フィライン・エデン Ⅱ

夜市彼乃

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9.過去編

45一期一会と頬の色 ④

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***

 三階に足を踏み入れた青龍隊は、部屋の中央で待ち構えていた黒猫よりなにより、その内装に戦慄した。
 言うまでもなく、次の瞬間には全員、最凶の脅威に細心の注意を払った。しかし、なおも視界に入るが胸の中を不愉快にかき乱してくる。
「何だよ、お前ら。そんなに壁が気になるのか? 私を見ろって、私を」
 大人の気を引きたい子供のような顔で言うチエアリは、言葉遣いは乱暴ながら、十代前半ほどの少女の声だった。しっぽを不満そうに揺らす仕草も落ち着きがない。そんなプロフィールに似合うように、三方向の壁や天井が水玉模様に敷き詰められていたら、年相応で可愛げがあっただろう。
 だが、相手は虐殺の悪夢、チエアリである。確かに、部屋の中は味気ない木目の表面を、数えきれない丸が一定の間隔を空けながら散らばっている。けれど、それらは水玉模様ではない。
 目だ。
 ちょうどダークから抉り取ってきて飾ったかのような、手のひらほどの大きさの金色の目。黒目白目の区別もつかない正円だが、微妙な動きで視線が伝わってくる。壁に埋め込まれている風にも見えるが、凹凸はなく、どちらかといえば壁や天井に映像を投影しているかのような形になっていた。一つ一つが独立した意思を持っているかのごとく、虚空を見つめるものもあれば、希兵隊を監視しているものもある。そんな気味悪いフロアの主は、青年期あたりの嗜虐主義者のほうがよほど似つかわしい。無垢で活発な少女の振る舞いを見せるチエアリは、逆にある種狂気じみていた。
「うわキモッ……あれ、さっきも言ったな、これ。デジャヴ」
「軽口たたいてる場合じゃありませんよ、竈戸さん。この大量の目……何か仕掛けがあるに違いありません」
「まあなー。でも、何の仕掛けか言っちゃあおもしろくない。何かアクション起こしてみなよ。どっからでもどうぞ?」
 ルシルとメルの前に立つ二人を、チエアリは愉快そうに誘う。カヅチが苦笑した。
「明らかな挑発だね。先制する気なくなっちゃうなー」
「そうやって警戒するのもいいが、あだにならないといいな? 様子見って結局、後手に回ってるんだぜ!」
 ニッと勝気に笑うと、その口元から腕の長さほどあるつららが広範囲に向けて飛ばされた。
 めいめいの方向に回避した青龍隊一同だが、彼らの意識は一本線でつながっていた。示し合わせたとおり、まずうとめが言霊を唱えて素早くつむじ風を発生させる。チエアリを囲む形で発生したすり鉢状の渦巻く風は、小さな軽い体をあっという間に飲み込んだ。次はカヅチ、つむじ風の中に炎を放って無間地獄にしてやろうと踏み出す。万が一の取りこぼしのためのルシルとメルも身構えながら、カヅチの術の発動を見守っていた――が。
「なっ……!」
「これは……」
 風がやんだ。その軌道を遮る形で生えた三本の木の幹によって。目を疑った一瞬、術の発動が遅れ、カヅチは術の形にもなっていない炎を投げつけた。しかしそれも遅く、木に燃え移る直前、ハリウッド映画さながらのきわどいタイミングで、チエアリは脱出を成し遂げた。
 うとめとカヅチが思わず声を上げたのも無理はない。このチエアリは、
「このチエアリ、二種類の猫力を……!?」
 悔しげなうとめに含みのある一瞥をくれると、チエアリは心底楽しそうに、今度はルシルに目を向けた。
「てやぁ!」
 しっぽが大きく振られる。スイングの軌跡から飛び出したのは、光る無数の弾だ。光術よりも輝きの控えめな、星空からかき集めた粒をばらまくような攻撃。
 大きく後ろに跳躍してかわすも、散弾はやむことなく追ってくる。ルシルは舌打ちすると、肩の上の相棒に叫んだ。
「落ちるなよ、あと舌噛むな!」
 言うや否や、思い切り横に飛ぶと、足元に届きかけた光弾を避けてとんぼ返り。着地する――と見せかけてその地点に狙いを誘導し、空中で壁を蹴って一回転しながら前へ跳ぶ。腹立たしげに勢いを増した攻撃を、床に手をついてバク転でかわしていく。一回、二回、三回目で大きくバク宙。十分に距離をとったところで、うとめとカヅチの邪魔だてに屈したチエアリは星をばらまくのを断念した。
 ルシルは呼吸を整えると、念のため左手を肩にやった。手のひらにきちんと柔らかな毛並みを感じると、彼女は安心してその手を鞘に向けた。
 その直後だ。
「っ!」
「ルシルさん」
 目をこぼれんばかりに開いたルシルが見たのは、左足に絡みつく若草色のつる。いつの間にか床から生えたしなやかな一本が、ルシルの利き足を完全に固定していた。
「つーかまえたー」
 ハッとして声のする方へ視線を走らせたときには、うとめの突風をブラインドでかわしたチエアリが、空中で両手から銀色に輝く奔流を放っていた。
「ルシルちゃん!」
 足枷を焼き切ろうと手を伸ばしたカヅチだが、袴への燃え移りを危惧してためらう間に時間切れとなった。
 迫る凶暴な天の川に飲み込まれる寸前、ルシルの手は、考えるより先に動いていた。肩の上の柔らかい感触をひっつかむと、なりふり構わず、できるだけ遠くへと放り投げる。
「ル――」
 ゆるく回転しながら飛ばされるメルの呼び声が届くより先に、華奢な体は輝きに飲み込まれた。押し流され、壁にたたきつけられ、そのまま銀色の中に見えなくなる。
 壁でせき止められた激流が、きらきらと舞い散って消えていくと、壁際に倒れこんだルシルの姿があらわになった。
「どうだ、見たか……おぉっと!」
 得意げに胸を張ったチエアリは、すぐそばで起きた爆発からすんでのところで逃れた。爆風にあおられて三回転ほど転がるが、ダメージは軽い。
 チエアリのセリフに茶化した反応さえ見せず、カヅチは普段より冷えた声で言霊を叫んだ。
「爆ぜろ、爆号!」
 再び、灼熱が炸裂する。チエアリは横っ飛びにかわしながら、熱風に対して吹雪を起こして相殺した。その最中、にやりと濃い笑みを浮かべる。着地と同時に再びルシルへと目を向けると、起き上がりかけた彼女へと手を向け、はしゃぐように叫んだ。
「ファイヤー!」
 かけ声に反応して、ルシルのすぐそばで轟音があがった。噴きあがる橙色、飛び散る火の粉。巻き起こった突風になすすべもなく弾き飛ばされたルシルは、力なく宙を舞った後、数メートル先の床に打ちつけられた。
 ルシルの機転で難を逃れたメルが、ささやき声で呼びかけながら駆け寄る。執行着を擦り跡とすすだらけにして倒れたルシルは、咳き込みながら閉じていたまぶたを上げた。
「メル……無事か」
「あなたに放り投げられて床に激突した以外は無事ですよ」
「そうか……よかった」
 言って、再び咳き込む。
 うとめは、大切な後輩に駆け寄りたい気持ちを抑えてチエアリをにらみつけた。
 先ほどの光る散弾、そして天の川の急流。これらは、星術の技だ。さらに、カヅチが使ったのと同じ爆号をも使用した。氷術を使って見せたチエアリが、草術と星術、そして炎術まで発動したということは。
「あなたの特殊能力は……複数の猫種の所持……!?」
「へへん、すごいだろ? 私は天才だからな! 氷も草も星も炎もお手の物……」
「……それは、たいしたものだな」
 ルシルの言葉が水を差す。メルに止められるのも聞かず、自力で体を起こしながら、乱れた長い前髪の間からチエアリをねめつけた。
「ならば、ほかの炎術も見てみたいところだな。派手に灼龍破でもかましてみろ」
「ルシルさん、何を……」
 メルだけでなく、うとめとカヅチも彼女の正気を疑った。現状、とても挑発が好ましい形勢ではない。まして、ダメージを受けて立ち上がることもままならない彼女の言うセリフではない。
 しかし、面食らったのは希兵隊だけではなかった。
「どうした。無理なら簡単な火砲でもいいぞ」
「……お前」
 そこで、うとめたちも違和感に気付いた。チエアリの警戒するような表情。そして、挑発を逆手に炎術で大暴れしてもいいところ、煙一つ出さない様子。
 ルシルは鼻であしらうようなため息をついた。
「それも使えないか。だろうな。使
「どういうことですか……?」
「氷術と草術、星術をローテーションしていたチエアリが、副隊長が爆号を使った途端、同じ術を使った。たいそう嬉しそうな笑みを浮かべてな。村で年下の相手をしていたから知っている。あれは新しいおもちゃを手に入れてさっそく使ってみるときの子供の目だ」
「……まさか」
「お前の特殊能力は複数の猫力を持つことではない。見た猫術を自分のものにする……というところではないか?」
 そのセリフに、敵味方ともに息をのんだ。ルシルの推測をもとに戦況を思い返していたメルが、すぐに反証を呈する。
「待ってください。氷術と星術はどこからきたんですか。草術だって、私は使っていないのに使えていました」
「簡単な話だ。チエアリ軍の中には少なくとも氷、星、草の属性がいる。炎はいない。それだけだ」
「なるほどねー」
 臨戦態勢は解かないまま、カヅチがのんびりと声を上げた。
「仲間の術を見て予習したってわけか。周到だねー。そんでもって、ちょっと敵の構成もわかってラッキー」
「ちぇ、頭のいいヤツはからかいがいがないな」
 チエアリが不愉快そうに吐き捨てる。
 うとめは舌を巻く思いで三年来の後輩を見た。
 一瞬の気も抜けない場で、ごく短時間の応酬で能力を推理し、さらにそこから敵戦力の一端を明らかにしてのけた。身のこなしを見るに、分析に集中していたわけではない。あくまでも戦闘に注意を割きながら、その傍らで、見出すというより気づくという自発的なプロセスで看破して見せたのだ。改めて、河道ルシルという人物の地頭の良さに感心した。
「そうさ、部屋中の目が源子の動きを見てその方法を伝えてくれる。お前たちが術を使うごとに私は成長するんだ」
「なーる、この趣味悪い部屋はそういう意味だったんだね。じゃ、目つぶししちゃえば……」
「おあいにく様だ、この部屋の目は壁をえぐったところで消えないぜ。私が消えない限り何をやっても無駄さ!」
「……ちぇー」
「なら」
 カヅチが唇を尖らせる数歩右側で、うとめが鯉口を切った。
「術を使わなければ頭打ちね」
「えー、ボク剣術はチョベリバなんだけど」
「それが副隊長のセリフですか! チョベリバでいいから戦ってください、じゃなきゃ――死にますよ!」
 強風一陣、その恩恵を受けたうとめの体が一瞬でチエアリに到達し、白刃の光が三日月の軌跡を描いた。すんでのところで避けたチエアリが、勢いを殺すまでのあいだの距離を消化するうとめに氷のつぶてを飛ばす。振り返って残心をとりつつ軌道を読んだうとめが前方へ跳躍。間髪入れずに二発目の斬撃を放つ。油断したチエアリの肩が、ざっくりと刃にえぐられて蒸発した。
 よろめいたところに、背後をとったカヅチが刀を振り下ろす。しかし、そのスピードと威力はうとめに遠く及ばない。すでにうとめの太刀筋を見ていたチエアリにとって、それをかわすのは造作もなかった。
「はっ、トロいな!」
「じゃあ、これは?」
 着地したチエアリの足元で、小さな爆発が二つ。避けようのない攻撃に吹き飛ばされたチエアリは、カヅチを睥睨して舌打ちした。
 宙を舞う体を追い、うとめが手の内に力を込めて狙いを定める。チエアリは空中で体勢を立て直し、向かってくるうとめに吹雪を見舞った。雪まじりの冷たい疾風に飲まれる前にジャンプした彼女に、さらに天の川を模した星術を放つ。地に足のつかないうとめに避ける術はない――と思われたのも束の間。
「羽ばたけ、白翔!」
 言霊に反応して形成されたのは、源子が集積してできた真っ白な翼。宇奈川うとめの十八番だ。大きく羽ばたくと、長身の体躯はふわりと上昇し、銀の奔流を避けてチエアリへと滑空した。チエアリは刃をぎらつかせて迫るうとめをギリギリまで引きつけると、刀を振りぬかれる直前で身を伏せ、風圧のみを感じながら反対方向へと逃れた。
 慣性で数メートル飛翔したうとめは直ちに方向転換し、次の瞬間にはその後を追っていた。さながら自分の腕のように自在に翼を操るうとめの舵取りは、小気味いいほどに滑らかだ。
 ちらっと後ろをうかがいながら逃げるチエアリ。彼女がさりげなくルシルとメルのほうに向かったのを見逃さず、カヅチが牽制した。
 足止めを食らったチエアリをうとめが挟み撃とうとする。その行く手を阻むように、真っすぐな木立が次から次へと床から伸びて乱立した。迂回すれば挟み撃ちは失敗に終わる――というのがチエアリの目論見だったのだが、うとめの技量はそれを上回った。
 飛行速度は変えぬまま、体の傾きだけで幹を見送り、翼の一端もかすらせることなく枝をかいくぐる。上下左右に細かく軌道調節しながら即席の林を突き進み、泡を食ったチエアリが生やした追加の一本も体を回転させながらいなすと、目が回った様子もなくチエアリの目前へと躍り出た。
「竈戸さん、どいて!」
「はいよっ」
 チエアリの逃げ道を塞ぐ位置にいる彼を間違っても斬ったりしないよう退避させると、うとめは思い切り刀を振り下ろした。カヅチの後退とうとめの接近の間隙に回避を試みたチエアリだが、脇腹を深く斬られて悲鳴を上げた。
「くっそ!」
 唾棄の声音で吐き捨てると、チエアリはうとめの翼を狙って渦状の風を起こした。うとめが最初に放った術、旋風せんぷうだ。
 だが、うとめは造作もなく小さな竜巻から距離をとった。
「そんな付け焼刃の風術、当たらないわよ!」
「ああ、そうかよ」
 風猫としてのプライドをはらんだ挑発に、チエアリはにたりと笑った。
「じゃあ、付け焼刃じゃない風術ならいいか?」
 言い終わると同時、第三フロアの気流が荒れ狂った。
 部屋丸ごと台風に飲み込まれたかのように暴風が吹き荒れ、カヅチは数秒ともたず膝をついた。ルシルもメルを抱え込んでうずくまる。恐怖を覚えるほどの乱気流の中、台風の目にあたる中心の凪で、チエアリは必死に滞空し続けるうとめを面白そうに眺めていた。さしものうとめでも、烈風に蹂躙される中で絶妙なコントロールを要する着陸を成功させるのは難しい。下手をすれば床や壁にたたきつけられることになる。
 数枚ずつ羽を散らしながら、一番安全な空中に必死に留まっていたうとめは、ようやく乱気流が収まったころには、激しく息を乱していた。
「私……旋風しか使ってないのに……まさか……」
 よろよろと着陸に向かう彼女に、主張されたプライドを倍返しにぶつけるような高声たかごえが上がった。
「悪いな、風の扱いは誰のものを真似したわけでもない。私自身の技さ!」
 得意げに謳いあげると、もはや猫種のしがらみを越えたチエアリは、生来の属性である風を刃へと変え、同時にうとめとカヅチに見舞った。
 疲弊しきったうとめも、立ち上がったばかりのカヅチも、急所を狙った鎌鼬を避けることはかなわなかった。風切り音を立てて飛んできた無色透明の利器は、うとめの腹部に命中し、カヅチの胸から肩にかけてを切り裂いた。
「っ……うとめちゃん……!」
 痛みに顔をしかめながらも、カヅチは遠くでバランスを崩したうとめに駆け寄った。カヅチの傷は、胸や肩からの出血はあるものの、幸い執行着が功を奏してまだ浅いほうだった。
 しかし、逆袈裟に薙ぐような鎌鼬に襲われた彼と違い、垂直方向からの攻撃をもろに食らったうとめは、別方向へ逃げることのなかった威力の全てをその身に受けていた。
 両腕で腹部を抱えたうとめが、ふらふらと舞い降りてくる。時々ガクンと急激に高度を落としながら足場を求める彼女に、ケガをおしてカヅチが走り寄った。
「うとめちゃん!」
「ぅ……っく……」
「もういい、こっちへ!」
 苦痛の波に襲われるたびにぎゅっと体をこわばらせながらも、うとめは薄く目を開いて、必死に手を伸ばすカヅチの意図をくみ取った。だが、それに沿おうとした瞬間、全身を星の散弾が乱れ打ち、ついにうとめは浮力を失った。
 はらはらと白い羽を散らしながら急降下したうとめの背にカヅチの手が触れる。それより早いか否か、彼女の体は溶けるように縮み、カヅチの言外の指示通り、小豆色の猫の姿に戻った。よくできました、と声をかけながら抱きかかえると、深手を負った腹部から流れ出る大量の血が、カヅチの袖をぐっしょりと濡らした。
「ん……うぅ……っ」
「無理しなくていいよ、休んでて。すぐ止血するから」
 背中を撫でてやりながら、いつものように笑おうとするが、カヅチ自身も手負いだ。笑みは痛みに突き崩され、不本意ながら膝をつく。
 うとめを仰向けに抱えなおし、目をそむけたくなるような惨状に手をかざして応急処置を施すカヅチへと、チエアリが歩み寄る。カヅチは注意深くその様子を見つめながら、源子を通して手に伝わってくる感覚だけを頼りに治療を進めた。その顔には恐怖も焦りもない。ただ、いつもの緩んだ表情をどこかへ脱ぎ捨て、絶対の冷静を身にまとうだけだ。何かしかけてきても、必ずやりすごしてやる。その信念を動かぬ柱にして。
 だが、あのチエアリの攻撃を、万全でもないのに、あまつさえうとめをかばって切り抜けられそうかといえば望みは薄い。それがわかっているから、チエアリもじらすようにゆっくり近づいていく。
 先輩たちの戦闘中に自力で回復したルシルは、座り込んだ姿勢のまま、四面楚歌の二人を愕然と見つめていた。攻めも守りも着実な隊長が、いつも余裕を手放さない副隊長が、あれほど手ひどくやられるなど想像だにしていなかった。チエアリを甘く見ていたわけではないが、いざ痛めつけられた二人を見ると、ショックで体がすくんでしまう。
(だが……!)
 地についたルシルの手が拳の形に握られる。
 うとめがやられた。カヅチがやられた。だから、自分たちなど敵わない――などと。
 そんな腑抜けたことを言っている場合ではないのだ。
「メル……」
 回復する間、傍らで目を光らせていてくれた相棒の名を呼ぶ。
 不発に終わってもいい。玉砕でもいい。何か手を打たなければ、二人を守れない。ここで何もしないなど、希兵隊ではない。
「五秒でいい。あいつの動きを封じてくれ」
 真っすぐに敵を見据える瑠璃色の目を見上げて、メルはまばたきを一つ。そして、ゆるりと首を振った。
「……一度捕らえられれば、五秒はもたせられます。しかし、その一度捕らえるということ自体が難しいですね。あの身軽さと多彩な術の使い手とくると」
「そこをうまくやってくれ」
 いつも筋道立った言動をするルシルが、論理的思考を放棄したようなセリフを口にするなど珍しい。冷静さを欠いたか、と非難する意味も込めて、メルがすげなく返す。
「無茶を言いますね。私はまだ一年目ですよ。あなたのように経験則があるわけでもないんです」
「そうか。そうだな。……なら」
 視線がチエアリから外され、かわりにメルに向けられる。そして、メルは気づいた。
 ラピスラズリの輝きは、まだ理性も希望も失っていない。
「難しいことは考えるな。このポリシーのみに従え」
 その後に続けられた言葉こそ、先輩っ気のなかった河道ルシルが、半年以上を共に過ごしてきてようやく口にした、初めての「教え」だった。
「隙を見せるな、隙があるように見せろ。希兵隊としてやってくる中で、誰に教わったわけでもない、私自身が見出した経験則の結晶だ」
 語勢に、視線に、メルは雷に打たれたような衝撃を感じた。それがなぜなのか、すぐにはわからなかったが、声が自身の中にしみこんでいくとともに、彼女は雷の正体を悟った。
 先輩でありながら、メルの年齢や落ち着いた態度に引け目を感じてか、同列であるかのように接していたルシル。そんな彼女が初めて見せた力強い威厳に、感銘を受けたのだと。
 とはいえ、ルシルの指示は、矛盾とまではいかないにしても難題だ。それを、命を懸けてやれという。
 メルは、カヅチとの距離を三メートルほどに縮めたチエアリを見据えながら苦言を呈した。
「それに従えば成功すると、そう信じろというのですか」
「他人のセオリーはすぐには信じがたいだろう。それはわかっているつもりだ。それなら、セオリーではなく……私を信じるかどうかで決めろ」
 思わず、再度ルシルを振り仰ぐメル。敵から視線をそらさせるほどの吸引力に、意識さえ持っていかれた。
「信じられないなら結構だ。我流で行くのもよし、私にすべてを押し付けるのもよし。だが、少なくとも――私は、お前を信じている」
 再び、白猫の体をしびれるような感覚が走り抜けた。若葉色の目を見開いたメルは、やがてデフォルトの困り顔に戻ると、無声音のため息をついた。そして、ぴょんとジャンプすると、今や言葉より先に出るようになったしっぽでのビンタをルシルの額に見舞う。口の形だけで「痛っ!?」と叫ぶルシルに背を向け、メルはちょこちょこと進み出た。
「我流なんてありませんし、あなたにすべてを押し付けるのも気が引けます。二つとも却下ですね」
「それなら……」
「でも」
 呼吸を一つ。パートナーの肩から援護射撃を、という作戦も、ここへ来れば瓦解だ。やむなく前線へ向かうその足は、白毛並みから足袋とわらじへ変化する。
 ふわりと揺れた白茶色の髪を耳にかけ、いつもの物悲しげな瞳でルシルを振り返ると、変わらぬ結論にほんの一つだけ、注釈を加えた。
「――だからといって、この信頼は消去法ではないですから」
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