フィライン・エデン Ⅱ

夜市彼乃

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9.過去編

45一期一会と頬の色 ⑦

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 嘘のような静寂が広がる部屋。聞こえるのは、コウの荒い呼吸音だけだ。体力には他の追随を許さないほどの自信を持っていた彼だが、さすがに大量の源子、それも強奪されたものをさらに無理やり奪い返して使った上、叫び散らしながら全力で暴れまわったとあって、肺は血を吐きそうなほど痛み、心臓は今にも破裂しそうだった。
 それでも膝をつくことなく、立ったまま息を整えようとする中、喘鳴に交じって足音が部屋の空気を揺らした。
 うなだれていた頭を上げて振り返ると、歩み寄ってきていた波音がびくっと体を縮こまらせた。何か恐ろしいものに射すくめられたように、その顔は恐懼に染まっている。
 薄氷を踏むようにおっかなびっくり、呼びかける。
「こーちゃん……?」
 何をそんなに怯えるのか、といぶかしく思ったコウだが、すぐに合点がいった。チエアリの能力をも上回って源子を服従させたのだ。まとう威圧感は、並々ならぬ犯し難さだっただろう。もはや名残となった今も、仲間さえ恐怖させるほどに。
 コウは意識的に深呼吸し、努めていつも通りに応じた。
「ああ」
 意図したよりも低い声が出て、余計に畏縮させてしまうか、と懸念したが、波音はその一言に、まなざしに、自分の慕う先輩を見つけたらしい。ぱっと笑って、早足で近寄ってきた。
「こーちゃん、平気?」
「一応な。……悪い、怖かったか」
「うん……ちょっと。でも、やっぱり信じてた通りだった。こーちゃんは強いね。チエアリを一人で倒しちゃうなんて」
 憧憬の目で見られ、コウは居心地悪そうに視線をそらした。
「そうでもねえよ。運が良かっただけだ」
「運?」
「勝敗のカギは、源子を味方につけられるか否かだった。あの時、オレがいかに逆境に抗おうと、その姿勢が勇ましかろうと、その抵抗が全く歯が立たないものだったら、源子も見限っていたはずだ。あのチエアリの能力が、源子のコントロール権を奪うものだったとはいえ、こっちも少しは制御可能だったろ。そのわずかな源子でも反撃がかなったのは、オレが鋼猫だったからだ。体に鋼を宿すのは、源子で物質を構成しない分、少ないエネルギーで攻撃力を発揮できる術だから……オレはそれができる猫種だったから。そのおかげで、逆転の可能性を見せつけることができて、ほかの源子もオレに傾いてくれた」
 無論、それだけだったならば最初から勝てていた。前代未聞の能力におののき、焦燥にかられながら戦っていた当初の彼には、省エネルギーの術さえ使う資格はなかったのだろう。そこから源子を物質化できるまで巻き返せたのは、過去の誓いと今の仲間に奮い立たされたおかげだ。
 とはいえ、それだけでも勝てた保証はない。チエアリの能力、コウの猫種、そして土壇場の覚悟。全てがそろって初めて勝てたこの戦闘、運がよかったといわずして何と言おうか。次に別のチエアリと対峙したとしても、二度と一騎打ちなどしたくないものだ。
 身震いを体の内面で押しとどめたコウに、波音はあっけらかんと笑った。
「よくわかんないけど、こーちゃん、頭いいね!」
「よくわかんなかったのかよ。お前頭悪いな」
「ひどーい!」
 怒りを体現しようとして両腕を振り上げた波音は、突然、氷漬けにされたように固まった。どうした、と驚くコウの前で、青菜に塩でも振りかけられたようにふにゃふにゃとうずくまる。
「痛い……打ったとことか、攻撃当たったとことか……」
「大丈夫か? 緊張が解けたからだろうな。麒麟隊に来てもらうか」
 そう言って、ふと気づく。
 外で待機している麒麟隊は、レノンや慧斗が低層棟からも逃げ出していたら、その姿を目の当たりにしているだろう。止めるなりなんなりしてくれただろうか。何せ、これだけドンパチやっている間にも戻ってこなかったのだ。アジトの中で思い直したとは考えにくい。
 あるいは、今もみゅうが説得してくれているのだろうか。それにしては、時間がかかりすぎだ。コウと波音を死の危険にさらしながら、長々と話を続けるような愚行に走る人物とは思えない。けれど、それ以上に、彼女までレノンたちに寝返ったという説も考え難い。
 下り階段を見つめながら思案を巡らせていたコウの耳に、波音の声が突き刺さった。
「こ、こーちゃんっ!」
 ただならぬトーンに弾かれたように振り向くと、コウが思索にふけっている間にピッチを取り出していた波音が、蒼白になって告げた。
「三十分くらい前に連絡来てた……みやっくんから、低層棟に……毒が充満してるって……」
「何……!?」
 コウも急いで自分のピッチを手にする。確かに、宮希から一件、連絡が来ていた。戦闘の邪魔をしないようにという配慮でメール形式にしているが、それが裏目に出た。
「くそ、もっと早くに知っていれば……。隊長たちが出て行ったのもそれくらい前だろう。すでに毒が充満している時間に低層棟まで逃げたかもしれねえ。あの様子じゃ、ピッチなんて見てないだろうし……」
 きっと、必死に仲間を追う律儀な彼女だって。
 その考えに至った瞬間、コウは走り出していた。
「こ、こーちゃん!」
「お前はゆっくりでいい!」
 まだ上の階に敵がいる以上、そこで待っていろともいえない。妥協案を叫ぶと、コウはものすごい勢いで階段を駆け下りた。彼とて満身創痍だ。けれど、向こうは下手をすればそれどころではない。もし、戻ってこない理由が、逃げ延びたからでもみゅうにつかまったからでもなければ、が高いのだ。
 見捨てるつもりはないとはいえ、レノンも慧斗も自業自得という思いは拭い去れなかった。けれど、彼女には何の罪もないのだ。巻き添えになるいわれなどないはずなのだ。
(靭永……靭永だけでも……!)
 螺旋階段を滑り降りるように下り、二階に戻ってきたコウは、塔の半径先を見て愕然と立ちすくんだ。
 浅葱色。みゅうの髪の色。
 鮮やかなそれを地に這わせ、一階からの上り階段から投げ出されるように少女は倒れていた。
「靭永ぁッ!」
「……コウ君……?」
 コウが走りよる間に、みゅうが顔を上げ、腕の動きだけで数センチだけ這いずった。喘ぎながら、必死の声音で訴える。
「コウ君、下の……低層棟に来ちゃダメ。あの粉、毒……隊長も慧斗君も倒れて、きっともう……」
「ああ、ピッチに連絡が入ってた。悪い、オレが早くそれに気づいていれば……!」
「コウ君は……悪くないよ。わたしこそ、二人を置いてきて……ごめんね。連れ戻すって言ったのに……。でも、もしコウ君がチエアリに勝って、わたしたちを追ってきたら……。それに、約束したから……絶対に……戻ってくるって……」
 げほげほと咳き込むみゅうに、コウは胸を締め付けられた。
 ここは二階だ。毒を食らったのは棟の一階、さらにその前の低層棟だ。みゅうはそこに足を踏み入れ、毒に侵された後、自力で塔に戻り、階段口までたどり着き、さらに長い階段を這い上がってきたのだ。もはや体を起こすこともできない中、コウたちがいた三階まで戻るつもりだったのだろう。
 コウたちが降りてきて二の舞にならないよう伝えるために。逃げないという誓いを、三階でコウに果たすために。
 大和コウは逃げも負けもしない。その大前提を掲げ、命を削って帰ってきたみゅうに、彼は声を震わせた。
「わかった……わかったから、もうしゃべるな」
 髪や執行着に付着した紫色の粉が毒なのだろう。まずはそれを払ってやろうと、念のため自分の袖に手をうずめて、袂の布越しに背中をさっと一撫でして、
「ぃ……っ!」
 細い悲鳴に反射的に手を引っ込めた。遅れて、布越しに感じる生暖かい感触。
 血だ。
「っ……悪い、背中ケガしてたのか。先にそっちの止血を……」
 改めて見ると、背中には刃物で切られたような裂傷が走っていた。漆黒の執行着では、出血の色に気づかなかったのだろう。迂闊、と反省の色を示して、傷口を圧迫しつつ猫術で応急処置をしようと、再度袂の上から手を強く押し付けた。
 しかし、次の瞬間、肉がえぐれる音とさらに大きな悲鳴が、コウの心臓を冷水に突き落とした。
「え……」
 呆然とその光景を見る。
 傷は同じ箇所をなぞって切ったように深くなり、己の手からは、おびただしい血液が滴っている。明らかに、今の一連の行動でみゅうのケガは悪化した。
「ど……どうなって……」
「痛い……コウ君、なんで……」
 涙目で見上げてくるみゅうに、コウは銀髪を振り乱して必死に首を振った。
「ち、違う、そんなつもりじゃねえ。なんでひどくなって……」
 押さえ方が悪かったのか。いや、それならばなぜのか。
 そもそも、なぜみゅうはケガをしていたのか。
 最悪の予感が背筋を舐め上げた。震える手をよく見て……じっと注意を向けて、初めて気づいた。
 そこにあるのは、目には見えない刃物の切れ味だ。
「どういうことだよ……なんでまだ……!?」
 戦闘は終わった。源子への指示はもう出していない。なのに、右手も左手も、性質を鋼に変えたままだ。
 傷口を押さえたときにみゅうの背中をえぐったのはほかでもない。それどころか、もともとあったと錯覚した傷でさえ、最初に毒の粉を除こうとして背中を払ったときに――。
 ざっと顔から血が引いていく。その事実は、コウから平常心を奪い去った。
「や……やめろ、もういい、収まってくれ! このままじゃ靭永を介抱できねえ!」
 必死に源子に訴えかける。だが、どういうわけか切れ味は増していくばかりだ。そもそも、今まで気づかなかったこと自体が異常だ。無意識に術を発動し続けていたなど。
「コウ君……息が……げほっ、けほっ」
「……っ!」
 とっさに背中をさすってやろうと手を伸ばしかけて、止まる。今のコウには、それすらできない。床に落ちた粉を吸い込まないよう起こしてやることも、手を握ってやることも。
「痛い……背中、痛い……っ」
 涙を流し続けるみゅうに、コウはハッと思い至った。手を触れずとも、術を使えば何とか応急手当くらいはできる。それに気づくのさえ遅きに失したコウは、自らの尋常ならざる状態に恐慌しながらも、急いで背中の傷に手をかざした。触れないよう気を付けながら、得意とまではいかないが希兵隊として求められる程度には腕を上げた回復の純猫術を発動させる。
 ――純猫術、のはずなのに。
「ぁぐ……っ!」
「靭永!?」
 結果として残ったのは、先のとがったものに追い打ちをかけられたような悲惨な傷口。血が噴き出し、かざしたコウの手を真っ赤に染め上げる。まるで前後上下左右の感覚が反転したかのように、意思と行動が結びつかず、めちゃくちゃな結果を生む。
「いい加減にしてくれ……言うこと聞きやがれ! 回復を……純猫術を使わせろよ!」
 焦れば焦るほど、源子は血の気を盛んにしていく。源子を強引に翻弄したコウの激情の余熱が興奮の火種となり、激しい動揺さえ闘志と勘違いして、狂乱し、暴走する。
 思わず自分の腕をつかむと、鋭い痛みとともに執行着ごと皮膚が裂けた。並みの切れ味では傷つかない特製の布が、いともあっさりと負けた。
「頼む……頼むから、もうやめてくれ! 今必要なのは戦う力じゃねえんだよ!」
 声もなく、だんだん呼吸を細らせていく仲間を前に、強者を叫んだコウはなす術もなかった。床に両手をつけば、手のひらを中心に、細かい傷がまたたく間に床に奇妙な模様を広げていく。兢々きょうきょうとして体をのけぞらせ、無意識に頭を抱えようとすれば、こめかみが切れて血が飛び散る。考えるより先に己の腕をつかんでしまい、二の舞が赤く滴った。
「も、もういい! どっかへ行ってくれ! オ、オレは靭永を……助け、ないと……ッ!」
 気管が締まり、浅い息がせわしなく口と喉を行ったり来たりする。喘鳴が全力疾走する音だけが耳に届いた。みゅうのそれは、もう聞こえない。今すぐ心肺蘇生すれば助かるかもしれない命は、刃物の腕で胸骨圧迫でもしようものなら、あっさり吹き飛ぶだろう。
「はぁ、はっ……ぁ、はぁっ……」
 もう息の仕方もわからなくなっていた。吸っても吸っても、喉がひりつくだけで息苦しさが収まらない。みゅうを助ける方法を考えるなどもってのほかだ。思考を組み上げようとしても、土台の段階でばらばらと崩れ落ちていく。
 わかるのは一つ。
 何もできない。ただ、傷つけることしか。
 冷たい死へと至っていく仲間の前で、彼は絶叫した。焼ける肺としびれる脳。明滅する視界の中、自分の叫び声すら遠のいて――。
「こーちゃん!」
 白くかすむ意識の中で、やけに明瞭な声が聞こえた。甲高く幼い呼号。気が付いた時には、座り込んだコウの頭を、小さな腕が正面から抱き込んでいた。額に布越しの温度が伝わる。
「こーちゃん、落ち着いて」
 上から降ってくる声に、コウはさらに少しだけ覚醒した。波音だ、と気づく。自分のペースで降りてきた彼女が追いついたのだ――そこまで思い至って、ハッと肩に力が入る。
「ダメだ、離れろ、水鈴!」
 思わず彼女を引きはがしかけて、その行為こそが禁忌なのだと踏みとどまる。
 今の自分に仲間が触れるのがとてつもなく恐ろしかった。手で触れなくとも、自分を抱きしめる波音を何かの拍子に切りつけてしまうのではないか――そう思うと、呼吸がまた慌ただしくなる。
「や、やめろ、はぁっ、水鈴、危ねえから……っ」
「危なくないよ」
 波音の声は穏やかだった。いつもはしゃいでいる彼女の口からは聞いたことのない声音。彼女は、コウの頭の後ろに回していた手を、撫で下ろすように彼の背中にもっていき、そこでゆっくりとリズムを刻み始めた。とん、とん、と優しくたたかれる振動が、肩甲骨の間から心臓に届くようだ。
「大丈夫……大丈夫だよ、こーちゃん」
 まるで小さな子供をあやすようになだめる波音は、錯乱状態で源子を暴走させるコウを見ても、チエアリ討伐後の時のように恐れることはなかった。心技体そろって強者だったあの時とは違い、今のコウにはひとかけらの脆さを垣間見たから。
 甘く和やかな声と、一定間隔で背中をたたかれる感触に、コウの呼吸は徐々に深さを取り戻していった。ショート寸前の頭もその温度を下げていき、脈拍も正常域に戻る。
 波音が、汗のにじむコウの左手を取った。あっと思う間に、波音はコウの手を自分の肩に引き寄せ、鎖骨の辺りに押し当ててみせる。
 コウの手のひらに、執行着に密着する感触と、反作用で押し返してくる感覚が伝わった。布が裂ける音が聞こえることも、血の色が流れることもなかった。
 そんな当たり前のことに安堵して、コウは大きく息をついた。
「よしよし、いい子いい子……」
 いたわるように背中をさすった後、波音はゆっくりと体を離した。コウとしては、もうしばらくあの体勢でいたほうが、こんな憔悴しきった顔を見られずに済んだのだが、女の子に頭を抱きかかえられたままというのも体裁が悪い。それに、もう見られてしまったので後の祭りだ。
 彼らしからぬ弱った表情のコウと、それを安心させようと微笑む波音は、しばらく見つめあっていた。きっと自分がこんな顔をしている限り、動き出すことはできないだろう。そう悟って、コウは自身を揺らす最後の波を静め、乾いた声で告げた。
「……悪い。もう大丈夫だ」
「うん」
「……靭永は……」
 波音の体越しに、自分が前後不覚になる前に呼吸停止した仲間を覗き見る。彼女は動かないし、波音も返事をしない。ただ、視界を上から下へ、しずくが横切ったのを見て、コウは「……そうか」とだけ返した。
「ごめん……こーちゃん……こんなになったら、もうあたし達の術ではどうしようも……」
 ぱらぱらと降り注ぐ雨。こういう時、天を見上げてよいものか、コウには判断がつかなかった。
「だから、あたし……こーちゃんだけでも助けないとって思って……あのままじゃ、こーちゃん、自分を切っちゃうんじゃないかって……怖かった……っ」
「……そう、だな。オレも……そう思う」
 あるいは、その方がよかったのかもしれない――という心の声がよぎった。仲間を傷つけて見殺しにする屈辱を味わうくらいなら、いっそ。
 けれど、それはさらに多くのひとたちに対する裏切りだ。血迷った判断を下す前に引きとどめてくれたことこそ、一番の救いだったのだろう。
「水鈴」
 コウはゆっくりと立ち上がると、小さな少女を見下ろした。
「ありがとう。お前のおかげで、オレは重大な過ちを犯さずに済んだんだ。……でかい借りができてしまったな」
「ほんと? あたし、役に立てた?」
 まだ涙を浮かべながら、健気に明るい声を出して見せる波音に、コウは大きくうなずいた。すると、彼女は予想もしていなかった言葉を口にした。
「じゃあさ、あたしのお願い、聞いてくれる?」
「……は?」
 この状況で見返りを求めるのか、とコウは目をむいた。次いで、もしかしてと断りを入れる。
「言っとくけど……靭永を生き返らせろとか、そういうのは無理だぞ」
「こーちゃん、それはよくない冗談だよ?」
「……冗談なんかじゃねえよ」
 コウは声を落として斜め下に顔を向けた。
 こんな別れ方があってなるものか。瀕死の彼女に何一つしてやれず、あろうことか自身の猫術で深く傷つけた。彼女はコウに背を刺された痛みを最期の感覚として息を引き取ったのだ。もしも生き返らせることができるなら、迷わず実行している。そして、心の底から謝るのだ。
 傷を治す術はあっても、死んでしまった者を連れ戻す術はない。当然といえば当然のことなのに、それにさえ不条理を覚えて黙り込むコウの耳に、小さな、それでいて切実な願いが届いた。
「――あたしのこと、波音って呼んで」
 それは、さっき以上に想定外の言葉だった。
 入隊以来、ずっとねだっていたそれを、死地の真ん中で再び乞う。くだらないとつっぱねてきたその頼みを口にする彼女は、なぜこんなにも真摯な瞳をしているのか。
 その答えを、波音はうるんだ笑顔で告げた。
「名前で呼んでくれるだけで、あたしたちは他人じゃないんだって思えるの。一緒にこの塔を攻略する相棒としてそう呼んでくれたなら、きっとあたしは逃げずに立ち向かえるから。何度でもこーちゃんを助けて見せるから」
 その言葉は、コウに彼の知らない世界を見せるかのようだった。
 垂河村では息をするように友人を名前で呼んでいた彼は、上京して以来、飛壇でできた友や仲間をその中に加えることはなかった。本家に対する畏敬から、ルシルの従姉を例外的に名字で呼んでいた彼にとって、今となっては、名で呼ぶ相手はルシル一人となっていた。
 そこに他意などなかった。なかった――はずなのだが、無意識に距離をおいていなかったかといえば返答に窮する。知らず知らずのうちに、飛壇のひとびとに対して透明な壁を作っていなかった保証はない。少なくとも、目の前の少女がコウとの間の隔たりを感じていたのは確固たる事実だ。
 たかが呼び名で何が変わるのか。その一笑を寸断してしまう少女を、コウは知っている。呼び名一つに笑い、呼び名一つに泣き、悩み、努め、剣をふるうアリスブルーの彼女を、ルシルとともにずっと見てきた。
 家柄でなく、血筋でもなく、他でもないそのひとを指すためだけのたった一言。それが力を生むのなら。何かを変えるのなら。
 コウは数歩出て波音の横を通り過ぎると、こと切れた仲間のそばにしゃがみこんだ。ルシルや霞冴とともに同期であった彼女も、もしかしたらそんな願いを抱いていたのかもしれない。そうか否かは、永遠の闇に葬られてしまったが。
 目を閉じ、静かに手を合わせるコウに倣って波音も黙祷した。しばらく無言が流れた後、先に立ち上がったコウの声で、波音も基に直った。
「あの二人も……もう、諦めるしかねえ。靭永でさえこんな状態だったんだ。何より、オレたちまで低層棟に行くわけにはいかねえ」
「……うん」
 うつむく波音に背を向け、コウは上り階段へと歩み始めた。痛みを飲み込み、それさえ糧にして成し遂げるために。
「こんな戦い、もう終わらせてやろう。……いくぞ、
 後ろで息を詰める気配。いつも天真爛漫な彼女からは、いつまでたっても嬉しそうな返事はなかった。かわりに、駆け足の後、数歩後ろに寄り添う音だけが聞こえた。
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