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9.過去編
45一期一会と頬の色 ⑧
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***
「はあッ、はッ……ぁ、はぁ……」
残された力を全て、呼吸につぎ込む。生きるための呼吸、それをするためだけに生きているかのように。
死に物狂いの戦いとは、終わって初めて実感するものなのだと知った。戦っている間は、死も狂気も何も頭に浮かばないし、感じない。ただ無心に戦って戦って戦い抜いて、ようやく敵と呼べるものがいなくなった後、自分は死の淵のギリギリで活劇を演じていたのだと気づく。しかし、いくらさっきまでの自分が死に瀕していようと、現在進行形で死ぬほど息が苦しかろうと、それを考えられるだけ幸いだろう。
つまり、今自分は生きているということだからだ。
四階に足を踏み入れた霞冴は、一列に並んで待ち構えていた十体のクロから一斉に乱暴な挨拶をかまされた。不可避の攻撃を何とかしのいで否応なく開戦、宮希に被害を及ぼすまいと鬼神のごとく乱闘した末、見事一騎当千を果たしたものの、体力はすでに底をつきかけていた。何せ、チエアリ戦からダーク戦を経てここに至るまでの間、一度も麒麟隊の恩恵を受けていないのだ。疲れ果てているところにこの奇襲とあって、相手がクロだったといえども、消耗は激しかった。
膝をつき、焼け付く喉で激しい呼吸を続けていた霞冴は、やっと呼吸以外の動きができるだけの体力を取り戻すと、一度だけつばを飲み込んで、よろよろと立ち上がった。
両刀を納め、すぐに向かったのは下り階段横の壁際。片膝を抱え込んでうずくまる宮希へと歩み寄ると、伏せた顔をうずめる腕の中から、苦痛をこらえるかすれたうめきが聞こえた。三階を後にして霞冴がクロを掃討するまで、時間はそうたっていない。回復から悪化までのスパンが、どんどん短くなっていた。
「宮希、大丈夫?」
「……っ」
「お腹のところ、痛い?」
「痛いし……気持ち、悪い……」
うずくまったまま、吐き気をこらえるように浅く咳き込む。体の中心から入れられた分、毒の回りが早いのだろう。
霞冴は宮希の体を無理のないように起こすと、上下する胸に手を当てた。そこにほのかな光がともると、少しだけ彼の表情が穏やかになった。
「つらいところがあったら言ってね。優先して治すから」
宮希が目を閉じたまま無言でうなずく。治す、と言っても、これは彼自身の抵抗力を促しているだけだ。毒が回り続けている現状、そろそろ限界が近い。早く薬を投与して休ませないと、どんどん衰弱していってしまう。
当初の計画では、五階までのぼりつめてチエアリに遭遇しなかった隊は、一度地上に戻って塔の他の方角を手伝う手はずになっていた。だが、低層棟が封じられた以上、それもできなくなった。北棟は、霞冴と宮希で攻略するしかない。
もし、北棟の最上階にチエアリがいた場合は――。
「――……」
霞冴の心臓がどす黒い手につかまれる。ざっと冷や汗が出て、頭の中がフリーズした。危うく治療の手が止まりそうになった霞冴を、やっと出るようになった声が呼ぶ。
「……時尼……」
「あ、はいっ。どうしたの? どこが痛い?」
不安を気取られたくないのと、上の空だったことを咎められたくないので、慌てて平静を装って問いかける。
宮希は、弱々しいながらしっかりと霞冴を見上げて言った。
「お前は……出来の悪い部下などではないよ」
「え……」
予想の斜め上どころか、全く別方向の言葉をかけられ、霞冴は戸惑った。その間にも、宮希は続ける。
「仕事は早くなったし、周りの気遣いもできる。言葉を交わさなくとも仲間と息を合わせられるし、護衛官など役不足な戦闘力。……オレが保証してやる。お前は上出来だ。だから……これからは、もっと自信を持って生きていいんだ」
霞冴は呼吸すら止めて絶句した。なぜ、これからのことを言い預けるかのように伝えるのか。まるで暇乞いのような――。
その言葉で、霞冴を取り巻いていた重苦しい靄は消え去った。
弱気になっている場合ではない。もし自分が倒れたら、誰が宮希を守るのか。それより、あの大胆不敵な茄谷宮希に、こんな弱音を吐かせてなるものか。
霞冴は治療する手と反対側で、宮希の手を握った。
「そんな遺言みたいなこと言わないで」
「時尼……」
「キミは私と一緒に帰るの。生きて帰って、私にお誕生日おめでとうって言ってくれるんでしょう。大丈夫、全部倒して外に出たら、すぐに麒麟隊のところへ連れてってあげるから。だから……キミは、最高司令官のキミだけは、希望を捨てないで」
宮希は息を詰めて霞冴の言葉に聞き入っていた。一言一言の響きの余韻にまで耳を傾けるようにしばらく黙っていた彼は、ほんのわずかに微笑んだ。
「……そう、だな。悪い……弱っているせいで、ネガティブになっていたな……」
そう言うと、彼は切り替えるように深呼吸して、ゆっくり体勢を動かした。
「大丈夫……?」
「ああ……もう立てる。助かった」
「もう少し休んだ方が……」
「休んでいても毒は抜けない。それに……分かっているだろう。オレは早く行かなければならない」
宮希がチエアリのボスと対峙しないと、勝負に敗れることになる。さらに、毒の放出が止まらないままになる。
ボスは正々堂々ルールを守る気など毛頭ないだろうが、それはこちらも望むところだ。もとより全滅させる算段なのだから。そして、ボスとの対峙こそが、市民の負の感情を断ち切る一手になる。
「次はいよいよ五階だ。局長の読みが正しければ、次が最上階。そこに、四分の一の確率で……いや、計算しても机上の空論か。『長男様』とやらがいるかもしれないし、いないかもしれない」
これまでもこちらの想定を上回ってきたチエアリだ。計算を信じ込むのは愚行だろう。
「本来なら、他の執行部員を伴っていくべきだが、もうそれも封じ手だしな。……一応確認しておくと、今、朱雀隊は……」
一度言葉が切れた。息が上がっているせいだと気づいて、霞冴は宮希の手がポケットのピッチへ伸びる前に「いいよ」と制した。代わりに、源子化していた自分のそれを再構成して手に取る。画面に、各隊からの一斉送信が未読のまま表示された。
「……朱雀隊も青龍隊も白虎隊も、今から四階に突入するって連絡が最後だ。だから今、四階で戦ってるってことなのかな……」
「結構だ」
ピッチを再び源子化した霞冴を、宮希はまっすぐ見つめる。
「作戦は分かっているな? 三階から上がってくる途中で話した通りだ。オレは行けばもう引くわけには行かない。そんなオレは秒殺確実の状態だ。……わかるな? オレを死なせたくなきゃ、お前は絶対に死ぬな」
「まかせてよ」
霞冴は強く頷いた。宮希を死なせたくない気持ちなら、誰にも負けない。
「宮希こそ、初手でぬからないでよ」
「誰に物を言っている」
霞冴は思わず口元を緩めた。こうでなければ調子が狂ってしまう。
宮希がジャケットのポケットに手を差し入れた。ピッチが入っているのはズボンのポケットの方だ。指先で固い感触を確かめた宮希のアイコンタクトを受け、霞冴は階段口へと踏み出した。
***
その光景は、作戦会議時には可能性としてあげられていたものの、霞冴の念頭からは消えかけていたものだった。対して、最悪の事態を想定すべく盲信はしていなかったが、その線が濃厚と踏んでいた宮希にとっては、「やはりな」と言わしめす内装だった。
チエアリのアジト、五階。この部屋に、上り階段はない。予測通り、ここが最上階なのだ。
これまでの部屋の四倍の面積を誇り、形は扇状ではなく正円。上ってきた階段の真反対に同様の階段が見え、左右にも同じく。つまり、東西南北全ての階段からつながっているのが、四階までの壁が取り払われたこのフロアというわけである。
目立った装飾や意匠のない大部屋には、黒猫の姿は一つもなかった。その代わりに、東と南の階段の間、つまり霞冴と宮希が上ったばかりの北階段から見てほぼ反対側の壁際に、「長男様」と思しき姿が見えた。
背を向けてたたずむその姿に、霞冴は絶句した。それは宮希の予想をも上回るものだったが、彼は冷静に作戦を遂行した。
「ついたぞ、最上階」
「ずいぶん早かったのだね、最高司令官。待ちくたびれ――」
悪夢の夜に、そして少し前にもピッチ越しで聞いた声。宣戦布告をしてきたチエアリに間違いない彼は、相変わらずきざったらしい口調で言いながら振り向き、つとその言葉を止めた。黒い視線の先、カーキ色の少年が、左手に持ったものを突き出してチエアリをにらみつけていた。
それは、おおよそ武器の形をしていなかった。剣でも弓でもなく、殺傷力のかけらもないそれは、薄い手のひらサイズのデバイス。
スマホだ。
だが、これこそが、このタイミングで切るべき最大の切り札だった
「早いだろう。急いだからな」
そう答えると、宮希はおもむろにスマホを一度だけタップしてしまいこんだ。チエアリからは目を離さないまま、平静に告げる。
「これで今の会話は情報管理局から市民に拡散される。オレが逃げも隠れもせずに、生のお前と対面したことが、証明、された……な……」
精神力でそこまで言い切ると、宮希はガクンと膝を折った。崩れ落ちかけたところを、霞冴に支えられ、ゆっくりと座り込む。階段を上がっただけで、また症状が重くぶり返してきたのだ。
だが、彼の不意打ちは文句なしに成功した。
最上階への到着を宣言し、それに対するチエアリの返答、さらにそれに答える形の宮希の声をスマホに通す。そしてそれを、前もってアポイントメントをとっていた情報管理局に流し、そこから市民に届ける。この初手こそが、フィライン・エデンの住民の支持を集め、負の感情を取り払ってチエアリ軍の強化を食い止めるのに大きく貢献するのだ。
宮希の言動だけで、チエアリはその作戦を見抜いていたようで、彼はしきりに「なるほどね」とうなずいた。
「しかし、一般の住人達には見栄を張っていたが、限界のようだね。どうやら、この勝負、私の勝ちのようだ。そんな状態では、私と一騎打ちなどできまいよ」
「……ん……っ」
言い返そうと口を開く宮希だが、声を出すのもつらいらしく、ただ相手をにらみつけるだけに終わる。霞冴はその様子をちらと見た後、「長男様」に向き直り、できるかぎりの敵意を込めて言い放った。
「勝負だなんて、回りくどいことをするんだね」
「ただの戯れではない約束ありきの遊びは、高等動物の特権だからね。この世界は人間ならざる動物が人間以上の存在になる場所。人間はただでさえ高等だ。英知人として考え、工作人として道具を作り、そして遊戯人として遊ぶ。そんな高等な人間以上の存在となる我々が遊ぶのは当然だと思わんかね」
芝居がかったしぐさで熱弁するチエアリに、霞冴は嫌味をいっぱいに詰め込んだ言葉を放った。
「人間、人間ね。キミが言うと説得力があるね」
霞冴の皮肉に、彼は激昂することもなかった。ただ、両手の手のひらを天井に向けて肩をすくめ、それらを白衣のポケットに突っ込んだだけだ。
――彼は、白衣を着ていた。博識の権化のようなそれを身にまとい、黒髪をオールバックにした、三十代くらいの痩せた男の姿をしていた。
人間の姿をとる能力。それは、通常の猫たちにとって当たり前ながら、よもやチエアリが持っているとは思わなかった盲点だった。
当初は驚愕した霞冴だが、逆に能力がその程度であったことを僥倖と捉えなおしてさらに挑発した。
「約束ありきの遊びにこだわる割に、反則したんだ。勝敗が決まるどころか、私たちが突入する前に御里山を爆破して大きな被害を出した。今だって、毒の粉を放出して町の空気を汚染しようとしてる」
「おや、君たちが来るまで外に被害を出さないとは言っていないよ」
筋は通っている。むっと口をつぐむ霞冴に、したり顔のチエアリ。だが、霞冴も言い負けしない。
「だとしても、まだキミの勝ちとは決まってないよ。キミは、初日の出とともに焼け野原にするって言ったんだ。初日の出がデッドラインなら、それまでに宮希がキミに勝てばいいんでしょ?」
正論に正論で返した霞冴に、チエアリは心外そうに目を見開いた。
「ふむ、確かに。君の言う通り、まだ決着はついていないようだ。では、勝敗はお預けだ。だが、毒の粉は止めないでおこう。別にルール違反でもないしね? そして、瀕死の最高司令官が一騎打ちを申し出てくれるまで、君をなぶるのも……反則ではない!」
チエアリが手を突き出した。黒い小さな前足ではない、骨ばった五本指の大きな手。そこから、大量の星飛礫が放たれ、逃げ場を残さないよう広範囲から霞冴と宮希を襲う。
霞冴は両手の手のひらを前に向けて結界を張り、星粒のごとき散弾をやりすごすと、両腰の刀を抜いた。
――対峙したら、まずは対話する。ヤツはおそらくおしゃべりだ。発言の中から行動パターンのヒントをつかめるかもしれない。
宮希の作戦に含まれていたそのプランを、霞冴は時間稼ぎもかねて実行していた。東西南北の階段のいずれもここに到達するのだとわかってからすぐ、仲間の応援が期待できることに懸けていたのだ。
(でも、もう時間稼ぎも終わりみたいだ……!)
できれば、分があるとは言えない戦闘は先延ばしにしたかったが、すでに火ぶたは切られた。左右に刀を携えた霞冴は、全力でチエアリに肉薄した。
左の刀で胸元を狙って袈裟懸けに斬りかかり、追って右の白刃が左上に向かって走る。再び左、と見せかけて右の刃を返し、首を落とすつもりで水平に振り抜く。初手の連続技は、巧みにバックステップするチエアリにかわされた。その後も身を翻して次々に斬撃を重ねていくが、どれもあと少しのところで避けられてしまう。
手練れの霞冴がこうもダメージを与えあぐねている理由は一つ。度重なる戦闘による過度の疲労だ。
通常の剣術よりも腕力を使わない流派の剣と言えど、多からずとも使っているのは確かで、速度が格段に落ちているのがわかる。足さばきはその倍だ。手首の返しも甘くなってきており、思うように切り返せない。そんな自分の状態をわかっているからこその焦りが、技の多様性まで奪っていく。
チエアリは、そんな霞冴の体調も焦心も、手に取るように把握していた。だから余裕の笑みを崩さない。いくら回避が辛かろうと、そうする度に霞冴の疲労も焦慮も募っていくから。
霞冴は一度距離をとって息を整えた。体力も限界の上、焦燥が心臓を無駄に急かして、なかなか呼吸が戻らない。
チエアリは憫笑した。
「遅い、弱い、鈍い。そんなもので私を倒せると思っているのかね?」
「……っ」
「せいぜい瞬殺されないでくれたまえよ」
言うや否や、チエアリの両手に光る輪が現れた。頭囲より一回り大きなそれは、星術では飛輪と呼ばれる術だ。通常の猫はもう少し小さなものを飛ばして使うところ、彼はまるで輪状の武器・チャクラムのように手にしている。源子の扱いの自由自在さは、さすがチエアリといったところだ。
彼は嗜虐的な笑みを浮かべると、一直線に距離を詰め、光の輪を刃物に見立てて薙いだ。かろうじて刀で受け止めるが、押し返すには至らない。
「く……っ」
力で負ける、と霞冴は体をさばいて飛輪を受け流した。横から攻撃を加えるものの、もう片方の飛輪に防がれ、その重みによろめく。
ただ飛んでくる攻撃とは違う。助走に加えて、接触後も腕力による力が上乗せされる。しかも、相手は霞冴よりずっと長身の大人の男のなりだ。通常のチエアリならばありえなかった戦術。人間の姿を持つ能力の恐ろしさを、遅きに失して理解した。
どんどん部屋の中心から壁のほうへ追いやられていく霞冴を、飛輪を振りかざしながらチエアリが嘲笑する。
「私はほかのきょうだいたちに比べて、源子による攻撃も耐久力も並みだ。だが、人間の形をとれる、人間の力を振るうことができる……それだけで大変大きなアドバンテージなのだよ。貧弱な前足では生み出せないこの腕力しかり。そして……脚力しかり」
ぱっと開いた距離。それを好機に攻撃に転じようとした霞冴は、その距離を伸びてきた足が一瞬で詰めてくるのに対応しきれなかった。
重い衝撃、胸骨がきしむ音。心臓の動きが脈一つ分乱れた気がした。
硬い靴底に胸の真ん中を強打され、霞冴は後方に吹き飛ばされた末、宮希より三メートルほど西の壁に激突した。さすがに刀を握ってはいられず、胸を押さえてうずくまる。呼吸困難になりかけている上、まだ何度かに一回、脈が飛んでいるような感覚がある。
そこへ歩み寄っていくチエアリを見て、宮希はたまらず壁に手をついて立ち上がった。
「時尼……!」
彼は渾身の力で手に光をともした。右手に弓を、左手に矢を出現させ、震える腕でつがえる。詠唱する体力もないが、威力はさしてなくていい。ただ、霞冴が逃げる隙さえ作れれば――。
すでに体で覚えている射法は、この極限状態でも自動的に動きを射出まで運んでくれる。痛覚と息苦しさを押しのけ、一連の流れを決まった形で再生する。
だが、身にしみ込んだ型の、ある種の融通の利かなさが致命的だった。
矢をつがえた後、すぐに引かずに両腕を一度頭上に持ち上げる、打ち起こしの動作。いつもより緩慢なその動作の隙に、チエアリに接近された。走ったわけでも跳んだわけでもないのに、上背のある彼は長い足で一気に歩み寄ってくる。戦慄するが、手遅れだった。
矢じりも臆さず、チエアリが宮希の胸ぐらをつかみ上げる。その無防備なみぞおちに、鋭い膝蹴りが突き刺さった。
「……ぁ……ッ」
手を離されると同時、抵抗の余地もなくドサリと崩れ落ちる。全身が硬直した。あるいは、完全に弛緩した。もはやどちらなのかもわからないが、とにかく手足すら動かせなかった。
チエアリは、朦朧とする宮希のセーラーカラーをつかみ、ぐったりとした体を引っ張り起こした。
「よく考えれば、一騎打ちの定義とは、一対一で戦うということだね?」
「……はぁっ……けほッ……」
「それさえ守れば条件を満たすのなら、君がどんな状態だろうと、私と君が一対一になれば成り立つわけだ。……今もね?」
離れたところでその言葉を聞いていた霞冴が、這いつくばりながらかすれた声を荒らげた。
「やめろ……宮希に、手を出すな……!」
「外野は黙っていたまえよ。言っただろう、一騎打ちだ。……さて、どうやって殺してあげようかね? これ以上苦しまないように、一撃で死ねるところがいいか。そのためにはどこをやればいいと思う? 心臓か? こめかみか?」
襟をつかむ手と反対の人指し指が、宮希の左胸、次いで左の耳の上をポイントする。その間も抵抗一つできずに浅く喘ぎ続ける宮希を、チエアリは含み笑いを浮かべて見下ろした。
「答えられないか? それとも知らないのかな? 一つの正解は、延髄だ。ここは呼吸中枢が収められていてね。早い話、ここを損傷すると呼吸が止まる。肺にも横隔膜にも異常はないのに、ね」
くっくと笑い、ピストルの形にした指がすっと動く。
「では、そのためにはどこを撃てばいいか? 首の後ろからでもいいが、口の中のほうが手っ取り早いかな。喉に向けて撃てばちょうど破壊できる位置だからね」
耳障りな講和とともに、指先の銃口が、半開きのまま酸素を求め続ける宮希の口の中へ向けられた。口腔に触れるか触れないかという距離で、源子を前装式に装填していく。霞冴の悲鳴さえ楽しみながら、愉悦に口元をゆがませて。
「さらばだ、希兵隊。下等な分際で、そこそこあがけたのではないかな」
どこまでも傲岸な声が、崖から突き落とすように別れを告げる。集まった源子が、指先で一番星のごとくチカリと瞬いた。
「はあッ、はッ……ぁ、はぁ……」
残された力を全て、呼吸につぎ込む。生きるための呼吸、それをするためだけに生きているかのように。
死に物狂いの戦いとは、終わって初めて実感するものなのだと知った。戦っている間は、死も狂気も何も頭に浮かばないし、感じない。ただ無心に戦って戦って戦い抜いて、ようやく敵と呼べるものがいなくなった後、自分は死の淵のギリギリで活劇を演じていたのだと気づく。しかし、いくらさっきまでの自分が死に瀕していようと、現在進行形で死ぬほど息が苦しかろうと、それを考えられるだけ幸いだろう。
つまり、今自分は生きているということだからだ。
四階に足を踏み入れた霞冴は、一列に並んで待ち構えていた十体のクロから一斉に乱暴な挨拶をかまされた。不可避の攻撃を何とかしのいで否応なく開戦、宮希に被害を及ぼすまいと鬼神のごとく乱闘した末、見事一騎当千を果たしたものの、体力はすでに底をつきかけていた。何せ、チエアリ戦からダーク戦を経てここに至るまでの間、一度も麒麟隊の恩恵を受けていないのだ。疲れ果てているところにこの奇襲とあって、相手がクロだったといえども、消耗は激しかった。
膝をつき、焼け付く喉で激しい呼吸を続けていた霞冴は、やっと呼吸以外の動きができるだけの体力を取り戻すと、一度だけつばを飲み込んで、よろよろと立ち上がった。
両刀を納め、すぐに向かったのは下り階段横の壁際。片膝を抱え込んでうずくまる宮希へと歩み寄ると、伏せた顔をうずめる腕の中から、苦痛をこらえるかすれたうめきが聞こえた。三階を後にして霞冴がクロを掃討するまで、時間はそうたっていない。回復から悪化までのスパンが、どんどん短くなっていた。
「宮希、大丈夫?」
「……っ」
「お腹のところ、痛い?」
「痛いし……気持ち、悪い……」
うずくまったまま、吐き気をこらえるように浅く咳き込む。体の中心から入れられた分、毒の回りが早いのだろう。
霞冴は宮希の体を無理のないように起こすと、上下する胸に手を当てた。そこにほのかな光がともると、少しだけ彼の表情が穏やかになった。
「つらいところがあったら言ってね。優先して治すから」
宮希が目を閉じたまま無言でうなずく。治す、と言っても、これは彼自身の抵抗力を促しているだけだ。毒が回り続けている現状、そろそろ限界が近い。早く薬を投与して休ませないと、どんどん衰弱していってしまう。
当初の計画では、五階までのぼりつめてチエアリに遭遇しなかった隊は、一度地上に戻って塔の他の方角を手伝う手はずになっていた。だが、低層棟が封じられた以上、それもできなくなった。北棟は、霞冴と宮希で攻略するしかない。
もし、北棟の最上階にチエアリがいた場合は――。
「――……」
霞冴の心臓がどす黒い手につかまれる。ざっと冷や汗が出て、頭の中がフリーズした。危うく治療の手が止まりそうになった霞冴を、やっと出るようになった声が呼ぶ。
「……時尼……」
「あ、はいっ。どうしたの? どこが痛い?」
不安を気取られたくないのと、上の空だったことを咎められたくないので、慌てて平静を装って問いかける。
宮希は、弱々しいながらしっかりと霞冴を見上げて言った。
「お前は……出来の悪い部下などではないよ」
「え……」
予想の斜め上どころか、全く別方向の言葉をかけられ、霞冴は戸惑った。その間にも、宮希は続ける。
「仕事は早くなったし、周りの気遣いもできる。言葉を交わさなくとも仲間と息を合わせられるし、護衛官など役不足な戦闘力。……オレが保証してやる。お前は上出来だ。だから……これからは、もっと自信を持って生きていいんだ」
霞冴は呼吸すら止めて絶句した。なぜ、これからのことを言い預けるかのように伝えるのか。まるで暇乞いのような――。
その言葉で、霞冴を取り巻いていた重苦しい靄は消え去った。
弱気になっている場合ではない。もし自分が倒れたら、誰が宮希を守るのか。それより、あの大胆不敵な茄谷宮希に、こんな弱音を吐かせてなるものか。
霞冴は治療する手と反対側で、宮希の手を握った。
「そんな遺言みたいなこと言わないで」
「時尼……」
「キミは私と一緒に帰るの。生きて帰って、私にお誕生日おめでとうって言ってくれるんでしょう。大丈夫、全部倒して外に出たら、すぐに麒麟隊のところへ連れてってあげるから。だから……キミは、最高司令官のキミだけは、希望を捨てないで」
宮希は息を詰めて霞冴の言葉に聞き入っていた。一言一言の響きの余韻にまで耳を傾けるようにしばらく黙っていた彼は、ほんのわずかに微笑んだ。
「……そう、だな。悪い……弱っているせいで、ネガティブになっていたな……」
そう言うと、彼は切り替えるように深呼吸して、ゆっくり体勢を動かした。
「大丈夫……?」
「ああ……もう立てる。助かった」
「もう少し休んだ方が……」
「休んでいても毒は抜けない。それに……分かっているだろう。オレは早く行かなければならない」
宮希がチエアリのボスと対峙しないと、勝負に敗れることになる。さらに、毒の放出が止まらないままになる。
ボスは正々堂々ルールを守る気など毛頭ないだろうが、それはこちらも望むところだ。もとより全滅させる算段なのだから。そして、ボスとの対峙こそが、市民の負の感情を断ち切る一手になる。
「次はいよいよ五階だ。局長の読みが正しければ、次が最上階。そこに、四分の一の確率で……いや、計算しても机上の空論か。『長男様』とやらがいるかもしれないし、いないかもしれない」
これまでもこちらの想定を上回ってきたチエアリだ。計算を信じ込むのは愚行だろう。
「本来なら、他の執行部員を伴っていくべきだが、もうそれも封じ手だしな。……一応確認しておくと、今、朱雀隊は……」
一度言葉が切れた。息が上がっているせいだと気づいて、霞冴は宮希の手がポケットのピッチへ伸びる前に「いいよ」と制した。代わりに、源子化していた自分のそれを再構成して手に取る。画面に、各隊からの一斉送信が未読のまま表示された。
「……朱雀隊も青龍隊も白虎隊も、今から四階に突入するって連絡が最後だ。だから今、四階で戦ってるってことなのかな……」
「結構だ」
ピッチを再び源子化した霞冴を、宮希はまっすぐ見つめる。
「作戦は分かっているな? 三階から上がってくる途中で話した通りだ。オレは行けばもう引くわけには行かない。そんなオレは秒殺確実の状態だ。……わかるな? オレを死なせたくなきゃ、お前は絶対に死ぬな」
「まかせてよ」
霞冴は強く頷いた。宮希を死なせたくない気持ちなら、誰にも負けない。
「宮希こそ、初手でぬからないでよ」
「誰に物を言っている」
霞冴は思わず口元を緩めた。こうでなければ調子が狂ってしまう。
宮希がジャケットのポケットに手を差し入れた。ピッチが入っているのはズボンのポケットの方だ。指先で固い感触を確かめた宮希のアイコンタクトを受け、霞冴は階段口へと踏み出した。
***
その光景は、作戦会議時には可能性としてあげられていたものの、霞冴の念頭からは消えかけていたものだった。対して、最悪の事態を想定すべく盲信はしていなかったが、その線が濃厚と踏んでいた宮希にとっては、「やはりな」と言わしめす内装だった。
チエアリのアジト、五階。この部屋に、上り階段はない。予測通り、ここが最上階なのだ。
これまでの部屋の四倍の面積を誇り、形は扇状ではなく正円。上ってきた階段の真反対に同様の階段が見え、左右にも同じく。つまり、東西南北全ての階段からつながっているのが、四階までの壁が取り払われたこのフロアというわけである。
目立った装飾や意匠のない大部屋には、黒猫の姿は一つもなかった。その代わりに、東と南の階段の間、つまり霞冴と宮希が上ったばかりの北階段から見てほぼ反対側の壁際に、「長男様」と思しき姿が見えた。
背を向けてたたずむその姿に、霞冴は絶句した。それは宮希の予想をも上回るものだったが、彼は冷静に作戦を遂行した。
「ついたぞ、最上階」
「ずいぶん早かったのだね、最高司令官。待ちくたびれ――」
悪夢の夜に、そして少し前にもピッチ越しで聞いた声。宣戦布告をしてきたチエアリに間違いない彼は、相変わらずきざったらしい口調で言いながら振り向き、つとその言葉を止めた。黒い視線の先、カーキ色の少年が、左手に持ったものを突き出してチエアリをにらみつけていた。
それは、おおよそ武器の形をしていなかった。剣でも弓でもなく、殺傷力のかけらもないそれは、薄い手のひらサイズのデバイス。
スマホだ。
だが、これこそが、このタイミングで切るべき最大の切り札だった
「早いだろう。急いだからな」
そう答えると、宮希はおもむろにスマホを一度だけタップしてしまいこんだ。チエアリからは目を離さないまま、平静に告げる。
「これで今の会話は情報管理局から市民に拡散される。オレが逃げも隠れもせずに、生のお前と対面したことが、証明、された……な……」
精神力でそこまで言い切ると、宮希はガクンと膝を折った。崩れ落ちかけたところを、霞冴に支えられ、ゆっくりと座り込む。階段を上がっただけで、また症状が重くぶり返してきたのだ。
だが、彼の不意打ちは文句なしに成功した。
最上階への到着を宣言し、それに対するチエアリの返答、さらにそれに答える形の宮希の声をスマホに通す。そしてそれを、前もってアポイントメントをとっていた情報管理局に流し、そこから市民に届ける。この初手こそが、フィライン・エデンの住民の支持を集め、負の感情を取り払ってチエアリ軍の強化を食い止めるのに大きく貢献するのだ。
宮希の言動だけで、チエアリはその作戦を見抜いていたようで、彼はしきりに「なるほどね」とうなずいた。
「しかし、一般の住人達には見栄を張っていたが、限界のようだね。どうやら、この勝負、私の勝ちのようだ。そんな状態では、私と一騎打ちなどできまいよ」
「……ん……っ」
言い返そうと口を開く宮希だが、声を出すのもつらいらしく、ただ相手をにらみつけるだけに終わる。霞冴はその様子をちらと見た後、「長男様」に向き直り、できるかぎりの敵意を込めて言い放った。
「勝負だなんて、回りくどいことをするんだね」
「ただの戯れではない約束ありきの遊びは、高等動物の特権だからね。この世界は人間ならざる動物が人間以上の存在になる場所。人間はただでさえ高等だ。英知人として考え、工作人として道具を作り、そして遊戯人として遊ぶ。そんな高等な人間以上の存在となる我々が遊ぶのは当然だと思わんかね」
芝居がかったしぐさで熱弁するチエアリに、霞冴は嫌味をいっぱいに詰め込んだ言葉を放った。
「人間、人間ね。キミが言うと説得力があるね」
霞冴の皮肉に、彼は激昂することもなかった。ただ、両手の手のひらを天井に向けて肩をすくめ、それらを白衣のポケットに突っ込んだだけだ。
――彼は、白衣を着ていた。博識の権化のようなそれを身にまとい、黒髪をオールバックにした、三十代くらいの痩せた男の姿をしていた。
人間の姿をとる能力。それは、通常の猫たちにとって当たり前ながら、よもやチエアリが持っているとは思わなかった盲点だった。
当初は驚愕した霞冴だが、逆に能力がその程度であったことを僥倖と捉えなおしてさらに挑発した。
「約束ありきの遊びにこだわる割に、反則したんだ。勝敗が決まるどころか、私たちが突入する前に御里山を爆破して大きな被害を出した。今だって、毒の粉を放出して町の空気を汚染しようとしてる」
「おや、君たちが来るまで外に被害を出さないとは言っていないよ」
筋は通っている。むっと口をつぐむ霞冴に、したり顔のチエアリ。だが、霞冴も言い負けしない。
「だとしても、まだキミの勝ちとは決まってないよ。キミは、初日の出とともに焼け野原にするって言ったんだ。初日の出がデッドラインなら、それまでに宮希がキミに勝てばいいんでしょ?」
正論に正論で返した霞冴に、チエアリは心外そうに目を見開いた。
「ふむ、確かに。君の言う通り、まだ決着はついていないようだ。では、勝敗はお預けだ。だが、毒の粉は止めないでおこう。別にルール違反でもないしね? そして、瀕死の最高司令官が一騎打ちを申し出てくれるまで、君をなぶるのも……反則ではない!」
チエアリが手を突き出した。黒い小さな前足ではない、骨ばった五本指の大きな手。そこから、大量の星飛礫が放たれ、逃げ場を残さないよう広範囲から霞冴と宮希を襲う。
霞冴は両手の手のひらを前に向けて結界を張り、星粒のごとき散弾をやりすごすと、両腰の刀を抜いた。
――対峙したら、まずは対話する。ヤツはおそらくおしゃべりだ。発言の中から行動パターンのヒントをつかめるかもしれない。
宮希の作戦に含まれていたそのプランを、霞冴は時間稼ぎもかねて実行していた。東西南北の階段のいずれもここに到達するのだとわかってからすぐ、仲間の応援が期待できることに懸けていたのだ。
(でも、もう時間稼ぎも終わりみたいだ……!)
できれば、分があるとは言えない戦闘は先延ばしにしたかったが、すでに火ぶたは切られた。左右に刀を携えた霞冴は、全力でチエアリに肉薄した。
左の刀で胸元を狙って袈裟懸けに斬りかかり、追って右の白刃が左上に向かって走る。再び左、と見せかけて右の刃を返し、首を落とすつもりで水平に振り抜く。初手の連続技は、巧みにバックステップするチエアリにかわされた。その後も身を翻して次々に斬撃を重ねていくが、どれもあと少しのところで避けられてしまう。
手練れの霞冴がこうもダメージを与えあぐねている理由は一つ。度重なる戦闘による過度の疲労だ。
通常の剣術よりも腕力を使わない流派の剣と言えど、多からずとも使っているのは確かで、速度が格段に落ちているのがわかる。足さばきはその倍だ。手首の返しも甘くなってきており、思うように切り返せない。そんな自分の状態をわかっているからこその焦りが、技の多様性まで奪っていく。
チエアリは、そんな霞冴の体調も焦心も、手に取るように把握していた。だから余裕の笑みを崩さない。いくら回避が辛かろうと、そうする度に霞冴の疲労も焦慮も募っていくから。
霞冴は一度距離をとって息を整えた。体力も限界の上、焦燥が心臓を無駄に急かして、なかなか呼吸が戻らない。
チエアリは憫笑した。
「遅い、弱い、鈍い。そんなもので私を倒せると思っているのかね?」
「……っ」
「せいぜい瞬殺されないでくれたまえよ」
言うや否や、チエアリの両手に光る輪が現れた。頭囲より一回り大きなそれは、星術では飛輪と呼ばれる術だ。通常の猫はもう少し小さなものを飛ばして使うところ、彼はまるで輪状の武器・チャクラムのように手にしている。源子の扱いの自由自在さは、さすがチエアリといったところだ。
彼は嗜虐的な笑みを浮かべると、一直線に距離を詰め、光の輪を刃物に見立てて薙いだ。かろうじて刀で受け止めるが、押し返すには至らない。
「く……っ」
力で負ける、と霞冴は体をさばいて飛輪を受け流した。横から攻撃を加えるものの、もう片方の飛輪に防がれ、その重みによろめく。
ただ飛んでくる攻撃とは違う。助走に加えて、接触後も腕力による力が上乗せされる。しかも、相手は霞冴よりずっと長身の大人の男のなりだ。通常のチエアリならばありえなかった戦術。人間の姿を持つ能力の恐ろしさを、遅きに失して理解した。
どんどん部屋の中心から壁のほうへ追いやられていく霞冴を、飛輪を振りかざしながらチエアリが嘲笑する。
「私はほかのきょうだいたちに比べて、源子による攻撃も耐久力も並みだ。だが、人間の形をとれる、人間の力を振るうことができる……それだけで大変大きなアドバンテージなのだよ。貧弱な前足では生み出せないこの腕力しかり。そして……脚力しかり」
ぱっと開いた距離。それを好機に攻撃に転じようとした霞冴は、その距離を伸びてきた足が一瞬で詰めてくるのに対応しきれなかった。
重い衝撃、胸骨がきしむ音。心臓の動きが脈一つ分乱れた気がした。
硬い靴底に胸の真ん中を強打され、霞冴は後方に吹き飛ばされた末、宮希より三メートルほど西の壁に激突した。さすがに刀を握ってはいられず、胸を押さえてうずくまる。呼吸困難になりかけている上、まだ何度かに一回、脈が飛んでいるような感覚がある。
そこへ歩み寄っていくチエアリを見て、宮希はたまらず壁に手をついて立ち上がった。
「時尼……!」
彼は渾身の力で手に光をともした。右手に弓を、左手に矢を出現させ、震える腕でつがえる。詠唱する体力もないが、威力はさしてなくていい。ただ、霞冴が逃げる隙さえ作れれば――。
すでに体で覚えている射法は、この極限状態でも自動的に動きを射出まで運んでくれる。痛覚と息苦しさを押しのけ、一連の流れを決まった形で再生する。
だが、身にしみ込んだ型の、ある種の融通の利かなさが致命的だった。
矢をつがえた後、すぐに引かずに両腕を一度頭上に持ち上げる、打ち起こしの動作。いつもより緩慢なその動作の隙に、チエアリに接近された。走ったわけでも跳んだわけでもないのに、上背のある彼は長い足で一気に歩み寄ってくる。戦慄するが、手遅れだった。
矢じりも臆さず、チエアリが宮希の胸ぐらをつかみ上げる。その無防備なみぞおちに、鋭い膝蹴りが突き刺さった。
「……ぁ……ッ」
手を離されると同時、抵抗の余地もなくドサリと崩れ落ちる。全身が硬直した。あるいは、完全に弛緩した。もはやどちらなのかもわからないが、とにかく手足すら動かせなかった。
チエアリは、朦朧とする宮希のセーラーカラーをつかみ、ぐったりとした体を引っ張り起こした。
「よく考えれば、一騎打ちの定義とは、一対一で戦うということだね?」
「……はぁっ……けほッ……」
「それさえ守れば条件を満たすのなら、君がどんな状態だろうと、私と君が一対一になれば成り立つわけだ。……今もね?」
離れたところでその言葉を聞いていた霞冴が、這いつくばりながらかすれた声を荒らげた。
「やめろ……宮希に、手を出すな……!」
「外野は黙っていたまえよ。言っただろう、一騎打ちだ。……さて、どうやって殺してあげようかね? これ以上苦しまないように、一撃で死ねるところがいいか。そのためにはどこをやればいいと思う? 心臓か? こめかみか?」
襟をつかむ手と反対の人指し指が、宮希の左胸、次いで左の耳の上をポイントする。その間も抵抗一つできずに浅く喘ぎ続ける宮希を、チエアリは含み笑いを浮かべて見下ろした。
「答えられないか? それとも知らないのかな? 一つの正解は、延髄だ。ここは呼吸中枢が収められていてね。早い話、ここを損傷すると呼吸が止まる。肺にも横隔膜にも異常はないのに、ね」
くっくと笑い、ピストルの形にした指がすっと動く。
「では、そのためにはどこを撃てばいいか? 首の後ろからでもいいが、口の中のほうが手っ取り早いかな。喉に向けて撃てばちょうど破壊できる位置だからね」
耳障りな講和とともに、指先の銃口が、半開きのまま酸素を求め続ける宮希の口の中へ向けられた。口腔に触れるか触れないかという距離で、源子を前装式に装填していく。霞冴の悲鳴さえ楽しみながら、愉悦に口元をゆがませて。
「さらばだ、希兵隊。下等な分際で、そこそこあがけたのではないかな」
どこまでも傲岸な声が、崖から突き落とすように別れを告げる。集まった源子が、指先で一番星のごとくチカリと瞬いた。
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