはいけなかった! オレにはできなければならなかったんだ!」
ほとばしる激情に、体が悲鳴を上げた。それ以上の怒号は呼吸が許してくれず、ぜえぜえと荒い息を繰り返す。
霞冴はしばらく黙っていた。黙って背中をさすりながら、震えるほど強く掛け布団を握る宮希の左手を見つめていた。
気息の荒波が収まったころ、霞冴はぽつりと一滴、言葉を落とした。
「……私のお姉ちゃんね、すごく優秀だったの」
宮希が声もなく霞冴を見つめた。面食らっている様子なのはわかっていたが、霞冴は少しだけ緩んだ宮希の左手の甲を見つめながら続けた。
「飛び級して、成績もトップクラスで、心理学研究科を卒業した後、特待生で時空学も専攻してて。私なんかとは比べ物にならない、それこそ完璧なひとだった。欠点らしい欠点といえば、お姉ちゃんは病弱で、でもそれを埋めるように、私に何度も言い聞かせてくれたの」
今でも鮮明によみがえる、温かい声。――あなたを置いて死ぬわけないでしょう。不安で泣きそうな霞冴に、彼女はいつも笑ってそう言っていた。
「私はその言葉を信じてた。お姉ちゃんは私を独りにしないって。でも、そんなお姉ちゃんは……時空学の実技試験場で、事故に巻き込まれて死んじゃった」
何かの拍子に、彼の前でも断片ずつ口にしたことがある気がする。聡明な彼のことだ、ピースを組み合わせれば、今言った事実は既知のものにしていただろう。
それを分かっていながら、あえて全てを通して話し終わった後、霞冴は床に膝をついて宮希を見上げた。
「ねえ、宮希。どれだけ優秀だって、それだけうまくいってたって、その人生に一つの瑕もないひとはいないんだよ。誰だって失敗するし、誰だって不運なことに巻き込まれることもあるの。何もかも思い通りなんて、ありえない」
茶色い瞳は、熱で浮かされて揺れながら、痛みを抱え込んだまま霞冴を見つめていた。
「確かに、宮希はあの大火事の時、もしかしたらもっといい手を打てたかもしれない。何かを変えていれば、今回の侵攻でもっと被害が抑えられたかもしれない。……だけど」
霞冴は、息継ぎをする間に心の底から気持ちをかき集めて口に出した。
「だけど、もっともっとひどい状況になっていたかもしれない中で、宮希は今を作ってくれた。希兵隊が全滅していたかもしれない。町が、フィライン・エデンが全部壊されていたかもしれない。だけど、宮希はそんな未来を回避してくれたじゃない。最悪がたくさん目の前にある中で、絶望がたくさん転がっている中で、一握りの最善を、希望をつかみ取ってくれたのはキミなんだよ。それだけで充分なの」
右の手をゆっくりと動かし、宮希の左手に触れた。霞冴のそれより硬くて、けれど大きさはさほど変わらない、自分と同じまだ小さな手にそっと重ねる。
「キミは全知全能の君臨者なんかじゃない。私たちと同じ普通の猫で、ちょっと優秀なだけの、どこにでもいる男の子なんだよ。だから、私はキミに何もかもを求めたりなんかしない。完璧じゃなくたっていい。完全じゃなくたっていい。だから……もう、自分を苦しめないで」
見開かれたブロンズが揺れた。今までの規則的な潤みから外れた、一瞬の動揺。そこから、霞冴は一瞬たりとも視線を外さない。
唇が小さく開き、何度か迷った後、弱弱しい声が聞こえた。
「その言葉……信じて、いいのか?」
「うん」
「……信じるぞ?」
「うん」
「信じる、からな?」
「宮希」
霞冴は淡く微笑んだ。重ねた手を優しく握って、彼女は儚げな瞳をまっすぐに見つめた。
「キミがオレを信じろって言った時、私は心の底からキミを信じた。命を懸けてもいいって思えるくらいに信じたの。今も、これからも、キミが信じてほしい以上に、私はキミを信じてるから……だから、キミも私を信じてくれると、すごく嬉しい」
小さく息を吸い込む音。大きく開かれる瞳。
どれも一瞬だった。次の瞬間には、霞冴は床に膝をついた姿勢のまま、背中に回された腕と密着した体から伝わる熱の中に包まれていた。
「宮、希……?」
「……オレが」
耳元でささやくような声が聞こえた。心臓がドクンと大きく跳ねる。震える吐息が聞こえるとともに、同じように震える腕が、苦しいほどに強く霞冴を抱きしめた。
「オレが総司令部に入隊して二年になろうというとき……オレ以外の総司令部員が、全員死んだ」
霞冴は息をつめた。時間差なしに、体越しに宮希にも伝わっているだろう。
「二月のある日……、っ……すまん、これは……まだ……」
「いいよ。無理に話さなくてもいいから」
語り出しで呼吸を乱した宮希を、すぐにそっと制する。宮希は小さくうなずいて、少し時制を飛ばしたところから再開した。
「オレ以外の誰もいなくなって、次期最高司令官は、流れるようにオレになった。だが、当時のオレはまだ、もうすぐ三年目というところだったし、何より八歳の……馬鹿馬鹿しいほど幼い子供だった。無論、情報管理局と学院は緊急会議をおこなった。執行部か開発部か、誰かもっと経験を重ねた年長者を選べないかと。その一方で、現実、執行部や開発部は総司令部の業務など未知の世界だったし、全体を見渡してうまく動かしていくだけの技量を養ってはこなかった」
当然である。彼らも彼らで、自分が担当する仕事を全うするのに傾倒しているのだ。畑違いのことにまで精通する余裕はない。
「オレはまだ未熟だった。それでも、総司令部の仕事の回し方は熟知していたし、俯瞰して事態を把握する能力も、組織を維持する技術も叩き込まれていた。だから、局長と学院長はオレに選ばせたんだ。最高司令官になるか否か、お前が決めろと」
それは、学院を卒業しているとはいえ、まだ若すぎる彼にとって究極の選択だった。正解はどちらか。最善はどちらか。重みをその肩に背負うことになる初めての決断。
「だが、当時のオレには、選択権などあってないようなものだった。だってそうだろう、総司令部室の大机に向かったところで最初に何を手にしたらいいのかさえわからない素人が、一から最高司令官を務めあげるのにどれだけかかる? その間の司令は誰が出す? ……あの時のオレは、自分にやれるだけの器量があるかなんて考えていなかった。ただ、オレしかいないと、オレがやらなければならないと、それだけが頭にあったんだ」
情報管理局と学院の長は、彼の苦渋の決断をあっさりと呑んだ。どちらへ転んでも期待できないことが最初から分かっていたからだ。かくして、史上最年少の最高司令官が任命された。
ただでさえ市民の一驚を買った任命だ。ここで失態を犯せば、それこそ負の感情を誘発させ、クロやダークの増加に加担しかねない。
だから、就任当時から宮希は一つの手抜かりもないよう努めた。見落とした手順はないか、精度は水準を満たしているか、求められている以上の働きはできているか、逆に出過ぎた真似はしていないか。
常に周りを観察し、分析し、同じことを自分に対してもおこなう。片時も気を休めず、一歩踏み外せば真っ逆さまに転落する綱渡りのような毎日。月日が経って慣れてからも、むしろ集めた信頼を崩さないよう細心の注意を払い続ける緊張の日々は――。
「……苦しかったよ」
たった一言。たった一言なのに、四年間に渡ってずっとずっと声に出せなかった本音。
「苦しかった……オレは完璧でいるのが当たり前で、うとめやつかさだってそれを否定しなかった。まして、『失敗してもいい』、『完璧じゃなくていい』なんて言うヤツは……誰もいなかった。でも……『さすが』なんて、眩しい賞賛より、『きっと』なんて、重い期待より、オレが、欲しかった、のは……」
ずっと、こんな感情を押し殺してきたのだろう。足がすくむような高い居場所と、押しつぶされそうな重いプレッシャーに耐えるために。その反動か、体の震えと乱れた呼吸が止まない。
「落ち着いて、宮希……過呼吸になっちゃう」
「は……っ、はぁ……っ」
「……こんなボロボロになるまで抱え込まなくてよかったのに……。私がもっと早くに気づいてあげられればよかったね……ごめんね」
「……っ……、……っ」
宮希は首を振りながら、最後の力を振り絞るように、かすれた声を吐き出した。
「希兵隊を背負うオレに……過ちなんて、一つも許されるはずがない。完璧でなくてもいいなんて、そんなわけがないんだ……。でも……それでも、嘘でもいいから、一度だけでもいいから……オレは、ずっとずっと……その言葉が、欲しかった……っ」
はじけそうな何かをこらえるように、浅い呼吸を何度も繰り返す。霞冴は、そんな彼の肩にそっと手を添えた。
熱に浮かされた体はひどく熱かった。なのに、まるで寒空の下で独り凍えていたかのように震えている。
霞冴は、柔らかな感触の髪を頬に感じながら、ふるふると首を振った。
「嘘なんかじゃない。一度だけなんかじゃない。何度だって言うよ。キミは完璧じゃなくていいの。私はキミに、そんな神がかった完全無欠を望んだりなんかしないから」
「……あり、がとう……」
細い腕が、一層強く霞冴を引き寄せた。抱きしめている、というより、すがりついている。そう感じさせるような脆さが、すぐそばで耳朶を打った。
「ありがとう、霞冴……ありがとう……っ」
熱い体温と速い鼓動が、密着した体から伝わってくる。霞冴は、自分と同じそれらが、体の奥深くに溶け込み、溶け込んでいくのを感じた。
同時に、震えながら耳に届く響きが、どうしようもなく心を締め付けた。痛くて痛くてたまらなくて、けれど自分は確かに間に合ったのだと感じていた。
四年間ずっと独りで抱え続けた苦しみを、今ようやく終わらせることができたのだと。足場が音を立てて崩れていく中でただ立ちすくむ宮希を、その手を握って引き上げることができたのだと。
とたん、揺れた胸の奥からこみあげた涙が、いっせいにあふれ出した。震え、裏返る声をなんとか言葉の形にして、至近距離の彼へと必死に伝えた。
「ありがとう、宮希こそ……話してくれて、ありがとう……。宮希の心が壊れちゃう前で……本当に……良かったぁ……っ」
言葉が途切れ、薄暗い部屋に響く嗚咽と、頬を伝うしずくばかりがあふれる。
やっと心の奥底から分かり合えた。奈落に落ちる寸前の彼を救えた。長く恋焦がれていた二文字で呼んでもらえさえした。
だから、こんな時に流すのは、きっと嬉し涙なのだと、そう思っていた。
なのに、今、頬を伝って唇に触れる涙は、傷口からあふれる血のように苦かった。
霞冴が宮希の看病をしている時間は、昼間よりも夜のほうが長かった。
昼間は、霞冴自身の回復具合を診てもらったり、みちねに指示を出して少しずつ仕事を回したり、あるいは疲れからかうとうとしていることもある。ときどき宮希の様子を見に行けば、深翔とすれ違うこともしばしばだ。介抱は霞冴に任せる、と言った本人がちょくちょく通っているとなると、相当心配している、ひいてはそれほど悪いのだろうと推測された。
逆に、霞冴が夜に長時間宮希を見守っている――というより、夜通しそこに入り浸る理由は、彼女自身によるものだった。寝ようとしても寝られなかったのだ。
一日目、私室の布団にもぐりこんだ霞冴は、夢を見た。朝、始業時間に総司令部室に行っても誰もいない夢。宮希、宮希と呼びながら探し回っても見つからず、誰に聞いても見ていないと首を振られる。泣きじゃくりながら敷地内を奔走する霞冴は、なぜとも知らず、彼は死んでしまったのだと悟っていた。
そんな悪夢で飛び起きた霞冴は、落ち着いてから再度眠りについた。今度は、彼女は真っ白な空間に立っていた。正面には身長の倍以上ある巨大な扉。その手前に、人間姿の宮希。彼は唇の動きだけで何かを言うと、ひとりでに開いた扉の向こうへと歩いていく。霞冴が追いかけようとすると扉は固く閉まり、それきり開くことはなかった。何度も何度も拳を打ち付けて泣き叫んだ霞冴は、自分の声で目を覚ました。
もう一度意識を落とした時に見たのは、今と似た状況でベッドに横たわった宮希が、目の前で灰になっていく夢。指先からさらさらと消えていき、取りすがれば灰になったところからぼろぼろと崩れていく。今度は飛び起きることも泣き叫ぶこともなかった。ただ、静かに滂沱と涙を流しながら起き上がると、ベッドを降りて、一枚羽織って総司令部室へと向かった。
こうして、夜は宮希のそばで様子を見守りながら過ごすようになった。ときどきうたた寝しているが、そこでは絶望的な夢に襲われることはなかった。
三日目の晩も、霞冴は汗をぬぐってあげているうちに睡魔に襲われ、椅子に座ったままこくこくと舟をこいでいた。永遠にも感じられる夜の時間を、どっちつかずのまどろみで送っていく。
舟をこぐ動きも休めて穏やかな水面にたゆたっていた、その時だ。
「……めろ……」
かすかな声に揺らされ、霞冴は覚醒した。
「宮希?」
小さく呼んで、目の前の宮希をのぞき込み、ハッと息をのんだ。あれからどれだけ時間がたったのかわからないが、きちんと拭いたはずの汗が、額や首筋にびっしりと浮かんでいた。
苦悶の表情でわずかに体をよじり、彼は再び声をこぼす。
「やめろ……もう……!」
うなされている。
それに気づくや否や、霞冴は慌てて立ち上がり、宮希の肩をたたいて呼び掛けた。
「宮希、宮希! しっかり!」
「永遠……時尼……行くな……危ない……っ」
無意識に動く左手を、霞冴は両手のひらでぎゅっと包み込んだ。早く連れ戻さなければ。彼はまだ、並の悪夢より凄惨だった侵攻の中にいる。
「宮希、大丈夫だよ! 私はここにいるよ!」
「……ぅ……」
早い呼吸を繰り返す宮希が、うっすらと目を開けた。生気を失った目が、うつろに霞冴のほうを見る。
「時……尼……?」
ほとんど唇を動かさずに呼ぶ。まだ意識が混濁しているようだ。霞冴がもう一度強く呼びかけようとしたとき。
かっと昏い瞳が見開かれた。驚く間もなく、宮希は突然、霞冴に握られていた左手で、逆に霞冴の手をつかみなおし、思いきり引っ張った。
「わっ!?」
手に体がもっていかれてつんのめる。足が引っかかり、盛大な音とともに椅子が転がった。
思わずベッドの上に反対の手をついた霞冴を、後ろ手にかばうようにしながら、宮希が跳ね起きた。
「宮希!? ど、どうし……」
「極彩色の帰納、白色の来訪!」
霞冴はぎょっと目を見開いた。右手で刀印を結んだ宮希の指先で、まばゆい光が生まれて夜目を刺す。この詠唱は燎光、広範囲に熱量を伴う光を飛ばす術のものだ。間違っても、目の前のクローゼットに放っていいものではない。
「ま、待って宮希、落ち着いて! ここで飛ばしちゃダメだよ!」
霞冴はとっさに宮希の右手をつかんだ。すでに集まっていた光の熱で軽くやけどしたが、その瞬間、詠唱はぴたりと止まった。一拍おいて、指先の輝きは徐々に薄れていく。代わりに、宮希の瞳に光が戻ってきた。
彼は肩で息をしながら、しばし呆然と前を見つめた後、緩慢に左に首をひねった。
「時尼……」
「落ち着いた?」
「敵は……」
「いないよ。ここは希兵隊本部。宮希の部屋だよ」
言われて、彼はゆっくりとまばたきした。霞冴は放心した顔にタオルを当て、伝う汗を拭きとってやった。
霞冴がタオルを机に置きなおしていると、宮希はのろのろと首を巡らせた。そこで初めて、今ここの本当の景色と、自分の視線の先にあったのが見慣れたクローゼットだと気づいたようだった。
まだ自失とした様子で、ぎこちなく霞冴のほうへ首を戻す。
「……じゃあ……永遠は……」
これには、すぐには言葉を返せなかった。悪夢の中では、小さな剣士はまだ生きていたのだろう。けれど、これが現実だ。悪夢より残酷な現実だ。
宮希は無言のうちに悟り、ぐったりと肩を落としてうなだれた。
「そうか……そうだよな……。永遠は……もう……」
再び目から力を失い、掛け布団のしわを見つめる宮希。その額にそっと手を伸ばせば、ずっと炎天下にさらされていたのではと思うほどの温度が伝わってきた。
「宮希、熱が高いよ。やっぱり、医務室で休んだほうがいいよ。深翔さんに言って……」
「そんなわけに、いかないだろう」
彼はそう言うが、最初に医務室での療養を拒んだ時とはわけが違う。このままでは、どんどん衰弱していくうえ、脱水症状にもなりかねない。今の彼には継続的な処置が必要なのだと、そう言おうとして、口切りを先んじられた。
「オレが楽な思いをするわけにはいかない。今回の件は、全部オレのせいだから。だから受けうる恩恵は、全部譲らないと……」
霞冴は予想に反した言葉に目をしばたたかせた。一瞬、何を言っているのかわからないほど驚いていた霞冴は、そろそろと聞き返す。
「どういうこと……?」
「最高司令官のオレは、侵攻で失われた命も、傷ついた心も、全ての責任を負わなければならない。食い止められたはずの侵攻を、食い止められなかったのは……オレのせいだから」
「ちょ、ちょっと待ってよ」
霞冴は慌てて待ったをかけた。何か、あらぬ方向へ行こうとしている気がした。
「どうして? 宮希のせいなんかじゃないよ」
「いや、オレのせいだ。あの夜、宣戦布告の夜……オレは言っただろう。必ず何とかする、必ずうまくやると。なのに、オレは有言実行できなかった。こんなに大きな被害を出してしまった。オレは最高司令官として、三大機関の一角のトップとして、最善策を取らなければならなかったのに」
「宮希は頑張ったじゃない。そんな風に思う必要ないよ」
「頑張ってこれなら世話ないだろう」
ぎゅっと布団が握りしめられる。白いシーツのしわが濃くなった。
霞冴はなおも言い聞かせる。
「頑張ってこれならって言うけど、初めから頑張って何とかなるものじゃなかったの。何とかなるなら、誰もチエアリなんて怖くないよ。もう……こうなっちゃったのは、仕方ないんだよ。でも、宮希が頑張って最善を尽くしてくれたから……」
「仕方ないなんて言葉で、あいつらが浮かばれるわけないだろう。こんなに仲間が死んで、ほかの住人を危険にさらして、何が最善だ!」
宮希の声が怒気をはらんだ。感情の高ぶりについていけない体が、呼吸のたびにせわしなく上下する。
「仲間が死んだのだってオレのせいだ! 強い信頼関係が結べなかったから欅沢さんたちは逃げた。誰かの死を目の当たりにする可能性があったにもかかわらず、その耐性をつけてやれなかったから麒麟隊の二人は心を病んだ。何もかもコミュニケーション不足だった……オレはあいつらのことをちゃんと見て、知ってたのに」
ぎりっと奥歯をかみしめ、眉間に深いしわを刻む。
「欅沢さんは面倒ごとを嫌うが、思い切った時の力はひと並み以上だった。麒麟隊の二人はそれぞれ看護師の母親に憧れてここへきた。あいつらだけじゃない。術が得意な靭永が、それ以上に得意なのは気配りだったってことも。竈戸さんはわざと必要以上に肩の力を抜いていたってことも。報告書を渡すついで、会議中、隊の方針の相談……そんな中で顔を合わせ、見聞きした言動から、全部全部知っていた。知っていたのに……どれも仕事中に一方的にオレが気づいたことだった。生活も業務も共にする仲間だっていうのに、たわいない話一つしなかった……しないまま、永遠に言葉を交わすこともできなくなってしまった!」
そう吐き出した後、宮希は激しく喘いだ。喉の奥で、かひゅっと痛々しい音がする。霞冴は慌てて背中をさすった。
「やめて、そんなに自分を責めないでよ! 仲間が死んじゃったのはすごく悲しいよ。でも、それは宮希のせいなんかじゃない。第一、こんな状態になってる宮希だって被害者だよ! ご両親のことだって……」
被害者。その単語に火をつけられたように、彼は苛烈に怒鳴った。
「オレは被害者である以前に、最高司令官なんだよ!」
「キミは最高司令官である以前に、茄谷宮希だよ!」
同じだけの語勢をぶつけた霞冴に、宮希はほんの少しの間だけ黙った。視線を再び布団の上に落とし、力なく言葉をこぼす。
「だから何だ……オレはこの侵攻で、誤算の一つも悪手の一つもあってはならなかった。もっといい作戦を、もっと妥当な策略を練られていれば、誰も被害にあわなかったのに」
いや、と首を振って呼吸を荒らげる。
「元はといえば、あの大火事……あれをうまくさばけなかったから、今回の侵攻が起きたんだ。あの時……あの時、非の打ちどころのない対応をしていなければならなかった。オレは、オレはいつだって、完璧に、完全に、何もかもうまくやらなければならなかったのに! 一つも! ただの一つも失敗してはいけなかった! オレにはできなければならなかったんだ!」
ほとばしる激情に、体が悲鳴を上げた。それ以上の怒号は呼吸が許してくれず、ぜえぜえと荒い息を繰り返す。
霞冴はしばらく黙っていた。黙って背中をさすりながら、震えるほど強く掛け布団を握る宮希の左手を見つめていた。
気息の荒波が収まったころ、霞冴はぽつりと一滴、言葉を落とした。
「……私のお姉ちゃんね、すごく優秀だったの」
宮希が声もなく霞冴を見つめた。面食らっている様子なのはわかっていたが、霞冴は少しだけ緩んだ宮希の左手の甲を見つめながら続けた。
「飛び級して、成績もトップクラスで、心理学研究科を卒業した後、特待生で時空学も専攻してて。私なんかとは比べ物にならない、それこそ完璧なひとだった。欠点らしい欠点といえば、お姉ちゃんは病弱で、でもそれを埋めるように、私に何度も言い聞かせてくれたの」
今でも鮮明によみがえる、温かい声。――あなたを置いて死ぬわけないでしょう。不安で泣きそうな霞冴に、彼女はいつも笑ってそう言っていた。
「私はその言葉を信じてた。お姉ちゃんは私を独りにしないって。でも、そんなお姉ちゃんは……時空学の実技試験場で、事故に巻き込まれて死んじゃった」
何かの拍子に、彼の前でも断片ずつ口にしたことがある気がする。聡明な彼のことだ、ピースを組み合わせれば、今言った事実は既知のものにしていただろう。
それを分かっていながら、あえて全てを通して話し終わった後、霞冴は床に膝をついて宮希を見上げた。
「ねえ、宮希。どれだけ優秀だって、それだけうまくいってたって、その人生に一つの瑕もないひとはいないんだよ。誰だって失敗するし、誰だって不運なことに巻き込まれることもあるの。何もかも思い通りなんて、ありえない」
茶色い瞳は、熱で浮かされて揺れながら、痛みを抱え込んだまま霞冴を見つめていた。
「確かに、宮希はあの大火事の時、もしかしたらもっといい手を打てたかもしれない。何かを変えていれば、今回の侵攻でもっと被害が抑えられたかもしれない。……だけど」
霞冴は、息継ぎをする間に心の底から気持ちをかき集めて口に出した。
「だけど、もっともっとひどい状況になっていたかもしれない中で、宮希は今を作ってくれた。希兵隊が全滅していたかもしれない。町が、フィライン・エデンが全部壊されていたかもしれない。だけど、宮希はそんな未来を回避してくれたじゃない。最悪がたくさん目の前にある中で、絶望がたくさん転がっている中で、一握りの最善を、希望をつかみ取ってくれたのはキミなんだよ。それだけで充分なの」
右の手をゆっくりと動かし、宮希の左手に触れた。霞冴のそれより硬くて、けれど大きさはさほど変わらない、自分と同じまだ小さな手にそっと重ねる。
「キミは全知全能の君臨者なんかじゃない。私たちと同じ普通の猫で、ちょっと優秀なだけの、どこにでもいる男の子なんだよ。だから、私はキミに何もかもを求めたりなんかしない。完璧じゃなくたっていい。完全じゃなくたっていい。だから……もう、自分を苦しめないで」
見開かれたブロンズが揺れた。今までの規則的な潤みから外れた、一瞬の動揺。そこから、霞冴は一瞬たりとも視線を外さない。
唇が小さく開き、何度か迷った後、弱弱しい声が聞こえた。
「その言葉……信じて、いいのか?」
「うん」
「……信じるぞ?」
「うん」
「信じる、からな?」
「宮希」
霞冴は淡く微笑んだ。重ねた手を優しく握って、彼女は儚げな瞳をまっすぐに見つめた。
「キミがオレを信じろって言った時、私は心の底からキミを信じた。命を懸けてもいいって思えるくらいに信じたの。今も、これからも、キミが信じてほしい以上に、私はキミを信じてるから……だから、キミも私を信じてくれると、すごく嬉しい」
小さく息を吸い込む音。大きく開かれる瞳。
どれも一瞬だった。次の瞬間には、霞冴は床に膝をついた姿勢のまま、背中に回された腕と密着した体から伝わる熱の中に包まれていた。
「宮、希……?」
「……オレが」
耳元でささやくような声が聞こえた。心臓がドクンと大きく跳ねる。震える吐息が聞こえるとともに、同じように震える腕が、苦しいほどに強く霞冴を抱きしめた。
「オレが総司令部に入隊して二年になろうというとき……オレ以外の総司令部員が、全員死んだ」
霞冴は息をつめた。時間差なしに、体越しに宮希にも伝わっているだろう。
「二月のある日……、っ……すまん、これは……まだ……」
「いいよ。無理に話さなくてもいいから」
語り出しで呼吸を乱した宮希を、すぐにそっと制する。宮希は小さくうなずいて、少し時制を飛ばしたところから再開した。
「オレ以外の誰もいなくなって、次期最高司令官は、流れるようにオレになった。だが、当時のオレはまだ、もうすぐ三年目というところだったし、何より八歳の……馬鹿馬鹿しいほど幼い子供だった。無論、情報管理局と学院は緊急会議をおこなった。執行部か開発部か、誰かもっと経験を重ねた年長者を選べないかと。その一方で、現実、執行部や開発部は総司令部の業務など未知の世界だったし、全体を見渡してうまく動かしていくだけの技量を養ってはこなかった」
当然である。彼らも彼らで、自分が担当する仕事を全うするのに傾倒しているのだ。畑違いのことにまで精通する余裕はない。
「オレはまだ未熟だった。それでも、総司令部の仕事の回し方は熟知していたし、俯瞰して事態を把握する能力も、組織を維持する技術も叩き込まれていた。だから、局長と学院長はオレに選ばせたんだ。最高司令官になるか否か、お前が決めろと」
それは、学院を卒業しているとはいえ、まだ若すぎる彼にとって究極の選択だった。正解はどちらか。最善はどちらか。重みをその肩に背負うことになる初めての決断。
「だが、当時のオレには、選択権などあってないようなものだった。だってそうだろう、総司令部室の大机に向かったところで最初に何を手にしたらいいのかさえわからない素人が、一から最高司令官を務めあげるのにどれだけかかる? その間の司令は誰が出す? ……あの時のオレは、自分にやれるだけの器量があるかなんて考えていなかった。ただ、オレしかいないと、オレがやらなければならないと、それだけが頭にあったんだ」
情報管理局と学院の長は、彼の苦渋の決断をあっさりと呑んだ。どちらへ転んでも期待できないことが最初から分かっていたからだ。かくして、史上最年少の最高司令官が任命された。
ただでさえ市民の一驚を買った任命だ。ここで失態を犯せば、それこそ負の感情を誘発させ、クロやダークの増加に加担しかねない。
だから、就任当時から宮希は一つの手抜かりもないよう努めた。見落とした手順はないか、精度は水準を満たしているか、求められている以上の働きはできているか、逆に出過ぎた真似はしていないか。
常に周りを観察し、分析し、同じことを自分に対してもおこなう。片時も気を休めず、一歩踏み外せば真っ逆さまに転落する綱渡りのような毎日。月日が経って慣れてからも、むしろ集めた信頼を崩さないよう細心の注意を払い続ける緊張の日々は――。
「……苦しかったよ」
たった一言。たった一言なのに、四年間に渡ってずっとずっと声に出せなかった本音。
「苦しかった……オレは完璧でいるのが当たり前で、うとめやつかさだってそれを否定しなかった。まして、『失敗してもいい』、『完璧じゃなくていい』なんて言うヤツは……誰もいなかった。でも……『さすが』なんて、眩しい賞賛より、『きっと』なんて、重い期待より、オレが、欲しかった、のは……」
ずっと、こんな感情を押し殺してきたのだろう。足がすくむような高い居場所と、押しつぶされそうな重いプレッシャーに耐えるために。その反動か、体の震えと乱れた呼吸が止まない。
「落ち着いて、宮希……過呼吸になっちゃう」
「は……っ、はぁ……っ」
「……こんなボロボロになるまで抱え込まなくてよかったのに……。私がもっと早くに気づいてあげられればよかったね……ごめんね」
「……っ……、……っ」
宮希は首を振りながら、最後の力を振り絞るように、かすれた声を吐き出した。
「希兵隊を背負うオレに……過ちなんて、一つも許されるはずがない。完璧でなくてもいいなんて、そんなわけがないんだ……。でも……それでも、嘘でもいいから、一度だけでもいいから……オレは、ずっとずっと……その言葉が、欲しかった……っ」
はじけそうな何かをこらえるように、浅い呼吸を何度も繰り返す。霞冴は、そんな彼の肩にそっと手を添えた。
熱に浮かされた体はひどく熱かった。なのに、まるで寒空の下で独り凍えていたかのように震えている。
霞冴は、柔らかな感触の髪を頬に感じながら、ふるふると首を振った。
「嘘なんかじゃない。一度だけなんかじゃない。何度だって言うよ。キミは完璧じゃなくていいの。私はキミに、そんな神がかった完全無欠を望んだりなんかしないから」
「……あり、がとう……」
細い腕が、一層強く霞冴を引き寄せた。抱きしめている、というより、すがりついている。そう感じさせるような脆さが、すぐそばで耳朶を打った。
「ありがとう、霞冴……ありがとう……っ」
熱い体温と速い鼓動が、密着した体から伝わってくる。霞冴は、自分と同じそれらが、体の奥深くに溶け込み、溶け込んでいくのを感じた。
同時に、震えながら耳に届く響きが、どうしようもなく心を締め付けた。痛くて痛くてたまらなくて、けれど自分は確かに間に合ったのだと感じていた。
四年間ずっと独りで抱え続けた苦しみを、今ようやく終わらせることができたのだと。足場が音を立てて崩れていく中でただ立ちすくむ宮希を、その手を握って引き上げることができたのだと。
とたん、揺れた胸の奥からこみあげた涙が、いっせいにあふれ出した。震え、裏返る声をなんとか言葉の形にして、至近距離の彼へと必死に伝えた。
「ありがとう、宮希こそ……話してくれて、ありがとう……。宮希の心が壊れちゃう前で……本当に……良かったぁ……っ」
言葉が途切れ、薄暗い部屋に響く嗚咽と、頬を伝うしずくばかりがあふれる。
やっと心の奥底から分かり合えた。奈落に落ちる寸前の彼を救えた。長く恋焦がれていた二文字で呼んでもらえさえした。
だから、こんな時に流すのは、きっと嬉し涙なのだと、そう思っていた。
なのに、今、頬を伝って唇に触れる涙は、傷口からあふれる血のように苦かった。
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