フィライン・エデン Ⅱ

夜市彼乃

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9.過去編

45一期一会と頬の色 ⑤

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 目を丸くするルシルにも構わず前に向き直ると、メルはちょうどチエアリの背面に来る位置に立ち、両手を突き出した。口の中で小さく唱える。こんなか細い命令にも源子は忠実に応え、床から大きな木の壁がそそりたった。うとめを抱いたカヅチと、もう二メートルほどの距離となっていたチエアリとの間を隔てるように。
 チエアリはぴたりと足を止めた後、ゆっくりと振り向いた。
「何だよ……先にやられたいのか?」
 脅すように訊くチエアリ。ルシルならばここで何らか答えるところだろうが、メルは「質問には回答を」の公式を遵守するほど律義ではない。
「陰らせる手、薊色の罰、模倣せよ、届く深碧の柱、なかご投げ捨つりて切っ先を推し量れ」
「はっ、無視かよ!」
「翔けろ、瞬葉」
 メルの両手からほとばしる硬い葉の群れが、問答無用でチエアリへ襲いかかる。チエアリは、避けることなく受けて立った。
「ぬるいぜ!」
 怒涛の吹雪が迎え撃つ。チエアリの、そしてメルの数倍の高さまで広がりながら吠え狂う雪嵐は、向かってくる木の葉を凍らせながらメルへと押し寄せる。
 飲み込まれれば、立ってはいられないどころか気管さえ凝ってしまいそうな猛撃。しかし、メルは眉一つ動かさず、膝をつき、床に両手を押し当てた。
そびえろ、枢木くるるぎ
 再び現れた木の壁が、吹雪の前にはだかる。極寒の大風は音を立ててぶつかり、白い雪煙を飛び散らせた。
 壁の陰にしゃがみこんだメルの耳に、みしみしと木がきしむ音が届く。吹雪など、激しいものは木もなぎ倒す威力だ。押し負けてもおかしくはない。
 壁で割れた吹雪が左右に分かれて漂うのを見ながら、メルはひたすら身を隠した。吹雪が収まったら、すぐさま回り込んで術を飛ばせるように、指で刀印を作りながら。
 音がやんだ。風がやんだ。メルはさっと立ち上がった。
 ――その頭上に、羽をはやした黒い影。
「甘いぜ!」
 うとめより小ぶりの、その身に合った大きさの翼を携えたチエアリが、三メートルはある壁を越えてメルに両前足を向けていた。
 感情の読み取れない若草の目が上へ向けられる。直後、爆発が巻き起こった。もうもうと立ち込める煙を高みから見下ろすチエアリ――を、すかさず壁を回り込んだ彼女は背後から狙っていた。
 全て、狙い通りの道筋だ。
 吹雪の名残が残る床で滑らないように注意しながら、壁の裏を見下ろすチエアリの羽の付け根あたりに向かって手のひらを向ける。すでに準備していた草術を言霊とともに発動させ、鋭い葉の大軍を飛ばした。チエアリは振り返らない。
 小さな葉のやいばは無防備な背中に到達――することなく、空を切った。
「……と思うだろ?」
 後ろも見ずに左へ旋回したチエアリの横をすり抜けていく瞬葉。メルに勝ち誇ったような笑みを向けるチエアリは、すでにその手に風の刃を作り始めている。
 回避、とメルは飛び退ろうとした。が、意に反して足が動かない。見下ろせば、ちょうど自身が立っている床に、いつのまにか光る五芒星が描かれていた。紋様の直上全てを檻と成す星術、五針郭だ。
 壁を背にして下降しながら、正面から風を練るチエアリ。逃げようのない檻の獲物に狙いを定める。
 メルが突き出した手のひらから何が出るよりも早く、出来上がった鎌鼬を振りかぶった。ここまでくれば、彼女に防ぐすべはない。
「……と思うでしょう?」
 メルのささやきがチエアリに聞こえたかどうかは定かではない。だが、チエアリは目を見開いて動きを止めた。
 その背後で――みしみしと、木が倒れる音。
「う……うわあああ!?」
 枯れたか腐食したか、根元が変色した木の壁が、まっすぐにチエアリへと倒れてくる。チエアリは、すぐさま逃れようと翼を羽ばたかせた。苦し紛れに飛ばした鎌鼬は、明後日の方向へ飛んでいく。壁から十分に距離をとっていたメルは、そのまま直立不動で様子を眺めていた。
 ズン……と鈍い音を立てて地に伏す壁。黒猫の体は――辛くも壁の二センチ外に逃れていた。
「セ……セーフ……」
「……と思うだろう?」
 うつぶせに倒れていたチエアリは、背後からかけられた声に毛を逆立てた。振り返ると、刀を振り上げて跳躍した少女の瑠璃色と目が合った。
 慌てて態勢を整えようとして、チエアリはハッと自らの状態を振り返った。両手足とも健在だ。だが――しっぽの先端、たった十センチほどだが、体の一部といえる部分が壁の下に潜り込んでいた。
「ちょ、ちょ……!」
「残念だな、文字通りしっぽを巻いて逃げれば下敷きにならなかったものを」
「ま、待てぇっ!」
「待たん」
 手足をばたつかせるチエアリの頭部に切っ先を向けて、ルシルは重力に身を任せた。垂直に突き刺すように刀を振り下ろし、床まで突き刺す勢いで小ぶりの頭を貫こうとして――。
 結果、貫いたのは床だけだった。
「……と思うよなあ、普通」
 目を見開くルシルの脇で、意趣返しに意趣返しで返す声がした。間一髪で突きを避けたチエアリのしっぽは、少しばかり短くなり、先端から少しずつ黒い霧を漏らしている。
 ルシルがそちらを振り返った瞬間、手元で何かが砕ける音がした。チエアリの右手で操られた硬い木の腕が、刀を横から撃ち抜き、真ん中でへし折っていた。
「忘れたのか? 私たちの体はやられると消えるんだから、下敷きになったからって足枷にはならないんだ……よっ!」
 術中で呆然としていたルシルは、勢いよく放たれた輝く砲弾をもろに受けて床を転がった。それを目で追ったメルも同じものをお見舞いされ、ルシルと同じ方向に飛ばされる。
「ルシルちゃん、メルちゃんっ」
 カヅチがうとめを抱いたまま立ち上がって、二人に駆け寄った。どちらも起き上がるそぶりを見せたので、カヅチは安心しながらも、チエアリをにらみつけながら後輩たちとの間に立ちふさがった。
「どうしたどうした、そろいもそろって情けねえなあ! それだけボロボロなのに、私はまだ動ける状態だぞ!」
「く……っ」
 ルシルとメルがゆっくりと立ち上がる。チエアリはカヅチ越しに二人を見ると、表出と内面の不調和をあざ笑った。
「いい心意気だが……その顔じゃ、もう諦めたも同然だな」
 カヅチは思わず振り向いた。彼女らは、確かに立ち上がっていた。まだ戦う姿勢を見せていた。
 しかし、その目に希望は映していなかった。そこはかとない闇を見つめて、それが自分の向かう先なのだと悟った目つき。全力を尽くした渾身の攻撃さえ効かない相手が倒れる様など想像できない。なのに、チエアリの本気の一端で自分たちはあっさりと地を転がった。埋まらない隔たりが彼女らに見せるのは、絶望の一色だ。
 いつも勇敢なルシルも、常に動じないメルも、もはや自分たちの勝利を信じられてはいない。カヅチは言葉を失ったまま彼女らから視線を離すと、今度は腕の中に注いだ。応急手当は済んだものの、うとめはまだ動ける状態ではない。浅い呼吸の中、時折背中を震わせて、カヅチの袖に爪を立てている。彼女を見下ろしていたカヅチは、痛ましげに唇を引き結ぶと、一度だけまばたきをした。
 ――次の瞬間まみえた瞳は、まぶたが色を塗り替えたように別物だった。
「メルちゃん。うとめちゃんを頼んでいいかな」
「副隊長……?」
「ルシルちゃん、キミを先頭に、先に進みなさい。ここはボクが食い止める」
 ルシルは瞠目した。うとめを受け取るメルも同様だ。チエアリも目を見開くが、二人とは違い、興味深い展開に快哉を叫ぶような表情だ。
「し、しかし、副隊長もケガを……」
 うとめの手当てを優先したカヅチの胸元は、今も体を動かすたびに血を流している。傷は深くないとはいえ、戦闘に支障をきたすには十分だった。
 カヅチは無事な片方だけ肩をすくめると、いつものように目を細めて笑った。
「でも、現状、そうするしかないよねぇ?」
「そう……かもしれませんが……」
「ボクがどこまでもテキトーな男だと思ってるかい? まあ、基本テキトーなんだけどさ。でも……もしこの状況でまだテキトーするようなヤツだったとしたら、宮希君にはとっくに首を切られてるだろうね」
 後半にかけて低く冷えていく声に、ルシルはハッと息をのんだ。振り向いたカヅチの黒い瞳は、今まで一度も見たことのない静かな鋭さをたたえていた。その顔から朗色を消し、チエアリを見据えて彼は言う。
「青龍隊最年長者のプライドにかけて誓うよ。こいつを上の階へ行かせはしない。ルシルちゃん、メルちゃん、必ず最上階へたどりついて。そこに至るまでの敵は全部倒して、足りなかったら壁をぶち壊したっていい、この塔の中の邪悪を全て殲滅しておくれ」
 カヅチは自分の腰から刀を鞘ごと引き抜くと、丸腰となったルシルへ後ろ手に渡した。迷うルシルに、「ボクにとってはお荷物だから」と笑う。
 ルシルがおずおずと受け取ると、カヅチはその手を体の前で上向けた。手のひらから焔が躍り出る。チエアリは痛快そうな笑みとともに、右の前足で風を集め始めた。
 メルの腕の中で、うとめが身じろぎする。
「……っ」
「うとめちゃん、二人をよろしくね」
「……言質……取りましたからね……チエアリ、もし上がってきたら……帰ったら、容赦しない……っ」
「容赦しない仕打ちができるくらい元気になっておくれよ」
 横顔でふっと笑うと、向かってきた突風に爆炎をぶつけて、轟音とともに余波で風流をかき乱した。
「今だよ!」
 耳の奥に突き刺さる号令に、ルシルとメルは駆け出した。チエアリは猛烈な吹雪で炎を消しつつ、湯気の向こうを走る二つの人影に向かってつららを飛ばした。しかし、それも横から吹き荒れた熱風にあおられ、軌道をそれながら水となって形を崩していく。
 チエアリは短く悪態をつくと、階段を上る足音を追おうと走り出した。が、後を引く風の尾が湯気を払い、視界が開けても、どこにも階段は見えなかった。扇形の部屋の頂点付近、足音が消えていったはずの場所には、燃え盛る炎の壁が仁王立ちしているだけだ。
 一瞬だけ呆気にとられたチエアリは、その正面で悠然とたたずむ黒衣の青年に乾いた声を投げかけた。
「なあ。お前の部下……あの草猫だ、相当に源子の扱いがうまかったな。風猫のほうもだ、器用に飛ぶじゃないか。それに比べてお前は……」
「何かな、下手とでも?」
 無表情に淡々と返されたチエアリは不愉快そうに目をすがめた。
「……しらばっくれんな。あいつらに比べて……お前は規格外だ。一番ずばぬけてんだよ。源子への指示もそこそこに、あんな強力な爆発やら火炎放射やらを、しかも突発的に使いやがる」
 複雑な技ほど、そしてその威力を増すほど、詠言の必要性は高く、仮に威力を保持したまま詠言を破棄するなら、それなりの溜めが必要になる。源子に指示を出すというのは、シンプルな単一の念で行えるものではないのだ。
「……お前、何者だ?」
 この男には、何かある。そうにらんだチエアリの慎重な問いかけに、カヅチは皮肉るように笑って、くいと首をかしげて見せた。
「竈戸火槌カヅチ。学生時代に一生分の努力を使い果たして、そのぶん今は至極テキトーな男だよ。ま、テキトーになった後のほうが友達増えたし、結果オーライ、バッチグー」
 ふざけた返しをするカヅチに、チエアリは一瞬だけその瞳を激情に彩ったが、すぐに嘲笑した。
「ハッ、なんだ、ガリ勉かよ。それだけで私を倒せると思うなよ!」
 勝ち気に笑いながら、その背中に真っ白い源子をまとう。またたく間に翼が再構成された。
 初速を生み出す羽ばたきに右手を向けつつ、カヅチも笑い声で返した。
「あははー――一番嫌いな言葉だな」
 朗々たる声が場違いな目つきで、手のひらから大量の火の粒を乱れ撃つ。つま先をかすめて飛んでいく緋燐弾を眼下に、チエアリは大きく飛翔した。その後を追い、摂氏二〇〇〇度の散弾が仰角を上げる。カヅチの頭上を翔けるチエアリに次々と粒状の橙が飛来するが、チエアリはうとめに負けずとも劣らない翼さばきで巧みにかわしていく。
 緋燐弾をやり過ごしながらカヅチの上を飛び過ぎていくと、天使のような翼が不釣り合いな黒猫は高度を落とし、燃え盛る階段の前に舞い降りた。ホバリングしたまま、自由な両前足で冷気を蓄え、カヅチの宣誓をせせら笑う。
「青龍隊最年長者のプライドだっけか? 薄っぺらいもんだぜ、この壁みたいに……な!」
 黒い体の前に渦巻く極寒を、翼の羽ばたきが暴風雪に変えて炎の壁にぶつけた。たちまち白い煙が上がり、チエアリはにやりと口の端をつりあげる。
 が。
「なっ……!」
 一瞬で勢いを取り戻した目を焼くほどの赤に、チエアリはたじろいだ。その体を、横薙ぎの一閃が切り裂く。悲鳴を上げて羽を舞い散らしたチエアリは、体の側面から黒い霧を立ち昇らせながら床を滑っていった。
 手の延長線上に刃のような炎を携えたカヅチは、それを収めながらゆるゆると首を振る。
「ダメだよ、ここは通行止め。通したらうとめちゃんにドヤされるからね。そんなのマジ勘弁」
 立ち上がり、恨めしそうな目を向けてくるチエアリを、カヅチは睥睨する。炎と対極の温度の目で、手のひらを依然厳かに鎮座する烈火の壁へ向けて。
「そうだよ、この炎はボクのプライド。消せるものなら消してみな。ボクが息をしている限り、キミごときに破られるような薄っぺらい矜持じゃないと自負しているけどね」
「そうか……そうかよ! なら、その息止めてやるよ!」
 激しく声を荒らげると、チエアリの口元に急速に風が集結した。少女の声にそぐわぬ勇ましい叫声が上がると同時、竜巻を横倒しにしたような、細長い渦状の鎌鼬がカヅチを襲った。通常の鎌鼬よりも足の速い風の刃は、カヅチの左足があったところに激突した。どういう強度か、床は抉られはしたものの、穴が空くには至らなかった。鋭利な竜巻は緩やかに四散していく。
 それを見届けると、カヅチは再び足を狙って飛んできたつららを四本連続でかわした。五本目が不意打ちの心臓を狙ったのも見逃さない。しゃがんでやり過ごせる姿勢ではなかったので、とっさに手に宿した炎で溶かし消す。
 同時に反対の手で爆号を放つと、逃げそびれたチエアリは軽々と転がった。その機を逃さず刀印を向け、ここぞと言霊を唱えた。
「封ぜよ、煉獄!」
 チエアリの周りを火の手が囲い、逃げ道をふさぐ。たちまち燃え上がる檻に閉じ込められたチエアリだが、ひるむことなくその隙間から一直線の炎をさしむけた。槍のように飛んできたそれを難なくかわしたカヅチだが、次の瞬間、首に細長い冷感が走った。反射的にやった手の先に触れるのは、植物のつるの感覚。肌が粟立つと同時、気管がぐっと締まり、視界が明滅した。
「ぐ……っ」
 一秒を争う窮地に陥ったカヅチは、手放しかけた冷静さをかろうじてつかみ直し、首から伸びるつるを手さぐりにたどった。背後から左回りに巻きついているのを把握するや否や、頭部から少し離れたところで焼き切る。煙たさと引き換えに、辛くも絞首刑から逃れた。
 カヅチはガクンと膝を折ると、首に残ったつるの残骸をひっかき落とした。酸素を求めて喘ぎ、咳き込んでいた彼に、次なる攻撃をかわす余裕はなかった。否、その逼迫した状況から、凶器が忍び寄る足音さえ聞き落としていた。
 気づいたときには、座り込んだカヅチは四方八方から迫る風の刃に包囲されていた。
「終わりだよ、希兵隊」
 見開いたカヅチの目に、ほくそ笑む黒猫が映った。不可視のあぎとが窮鼠に迫る。まさに噛み殺されようというその寸前。
「――あァァッ!」
 言葉にすらなっていない絶叫。まして言霊の形でもないのに、彼の威光と命令の凄烈さに、源子はことごとく従い、連続して炎を炸裂させる。頭を垂れたカヅチの周囲で巻き起こった小規模の爆発は、もうもうと灰色の煙を生み出し、彼の体全体を隠した。
 チエアリは煙たそうに目を細めると、一瞬のうちに見えた技量に、心の底から感心の声を漏らした。
「たいしたもんだよ……向かってくる剣状の鎌鼬の先端を複数同時に爆破して吹き飛ばすなんて」
 言って、チエアリはふと、自分を囲う炎の檻が徐々に下火になっていくのを見た。飛び越えられる高さまで縮んだところで、ひょいと脱出する。
「十撃ったうちの七を撃ち落とすなんて、やっぱりお前はただ者じゃなかったな」
 返事は咳き込む声。そして、荒く繰り返される呼吸。
 やがて、煙が引くと、三か所に深い裂傷を負ったカヅチの姿があらわになった。背中、右腹部、左肩、いずれもひどい出血だ。カヅチを中心として、床が見る見るうちに赤く染め上がっていく。もぬけの殻となった煉獄は、次第に弱っていき、ついにその火の輝きを失った。
「やっと倒れてくれたか。お前の炎の術、厄介だったからなー。さて、それじゃあ邪魔な壁も消えた頃合いだし……」
 気楽な声で言って、先へ通してしまった二人を追ってやろうと階段へ向かいかけたチエアリは、愕然と足を止めた。
 階段の入り口は、変わらず燃えていた。炎の色も、勢いも、何もかもさっきのままだった。
 チエアリのないはずの全身の毛が逆立った。
 それは、戦慄。
 そもそも、猛吹雪でも消えない炎の壁を作り出すこと自体、上等なわざだ。それを戦闘中も絶やさなかっただけでも驚異的なのに、ここまで消耗しても燃やし続けるとくれば、恐ろしささえ感じる。違う、恐ろしいのは技量ではない。本当に恐るべきは、彼の執念だ。
 固唾をのむチエアリの耳に、カヅチの乾いた笑い声が届いた。源子をねじ伏せて無理やり従わせたあの絶叫の主と同一人物とは思えない、のんきで平和的な声色。
「なんだろなー……なんか昔のこと思い出しちゃったな。走馬灯ってやつかな。ボクとうとめちゃんだけだった青龍隊にルシルちゃんが入ってきてさ。バディからチームになった瞬間って感じで……三位一体ってやつ?」
 いきなり何を語りだしたのか、と身構えるチエアリに、カヅチは構わず咳き込みながら続ける。
「ルシルちゃん、優秀だったからさ。即戦力になってくれたし、今回の作戦でだって頼もしく働いてくれた。あの子がいなかったら青龍隊は破滅だったかもしれないって考えると、君臨者が伸ばしてくれた小さな恩寵の手だったってことかな」
 とたん、カヅチとチエアリを大きく囲んで炎が噴き上がった。チエアリは思わず背中を跳ねさせたが、熱さを感じる距離にすらない。ただ、何か仕掛けてくることは分かった。
「まだやるか!」
 慌てぎみに草術を使い、先が細った大ぶりの木の枝を飛ばす。黒い袂に覆われた両手を血の池につき、うつむいて座り込んだカヅチが、一秒とかからず到達する攻撃をしのげるはずもなかった。鋭くとがった枝は、右鎖骨と腹の真ん中に突き立った。
 がはっ、と息をつめたカヅチは、それでも浅い呼吸を取り戻すとなおも話し続ける。
「まあ……聞いてよ。うとめちゃんも……ゲホッ、しっかりしてて、頼れるんだけど、いかんせん怒ると怖いからねー……。ボクと一対一になったら、ボク、下手したら死へ歩んでたんじゃないかな。メルちゃんも……メルちゃんで、個性的でさ。最初は無言だし不動だしで、三人とも、どうすりゃいいんだって色を失ってたな。でも……ゲホ、今となっちゃ、ルシルちゃんと息ぴったりで……これからも、二人、仲良くしてほしいな」
 言葉を紡ぎ終えると、カヅチは「痛いなあ……」とぼやきながら、鎖骨と腹に刺さった木の枝をゆっくりと抜き取った。傷口から多量の血があふれ出る。さきほど周囲に現れた炎は、ゆらりと揺らめくと、ふいっと消えてしまった。
 ここまできても発狂だにしないカヅチに、チエアリは気味悪ささえ感じながら嫌味を口にした。
「遺言か? 私に伝えるより、血文字を残したほうがいいんじゃないか?」
「いやあ、見てよ、この血だまり。文字書ける状態じゃないじゃん。ボクだって……死にたくはなかったよ。本当は夢見るままに待ち至りって……逆転劇はここからだって言いたいんだけどさ。残念だなー……あー残念」
 さして残念そうでもない能天気な声で笑うと、カヅチは一度激しく咳き込んでから、憔悴しながらも笑みを含んだ視線をチエアリに向けた。
「あー……ごめんごめん」
「何がだよ」
「今のは余談なんだ。ボク、いっつも大事なことは二の次にしちゃうんだよね。そろそろ、本題入っていいかな」
「遺言の本題なんて知るかよ」
 つれなく吐き捨てたチエアリに、カヅチはふっと安心したように――見ようによっては不敵に笑うと、遠慮なく続きを口にした。
「――今再びせき成す時、咆哮と乱舞で紅蓮に祝福せよ」
 チエアリがぎょっと目を見開く。風景には何の変容もなかった。
 だが、肌でわかる。きっと、通常の猫にも感じ取れるであろう。まるで開戦間際の兵のように激しい、源子の尋常ならざる動き。
「バカな! この規模の動き、今の短い源子への命令でできるわけ……」
 あたりを見回したチエアリは、今までで一番の驚愕をあらわにした。
 カヅチが、ゆっくりと右手を持ち上げた。床についていた手は、長い袖で隠れてよく見えてはいなかったが、今、肩の高さで姿を現した人差し指と中指は、ぴんと伸ばしてそろえられ、第一関節までを赤く濡らしていた。
 刀刻。刀印の動きで字や模様を描くことで、源子への命令補助をする技法だ。そんなものに頼ることのないチエアリだが、ひ弱な猫たちが小癪にも考え出したその手の方法を知ってはいた。刀刻に限らないが、そのたぐいの補助術式は、猫術を強力にしたり、あるいはでも術を完成させたりする。
「まさか……さっきの御託の中に命令文を……!?」
「詠唱を使わないチエアリだからこそ、気づかなかったみたいだね。ボクが、隠れ蓑の余談の中で、詠唱に該当する単語の時だけ、刀刻で源子に合図していたこと」
 脂汗を流しながらも淡い笑みを浮かべて話していたカヅチが、その笑みを濃くした。
「さあ、チエアリといえど、この術は効くんじゃないかな? で恐縮だけどね」
 瞬間、二人の周りの――否、部屋全体の源子が一層激しく運動した。まだ何の形にもなっていない不可視の魂たちは、鬨の声を待ちきれない暴徒のように荒々しくうごめく。
 彼らが声を待ち望む主は、標的となる黒猫に最後に問いかけた。
「辞世の句は詠んだかな? ボクは詠んだよ。さっきね」
「チィッ……このッ――!」
 大きく舌打ちして、巨大なつららを四本顕現させるチエアリ。しかし、カヅチの声はどこまでも静かだ。
「遅いよ」
 チエアリの合図で、つららは一斉に飛来した。同時、カヅチは左の手のひらを勢いよく床にたたきつける。血だまりから赤いしずくが飛び散る中で、苦痛を押し殺して会心の笑みを浮かべると、カヅチは残った全ての力を込めて雄渾ゆうこん喊声かんせいを轟かせた。
「甦りて無彩に滅ぼせ――回天業火バックドラフトッ!」
 ――破滅は一瞬。閃光、爆音、超高温の炸裂。凄絶な震動が不壊の壁さえ揺るがした。一度姿を消していた炎たちが不死鳥のごとくよみがえり、増強された威力で破壊の限りを尽くす。
 殺戮を許容された爆風は、焔をまとって暴れ狂う。小さな黒猫も、術者本人も、その笑顔に浮かぶ少なからぬ心残りも、全てを吹き飛ばし、焼き尽くし、最後の命令通り、何もかもを無彩色に滅ぼした。


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