フィライン・エデン Ⅱ

夜市彼乃

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9.過去編

43一水盈盈と暗黒の師走 ②

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***

城鐘しろがねトワと申します」
 三月三十一日、彼が顔合わせのために総司令部室を訪ねてきたとき、霞冴もその場に居合わせていた。この時には、つかさはとっくに実家に帰っている。
 双体で現れた彼は、霞冴よりも五センチほど小さな、銀髪の少年だった。コウよりも少し青みの強い、白銅色の髪は、首の後ろでちょこんと結わえられており、長い前髪が左目にかかっている。幼い顔立ちには、あまり見てわかる表情が浮かんでいない。室内だというのに、なぜか銀色がかった白いマフラーをしているのが特徴的だった。
 宮希は、仕事の手を止め、足を組んだまま椅子だけ回して来客に向き直った。
「確か、漢字名は『永遠』だったな。明日からよろしく頼む。オレが最高司令官の……」
「茄谷宮希司令官」
 言葉を先取りされて虚を突かれた宮希と、傍らで書類を抱える霞冴の前で、永遠は驚くべき行動に出た。
 いきなり腰を落とし、片膝をついたかと思うと、まるで持ちうるすべての敬意を差し出すかのように、それは慇懃に深く頭を垂れたのだ。霞冴が手にしていた紙の束を音を立てて落としたのも無理はない。あの宮希でさえ、言動能わなかった。
 固まる希兵隊の長に、永遠は最敬礼のまま言う。
「覚えていらっしゃるかわかりませんが、あなたはぼくとぼくの母を救ってくれたのです。二年前、夜も遅い時間に、ぼくは腕の骨を折ってしまって、母にお医者さんのところへ連れていかれました。親切にも診てもらえたその帰り、夜道でぼくと母はダークに襲われかけたんです。ぼくはケガをしていた上、すっかり焦ってしまっていたし、母はその時、お腹にぼくの妹がいて、足止め程度の術も満足に使えませんでした。その時、希兵隊員さんが見事にやっつけてくれたのです」
 恍惚と語られる話を、相槌もなしに聞いていた宮希は、もっともな指摘を口にした。
「いや、それはそいつに恩を感じろよ。なぜオレだ」
「だって、その赤い首輪の草猫さん、『せっかく寝てたのに叩き起こしやがって、あのチビ司令官』とかぼやいてたんですもの」
「……」
「後方から炎で援護していた、青い毛並みに赤い目をした女の隊長さんがなだめても、『茄谷宮希なんて、所詮にわか最司官のくせに』とか言って、愚痴を止めなかったんですもの」
「…………」
 無表情のまま、濁った目で「欅沢レノン……」とこぼす宮希を、ぱっと顔を上げた永遠が見上げる。表情は変わらないのに、その目は、既視感を覚える憧憬で輝くまなざしだった。
「つまり、ぼくと母……そして無事生まれた妹を助けてくださったのは、嫌々出向いたあのひとじゃなくて、夜にもかかわらず隊を出動させてくれたあなたなんです! ぼくはこの恩を返したくて希兵隊を志望しました!」
「そういえば、そんな志望理由のヤツが通ってたな。お前だったのか」
「まさしくです! あなたが救ってくれたぼくの命はあなたのものです。なんなりと使ってください!」
「極端すぎるだろ」
「あなたのためなら散れます!」
「散るな、命は大切にしろ」
「じゃあ、せめてあなたのために戦います!」
「総司令部は戦闘要員ではない」
 ぽんぽんと続いていた言葉の応酬がぴたりと止んだ。永遠はきょとんと口を半開きにして固まっている。何が引っ掛かったのか、といぶかる間に、その答えが永遠の口から浮かびあがるように出てきた。
「もしかして……護衛官の制度って、なくなったんですか?」
「……何?」
「ぼく、護衛官になりたくて総司令部を志望したんです」
 宮希は目を丸くしたまま、あごに手を当てた。
 最司官護衛官は、襲ってきたクロやダークを倒すというよりも、最司官を守り切るのが使命だ。ゆえに、体の大きなダークを仕留められる火力も、チームのための補助的な術の才もいらない。求められるのは、一人でトップを守り抜けるだけの俊敏さ、そして近接戦の能力だ。
 その近接攻撃にもいろいろあるが、術のような発動時間もいらず、リーチが長いという理由で主要になっているのが刀である。そのため、最司官護衛官はつかさのような剣術に秀でた者が適役なのである。
 だが、剣が得意だからといって、護衛官を目指して総司令部を希望する者はまずいない。なぜなら、護衛官とて平常時はただの総司令部員であり、書類整理やら備品管理やらモニタリングといった地味な作業に追われることになるからだ。そのくせ、入隊試験は難関で頭の回転の速さが求められる。そんな条件なのだから、自らの腕を振るって誰かを、あるいは何かを守りたい者は、必然的に執行部へと流れていくのである。
 確かに、永遠の志願書には、それなりの剣術歴が書かれていた。だからこそ、堂々と護衛官志望を口にしたのだろうが、同時に、だからこそ、執行部を選んでもおかしくはなかった。よほど、宮希の護衛に尽力したかったのだと見える。
 ……と、そんなことを考えながら思案にふける宮希の横で、霞冴は別の方向で考えこんでいた。
(ど、どうしよう……私より優秀だったら、護衛官は永遠になっちゃうんだよね……!?)
 ――新入りがいたとしても、そいつがお前よりも腕の立つヤツで、護衛官を希望していたら、そいつを任命することになるだろう。
 半年少し前、彼はそう言った。
 宮希は、霞冴の瞬発的な太刀筋を見て、信頼に値すると評価してくれたのだ。稽古暦ではなく、実力をもって判断する。それならば、入ったばかりの永遠の腕前など未知数なのだから、霞冴を選ぶのが道理だろう。そう思う一方で、永遠がその霞冴をも凌駕する戦力である可能性を、聡い宮希が無視するわけがないことも分かっていた。
 共に過ごした時間の長さなら霞冴がまさっている。だから霞冴の方を信頼するはず……とも言い難い。彼は、霞冴より一年早くに出会ったチャミィのことも、あっさりと疑った。筆跡が違うという自分の認識を優先して信じたのだ。宮希が永遠の優勢を認めれば、それの前では霞冴の二年間のアドバンテージなど無意味なのである。
 熱意のこもった視線を送る永遠と霞冴。その間で、宮希は斜め下を見つめて熟考していた。やがて、決心したように短く息を吐くと、彼はきりりとツリ目がちな瞳で二人を交互に見た。
「実は時尼も護衛官志望なのでな。では、こうしよう。明日、入隊の式が終わったら、選抜戦を行う。術は相性があるから、木刀を用いた剣戟のみの勝負だ。隊則でも、一応、こういう形は認められている。勝ったほうが護衛官就任で恨みっこなしだ。いいな?」
 霞冴にとっては希望の光だ。つまり、宮希に実演をもってふさわしさを見せつけろというわけである。彼女は迷わずうなずいた。一方の永遠を見れば、彼はぽかんとしていて、首を縦に振らない。
「どうした、城鐘。何か不服か?」
「いえ、不服とかではなくて……」
 そう言って、永遠は、何の抵抗もないかのように流れる仕草で霞冴の方へ腕を伸ばし、人差し指でぴしりと彼女をさして、
「このひと、刀とか使えるんですか?」
 飾り気のない言葉で、霞冴のプライドをひっかいた。
 唐突に放たれた無神経な言葉に、霞冴は言い返す言葉も思いつかないほど動揺した。確かに、見た目のんびりしているとはよく言われるし、走りも遅く、鈍くさいと呆れられることもしばしばだ。
 それでも、剣術道場ではそれなりの戦績だったし、つかさともほぼ互角に対峙できた。師範にも一目置かれていたほどだ。たとえ永遠が、霞冴が道場の出だと知らなかったとしても、そんな彼女にとっては、あの言い草はちりりと胸を焼く。
 宮希も、自分に対してとは打って変わって無骨な物言いにたじろぎながらも、霞冴のフォローにはきちんと手を回す。
「ああ。使える、というか、かなり手練れのようだ。オレは一度しか実戦を見ていないが、護衛官になっても遜色ないとは思っている」
「ふうん……」
 永遠はちらっと霞冴に一瞥をくれた。無関心な白銅色の瞳だ。
「わかりました。選抜戦、同意します」
 すぐに宮希に向き直り、彼はぺこりと頭を下げた。宮希が「戻っていい」というジェスチャーをすると、もう一度お辞儀する。
「明日からよろしくお願いします、宮希司令官。あなたの身はぼくがお守りしますので」
「いや、まだ決まったわけではないだろ」
 気が早い新人に、宮希は疲れ気味な指摘を飛ばす。
「そのセリフは、明日、時尼に勝ってからにしろ」
 部屋を後にしようとする小さな背中に、何気なく投げかけられた言葉。それに対する返答は、短く、素朴な、しかしハッとするほど力強いものだった。
「勝ちますよ」
 振り返り、流し目をくれながら告げられた言葉を、霞冴は忘れることができない。
「だって、ぼく、そのひとより強いから」

***

 その一言が、霞冴の闘争心に火をつけた。左手に下げた木刀をぎゅっと握り、五歩向こうの永遠をきっと見据える。
 本当のことを言えば、宮希には自分のを見てほしかった。そうすれば、きっと永遠ではなく自分を選んでくれると思っていたし、何よりどちらの実力が護衛官としてふさわしいかを見定めるための勝負なのだ。真価を発揮せずして何のための見極めか。
 だから、霞冴はこの勝負、本気の本気を出したかった。――のだが、今の状態ではができない。
 一度は、を見せるための提言をすることも考えた。けれど――と永遠の手元を見る。
 今回、猫術でさえ、相性があるからと控えられたのだ。公平性を重んじた勝負ではアンフェアだろう。不満は残るが、霞冴はきっぱり諦めて、今の条件で全力を尽くすことにした。
 宮希はレノンと霊那を呼び寄せると、紅白の旗を手渡した。白い帯のついた額金をつけた霞冴が勝ったと思えば白を、同じく永遠なら赤を上げて判定を行うのだ。
 宮希も準備が整うと、長方形の試合場の両側に立ったレノンと霊那に目配せをし、高らかに宣言した。
「主審、茄谷宮希。副審、欅沢レノン、神守霊那」
 始まる。
 道場内が、限界まで引っ張った糸のように一ミリのたわみもなく張り詰める。時が止まったように空気の揺らぎが消えた。
 全てが静止する。
 そして、
「――始めッ!」
 鋭い声が、張り詰めていた糸を断ち、固まっていた空気を揺り起こした。同時に、霞冴は初手の一太刀を――。
「……っ!」
 前進体勢から一転、全面防御に切り替える。そこからまばたき一つの間もなかった。とっさに向けた鎬に、永遠の稲妻のような斬撃が激突する。力は大したことなく、体重を乗せたところでたかが知れている。だが、突進の速度が半端ではない。今まで、こんな弾丸のごとき速攻は受けたことがなかった。
 助走だけでなく、剣裁きも圧巻の速さだ。霞冴に一太刀目を防がれるや否や、すぐに手首を返して胴を狙う。それをしのがれると面を、かわされれば斬り上げの胴を――。
 人間界の剣道と異なるこの世界の剣戟ルールでは、有効打突部位は面と胴のみの一本勝負。しかし、よけられも木刀で防げもしない状況に追い込んだうえで剣先を急所に突き付けることでも勝利となる。ただ、それを相手の体力も気力もみなぎっている試合開始直後に行うのは至難の業だ。
 それゆえ、冒頭で警戒すべきなのは有効部位への攻撃で、それを読み切っていた霞冴は正しかった。だが、予測できるのと攻略できるのは別の話だ。
 素早さを強みとする霞冴をも凌駕するスピードで猛攻をしかける永遠の一撃一撃は、飛び出す勢いに乗せた初撃には重さで劣るものの、反撃の予備動作さえ許さぬ隙のなさだった。気を抜けば的確に打たれる。必死にかわし、しのぎ続ける霞冴の目が、一瞬、永遠のそれと視線を結んだ。
 刹那の間に、永遠の白銅色の瞳から伝わってくる一言。
 ――ついてこられる?
(このっ……バカにして……!)
 永遠の攻撃パターンが変化した。通常の打突にフェイントを混ぜてきたのだ。まっすぐ振り下ろす直前で体を横にさばいてずらしたり、反則部位の顔面を狙うふりをして動揺させたり。
 それでもなお速度を落とす様子のない永遠の強攻に反応しながら、霞冴は神経を集中させ、一瞬の機をうかがった。胴斬りをいなして、面を狙う木刀を先んじて払う。袈裟斬りと思わせての逆胴を見抜き、間一髪の牽制。あと二歩、一歩、半歩――。
(ナメないで。私だって――速さなら道場一だッ!)
 床を蹴るすさまじい音が響いたかと思うと、霞冴の姿が永遠の前から消えた。目を見開いて空振った永遠が、構えるより先に体ごと振り返る。霞冴は、永遠のはるか後方にいた。
 彼の攻撃を受けながら、霞冴は試合場の端、場外ぎりぎりに押しやられるのを待っていた。剣術に使われる試合場の面積は決まっているので、長年の経験から、あと何歩で線をまたぐかは前を向いたままでも分かった。場外に出る直前で、一気に横方向へ脱出、ついで反対側へ跳躍することで、十分な距離を稼いだのだ。
 弾趾ではない。素の運動神経だ。普段からは想像できない敏捷性に、誰もが息をのんだ。頻繁に足をもつれさせる姿を目撃する宮希はもちろん、よく一緒に稽古しているルシルやコウも。
 霞冴には、師範が唯一彼女を免許皆伝と認めた技とは別に、二つの武器を有していた。その一つが、この一瞬での長距離移動だ。
 ――一蹴りでの跳躍力を走力に変えるのは上手いが、足を交互に出す歩行は鈍くさいな。いっそ日常生活でも一蹴りずつ移動するか?
 そんな師範の皮肉がよみがえり、霞冴は口元だけで苦く笑った。そして、剣を持ったとき限定の俊足で一息に永遠に肉薄すると、意趣返しとばかりにのべつ幕なしの斬撃を浴びせる。一変した霞冴の勢いに瞠目する永遠だが、見事にすべて防いでいく。
 巧みに刀身を滑らせ、できるだけ体に衝撃がかからないように攻撃を無力化する。並行して、小さく身軽な体を生かし、動体視力に任せて回避することもやってのけた。前からの攻撃にはバク宙で、横からの攻撃には跳躍か、身をかがめて転がることで、風圧にすら当たらずかわしていく。
 まるでルシルだ、と霞冴は歯噛みした。あの白猫は、主体時はもちろん、双体時も身軽なことこの上ない。まるで重力をあざ笑うように、バク宙や壁蹴りからの側宙を決めてみせる。剣術の稽古の時も、それを生かした攻撃や回避を駆使していた。永遠の掻いくぐり方もそれに似ている。
 だが、ルシルの剣には悪癖があった。性格が移ったのか、太刀筋が正直すぎるのだ。セオリーどおりに向かってくるので、たいてい先読みができてしまう。クロやダーク相手なら全く問題ないので、希兵隊員としては特に矯正の必要がない癖だが、経験者と試合をすると少しだけ足を引っ張る要因となる。
 それが、永遠にはない。体裁きは超身軽なルシルのものである一方、剣裁きはルシルのそれの欠点を補った、どちらかといえば霞冴に似たスタイル。そつがないにもほどがある。
(でも……!)
 依然、霞冴の剣は永遠のどこにも当たらない。木刀で流されるか、はじかれるか、あるいは空を切るかだ。
 だが、それらはすべて霞冴の糧だった。無駄ではない。無駄であるはずがない。
 わかる者にはわかる量で、ほんのわずかずつ、霞冴の斬撃の速度が上がっていた。永遠は気づいているだろう。そうでなければ反応しきることもできない。けれど、彼がついてくればついてくるほど、霞冴の勢いはいやがうえにも増していく。
 右への払いを受けながら剣の向きを変えて逆袈裟、叩き落された勢いで床を打ち、反動で剣先を上げて刺し面へ移行。空気だけを貫いた剣を軸に体を翻し、導かれるままに足を滑らせる。
 徐々に木刀が重くなり、霞冴はそれに振り回される形になる。はたから見れば、それは未熟の表れに映るかもしれない。
 しかし、それこそが霞冴のもう一つの武器。
(――今ッ!)
 その音は、この試合で最も強烈に場内に反響した。
 永遠の木刀の物打ちを、霞冴の木刀が右斜め下に打ち落とした音だ。
 切っ先を落とした永遠の瞳が揺れる。今までの霞冴からは考えられないほどの強烈な一撃が、彼の手首まで衝撃を伝え、神経を麻痺させていた。
 霞冴の女師範は、「力学的エネルギースマッシュ」などという剣術らしからぬイマイチな称え名で通しているが、悔しいことにその通りの技である。自分の腕が加える力は最低限にして、高いところから振り下ろす位置エネルギーと、相手にはじかれた際の運動エネルギーを殺さずに次の手につなげる。その繰り返しでエネルギーを増幅させ、己の疲労は最小限に抑えて速度と重さを堆積させていく技術だ。そのため、できるだけ刀の勢いに身を任せ、自分の動作で力を相殺しないように努める。それが、刀に振り回されているように見える理由である。
 霞冴が最後に放った打ち落としは、ため込んだエネルギーを一気に刀から奪い取り、狙ったところに炸裂させた一撃だ。外した一閃一閃が余すことなく布石。静止からの打突とは比べ物にならない衝撃は、あの永遠の動きを一秒以上止めた。
 無論、反動は霞冴にもかかるが、彼女はその加力を後方への跳躍で消化した。間髪入れずに床を蹴る。狙うは、床についた永遠の剣先から最も遠い打突部位、面だ。それも、正面打ちではなく、やや斜めへの斬りこみ。そうすることで、左右への回避も無効化できる。両腕を封じられたままでは、トリッキーな動きも難しい。もはや、永遠に逃げるすべはない。
 全身全霊の気迫の声とともに、霞冴の木刀が永遠の左側頭部めがけて空気を斬り裂いていく。威力は通常通りに戻ってしまったが、有効打突を認められるには十分だ。距離はちょうど。外すはずがなかった。
 ――木と木がぶつかるのとは違う、幾分か鈍い音が鳴り響いた。見物人たちが一様に息を詰める。
 永遠は、やはり逃げるすべを持たなかった。
 
「……っあ……!?」
 衝撃で後ろへ飛ばされながら、霞冴は信じられない思いで間近の銀髪を見た。窮地から飛び出した永遠が、霞冴の胴防具へ渾身の頭突きをかましたのだ。額金は、頭の高さをカバーするだけのサイズがあり、斜め上からの打ち込みも防げる。しかし、それは頭頂への垂直な衝撃からは頭部を守ってくれない。
 今、床とほぼ平行に飛び出した永遠は、頭のてっぺんで強固な胴防具に突撃したのだ。痛みも脳震盪も覚悟の、捨て身の反撃。
 それは、不意打ちも相まって、霞冴に相応のダメージを与えた。踏ん張る余裕もなく、腹への一撃をまともに食らい、試合場の半分ほどの距離を飛ばされた挙句、背中から床に倒れこんだ。思わず目をつぶった霞冴は、すぐさままぶたを開くも、同時に二つの事象を認めた。
 一つ、受け身を取り損ねた衝撃で、木刀が手から離れていた。
 一つ、霞冴の真上に、永遠が高く高く跳躍していた。
 寝返ってよけなければ。あるいは、木刀を手にしてしのがなければ。けれど、そのどちらも、永遠の自由落下には間に合わなかった。
 身長の三倍ほどの高度から急降下した永遠が、足のばねもそこそこに、仰向けの霞冴の胴の上に勢いよく着地した。防具越しに落下の衝撃を受けた腹部が、脳までしびれるほどの痛みに襲われる。呼吸もできず、強く目をつぶった霞冴は、目じりに浮かんだ涙とは違う冷たさを喉元に感じた。
 恐る恐る目を開けた彼女は、それが赤樫の表面温度だと知る。喉から伸びた木刀の終着点は小さな両手の中。蹲踞のような姿勢で霞冴の上に乗ったままの、銀髪の少年が、得物と同じ温度のない視線を彼女に向けていた。
 彼の肩越しに、二つの赤色が見えた。霊那とレノンがあげている手旗だ。主審は霞冴の後ろ側にいるのだろう、その判定は見えなかったが、二人が一致している以上、勝負は決まりだ。――もっとも、最後の一人も含めて、満場一致で間違いないのだろうが。
「勝負あり」
 最司官の、低く澄んだ声が告げる。それを聞き届けると、永遠は憚ることなく足場を蹴って霞冴の上から飛び降りた。霞冴は何とか寝返りを打つと、ゆっくりと起き上がり、片膝を立てた姿勢でうずくまった。浅い呼吸の中、腹部に残る激痛をこらえながら、茫然と最後の数秒間を反芻する。
 頭突きの衝撃と、天井に切り替わった視界と、喉に突き付けられた切っ先の感触。手の動きを封じられた永遠がとった、打突ではなく急所への剣先で勝利をもぎとる業。誰が見ても明らかな、城鐘永遠の勝利と、時尼霞冴の敗北。
 うつむいた霞冴の視界に、白いスラックスが入りこんだ。
「立てるか」
 トーンを落とした静かな声に、霞冴は小さくうなずいて立ち上がった。視界がスラックスからジャケットに切り替わる。けれど、その上の彼の顔を見ることはできなかった。視線を落としたままの霞冴に、紅白の旗をまとめて片手に持った主審の宮希が言う。
「……正直、ここまでレベルの高い剣戟になるとは思わなかった。お前があそこまで動けるとも思わなかった。……やっぱり、実地とはいえ、一度だけの太刀裁きで実力を推し量るのはよくないな。クロを斬ったあの時にオレが見積もったより何倍も、お前は強かったよ。ただの総司令部員で置いておくには持ち腐れと思うほどにな」
 シアンの瞳が揺れる。敗れた霞冴にも、相応の評価をくれる宮希は、やはり客観的にものを見ることのできる人物だ。永遠に負けたから弱い、ではなく、ここまで動けたから強い。そんな絶対評価を下せる宮希は、だからこそ、そのひと個人の中での成長を見守ることのできる、優しい少年なのだろう。
 胸の中に、じんと熱が広がる。その温度の意味を再確認した。
 やっぱり、このひとが好きだ。このひとのそばにいたい。このひとを守りたい。
 温かい言葉に、その一端でも許してくれないだろうかと甘い期待を抱いてしまったから。
 次なる一言が、冷たい刃のように胸を斬り裂いた。
「――残念だ」
 しずくを落とすように、あるいは灯が消えるように、小さく小さくつぶやいた宮希は、霞冴の横を通り去っていった。棒立ちの霞冴の後ろで、いつもの威厳のある声が聞こえた。
「選抜戦の結果、お前を最司官護衛官に任命することにした。本部の外で、クロやダーク、あるいは突発的な危険から、オレを守ってくれるか」
 問いに対する返答は、恍惚としたものだった。
「はい、宮希司令官」
「頼むぞ、
 最後の二音が、耳の奥でいやにはっきりと反響し、霞冴の頭の中を真っ白な無に変えた。

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