フィライン・エデン Ⅱ

夜市彼乃

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9.過去編

44一蓮托生と今際の科白 ①

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 やり残したことはあるか、と聞かれても、すぐには何も思いつかないが、ならば今日死んでもよいかと聞かれれば、答えは当然ノーだ。
 姉のところに行ける、といえば聞こえはいいが、きっと彼女は喜ばないだろうし、本当にそんな甘言が実現するのかも怪しい。
 だから、体調は万全に整え、刀の手入れも万全に行い、夢の中でさえ得物をふるった。深呼吸で恐怖を遠ざけ、努力の寄せ綱で自信を手繰り寄せ、万が一にも文字通りの致命的な失態を侵さないように努めて。
 そんな準備期間も、もう終わりだ。総司令部室の壁で、丸い時計は急かすように九時へと迫っていく。秒針に急き立てられたのか、あるいは内なるものにそうされたのか、銀髪の剣士はすでに隊舎の外、集合場所に行ってしまっている。霞冴がじっと立っていれば、部屋に響くのは宮希が押し入れから霞冴用の一振りを取り出す音だけだ。
「ほら」
 本来、真剣を持つことが許されない立場の霞冴に、稽古以外では総司令部室で預かっているそれを渡す宮希。慣れない持ち方をする白い手から受け取った日本刀は、いつもの数倍、数十倍も重く感じた。それはきっと、彼の命の重み。
「詳しくないオレでもわかるくらいに手入れがされていたな。お前がやったのか?」
「うん、コウに手伝ってもらってね。稽古用だけに使われてたせいか、ちょっと状態が甘いかなって思って」
 霞冴はそれを腰帯に差そうとして、ふと思い至った。時間もないことだし、と要求だけ簡潔に述べる。
「ねえ、宮希。……刀、もう一振り、ない?」
「あるにはあるが、お前の言葉を借りるなら『状態が甘い』ぞ。なんだ、折れた時のために予備が欲しいのか? 玄武隊の刀の残骸を見れば、まあ気持ちもわかるが」
「ん……まあ、そんなとこ。だけど、状態が悪いならいいや。この一振りで頑張るよ。……じゃ、行こっか」
 霞冴は、わざと軽い口調でうながした。残響は乾いていて、どこかむなしかった。
 明るい声を出したところで、状況は何も変わらない。これから赴くのは、戦場だ。道場での試合とも、時折遭遇するクロとの戦闘でもない、前代未聞の戦力との死闘。気を抜けば足は震えそうで、恐怖に涙がにじみそうになる。
 しかし、今の霞冴には守るべきひとがいる。自ら、彼を守る砦となりたいと願った彼女が、そんな情けないことを言うわけにはいかないのだ。
 霞冴は緊張を押し隠して微笑むと、くるりとドアのほうを向いて足を踏み出した。後ろから、同じように踏み出された革靴の音と同時、声がかかる。
「時尼」
「うん?」
 決戦前の忠告でも賜るのだろうか、と振り向いた霞冴に、最高司令官は至極真剣な顔で、大層真面目な声で、言った。

「誕生日、おめでとう」

 ――しばらく、体の動きも瞬きも思考さえも、全てが停止した。
 最初に我に返ったのは瞬きで、何度かぱちぱちと繰り返した後、追いついた思考にせっつかれてようやく体が動いた。
「え、え? な、何、こんな時に!」
「今日、お前の誕生日だろう?」
「そ、そうだけど! よりによってなんで今!?」
 激しくうろたえ、せわしなく手を宙に泳がせる。
 霞冴でさえ、ルシルとの和やかな歓談から一変したあの夜以来、忘れかけていたことだ。十二月三十一日は、大好きだった姉とおそろいの誕生日。それを知っているのは、親友のルシルとコウ、忘れていなければ霊那や撫恋といった同期たちくらいだろうと思っていた。そこへ、慮外の人物から、それもまさかこの少年から祝いの言葉を口にされては、動じるほかない。
 まさか、わざわざ霞冴の誕生日だけ覚えていたわけでもあるまい。彼のことだ、書類を見て知って、その傑出した頭脳でもって記憶していたのだろうが、あえて口に出されると嬉しさと気恥ずかしさで冷静さを失ってしまう。
 出撃前に心を乱すなんて、そもそもそんな場違いなことを、と非難に似た反応を声に出しかけた時。
「なんでって、もう言えなくなるかもしれないからだよ」
 祝福と同じトーンで放たれた言葉に、霞冴は息を詰まらせた。目を見開き、まじまじと彼の顔を凝視する。宮希は、表情一つ変えていなかった。見つめられても、自分は間違ったことなど言っていないと言いたげにまっすぐ見つめ返してくる。冗談めかした様子などみじんもない。
 だが、それこそ、霞冴にとっては悪い冗談だった。
「何言ってるの」
 腰帯に差した鞘をぎゅっと握る。右手を胸に当てて、一瞬たりとも彼から目を離すことなく、一歩分の距離を詰めた。
「そんなことない。キミは生きて帰るの。私が必ず守るから。その言葉は、ちゃんとここへ戻ってきて、勝利を喜び合うときに聞きたい」
 全霊を込めた思いが伝わったのか、宮希はほんのわずかにおもてに驚きをにじませた。それすらも黙ってじっと見つめていた霞冴に、やがて彼は「……そうだな」と静かに瞑目した。
「それなら、一つ約束しろ。お前も生きて帰るんだ。でなきゃ、ここへ戻ってきたオレは、いったい誰に向かっておめでとうと言えばいいんだ」
 彼の言葉に、そりゃそうだ、と噴き出しかけた霞冴は、宮希の目が少しも笑っていないのを見て、失笑を了解の意を伝える微笑に変えた。これは、最司官命令だ。
「決してたがえるなよ。いいか、絶対に死ぬな。オレの言いつけ一つくらい、守れるな?」
「うん!」
 大きくうなずいた霞冴に、満足げに顎を引くと、宮希は歩みを再開して、静かに告げた。
「では、行こうか。……決戦だ」

***
 各隊、少しずつ時間をずらして到着した、午前十時の御里山跡。
 ここに来るまでに、全員、町の死骸ともいえる災害廃棄物の山を目の当たりにした。回復要員として同伴している麒麟隊員の一人が泣き出してしまうほどの惨状だった。チエアリが消えるまでは立ち入り禁止区域になっているここら一帯だ、土砂と瓦礫の下にはそれこそ本当の死体が埋まったままなのだろう。だが、それは口が裂けても言うまい、と宮希は唇を引き結んだ。
 早く彼らを弔ってやるためにも、今日で片を付ける。そのためには――。
 宮希にならって、全員その建物を見上げた。
 平らな土地に屹立する木製の塔。実物は想像よりも高く大きく、しかし外観はあのスケッチの通りだった。情報管理局長の念写の精確性がうかがえる。
 そこに四つ接合されている一階建ての棟、さらにその正面にある、扉もない四角い入り口……と視線を下ろしていき、宮希は一同を振り返った。
「これよりチエアリのアジトの攻略を行う。今朝、情報管理局に再度確認したところ、内部のクロとダークは増えているようだが、チエアリの頭数は変化なしとのことだ。全員、作戦はわかっているな?」
 皆、首を縦に振る。霞冴も、頭の中で要所五点を復唱しながらうなずいた。
 一つ目。一度入ったら出ずに突き進み続けること。外で待機している麒麟隊の助けが必要なときは、建物内の安全な場所においてピッチの一斉送信で知らせ、赴いてもらうこと。
 二つ目。一階建ての低層棟及び各階に入る前と、そこを攻略した後は、一斉送信でその旨を連絡すること。なお、戦闘中の集中をそがないために、基本的に連絡は通話ではなくメールでおこなう。
 三つ目。もし、内部が別々の部屋になっていた場合は、それぞれの最上階まで攻略したのち、指示を仰ぐこと。別の方角のフロアに助太刀してもらう可能性がある。
 四つ目。今回の作戦は、塔の入り口をふさぐことで市民をチエアリの脅威から守ることを大きな特徴としている。そのため、作戦が終わるまでは塔をなくすわけにはいかない。ゆえに、術者を失った塔が崩壊するのを防ぐため、術者と思われる草属性のチエアリを見つけた際は、倒さず、時間を稼ぎながら最司官の指示を仰ぐこと。
 五つ目。――最後まで諦めずに生き抜くこと。
「では、突入するぞ。……またここで会おう」
 宮希はそう言うと、部下たちに背を向けて解散の意を示し、北の低層棟へと歩き出した。霞冴と永遠はその両側に付き従う。やがて、青龍隊、朱雀隊、白虎隊とそれぞれの戦地へ向かった。本部待機の深翔を抜いた四名の麒麟隊員は、いつまでも彼らの姿を見送っていた。
 近づいていくにつれて、希兵隊本部の道場二つ分ほどある低層棟が大きく迫ってくる。武者震いをこらえる霞冴と、依然ポーカーフェイスの永遠に、宮希が声をかけた。
「二人とも、体調は万全だな?」
「ばっちりです、司令官」
「私も体力満タンだよ。宮希こそ、昨日やっと休めたんでしょ? 三者会議が終わった後も、外回りしてて……」
「問題ない。希兵隊不在中の本部や町を守ってくれる人手はとんとんと集まったからな。そう無駄に走り回ることもなかった。ありがたいことに、声をかけた相手は全員オーケーを出してくれた。使命感からボランティアとして集ってくれた希兵隊卒業生。その立場上、戦闘力と度胸にそれなりの覚えがあるフィライン・エデン代表。……依頼を持ち掛けたら真っ先に電卓持ってきやがった……」
「ま、まあまあ……」
 その姿が目に浮かんで、苦笑いしながらなだめる霞冴。永遠は門外漢の顔をして、不思議そうに二人を見比べている。
「でも、みんな宮希の呼びかけに応じてくれたんでしょ?」
「ああ。最高司令官に頼まれたら、さすがに断りにくかったろうな……」
「違うよ。きっと宮希の人徳だよ」
 ちらっと視線を投げかけてきた宮希に、霞冴はにっこり微笑む。彼は「だといいな」とだけ返して、足を止めた。ちょうど、低層棟の側面と正面の間の角から入り口をのぞく格好で、彼は二人に最終確認を取った。
「もうすでに感じるな。中にいやがる。護衛のお前たちが先に入ることになるが、準備はいいか」
「はい、いつでも」
「任せて、宮希」
 気勢充分の二人は、宮希の手ぶりに従って、文字通りの鞘持ち立てで乗り込んだ。

***

 内壁まで木目模様一面の屋内。外から見て取れたとおり、窓らしきものは一つもない。よって外から採光はできないが、その代わり、白く光る水晶らしきものが壁に等間隔にはめ込まれ、十分な照明となっている。ドーム型の天井は高く、猫の跳躍力を十分発揮しても頭を打つことはないほどはあった。
 特に変哲のない内部で、二人の守護者に続いて立ち入った宮希は、すっと目を細めた。
「これはこれは……」
 つぶやいた言葉は、白い煙になって舞いあがる。
 三人は、十二月も末とはいえ日中の屋内にもかかわらず、極寒に迎えられていた。見える限り三つ、大きなつららまでできている。
 体が固まってしまわないよう、防寒対策は整えてきているものの、入った瞬間はぶるりと身震いしてしまう。特に、温度調節機能も持ち合わせた執行着ではない宮希は、そのためか両腕を抱えるようにして耐えていた。
 だが、寒さの理由やら仕組みやらについて考察する前に、一同は身構えた。
 きんと冷え切った、奥行き方向に長い広間には、巨大な体躯を持つダークが三体、闖入者にギラギラした金の目を向けていた。ちょうど半分ほど進んだところの左の壁際に一体、線対称に右の壁際に一体、そして突き当たりの出口をふさぐように最後の一体。回避の余裕を持てる空間的広さと、死角のない見晴らしのよさだけが救いだ。
 霞冴が柄に手をかけながら顔をしかめる。
「ダークなんて、執行部員一人の手にも余るっていうのに、同時に三体も……」
 かてて加えて、彼女らは総司令部員だ。護衛官の永遠でさえ、ダークに立ち向かった経験すらない。
 やはり、執行部でもない少年少女三人だけで突入するのは無謀だっただろうか。そう思った霞冴の隣で、同じく柄に手を添えた永遠がそっけなく口を開いた。
「じゃあ、諦める?」
 チキッ、と鯉口を切る。その目は、霞冴を一瞥もせず、ただダークの一体にぴたりと据えられていた。
「それとも、司令官も前に出す? そしたら、三対三だよ」
「……冗談!」
 声で押し出すように抜刀すると、霞冴は硬質な音とともに正眼に構えた。剣先の延長は、永遠が狙いを定める個体とは異なるダークの胴体だ。立ち位置を整える。どう回り込んでも、決して自分を越えて後方には立ち入らせぬように。
「こんなひ弱な司令官を前線に出すわけにはいかない。私たちで食い止めるよ、永遠!」
「君は余計な言葉が多いね。前者は聞き捨てならないし、後者は……言われるまでもないっ!」
 銀色の弾丸とアリスブルーの疾風が同時に馳せた。身長の三倍ほどのジャンプ、その飛び上がりざまに、永遠は一瞬でダークの顔の下を斬り裂いた。宙返りを打ってダークの背後に着地すると、淡色のマフラーがひらりと舞い落ちるより速く二撃目に移る。振り向く時間も、触手を伸ばす余裕も与えず、闇色の後頭部を斬り上げた。
 隣では、胴斬りに激昂したダークが触手を振り回していた。自由自在に動くしなやかな触手は、どこまでも追ってくるが、霞冴は得意の跳躍で軽々とかわす。そのさなか、体をひねりながら刀身に力をかけ、ひそかにエネルギーをため込んでいく。今、と見切ると同時、勢いを殺さず放たれた斬撃が黒々とした細長い腕に、そしてダーク本体に叩き込まれた。傷口から黒い霧を噴射しながら、ダークは苦しみ悶えるかのようにうごめく。手ごたえは十分だ。
(よし、このまま押し切って……)
 勝機を見出して軌道に乗りかけた霞冴は、追撃のために腰を落とした姿勢のまま、ハッと目を見開いた。
 ダークを相手取るのは初めてとはいえ、目撃自体は何度かしたことがある。それらの経験からは予測できなかった現象が、目の前で起きていた。
 裂傷から漏れ出た黒い霧が、体内へと戻っていっている。否、厳密には、出て行った闇色とは別に、よそから供給されていた。
 いったいどこから――と霧の流れを目でたどった霞冴は、その発生源を見て、信じられない思いとともに歯噛みした。
「あれは……ただのつららじゃなかったのか!」
「みたいだね」
 刹那の間に霞冴のそばに現れた永遠は、背中を合わせたまま冷静に応じた。
 どうやら、永遠が相手にしていたダークも同じようにして回復したらしい。天井の隅から垂れ下がった、妙に大きなつらら。あれは、禍々しい気でできたエネルギーの塊だ。クロに比して知能の高いダークとはいえ、そこまで器用な真似ができるとは思えない。あの文明じみた工作は、間違いなくチエアリによるもの。チエアリが、ダークを復活させるべく細工したに違いない。
「ならば、やることは一つだな」
 宮希の言葉に、二人はうなずく。ここは兵糧攻めだ。
「尾根の笠、彷彿のとばり、すくみて形かた成す進撃の未練!」
 刀を持った右手を胸の高さに持ち上げ、その手首に左手首を乗せる。安定させたところで唱えた詠唱に、源子たちが霞冴の左手に集まり始めた。
「声渇する暗黙で幕切りの時を満たせ! 煙れ、霧砲!」
 霧が集結してできた砲弾を一息に打ち放つ。空気をかき分けて突き進んだ霧砲は、つららめがけて飛んでいき、ダークの命綱を砕かんとして――道中で、ダークの触手に殺された。
「うっ……そ、それなら! 梓弓の友、春秋に分かたれる白煙、不可視に迫る閉じ込めし壁、彼我のれいを証明せよ。今、鼻先を揃え、慟哭に発ちて牙なきあぎとを開け!」
 気を取り直して、今度は刀を収めて両手を突き出しながら、別の詠唱を放った。片手には余る量の霧が荒々しく渦巻き、霞冴の眼前に真っ白な奔流を形成する。霧の塊が、霞冴の半身ほどもあろうかという規模に発達したところで、彼女は息を整え、高らかに唱え上げた。
「唸れ、白風っ!」
 集積した濃霧が、崖にぶつかりそそり立つ白波のような勢いで噴き上がる。反動でよろけながらも、必死に踏ん張って打ち放った烈風は、邪魔しようとするダークの触手を吹き飛ばしてつららに迫った。手元から離れた白風が天井付近を煙らせるのを見上げて、霞冴はぐっとこぶしを握った。
 ――が、すぐにその瞳は落胆に彩られる。薄らいだ霧の向こう、何食わぬ顔をしたつららが顔をのぞかせていた。霧砲ほど凝縮されているわけではない白風は、勢いこそあるものの、重力に逆らって噴射させたところで、目標を打ち砕く前に散ってしまう。それももっと威力があれば話は別だが、これが霞冴の限界だった。
(やっぱり、お姉ちゃんみたいにはいかない……)
 源子侵襲症の影響で術の火力が桁違いだった姉。彼女なら、高さ約六メートルもの天井から垂れ下がっているつららを術で粉砕することなど造作もなかったかもしれない。
 そんな詮無いことを夢想する霞冴の傍らで、永遠がぽそっとつぶやいた。
「ダメじゃん」
「し、仕方ないでしょ!? 高すぎるんだもん!」
「ぼくがやるしかないね。ほら、ダークの相手しててよ。君がやってるあいだはぼくが牽制してたんだから」
 そう言って納刀し、両手を突き出して詠唱を始める永遠に、むぅっと唇を尖らせてから、霞冴は動きの止まった彼に近づくダークを白風で後退させた。ほか二体のダークも集まろうとしてくる中、詠唱が完了し、声は幼いながら明瞭な発音の言霊が発せられた。
「潰せ、鈍撃どんげき!」
 永遠の手のひらの前で浮いていたいくつもの鋼のつぶてが、数ミリ秒ずつずれて次々に飛んでいく。霧よりも固く、速度も申し分ない攻撃に、悔しいながらつらら破壊成功なるのでは、と霞冴も期待したのだが――。
「ちょ、全部外れてるけど!?」
「……飛び道具は専門外なのっ。ぼくは近接戦担当だから」
「そんなので私にダメ出ししないでよ! 大みえ切ったくせに……って、わあ!?」
 軽くいさかいが始まったところに、ダークの奇襲。反射的に飛び退った二人はかすり傷一つ負わなかったが、受け身をとって転がった霞冴は「道」を開けてしまったことに青ざめた。奥にいたダークの口元に冷気が集まったかと思うと、ごつごつとした氷塊が後衛の少年に飛来する。霞冴は脇目も降らず全速力で駆け寄った。
「危ない、宮希……あだっ!?」
 彼の五歩手前ほどで半透明の壁に思いっきり激突した彼女は、同じ運命をたどった氷塊がばらばらに粉砕する横で、額を押さえて涙目でうずくまった。氷塊とともに仲間まで弾いてしまった淡い橙のドームが、「あ、悪い」と珍しくきまり悪そうな主の命で消失する。宮希とて、結界くらいは張れるのである。
「大丈夫か?」
「宮希のバカぁ……」
 霞冴は差し出された手を握って立ち上がると、此れはしたりという顔の宮希を恨めしそうににらみ、ふくれっ面で再びダークに対峙した。
「私の霧術じゃ届かないし、永遠の鋼術はノーコンだし、だからといってジャンプして斬れる高さじゃないし! こうなったら、つららの供給が切れるまでダークを痛めつけて……」
「待て、落ち着け。仕組み次第ではそのやり方は通用しないかもしれないぞ」
「どういうことさ?」
 肩をつかんで引き留める宮希を振り返って、霞冴は不服そうに問いかける。宮希は、物言わず見下ろしてくる氷の牙を見据えた。
「消耗品じゃないかもしれないってことだ。エネルギーを与えているのではなく、治療している、と言えばイメージしやすいか。そうだとしたら、『供給が切れる』なんてことは一生起こらない」
「じゃあ、どうするんだよ?」
「破壊して機能を殺す。罠の可能性もあるが、それならもっと手の届きやすい場所に設置するはずだからな」
「だから私たちじゃ無理だって……」
 つい泣きごとを言いかけた霞冴の肩が、ぐいっと強い力で後ろに引かれた。とん、とぶつかったのが宮希の肩だと気づくと、心臓が空気も読まずにドキンと跳ねる。接した体は、温度を感じる前にすぐに離れた。
 彼は、悠然と霞冴の前に歩み出ていた。
「ちょ、宮希……!?」
「永遠、時尼。ダークを三体とも、オレから向かって右方向へ引き付けろ」
「な、何する気……?」
「わかりました、司令官」
 霞冴の戸惑い声にかぶせて、永遠が歯切れよく了解の意を示した。面食らう霞冴を「何してんの」と目で催促して、自分が引き受けた右側のダークの足元へとかけていく。風属性らしいダークが放った鎌鼬をいとも簡単に避けると、飛び上がりざまに逆袈裟斬りを見舞った。表情らしい表情もないのに、黒い怪物がいきり立ったのが分かった。宮希の指定した方向へ逃げていく永遠を追って、右方向、初期位置より壁に近い場所へと移動していく。
 霞冴も、最初に仕掛けた左側のダークを水平斬りで挑発し、永遠が向かったほうへ誘おうとする。だが、どうしたものか、ダークは霞冴に触手を伸ばしたり、ホースのように激流を浴びせたりしようとはするものの、自身はその場から動こうとしない。少し霞冴のほうへ近づいても、またすぐに左側へ戻って行ってしまう。
「ああもう、なんでだよー!?」
「もしかしたら、守備位置なのかもしれないな」
「守備位置!?」
「つららを守るために、一定距離以上離れないようにしているのかもしれない。奥のダークも動く様子がないしな。三体のダーク、三本のつらら。持ち場を決めて、己の命綱を守っている可能性がある。いよいよ破壊のしがいが出てきたな」
「しがいとか言ってる場合!? このダークを動かさないと、それも……」
 刀を振り回しながら叫んでいるせいでぜいぜい言いながら、霞冴はダークにつけた傷がたちどころに回復していくのを忌々しげにねめつけた。このままいけば、霞冴のほうが先に力尽きてしまう。
 と、
「なら、その場でいい。そのまま相手をしていろ」
 平然とした宮希の声に、霞冴は息を整えながらそちらに目をやった。そして、泰然と立っていた彼が動き始めるのを見て、落ち着かせようとしていたはずの呼吸すら止めて瞠目する。
 これまで懐手のままだった最高司令官は、幽光を宿した両手を、胸の前へゆっくりと持ち上げた。右手につららが来るように立ち、顔だけそちらへ向けると、鷹揚とした声音で唱え上げる。
「脇見ぬ遊子ゆうし、影殺すひじり、幻惑と現実は邂逅する」
 宮希の手の中の仄かな光が、目を射るような閃光へと化す。思わず袂で目元を覆った霞冴が、次に宮希を直視したとき、彼の右手に見慣れぬものを認めた。
 握った手から上下に伸び、弧の形に湾曲した細長い光。頭上高くまで届く上端と、膝のあたりまである下端を、さらに細い一条が直線で結ぶ。実体はないはずなのに、げに物体として存在しているかのように現れたそれは、宮希の身の丈以上もある、光の弓だ。
(これが、宮希の猫術……。光術なんて、初めて見る……!)
 彼の猫種は、初任の頃に口頭で聞いて知っていた。しかし、戦う機会はもちろん、それを業務や生活に応用する様子もなかったため、三年も近くにいながら、宮希が猫術を使うのを目の当たりにしたのは今日が初めてだったのだ。光猫は遺伝の形質的に珍しく、光術の発動は学院の映像教材でしか見たことがない。
 その美しくも厳かな光景を呆然と見つめていた霞冴は、何かを察知したらしいダークが宮希に目を向けたのを見て、慌てて動いた。ちょうど口の前で蓄えだした水の球を、刀で十字切りにし、不発に終わらせる。なおも霧術と剣術でダークの注意をひきつけながら、霞冴は合間合間に宮希の挙動に目を配った。
 黄金色に輝く弓の中央付近に、左手に持った光の矢をつがえると、宮希はそのまま両の拳を頭上まで持ち上げ、下ろしざまに左右に引き分けた。丁寧ながら流れるような所作で、弓構ゆがまえから打ち起こし、会の姿勢までたどり着くと、彼はブロンズの瞳でつららに狙いを定めた。その直線距離、およそ二十メートル。
「む、無理だって、その距離じゃ!」
 噴射した霧の反動で後方に吹き飛んだ霞冴は、体をひねって着地しながら叫んだ。だが、宮希は集中を高めつつ、平然と言い放つ。
「これくらい離れていないと、仰角が大きすぎてかえって照準がぶれるんだよ」
「でも、そんな細い矢……!」
「お前がオレの可能不可能を決めるな。問題ない、必ず当てて見せる」
 ふ、と短い呼気の後、光の矢が一層輝きを増した。
 そして、
「示しに乗りて永遠を目指せ――射貫け、煌条こうじょう!」


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2022.4.1より書籍1巻発売! 2023.7.26より2巻発売中です! 2024.3.21よりコミカライズ連載がスタートしております。漫画を担当してくださったのは『ぽんこつ陰陽師あやかし縁起』の野山かける先生! ぜひチェックしてみてください! ▽  伯爵令嬢アリシアは、魔法薬(ポーション)研究が何より好きな『研究令嬢』だった。  社交は苦手だったが、それでも領地発展の役に立とうと領民に喜ばれるポーション作りを日々頑張っていたのだ。  しかし―― 「アリシア。伯爵令嬢でありながら部屋に閉じこもってばかりいるお前はこの家にふさわしくない。よってこの領地から追放する。即刻出て行け!」  そんなアリシアの気持ちは理解されず、父親に領地を追い出されてしまう。  アリシアの父親は知らなかったのだ。たった数年で大発展を遂げた彼の領地は、すべてアリシアが大量生産していた数々のポーションのお陰だったことを。  アリシアが【調合EX】――大陸全体を見渡しても二人といない超レアスキルの持ち主だったことを。  追放されたアリシアは隣領に向かい、ポーション作りの腕を活かして大金を稼いだり困っている人を助けたりと認められていく。  それとは逆に、元いた領地はアリシアがいなくなった影響で次第に落ちぶれていくのだった。 ーーーーーー ーーー ※閲覧、お気に入り登録、感想等いつもありがとうございます。励みになります。 ※2020.8.31 お陰様でHOTランキングに載ることができました。ご愛読感謝! ※2020.9.8 多忙につき感想返信はランダムとさせていただきます。ご了承いただければと……! ※書籍化に伴う改稿により、アリシアの口調が連載版と書籍で変わっています。もしかしたら違和感があるかもしれませんが、「そういう世界線もあったんだなあ」と温かく見てくださると嬉しいです。 ※2023.6.8追記 アリシアの口調を書籍版に合わせました。

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