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9.過去編
44一蓮托生と今際の科白 ③
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「ダ、ダークになったぁ!」
「時尼、早く毒霧を!」
宮希が叫ぶ。しかし、霞冴は首を振って一度退いた。
「毒霧は図体が大きいと効きにくい。クロとは比べ物にならないくらい、ダークには効き目が薄いの。燃費が悪すぎるよ。白風のほうがマシ!」
距離をとった位置から、早口で詠唱して、得意の烈風を見舞う。一撃で仕留められる相手ではない。間を置かずに次の一発を、と構えた霞冴は、戦慄した。自らが放ったはずの雪崩のごとき濃霧が、翻って術者に襲い掛かってきたのだ。
「あうぅっ!?」
「時尼!」
結界を解き、宮希が駆け寄る。風圧に突き崩され、倒れこんだ霞冴は、けほけほと咳き込みながら、宮希に背中を起こされた。
「い、今のは……」
「あのダーク、風属性みたいだ。どうやら、風属性のクロが多く構成しているようだな。霧とは相性が悪すぎる」
「宮希は大丈夫だった?」
「オレは結界を張っていたからな。こっちの心配はいらない。それより、これからどうするかだ」
霞冴はゆっくりと立ち上がりながら歯噛みした。白風は、霧術の中で最も初速度の速い技だ。これが吹き飛ばされるようでは、ほかの術式も届かない。
「あるいは、多方向からなら……!」
左足に力をためると、霞冴は勢いよく横に跳んだ。着地するまでに三回、距離を空けて霧砲を発射する。が、ダークの巻き起こした風はそれらすべてを弾き飛ばし、地に足がついたばかりの霞冴を押し倒した。それを見て悟ったのは、あのダークの特技は自分を中心とした全方向への颶風ということだ。
永遠、と宮希はささやくように漏らした。他人の心配をしている場合ではなかった。彼ならば、霧よりは速い遠距離攻撃を使えただろう。飛び道具技は不得手のようだが、あのつららと比べれば的は格段に大きい。頼もしい戦力となりえたのに。手分けして窮地に立たされているのが、まさかこちらとは。
実のところ、この場の何者にも劣らぬ早撃ちができるのは宮希だった。何せ光である。しかし、その威力はほぼ焼け石に水と言っていい。そもそも、総司令部でなければ入隊すらできなかったであろう程、彼は戦闘力には難ありなのだ。広範囲の術では、望ましい威力が見込めない。一点集中技は得意だが、それだとあの巨体に何発撃ちこめばよいことか。
(とにかく、さっきみたいに目だけでも射止めて、視界を奪おう。それでも、風の流れで霧術の気配を感じとって防ぐことくらいはやってのけそうだ。対策は考えつくが、しかし……それは……)
「なに悩んでるのさ」
思考の奈落に落ちかけていた宮希が、ハッと我に返った。彼が没頭して考え込んでいる間に、霞冴はそばに戻ってきていた。話しかけるまでそれにすら気づいていなかった様子に、霞冴は腰に手を当ててため息をつく。
「もしかして、自分が攻撃しなくちゃいけないって思ってない? 私の術が無力なら、光術でやるしか……って」
胸中を見透かされた宮希が不本意そうに眉を寄せた。やれやれ、と霞冴は肩をすくめる。
「そんな必要ないよ。攻撃も防御もキミの仕事じゃない。それは私がやること。護衛官じゃないけど、今の私は、宮希の矛であり盾だから」
霞冴の言葉に注意を奪われた宮希は、ダークが発した旋風への反応を遅らせた。慌てて結界を張ろうとして上げかけた宮希の手は、小さな手に制された。同時に、二人を包むように半球の壁が構築される。
つかまれた宮希の手に伝わるのは、剣士特有のタコの感触。霞冴の反対の手が作り出すのは、ダークの風術をものともしない源子の盾。
彼女の言葉に、偽りはない。
「……一つ、案がある」
前を見据えて口を開いた宮希を、霞冴は無言で促す。
「さすがのダークも、大技を連続して何度も使えるわけではない。例えば、さっきの全方位への突風だ。発動されたらこちらの体勢が崩れる以上、即座の反撃は難しいが、要はそこさえ何とかなれば、あいつの攻撃の直後は隙だ」
ダークが三秒おき程度に風の砲弾を放ってくる。それが結界にぶつかるたび、内部の空気もびりびりと震えるが、霞冴は臆することなく宮希の横顔を見つめてうなずいた。
「煌条と同じく、光砲も質量をもっている。矢は細すぎて心もとないが、光砲なら風の流れを切り開けるだろう。そこが抜け道だ」
「私がその隙間を通って風圧をやり過ごして攻撃すれば……!」
「ああ。……ただし、リスクが高すぎる。機を見極めなければうまく凪に入れないし、足元をすくわれるかもしれない。一歩間違えればオレの光砲がお前に当たるかもしれない。どのタイミングでどこにオレが発射するかは、その時々の状況による。つまり、お前はオレの判断に振り回されるわけだ」
正面を見つめていた宮希が、霞冴に流し目をよこす。苦境で賭けのような真似をすることへの迷いをたたえた瞳。
「できるか、時尼。オレの独断専行についてこられるか」
そんな彼に返す表情は決まっている。
「何を今さら。これまでさんざん振り回してきたくせに」
自信で満ち満ちた笑顔一択。ほんの少し、からかいを添えて。
「ついていってみせる。道を示して、宮希」
面食らったように目を見開いて、霞冴を凝視する。それもほんの少しの間で、彼はふっと目元を緩めて口の端を吊り上げた。
「まったく、生意気な後輩を持ったものだ」
行くぞ、と合図。霞冴は直ちに結界を解いて、大きく前に出た。
「てやっ!」
所詮防がれる運命にある攻撃だ。大した気合も入れずに放った霧砲だが、警戒したダークはすかさずあの強風を繰り出した。退かなければ、また吹き飛ばされて手をつくはめになるだろうし、下手をすると押し返された霧の塊が直撃する。
けれど、霞冴はその場から一歩も動かない。迫り来る透明な荒波に、まもなく穴が空くことを、一片の疑いもなく知っているから。だから、彼女は自身を翻弄しようと向かってくる嵐を泰然と待ち構える。
響く言霊。次いで、駆け抜ける閃光。輝く砲弾は、霞冴を裏切ることなく、風の壁の一部を突き抜けた。両腕で作った円ほどのサイズの光砲は、規模としては大サービスだ。
霞冴は一瞬の機を逃さず猫の姿に戻り、しなやかに円い微風の道へ飛び込んだ。無事に着地すると、そこはもう大気の狂濤の向こうだ。ためらうことなく、四つ足で素早く怪物の足元へと疾駆する。
至近距離まで近づいても、ダークは小さな侵入者を払うことはしなかった。ただ身じろぎして、その姿を認めただけだ。アリスブルーの猫のまま、彼女は両手を振り上げると、勢いよく床にたたきつけた。
「唸れ、白風ッ!」
ついた両手の間から発動した白風は、すさまじい勢いでダークに襲い掛かり、その巨躯を濃霧で覆い隠した。結果を見るより先に、大きく後退して宮希の元に戻る。どうせ、一撃で屠れるわけがない。ならば、近くにいては危険というものだ。
後ずさりざま、霞冴は後ろをちらりとうかがった。後ろにたたずむ宮希が、平気そうな顔で腕を組んでいるのを確かめて、ほっと息を吐く。作戦上、彼は風が放たれた後、光術を撃ってからでないと結界が張れない。少しでも手間取れば、守られるべき司令官は風に煽られることになるのだ。しかし、手際のよい彼に限ってそんなへまをすることもなかった。
霧が晴れ、化け物の姿が再び垣間見える。まずまずのダメージのようだ。
「いくぞ、二撃目!」
「うん!」
霞冴は口の前で蓄えた霧砲を言霊とともに飛ばした。さあこい大風よ、と構える霞冴だが、期せぬことに飛来したのは風の刃だった。ダークも馬鹿の一つ覚えではなかったようだ。慄然として背中の毛が逆立つ。広範囲にいくつも飛んでくる鎌鼬は、さしもの霞冴も避けようがない。
結界を、と源子に指示を送ろうとし、間に合わないかもしれないと血しぶきを予感した刹那。
左上方の鎌鼬が二つ、立て続けに弾け飛んだ。反射的にその安全地帯に飛び込んでやり過ごすと、霞冴は右手を掲げて、ダークの顔面に向かって凍てつくような霧の飛沫を浴びせた。
「砕けろ、凍粒!」
目に鼻面にと各急所に食らったダークは、触手を伸ばして顔を擦り払うような仕草を見せる。それを見ながら、今の数秒を思い返す余裕のできた霞冴は、もしあの時鎌鼬を食らっていたらと想像して身震いした。
その様子を後ろから見ていた宮希が自若とした声で言う。
「うろたえるな、時尼」
警戒態勢は保ったまま、半身になって振り向くと、宮希は発光する弓を構えた姿勢で霞冴を見つめていた。
「お前の進む道はオレが必ず切り開く。決して外しはしない。……オレを信じてだけいろ、時尼」
――「必ず」など、「決して」など、限界の前にはたやすく打ち砕かれることを、霞冴は知っていた。「あなたを置いて死ぬわけない」と笑って言った最愛のひとは、ああも儚く逝ってしまったから。
けれど、彼の瞳は、言葉は、何よりもまっすぐで。あの光の矢よりもまっすぐで。
だから、全てを委ねたいと思った。この先の運命も、たったひとつの命さえ。
霞冴はこくんとうなずいた。前に向き直ると、ダークが触手を振り回して矢継ぎ早に風砲を撃ってくるところだった。彼女は直感した。この空間の幅なら。
光が爆ぜる。そこだけ、風が凪ぐ。霞冴は思い切って人の姿をとると、間隙を抜けてダークの方へ踏み出した。
さっきの凍粒で、ダークも激したようだ。触手を直接伸ばして霞冴を捕らえようとしてきた。それでも、霞冴は最短距離を走り抜けるだけだ。霞冴に触れようとするそばから、どす黒い腕は輝く一矢で潰えていく。何にも拒まれることなく、黒衣をなびかせて、ただ一直線に疾走した。
「……ふっ!」
目指した場所にたどり着いた霞冴は、バネを利かせて高く飛び上がった。慣れ切った手つきで、空中を上昇しながら抜刀。ちょうどダークの眼前で頂点に達したところで、重力に反した加速は止まった。つかの間の浮遊感の中、空を切って思い切り振りかぶる。腹も胸も無防備に空くが、急所をさらすことさえ怖くない。
体全体で重力の端緒を感じ取る。機は熟した。霞冴は、三角の耳と耳の間を狙って、渾身の力で得物を振り下ろした。
「いっ……けぇぇー!」
白刃が闇色の頭頂部にめり込み、そのまま自由落下に任せて一刀両断する。ズバズバズバッ、と刃が怪物の体を切り開いていく。切り口から、大量の黒い霧が吹き出た。
霞冴は巧みにバランスを保ったまま床まで斬り下ろし、ちょうど正中線をなぞって、巨体の上から下までに深い裂傷を刻んだ。
「ケアァァァ!」
断末魔か、激昂の雄たけびか、ダークがざらついた絶叫をあげる。霞冴はとどめをさすべく、納刀すると両手を突き出した。全身全霊を込めて、丁寧に詠み上げる。
「梓弓の友、春秋に分かたれる白煙、不可視に迫る閉じ込めし壁、彼我の零を証明せよ。今、鼻先を揃え、慟哭に発ちて牙なき顎を開け! 唸れ、白風ッ!」
鋭い言霊とともに、詠唱によって本来の威力を発揮する源子が強力な霧の風となってダークを飲み込んだ。今度は、一片たりとも残さない。そう念じて、手を緩めることなく霧を噴射し続ける。脇へ散り、跳ね返り、行き場を失った霧であふれ、霞冴の姿さえもおぼろげに隠された。
離れたところで戦況を見守っていた宮希は、やがて忌まわしい気配が消えて胸がすくような感覚を覚えると同時、右手に残していた弓を源子に帰した。
「霧晴」
残心をとるがごとくはっきりとした声が響く。彼女の命令一言で、立ち込める白は文字通り雲散霧消した。もうこのフロアには自分と宮希しかいないことを再確認して、霞冴は肺いっぱいに吸い込んだ空気とともに、体じゅうの緊張をかき集めて全部吐き出した。
「お……終わったぁぁ……」
「新たにクロが落ちてくる気配はないな。ご苦労だった、時尼」
「よかったぁ……」
足の力が抜け、その場に座り込む。それだけでは事足りず、躯幹は重力に逆らうのをやめてどさりと床に横たわった。倒れ伏した霞冴を見て、宮希は歩を速めて近寄った。
「大丈夫か?」
「ちょっと休ませてもらえれば……。今まで、こんなに術を使うことも、休みなく動き回ることもなかったから、結構キツくて……」
「ゆっくり休め。オレはその間にピッチを確認するから。……ケガはしていないか?」
「たぶん。かすっても、執行着が守ってくれてるし……」
我ながらよくほぼ無傷でダークを倒せたものだ、と霞冴自身驚いていた。普通は執行部員が二人以上で対応する相手だ。それを、戦闘は専門外の霞冴と宮希で倒してしまった。
もちろん、ダークの属性や強さ、知能などにムラがある以上、脅威のレベルもまちまちなのだが、今回の一戦はあのダークが弱かったのではなく、宮希とのコンビネーションが思いのほかうまくいったところに勝因があると思っている。それもそのはず、通常ならば敵の反撃を警戒しつつの攻撃となるところ、降りかかる障害はことごとく宮希が撃ち落としてくれたから、霞冴は強襲に専念できたのだ。だからこそ、実力を発揮し、最大限の損傷を相手に与えられた。
こんな戦いをほぼ毎日しているのか……と霞冴は執行部員に畏敬の念を抱きつつ、しばし目を閉じて休息した。
そんな彼女を見守りながら、かつ周囲に注意を払いながら、宮希は源子化していたピッチを取り出した。各隊、無事に塔へ突入した旨以外の連絡はない。便りのないのはいい知らせ、とは一概には言えないが、少なくとも死者や重傷者の情報が飛び込んでくるよりはマシだ。
それに、草属性のチエアリと遭遇したという連絡がないのも幸いだ。低層階で会ったが最後、ほかのチエアリやダークを全滅させるまで生かしておかなければならない。塔の崩壊を防ぐためとはいえ、圧倒的なこちらの不利だ。
「永遠から連絡あった?」
霞冴の声に、宮希は画面から顔を上げると、一往復だけ首を振った。
「いや。クロが落ちてこないとはいえ、それはただ食い止めたに過ぎないだけかもしれないからな。今も戦闘中という可能性がある。だからできるだけ早く加勢に……」
行きたい。
そう言葉が続くと思っていたから、考えを同じくした霞冴はうなずこうとしたのだった。
が、続きは声になることはなかった。
「……宮希……?」
様子がおかしい。霞冴はゆっくりと体を起こした。
宮希は、青ざめた顔で胸元に手を置いていた。霞冴の呼びかけにも気づかない様子で、ただ虚空を凝視している。大きく見開いた目に映っているのは、驚愕か、あるいはもっと彼らしくない原初的な情動。
「どうしたの……?」
「あ……いや」
煮え切らない返事をして、宮希はそろそろと手を下ろした。動きがぎこちない。まるで、別の何かに心をすっかり持っていかれているかのようだ。霞冴は「もしかして」と慌てて立ち上がった。
「さっきつららを食らったところが痛い? 脈がおかしかったりする?」
「そうじゃない。……何でもないから。それより、もう行けそうか?」
「う、うん……」
「それなら、早く行こう」
さっさと歩いて行ってしまう宮希に、霞冴は少なからず戸惑った。彼を先頭にしてはいけない。それは、彼自身がよくわかっているはずなのに。
だが、急いだほうが良いのは事実だ。あの小さな後輩は、きっと今も一人で戦っている。
霞冴の足は、すぐに宮希のそれを追い抜かした。
***
二階へと上がり、再びがらりと変わった部屋の様相に、今度は具体的に形容する言葉も出なかった。
「なんだ、これは……」
歩みを忘れる光景。階段から上がってすぐ、殺風景な大部屋に出るはずが、別世界に迷い込んだかのような景色に出迎えられた。
鏡だ。
姿見ほどの幅と、ギリギリ飛び越えられない高さを持った縁なしの鏡が、人二人が通れるほどの幅で左右向かい合わせに立てられ、それが不吉なことに前方見渡す限りずらりと続いている。一本道の先、突き当たりだけ、鏡が二人の呆けた顔を正面から映し出していた。行き止まりか、直角な曲がり角だろう。
その鏡が、ガラスでできたものではないことには、二人ともすぐに気づいた。
「寒いね……最初のところみたい……」
「これだけ氷が並んでいるんだ、それもそうだろう」
反射率を絶妙に調節して作られた氷製の鏡は、実に完成度の高いものだった。並みの氷猫にはできない職人技だ。無論、クロやダークには作れまい。
「あのつららといい、オレたちの進む先には氷属性のチエアリがいることは間違いなさそうだな」
「だね……」
確実に遭遇する。多かれ少なかれ攻撃力を持つフィライン・エデンの猫、その中でも戦闘に秀でた希兵隊員を葬ってしまう、最悪の敵と。
もしかしたら、先に行っている彼にとっては、それは未来形ではなく――。
「永遠ー……」
恐る恐るながら、霞冴は遠くへ投げかけるように呼んでみた。けれど、返ってくるのは残響だけだ。
(このフロアにもいない? まさか……)
ぞくり、と震えが袴の中のすねを這い上がった。そんなわけがない。あの減らず口の護衛官は、並大抵の攻撃では捕らえられないのだ。それは、霞冴自身が手合わせをしてよく知っていること。
(とにかく、今は私が永遠の代わりに宮希を守らなくちゃ。そして合流したら、永遠より活躍して、言ってやるんだ。『私の方が強いよ』って)
「どうする、宮希? 道なりに進んでみる? それとも、鏡を破壊して階段を探す?」
「破壊は優先順位を下げよう。こんな狭いところで術を使うと自爆しかねないし、刃こぼれしても困るだろう」
荒事を知らない華奢な手が、コツコツと鏡の表面を打った。音からして、厚さもだいぶありそうだ。
「十分に注意しながら、素直に進んでみよう。今のところ、嫌な気配はしないが、それでも何かいるとしたら、それはチエアリだ。一本道ということは、遭遇したら避ける余地もない。少なくとも先手は取られないようにしないとな」
霞冴は頷き、宮希と並んで慎重に歩いた。
傍らの鏡たちが、二人を前にするたびにその姿を映し出しては、少女を怯えさせる。鏡像とわかっていても、視界の端で何か動いては、その都度体をすくませて振り返るしかない。
「時尼」
突然、宮希が足を止めた。後方を振り返っていた霞冴は驚いて飛び上がり、着地ざまに柄に手をかけた。
「待て、落ち着け。敵襲じゃない。……足元、気をつけろ」
「え?……わ」
二人の目の前の床には、主体なら通れるだろうという大きさの円い穴があった。そう深くない位置に、ぴったりふさぐ蓋がしてある。この蓋が、穴を上からの一方通行にしている弁だろう。
踏まないように避けて通り、先を急ぎながら、霞冴は首を傾げた。
「ここからクロが落ちてた……でもクロの気配はない。もういないってことだよね?」
「永遠が片付けてくれたと考えたいところだな。しかし、クロが落ちてくるタイミング……あの数量を調節するかのような注がれ方は、クロが勝手に落ちたのではなく、知能あるものが制御していたのだろう。クロをたどっていけば必ずチエアリにたどり着くというこ……」
――という彼の言葉の最後の方は、霞冴の耳には届いていなかった。
「うわぁぁあ!?」
心臓を縮み上がらせるような悲鳴に、宮希の反応は一拍遅れた。霞冴の指差す先、前方左側、つまり宮希に近い方の氷に、黒い影が映っていた。考え事をしていて、かつ並びが視線と平行に近かったせいで、早期の察知ができなかったのだ。
こちらを見て、体と同化するような黒い瞳を妖しげに細める者の名を、霞冴は震え声で音にした。
「チ……チエアリ……!?」
一瞬で鯉口を切った。前方の鏡に映っているということは、本体は後方、つまり霞冴の背後だ。いつの間に、不覚、と焦りを噛み締めながら振り返り――。
「……ぇ」
唖然とする霞冴の背中に、宮希の切迫した声が飛ぶ。
「違う、時尼!」
霞冴のように振り返ることはせず、黒い姿の正体を見極めていた彼は、巧妙なトラップにかけられていることに気づいた彼は――誰もいない後方に呆然とする霞冴に全力で叫んだ。
「あれは鏡じゃない、ただの透明な氷だ!」
「時尼、早く毒霧を!」
宮希が叫ぶ。しかし、霞冴は首を振って一度退いた。
「毒霧は図体が大きいと効きにくい。クロとは比べ物にならないくらい、ダークには効き目が薄いの。燃費が悪すぎるよ。白風のほうがマシ!」
距離をとった位置から、早口で詠唱して、得意の烈風を見舞う。一撃で仕留められる相手ではない。間を置かずに次の一発を、と構えた霞冴は、戦慄した。自らが放ったはずの雪崩のごとき濃霧が、翻って術者に襲い掛かってきたのだ。
「あうぅっ!?」
「時尼!」
結界を解き、宮希が駆け寄る。風圧に突き崩され、倒れこんだ霞冴は、けほけほと咳き込みながら、宮希に背中を起こされた。
「い、今のは……」
「あのダーク、風属性みたいだ。どうやら、風属性のクロが多く構成しているようだな。霧とは相性が悪すぎる」
「宮希は大丈夫だった?」
「オレは結界を張っていたからな。こっちの心配はいらない。それより、これからどうするかだ」
霞冴はゆっくりと立ち上がりながら歯噛みした。白風は、霧術の中で最も初速度の速い技だ。これが吹き飛ばされるようでは、ほかの術式も届かない。
「あるいは、多方向からなら……!」
左足に力をためると、霞冴は勢いよく横に跳んだ。着地するまでに三回、距離を空けて霧砲を発射する。が、ダークの巻き起こした風はそれらすべてを弾き飛ばし、地に足がついたばかりの霞冴を押し倒した。それを見て悟ったのは、あのダークの特技は自分を中心とした全方向への颶風ということだ。
永遠、と宮希はささやくように漏らした。他人の心配をしている場合ではなかった。彼ならば、霧よりは速い遠距離攻撃を使えただろう。飛び道具技は不得手のようだが、あのつららと比べれば的は格段に大きい。頼もしい戦力となりえたのに。手分けして窮地に立たされているのが、まさかこちらとは。
実のところ、この場の何者にも劣らぬ早撃ちができるのは宮希だった。何せ光である。しかし、その威力はほぼ焼け石に水と言っていい。そもそも、総司令部でなければ入隊すらできなかったであろう程、彼は戦闘力には難ありなのだ。広範囲の術では、望ましい威力が見込めない。一点集中技は得意だが、それだとあの巨体に何発撃ちこめばよいことか。
(とにかく、さっきみたいに目だけでも射止めて、視界を奪おう。それでも、風の流れで霧術の気配を感じとって防ぐことくらいはやってのけそうだ。対策は考えつくが、しかし……それは……)
「なに悩んでるのさ」
思考の奈落に落ちかけていた宮希が、ハッと我に返った。彼が没頭して考え込んでいる間に、霞冴はそばに戻ってきていた。話しかけるまでそれにすら気づいていなかった様子に、霞冴は腰に手を当ててため息をつく。
「もしかして、自分が攻撃しなくちゃいけないって思ってない? 私の術が無力なら、光術でやるしか……って」
胸中を見透かされた宮希が不本意そうに眉を寄せた。やれやれ、と霞冴は肩をすくめる。
「そんな必要ないよ。攻撃も防御もキミの仕事じゃない。それは私がやること。護衛官じゃないけど、今の私は、宮希の矛であり盾だから」
霞冴の言葉に注意を奪われた宮希は、ダークが発した旋風への反応を遅らせた。慌てて結界を張ろうとして上げかけた宮希の手は、小さな手に制された。同時に、二人を包むように半球の壁が構築される。
つかまれた宮希の手に伝わるのは、剣士特有のタコの感触。霞冴の反対の手が作り出すのは、ダークの風術をものともしない源子の盾。
彼女の言葉に、偽りはない。
「……一つ、案がある」
前を見据えて口を開いた宮希を、霞冴は無言で促す。
「さすがのダークも、大技を連続して何度も使えるわけではない。例えば、さっきの全方位への突風だ。発動されたらこちらの体勢が崩れる以上、即座の反撃は難しいが、要はそこさえ何とかなれば、あいつの攻撃の直後は隙だ」
ダークが三秒おき程度に風の砲弾を放ってくる。それが結界にぶつかるたび、内部の空気もびりびりと震えるが、霞冴は臆することなく宮希の横顔を見つめてうなずいた。
「煌条と同じく、光砲も質量をもっている。矢は細すぎて心もとないが、光砲なら風の流れを切り開けるだろう。そこが抜け道だ」
「私がその隙間を通って風圧をやり過ごして攻撃すれば……!」
「ああ。……ただし、リスクが高すぎる。機を見極めなければうまく凪に入れないし、足元をすくわれるかもしれない。一歩間違えればオレの光砲がお前に当たるかもしれない。どのタイミングでどこにオレが発射するかは、その時々の状況による。つまり、お前はオレの判断に振り回されるわけだ」
正面を見つめていた宮希が、霞冴に流し目をよこす。苦境で賭けのような真似をすることへの迷いをたたえた瞳。
「できるか、時尼。オレの独断専行についてこられるか」
そんな彼に返す表情は決まっている。
「何を今さら。これまでさんざん振り回してきたくせに」
自信で満ち満ちた笑顔一択。ほんの少し、からかいを添えて。
「ついていってみせる。道を示して、宮希」
面食らったように目を見開いて、霞冴を凝視する。それもほんの少しの間で、彼はふっと目元を緩めて口の端を吊り上げた。
「まったく、生意気な後輩を持ったものだ」
行くぞ、と合図。霞冴は直ちに結界を解いて、大きく前に出た。
「てやっ!」
所詮防がれる運命にある攻撃だ。大した気合も入れずに放った霧砲だが、警戒したダークはすかさずあの強風を繰り出した。退かなければ、また吹き飛ばされて手をつくはめになるだろうし、下手をすると押し返された霧の塊が直撃する。
けれど、霞冴はその場から一歩も動かない。迫り来る透明な荒波に、まもなく穴が空くことを、一片の疑いもなく知っているから。だから、彼女は自身を翻弄しようと向かってくる嵐を泰然と待ち構える。
響く言霊。次いで、駆け抜ける閃光。輝く砲弾は、霞冴を裏切ることなく、風の壁の一部を突き抜けた。両腕で作った円ほどのサイズの光砲は、規模としては大サービスだ。
霞冴は一瞬の機を逃さず猫の姿に戻り、しなやかに円い微風の道へ飛び込んだ。無事に着地すると、そこはもう大気の狂濤の向こうだ。ためらうことなく、四つ足で素早く怪物の足元へと疾駆する。
至近距離まで近づいても、ダークは小さな侵入者を払うことはしなかった。ただ身じろぎして、その姿を認めただけだ。アリスブルーの猫のまま、彼女は両手を振り上げると、勢いよく床にたたきつけた。
「唸れ、白風ッ!」
ついた両手の間から発動した白風は、すさまじい勢いでダークに襲い掛かり、その巨躯を濃霧で覆い隠した。結果を見るより先に、大きく後退して宮希の元に戻る。どうせ、一撃で屠れるわけがない。ならば、近くにいては危険というものだ。
後ずさりざま、霞冴は後ろをちらりとうかがった。後ろにたたずむ宮希が、平気そうな顔で腕を組んでいるのを確かめて、ほっと息を吐く。作戦上、彼は風が放たれた後、光術を撃ってからでないと結界が張れない。少しでも手間取れば、守られるべき司令官は風に煽られることになるのだ。しかし、手際のよい彼に限ってそんなへまをすることもなかった。
霧が晴れ、化け物の姿が再び垣間見える。まずまずのダメージのようだ。
「いくぞ、二撃目!」
「うん!」
霞冴は口の前で蓄えた霧砲を言霊とともに飛ばした。さあこい大風よ、と構える霞冴だが、期せぬことに飛来したのは風の刃だった。ダークも馬鹿の一つ覚えではなかったようだ。慄然として背中の毛が逆立つ。広範囲にいくつも飛んでくる鎌鼬は、さしもの霞冴も避けようがない。
結界を、と源子に指示を送ろうとし、間に合わないかもしれないと血しぶきを予感した刹那。
左上方の鎌鼬が二つ、立て続けに弾け飛んだ。反射的にその安全地帯に飛び込んでやり過ごすと、霞冴は右手を掲げて、ダークの顔面に向かって凍てつくような霧の飛沫を浴びせた。
「砕けろ、凍粒!」
目に鼻面にと各急所に食らったダークは、触手を伸ばして顔を擦り払うような仕草を見せる。それを見ながら、今の数秒を思い返す余裕のできた霞冴は、もしあの時鎌鼬を食らっていたらと想像して身震いした。
その様子を後ろから見ていた宮希が自若とした声で言う。
「うろたえるな、時尼」
警戒態勢は保ったまま、半身になって振り向くと、宮希は発光する弓を構えた姿勢で霞冴を見つめていた。
「お前の進む道はオレが必ず切り開く。決して外しはしない。……オレを信じてだけいろ、時尼」
――「必ず」など、「決して」など、限界の前にはたやすく打ち砕かれることを、霞冴は知っていた。「あなたを置いて死ぬわけない」と笑って言った最愛のひとは、ああも儚く逝ってしまったから。
けれど、彼の瞳は、言葉は、何よりもまっすぐで。あの光の矢よりもまっすぐで。
だから、全てを委ねたいと思った。この先の運命も、たったひとつの命さえ。
霞冴はこくんとうなずいた。前に向き直ると、ダークが触手を振り回して矢継ぎ早に風砲を撃ってくるところだった。彼女は直感した。この空間の幅なら。
光が爆ぜる。そこだけ、風が凪ぐ。霞冴は思い切って人の姿をとると、間隙を抜けてダークの方へ踏み出した。
さっきの凍粒で、ダークも激したようだ。触手を直接伸ばして霞冴を捕らえようとしてきた。それでも、霞冴は最短距離を走り抜けるだけだ。霞冴に触れようとするそばから、どす黒い腕は輝く一矢で潰えていく。何にも拒まれることなく、黒衣をなびかせて、ただ一直線に疾走した。
「……ふっ!」
目指した場所にたどり着いた霞冴は、バネを利かせて高く飛び上がった。慣れ切った手つきで、空中を上昇しながら抜刀。ちょうどダークの眼前で頂点に達したところで、重力に反した加速は止まった。つかの間の浮遊感の中、空を切って思い切り振りかぶる。腹も胸も無防備に空くが、急所をさらすことさえ怖くない。
体全体で重力の端緒を感じ取る。機は熟した。霞冴は、三角の耳と耳の間を狙って、渾身の力で得物を振り下ろした。
「いっ……けぇぇー!」
白刃が闇色の頭頂部にめり込み、そのまま自由落下に任せて一刀両断する。ズバズバズバッ、と刃が怪物の体を切り開いていく。切り口から、大量の黒い霧が吹き出た。
霞冴は巧みにバランスを保ったまま床まで斬り下ろし、ちょうど正中線をなぞって、巨体の上から下までに深い裂傷を刻んだ。
「ケアァァァ!」
断末魔か、激昂の雄たけびか、ダークがざらついた絶叫をあげる。霞冴はとどめをさすべく、納刀すると両手を突き出した。全身全霊を込めて、丁寧に詠み上げる。
「梓弓の友、春秋に分かたれる白煙、不可視に迫る閉じ込めし壁、彼我の零を証明せよ。今、鼻先を揃え、慟哭に発ちて牙なき顎を開け! 唸れ、白風ッ!」
鋭い言霊とともに、詠唱によって本来の威力を発揮する源子が強力な霧の風となってダークを飲み込んだ。今度は、一片たりとも残さない。そう念じて、手を緩めることなく霧を噴射し続ける。脇へ散り、跳ね返り、行き場を失った霧であふれ、霞冴の姿さえもおぼろげに隠された。
離れたところで戦況を見守っていた宮希は、やがて忌まわしい気配が消えて胸がすくような感覚を覚えると同時、右手に残していた弓を源子に帰した。
「霧晴」
残心をとるがごとくはっきりとした声が響く。彼女の命令一言で、立ち込める白は文字通り雲散霧消した。もうこのフロアには自分と宮希しかいないことを再確認して、霞冴は肺いっぱいに吸い込んだ空気とともに、体じゅうの緊張をかき集めて全部吐き出した。
「お……終わったぁぁ……」
「新たにクロが落ちてくる気配はないな。ご苦労だった、時尼」
「よかったぁ……」
足の力が抜け、その場に座り込む。それだけでは事足りず、躯幹は重力に逆らうのをやめてどさりと床に横たわった。倒れ伏した霞冴を見て、宮希は歩を速めて近寄った。
「大丈夫か?」
「ちょっと休ませてもらえれば……。今まで、こんなに術を使うことも、休みなく動き回ることもなかったから、結構キツくて……」
「ゆっくり休め。オレはその間にピッチを確認するから。……ケガはしていないか?」
「たぶん。かすっても、執行着が守ってくれてるし……」
我ながらよくほぼ無傷でダークを倒せたものだ、と霞冴自身驚いていた。普通は執行部員が二人以上で対応する相手だ。それを、戦闘は専門外の霞冴と宮希で倒してしまった。
もちろん、ダークの属性や強さ、知能などにムラがある以上、脅威のレベルもまちまちなのだが、今回の一戦はあのダークが弱かったのではなく、宮希とのコンビネーションが思いのほかうまくいったところに勝因があると思っている。それもそのはず、通常ならば敵の反撃を警戒しつつの攻撃となるところ、降りかかる障害はことごとく宮希が撃ち落としてくれたから、霞冴は強襲に専念できたのだ。だからこそ、実力を発揮し、最大限の損傷を相手に与えられた。
こんな戦いをほぼ毎日しているのか……と霞冴は執行部員に畏敬の念を抱きつつ、しばし目を閉じて休息した。
そんな彼女を見守りながら、かつ周囲に注意を払いながら、宮希は源子化していたピッチを取り出した。各隊、無事に塔へ突入した旨以外の連絡はない。便りのないのはいい知らせ、とは一概には言えないが、少なくとも死者や重傷者の情報が飛び込んでくるよりはマシだ。
それに、草属性のチエアリと遭遇したという連絡がないのも幸いだ。低層階で会ったが最後、ほかのチエアリやダークを全滅させるまで生かしておかなければならない。塔の崩壊を防ぐためとはいえ、圧倒的なこちらの不利だ。
「永遠から連絡あった?」
霞冴の声に、宮希は画面から顔を上げると、一往復だけ首を振った。
「いや。クロが落ちてこないとはいえ、それはただ食い止めたに過ぎないだけかもしれないからな。今も戦闘中という可能性がある。だからできるだけ早く加勢に……」
行きたい。
そう言葉が続くと思っていたから、考えを同じくした霞冴はうなずこうとしたのだった。
が、続きは声になることはなかった。
「……宮希……?」
様子がおかしい。霞冴はゆっくりと体を起こした。
宮希は、青ざめた顔で胸元に手を置いていた。霞冴の呼びかけにも気づかない様子で、ただ虚空を凝視している。大きく見開いた目に映っているのは、驚愕か、あるいはもっと彼らしくない原初的な情動。
「どうしたの……?」
「あ……いや」
煮え切らない返事をして、宮希はそろそろと手を下ろした。動きがぎこちない。まるで、別の何かに心をすっかり持っていかれているかのようだ。霞冴は「もしかして」と慌てて立ち上がった。
「さっきつららを食らったところが痛い? 脈がおかしかったりする?」
「そうじゃない。……何でもないから。それより、もう行けそうか?」
「う、うん……」
「それなら、早く行こう」
さっさと歩いて行ってしまう宮希に、霞冴は少なからず戸惑った。彼を先頭にしてはいけない。それは、彼自身がよくわかっているはずなのに。
だが、急いだほうが良いのは事実だ。あの小さな後輩は、きっと今も一人で戦っている。
霞冴の足は、すぐに宮希のそれを追い抜かした。
***
二階へと上がり、再びがらりと変わった部屋の様相に、今度は具体的に形容する言葉も出なかった。
「なんだ、これは……」
歩みを忘れる光景。階段から上がってすぐ、殺風景な大部屋に出るはずが、別世界に迷い込んだかのような景色に出迎えられた。
鏡だ。
姿見ほどの幅と、ギリギリ飛び越えられない高さを持った縁なしの鏡が、人二人が通れるほどの幅で左右向かい合わせに立てられ、それが不吉なことに前方見渡す限りずらりと続いている。一本道の先、突き当たりだけ、鏡が二人の呆けた顔を正面から映し出していた。行き止まりか、直角な曲がり角だろう。
その鏡が、ガラスでできたものではないことには、二人ともすぐに気づいた。
「寒いね……最初のところみたい……」
「これだけ氷が並んでいるんだ、それもそうだろう」
反射率を絶妙に調節して作られた氷製の鏡は、実に完成度の高いものだった。並みの氷猫にはできない職人技だ。無論、クロやダークには作れまい。
「あのつららといい、オレたちの進む先には氷属性のチエアリがいることは間違いなさそうだな」
「だね……」
確実に遭遇する。多かれ少なかれ攻撃力を持つフィライン・エデンの猫、その中でも戦闘に秀でた希兵隊員を葬ってしまう、最悪の敵と。
もしかしたら、先に行っている彼にとっては、それは未来形ではなく――。
「永遠ー……」
恐る恐るながら、霞冴は遠くへ投げかけるように呼んでみた。けれど、返ってくるのは残響だけだ。
(このフロアにもいない? まさか……)
ぞくり、と震えが袴の中のすねを這い上がった。そんなわけがない。あの減らず口の護衛官は、並大抵の攻撃では捕らえられないのだ。それは、霞冴自身が手合わせをしてよく知っていること。
(とにかく、今は私が永遠の代わりに宮希を守らなくちゃ。そして合流したら、永遠より活躍して、言ってやるんだ。『私の方が強いよ』って)
「どうする、宮希? 道なりに進んでみる? それとも、鏡を破壊して階段を探す?」
「破壊は優先順位を下げよう。こんな狭いところで術を使うと自爆しかねないし、刃こぼれしても困るだろう」
荒事を知らない華奢な手が、コツコツと鏡の表面を打った。音からして、厚さもだいぶありそうだ。
「十分に注意しながら、素直に進んでみよう。今のところ、嫌な気配はしないが、それでも何かいるとしたら、それはチエアリだ。一本道ということは、遭遇したら避ける余地もない。少なくとも先手は取られないようにしないとな」
霞冴は頷き、宮希と並んで慎重に歩いた。
傍らの鏡たちが、二人を前にするたびにその姿を映し出しては、少女を怯えさせる。鏡像とわかっていても、視界の端で何か動いては、その都度体をすくませて振り返るしかない。
「時尼」
突然、宮希が足を止めた。後方を振り返っていた霞冴は驚いて飛び上がり、着地ざまに柄に手をかけた。
「待て、落ち着け。敵襲じゃない。……足元、気をつけろ」
「え?……わ」
二人の目の前の床には、主体なら通れるだろうという大きさの円い穴があった。そう深くない位置に、ぴったりふさぐ蓋がしてある。この蓋が、穴を上からの一方通行にしている弁だろう。
踏まないように避けて通り、先を急ぎながら、霞冴は首を傾げた。
「ここからクロが落ちてた……でもクロの気配はない。もういないってことだよね?」
「永遠が片付けてくれたと考えたいところだな。しかし、クロが落ちてくるタイミング……あの数量を調節するかのような注がれ方は、クロが勝手に落ちたのではなく、知能あるものが制御していたのだろう。クロをたどっていけば必ずチエアリにたどり着くというこ……」
――という彼の言葉の最後の方は、霞冴の耳には届いていなかった。
「うわぁぁあ!?」
心臓を縮み上がらせるような悲鳴に、宮希の反応は一拍遅れた。霞冴の指差す先、前方左側、つまり宮希に近い方の氷に、黒い影が映っていた。考え事をしていて、かつ並びが視線と平行に近かったせいで、早期の察知ができなかったのだ。
こちらを見て、体と同化するような黒い瞳を妖しげに細める者の名を、霞冴は震え声で音にした。
「チ……チエアリ……!?」
一瞬で鯉口を切った。前方の鏡に映っているということは、本体は後方、つまり霞冴の背後だ。いつの間に、不覚、と焦りを噛み締めながら振り返り――。
「……ぇ」
唖然とする霞冴の背中に、宮希の切迫した声が飛ぶ。
「違う、時尼!」
霞冴のように振り返ることはせず、黒い姿の正体を見極めていた彼は、巧妙なトラップにかけられていることに気づいた彼は――誰もいない後方に呆然とする霞冴に全力で叫んだ。
「あれは鏡じゃない、ただの透明な氷だ!」
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