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9.過去編
42一言芳恩と決意の黄泉路 後編
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***
視察疲れも残る夜、総司令部室にて。
とっくに勤務時間は終わっているのに、室内には明かりがついていた。睡眠への影響も考えて、照度は少しだけ落としている。
就寝準備を終えた宮希は、ずっと気がかりにしている書面を、猫姿で椅子の上に立って見つめていた。そこに書かれているのは、現在の希兵隊の各部署、隊の人数だ。声に出せば懸案事項と向き合うことになり、気が重いのだが、目を背けてもいられない。
「総司令部三名、青龍隊三名……か」
それは、五名を過不足ない数字とする定員からすれば、少なすぎる数字だった。だいたい、「五名を過不足ない数字とする」という前提が無茶ぶりだ。
五名。回せないときは回せないし、けれど回そうと思えば回せる、微妙な数字。しかし、各隊それを超えてしまうと、予算や建物の収容人数が苦しくなる。
だが、何だかんだと考えたところで、今確かに言えることは、人手が足りない、ということだった。
うとめの言葉がよみがえる。
――来年度はもう少し採用人数を増やすことね。
宮希とて、そうしたくないわけではない。ただ、人数のインフレーションを恐れているのだ。
ともかく、今いる人員を何とか有効活用する手立てを考えないと。そう思っていた矢先だった。
ノックが小さく鳴り響き、彼の耳をぴくりと動かした。
「……誰だ?」
「私よ。入るわね」
歯切れのいい声の後、双体の少女が足を踏み入れてきた。襟付きのTシャツにズボンというラフな格好をした、彼の懐刀だ。いつも手拭いでポニーテールに結わえている長い髪は、まっすぐに下ろされ、ふわりと柑橘系の香りを漂わせている。
「どうした、つかさ?」
「ちょっとね、いろいろ考えたんだけど、腹くくって伝えたいことがあるのよ」
つかさはそう切り出すと、簡易回転いすを引き寄せて腰を下ろした。業務時間外も業務時間外のこんな夜更けにやってきて、しかも珍しくまっすぐに座っている。宮希は自然と居住まいをただした。
「何だ?」
「ごめん、私ね。希兵隊、退職しようと思うの」
静かな声だったが、悩み苦しみを含んではいなかった。竹を割ったような性格の彼女らしく、決心は済んでいるようだ。
さっと頭から血が下がった気がしたが、宮希は冷静に問うた。
「理由を聞いてもいいか」
「もちろんよ。私に双子の妹がいることは知っているわね? あの子、調理員の仕事をしていたんだけど、料理以外の面でミスが続いて、その……クビになったらしくてね。ショックは受けてたけど、向こうも突き放したわけじゃなくて、次の就職先を紹介した上で解雇したの。でも、同じ業種の新しい仕事先でも、事務的な大きなミスをしちゃったみたいでね。先方は許してくれているんだけど、本人がすっかり自信を無くして、ふさぎ込んじゃってて」
料理の腕はかなり上達していたつかさの妹・まつりだったが、家事以外の面ではめっぽうドジなところが玉に瑕だった。家ではそつなくやるべきことをこなせていても、それがこと仕事となるとボロが出るのだ。
「あんな状態で働き続けても、また失敗しそうだし、そうなったら心を壊しそうで心配でね。……勝手な事情で本当に悪いんだけど、私、あの子をフォローしつつ、開業しようと思うのよ」
「来年度からか」
「ええ。今ならまだ、次の採用人数の変更に間に合うでしょ。……こんな過疎部署なのに、悪いと思っている。でも、まつりは私にとって大切な妹なの。……どうか、許してちょうだい」
あにはからんや、あのつかさが頭を下げた。宮希は居心地悪そうに体を揺らし、よそを向きながら頬の洞毛をいじった。
「身内を見捨ててまでオレを守る必要などない。気にするな、頭上げろ」
つかさがゆっくりと顔を上げると、宮希はそっと手を下ろした。普段そっくり返っている割には、相手の微妙な態度の変化に敏感に反応する質である。
「そのこと……時尼には言ったのか」
「あんたの許可が出たら言うつもりだったのよ。あの子にも悪いことをしてしまうわ。私がいるからおいでと言ったのに、私のほうがすぐ出ていくなんて」
「ここは憩いの場じゃないぞ」
「それでも、この約一年、霞冴は安定してる。友達もできたみたいだし、結果オーライなのかもね」
つかさは一瞬だけ遠い目をすると、まばたき一つで今ここに戻ってきて、「さて」と立ち上がった。
「とりあえず、今年度いっぱい、よろしく頼むわよ。それまでに霞冴ともうちょっと仲良くなりなさい」
「余計なお世話だ」
あからさまに渋面を作った宮希にくすっと笑うと、つかさはドアを開け、足音と共に去っていった。
「…………」
宮希は、机に向き直ると、とっさに別の書類の下に滑り込ませた一枚を、そっと前足で引き寄せた。
「総司令部 三名」
その数字を見つめているのか、あるいはそうでもないのかもしれないが、視線は動かない。
静まり返った部屋の明かりは、しばらく消えることはなかった。
***
弟妹も、そのような存在となる小さな隣人などもいなかったため、霞冴にとっては、自分よりずっと年下の子供の扱いは初めてのことだったのだが、
「さすが飛び入学内定者……しっかりしてるなぁ」
視察から一週間たち、いよいよ希兵隊本部にやってきたみちねは、成人も含まれている年上の隊員の面々の前でもきちんと挨拶し、責任者となった宮希のいうことにも素直に従い、はしゃぐことなく九時には就寝した。部屋は空いている総司令部員用のものを充てられ、つまり一人部屋なのだが、寂しがる様子もなかった。ただ、寝る前に十分だけ祖母と電話がしたいといって、備え付けの電話を手にしていた。
成熟の早いフィライン・エデンの猫は、同年齢の人間の子供よりも落ち着いている傾向があるが、それを差し引いても聞き分けのある四歳児であった。
おかげで、風呂やら食事やらについて説明していたために報告書をこんな夜遅くに提出することになったにもかかわらず、霞冴の体力は予想していたより余裕をもっていた。歩きながら、つれづれと考え事ができる程度には。
(学校は、ブランクがあるから勉強追いつくのは大変そうだけど、九月から行けそうってことみたい。でも、里親のほうはすぐには見つかりそうにはないんだよね……。といっても、情報管理局や学院も、希兵隊でかくまうことには同意してくれているし、本人もここをちょっと気に入ってくれたみたいだし、ひとまず安心かな。人見知りしないタイプでよかった)
気温も落ち着いた夜の廊下をひたひたと歩き進め、角を曲がって最奥部への一直線へ踏み出す。いつも静かなこの廊下だが、日が沈むだけで、普段以上の完全な静謐に包まれているかのようだった。業務時間外の総司令部室へ向かいながら、部屋の長を思い出し、霞冴は足取りが徐々に重くなるのを感じた。
(結局、みちねのことも宮希が責任を負うことになったし……私が勝手なことしちゃったせいで、また迷惑かけちゃった……)
よりによって、町長の前であの話をするのではなかった。いや、仮に宮希にこっそり打ち明けて、無理だと判断した彼が町長の見えないところで手のひら返しに断ったとして、それがみちねか彼女の祖母から伝われば、余計に悪印象だったかもしれない。
いずれにせよ、あの時の宮希の痛々しそうな表情は見るに堪えなかった。とっさに最良の判断を迫られるプレッシャーに耐える苦悶の顔。あの時の霞冴は、「しまった」と、その一言だけがぐるぐると頭の中を回っていた。
さらに、あの日は帰りも失態を犯してしまった。うとめの刀を手に取り、二人を守ったつもりが、叱られるほど危険な行為に及んでいたなど。数少ない長所である剣の腕も、評価されるどころか裏目に出る始末だ。
ドアの前に立った霞冴は、しゅんと肩を落としてノックをためらった。
みじめだ、と思った。決して、自分は優秀な人物だとおごるつもりはない。だが、ここまで不甲斐ないとも思っていなかった。一生懸命やれば、うまくいくと信じていたのに。力になってあげたいひとの手を煩わせ、足を引っ張ってばかり。
――この想いを抱き続けることすら、おこがましいと思うほどに。
(でも……だからって、自暴自棄になるわけにはいかないよね。お仕事だもん)
胸の中の空気を入れ替え、気持ちを改めてノックする。返事がないのは想定内だ。もう休んでいてもおかしくない時間帯なのだから。事前に、自分がいなかった場合は机に置いておくようにと宮希本人からも言われていた。
そっとドアを開けると、無人の総司令部室が視界に広がる。暗い部屋に明かりをつけ、奥のデスクへ歩み寄ると、霞冴は報告書を置こうとして、その手を止めた。机の上は、持ち主の多忙の権化であふれ、報告書の置き場もなかった。
(そうだ、作業の期限がいくつも重なってるから……。みちねに関するものもあるし……)
机の天板が見えるようになるまで、彼はゆっくりと休息することもままならないのだろう。その原因の一端さえ、霞冴の幼い正義感が作り出してしまった――。
「時尼」
突然の呼びかけに、にじみかけていた涙さえ引っ込むほどに驚いた。
振り向くと、ケープは羽織らず半袖シャツのみを着た宮希が、開けっ放しのドアから入室してきていた。
「み、宮希、まだ起きてたの? 寝てたかと……」
「ああ、電灯が消えていたからか。別隊舎に行っていたから切っていただけだ。起きている」
「もう十一時だけど……」
「あと少し仕事を片付けてからだ。その机見ればわかるだろ」
言いながら、彼は机の中に入れ込んでいた回転いすを引き、深く腰かけた。無駄な動きなく、まっすぐに椅子を求めた宮希を見て、霞冴はハッと表情を変えた。
「宮希、顔、白いよ」
「色白は元からだろ」
「違うって、顔色悪いんだってば」
「気のせいだ。それより、報告書だろ?」
霞冴の心配は歯牙にもかけず、宮希は左手を出した。提出を求めるその手をにらみつけ、霞冴は持っていたクリップ止めのA4用紙を後ろ手に隠した。
「……やっぱり、やだ」
「何がだ」
「今日渡すのはやめる。明日か明後日にでも出すよ」
「何のつもりだ。職務怠慢ととらえるぞ」
「怠慢でもいい!」
およそ夜中に出していい声量ではなかった。総司令部室が寮室から離れていたのが幸いだ。
わずかに目を見開く宮希に、霞冴は必死に涙をこらえながら訴えた。
「これを渡したら、宮希は今からチェックするんでしょう!? もっともっと寝るのが遅くなるんでしょう!? だったら嫌だ! 宮希の負担になんかなりたくない!」
「何言って……」
「もう入隊して一年たつのに、私、宮希を困らせて、怒らせてばっかり……。つかさだって、もう来年には辞めちゃうって言ってたのに、そしたら私がしっかりしなきゃいけないのに、こんなっ……!」
つい、両手をぎゅっと握ってしまった。背後に回した手の中で、報告書がぐしゃっと折れる音がした。
「私、宮希の役に立ちたいのに、足手まといになってばかりで……。宮希が最近忙しくて、無理してることくらい知ってるんだから! それなら、せめて仕事を増やさないようにくらいしたいの!」
わかっていた。この激白さえ、宮希を困らせる種となり、彼の休む時間を削る鉋となることも。わかっていながら止められない、己の未熟さが恨めしい。
これ以上何か言えば、涙がこぼれてしまいそうで、霞冴は唇をかんで押し黙った。
座っている宮希は、自分より上にある霞冴の顔を見つめ、おもむろに息を吸うと、大きくため息をついた。
「オレだって知ってるんだよ」
「……何をさ」
「お前がオレの助けになろうとして、陰ながらいろいろやってくれてること。隊員たちへの連絡をスムーズにするためにあらかじめ言い置いてくれていたり、時間がなくて適当に突っ込んでいたファイルをきちんとそろえてくれていたり、モニタリングと並行して書類作成して、時間を作ってはほかの仕事に費やせられるようにしたりさ」
ブロンズの瞳は、静かに霞冴を見上げていた。疲れて、少しでも早く閉じてしまいたいはずのその目には、来年には唯一となってしまうかもしれない部下へのいたわりが込められていた。
「言ったろ。オレは部下のことはきちんと見てるって」
「……知ってる」
だからこそ、この想いが生まれたくらいだ。
「確かにお前はミスが多いが、去年に比べて格段に減っているのもわかっている。迷惑だなんて思っていないから、そんな意地を張るんじゃない」
「……」
「その報告書は明日にでも目を通すから、出すだけ出せ。決まりだ」
「……」
「ほら」
穏やかな声に引き寄せられるように、霞冴の手は彼へと向いた。ぐしゃぐしゃになってるじゃないか、と顔をしかめる宮希に、持ってきた紙を手渡す。
結局、彼にはかなわない。
「……本当に、迷惑してない?」
「疑っているのか。していないと言っているだろう」
「みちねのこと、勝手に決めちゃってごめんなさい」
「その言葉は一週間前にも聞いた。結果、あいつは学校に行けるようになって、祖母も安心したようだし、それを受けて町長もいい顔してくれているし、終わりよければ、ってやつだろ」
「責任者としての仕事増やしちゃって……」
「構わん。逆にお前が責任者などになってみろ、ハラハラしすぎてオレの胃に穴が空く」
「……意地悪」
「言ってろ」
宮希は椅子を回して霞冴に背を向け、机の上を整理し始めた。今晩中に終わらせるものと、明日以降に回すものを仕分けているようだ。霞冴の報告書は、約束通り後日の山の上に置かれた。
「お前も凪原の世話で疲れたろ。もう戻れ」
「……、はい」
机に向かったままの彼の言葉に小さく返して、霞冴はドアへと足を向けた。
ドアノブに手を伸ばした、その時だ。
「時尼、最後に一つだけ、いいか」
振り向くと、椅子を九十度回して半身になった宮希が霞冴を見つめていた。
「視察の帰りの、クロを退治た時のことだが」
霞冴は胸の疼きを感じた。うとめの刀を奪って身勝手な行動をとった、あの時のことだ。
首を縮める霞冴に、宮希は呆れたように息をついた。
「何を委縮しているんだ。最後まで聞け。……あの時、お前は刀を振るったわけだが」
「はい……」
「正直言って、見事な太刀裁きだったと思う」
それが褒め言葉だとわかるのに、数秒はかかった。その間も、宮希は足を組んで続ける。
「来年、つかさが退職すれば、総司令部はオレとお前だけになる。次こそは新入隊員をとりたいところだ。もし、また誰も基準を満たさなかったら、オレはつかさの後釜にうとめを護衛官にする。だが、幸い誰か一人でも総司令部に入隊した場合は、そいつに早めに仕事を仕込んで、モニタリング等を任せれば、オレとお前が不在でも、まあいいだろう」
一拍も二拍も遅れて含意を理解した霞冴の目が、大きく見開かれた。
それを見届けて、宮希は言う。
「お前は執行部員に匹敵する剣術の使い手と認識している。だから、その時は……オレの護衛官になってくれるか、時尼。オレの命を、預けていいか」
胸元の体温が、一気にみぞおちあたりまで押し込められるのを霞冴は感じた。次いで、それが爆発しそうに熱く広がるのも。
「うん……うん! なる、私……宮希の護衛官になるよ! いいの? 私、なってもいいの!?」
「落ち着け、必ずじゃない。新入りがいなけりゃ、お前は総司令部の業務を担う貴重な人材だから、おいそれと外出に連れていけない。かといって、新入りがいたとしても、そいつがお前よりも腕の立つヤツで、護衛官を希望していたら、そいつを任命することになるだろう。ただ、お前がなるのが自然な流れになったら、その時オレは拒まない、ということだ」
「ありがとう……ありがとうっ!」
「話はそれだけだ。今度こそ戻っていい。……おやすみ」
「うんっ! 宮希も、キリのいいところで区切りつけて、早めに休んでね。おやすみ、宮希」
スキップしそうになるのを何とか我慢し、霞冴は扉を開けて退室した。
褒められた。認められた。求められさえした。
こんな自分でも、宮希の期待に応えられるかもしれない。そう考えるだけで、心が弾んで仕方なかった。明日から、少しでも暇を見つけて行うことは一つだ。
霞冴は、手にする木刀の重みを今から楽しみに、足取り軽く部屋へと向かった。
帰り際、せっかく宮希の口から珍しく「おやすみ」の一言が聞けたのに、その言葉は今の彼女からは程遠いものだった。
***
それから半年と少しもあれば、しばらくなまりぎみだった霞冴の腕前が切れ味を取り戻すのには十分だった。主につかさやルシルに相手になってもらい、仕事の合間を縫っては稽古に励んだ。特にルシルには、時々姉を思い出して落ち込んだ時も寄り添ってもらったりと、世話になりっぱなしだ。二人とも、霞冴の護衛官志望の奥にある感情にまで気づいていたようで、力強く応援の言葉を寄せてくれた。
そうして迎えた四月。しっかり者のつかさは執行部からも惜しまれながら希兵隊を去り、すっかりこの場所になじんだみちねは、舌を巻くほどの観察学習によって、総司令部の雑務を手伝うようになり、新入隊員の追加と昇格などで各隊の構成が少しばかり変わり――そして、霞冴に初めての後輩ができた。
念願の総司令部への新入り。宮希は決して妥協したわけではなく、従来通りの水準できちんと及第点を満たしての採用だった。
よって、この春からの霞冴の仕事は、新参者の監督、これまで通りの業務、そして宮希の外出時は諸々を任せて、帯刀の上胸を張って彼に同伴――。
その、はずだった。
宮希の唯一の懐刀になりたい。宮希をすぐそばで守りたい。
そのために、護衛官になりたい。いや、絶対になる。
――半年後、霞冴は喉元に突き付けられる冷感を感じながら、その決意は目の前の鋼色に斬り殺されたのだと悟った。
視察疲れも残る夜、総司令部室にて。
とっくに勤務時間は終わっているのに、室内には明かりがついていた。睡眠への影響も考えて、照度は少しだけ落としている。
就寝準備を終えた宮希は、ずっと気がかりにしている書面を、猫姿で椅子の上に立って見つめていた。そこに書かれているのは、現在の希兵隊の各部署、隊の人数だ。声に出せば懸案事項と向き合うことになり、気が重いのだが、目を背けてもいられない。
「総司令部三名、青龍隊三名……か」
それは、五名を過不足ない数字とする定員からすれば、少なすぎる数字だった。だいたい、「五名を過不足ない数字とする」という前提が無茶ぶりだ。
五名。回せないときは回せないし、けれど回そうと思えば回せる、微妙な数字。しかし、各隊それを超えてしまうと、予算や建物の収容人数が苦しくなる。
だが、何だかんだと考えたところで、今確かに言えることは、人手が足りない、ということだった。
うとめの言葉がよみがえる。
――来年度はもう少し採用人数を増やすことね。
宮希とて、そうしたくないわけではない。ただ、人数のインフレーションを恐れているのだ。
ともかく、今いる人員を何とか有効活用する手立てを考えないと。そう思っていた矢先だった。
ノックが小さく鳴り響き、彼の耳をぴくりと動かした。
「……誰だ?」
「私よ。入るわね」
歯切れのいい声の後、双体の少女が足を踏み入れてきた。襟付きのTシャツにズボンというラフな格好をした、彼の懐刀だ。いつも手拭いでポニーテールに結わえている長い髪は、まっすぐに下ろされ、ふわりと柑橘系の香りを漂わせている。
「どうした、つかさ?」
「ちょっとね、いろいろ考えたんだけど、腹くくって伝えたいことがあるのよ」
つかさはそう切り出すと、簡易回転いすを引き寄せて腰を下ろした。業務時間外も業務時間外のこんな夜更けにやってきて、しかも珍しくまっすぐに座っている。宮希は自然と居住まいをただした。
「何だ?」
「ごめん、私ね。希兵隊、退職しようと思うの」
静かな声だったが、悩み苦しみを含んではいなかった。竹を割ったような性格の彼女らしく、決心は済んでいるようだ。
さっと頭から血が下がった気がしたが、宮希は冷静に問うた。
「理由を聞いてもいいか」
「もちろんよ。私に双子の妹がいることは知っているわね? あの子、調理員の仕事をしていたんだけど、料理以外の面でミスが続いて、その……クビになったらしくてね。ショックは受けてたけど、向こうも突き放したわけじゃなくて、次の就職先を紹介した上で解雇したの。でも、同じ業種の新しい仕事先でも、事務的な大きなミスをしちゃったみたいでね。先方は許してくれているんだけど、本人がすっかり自信を無くして、ふさぎ込んじゃってて」
料理の腕はかなり上達していたつかさの妹・まつりだったが、家事以外の面ではめっぽうドジなところが玉に瑕だった。家ではそつなくやるべきことをこなせていても、それがこと仕事となるとボロが出るのだ。
「あんな状態で働き続けても、また失敗しそうだし、そうなったら心を壊しそうで心配でね。……勝手な事情で本当に悪いんだけど、私、あの子をフォローしつつ、開業しようと思うのよ」
「来年度からか」
「ええ。今ならまだ、次の採用人数の変更に間に合うでしょ。……こんな過疎部署なのに、悪いと思っている。でも、まつりは私にとって大切な妹なの。……どうか、許してちょうだい」
あにはからんや、あのつかさが頭を下げた。宮希は居心地悪そうに体を揺らし、よそを向きながら頬の洞毛をいじった。
「身内を見捨ててまでオレを守る必要などない。気にするな、頭上げろ」
つかさがゆっくりと顔を上げると、宮希はそっと手を下ろした。普段そっくり返っている割には、相手の微妙な態度の変化に敏感に反応する質である。
「そのこと……時尼には言ったのか」
「あんたの許可が出たら言うつもりだったのよ。あの子にも悪いことをしてしまうわ。私がいるからおいでと言ったのに、私のほうがすぐ出ていくなんて」
「ここは憩いの場じゃないぞ」
「それでも、この約一年、霞冴は安定してる。友達もできたみたいだし、結果オーライなのかもね」
つかさは一瞬だけ遠い目をすると、まばたき一つで今ここに戻ってきて、「さて」と立ち上がった。
「とりあえず、今年度いっぱい、よろしく頼むわよ。それまでに霞冴ともうちょっと仲良くなりなさい」
「余計なお世話だ」
あからさまに渋面を作った宮希にくすっと笑うと、つかさはドアを開け、足音と共に去っていった。
「…………」
宮希は、机に向き直ると、とっさに別の書類の下に滑り込ませた一枚を、そっと前足で引き寄せた。
「総司令部 三名」
その数字を見つめているのか、あるいはそうでもないのかもしれないが、視線は動かない。
静まり返った部屋の明かりは、しばらく消えることはなかった。
***
弟妹も、そのような存在となる小さな隣人などもいなかったため、霞冴にとっては、自分よりずっと年下の子供の扱いは初めてのことだったのだが、
「さすが飛び入学内定者……しっかりしてるなぁ」
視察から一週間たち、いよいよ希兵隊本部にやってきたみちねは、成人も含まれている年上の隊員の面々の前でもきちんと挨拶し、責任者となった宮希のいうことにも素直に従い、はしゃぐことなく九時には就寝した。部屋は空いている総司令部員用のものを充てられ、つまり一人部屋なのだが、寂しがる様子もなかった。ただ、寝る前に十分だけ祖母と電話がしたいといって、備え付けの電話を手にしていた。
成熟の早いフィライン・エデンの猫は、同年齢の人間の子供よりも落ち着いている傾向があるが、それを差し引いても聞き分けのある四歳児であった。
おかげで、風呂やら食事やらについて説明していたために報告書をこんな夜遅くに提出することになったにもかかわらず、霞冴の体力は予想していたより余裕をもっていた。歩きながら、つれづれと考え事ができる程度には。
(学校は、ブランクがあるから勉強追いつくのは大変そうだけど、九月から行けそうってことみたい。でも、里親のほうはすぐには見つかりそうにはないんだよね……。といっても、情報管理局や学院も、希兵隊でかくまうことには同意してくれているし、本人もここをちょっと気に入ってくれたみたいだし、ひとまず安心かな。人見知りしないタイプでよかった)
気温も落ち着いた夜の廊下をひたひたと歩き進め、角を曲がって最奥部への一直線へ踏み出す。いつも静かなこの廊下だが、日が沈むだけで、普段以上の完全な静謐に包まれているかのようだった。業務時間外の総司令部室へ向かいながら、部屋の長を思い出し、霞冴は足取りが徐々に重くなるのを感じた。
(結局、みちねのことも宮希が責任を負うことになったし……私が勝手なことしちゃったせいで、また迷惑かけちゃった……)
よりによって、町長の前であの話をするのではなかった。いや、仮に宮希にこっそり打ち明けて、無理だと判断した彼が町長の見えないところで手のひら返しに断ったとして、それがみちねか彼女の祖母から伝われば、余計に悪印象だったかもしれない。
いずれにせよ、あの時の宮希の痛々しそうな表情は見るに堪えなかった。とっさに最良の判断を迫られるプレッシャーに耐える苦悶の顔。あの時の霞冴は、「しまった」と、その一言だけがぐるぐると頭の中を回っていた。
さらに、あの日は帰りも失態を犯してしまった。うとめの刀を手に取り、二人を守ったつもりが、叱られるほど危険な行為に及んでいたなど。数少ない長所である剣の腕も、評価されるどころか裏目に出る始末だ。
ドアの前に立った霞冴は、しゅんと肩を落としてノックをためらった。
みじめだ、と思った。決して、自分は優秀な人物だとおごるつもりはない。だが、ここまで不甲斐ないとも思っていなかった。一生懸命やれば、うまくいくと信じていたのに。力になってあげたいひとの手を煩わせ、足を引っ張ってばかり。
――この想いを抱き続けることすら、おこがましいと思うほどに。
(でも……だからって、自暴自棄になるわけにはいかないよね。お仕事だもん)
胸の中の空気を入れ替え、気持ちを改めてノックする。返事がないのは想定内だ。もう休んでいてもおかしくない時間帯なのだから。事前に、自分がいなかった場合は机に置いておくようにと宮希本人からも言われていた。
そっとドアを開けると、無人の総司令部室が視界に広がる。暗い部屋に明かりをつけ、奥のデスクへ歩み寄ると、霞冴は報告書を置こうとして、その手を止めた。机の上は、持ち主の多忙の権化であふれ、報告書の置き場もなかった。
(そうだ、作業の期限がいくつも重なってるから……。みちねに関するものもあるし……)
机の天板が見えるようになるまで、彼はゆっくりと休息することもままならないのだろう。その原因の一端さえ、霞冴の幼い正義感が作り出してしまった――。
「時尼」
突然の呼びかけに、にじみかけていた涙さえ引っ込むほどに驚いた。
振り向くと、ケープは羽織らず半袖シャツのみを着た宮希が、開けっ放しのドアから入室してきていた。
「み、宮希、まだ起きてたの? 寝てたかと……」
「ああ、電灯が消えていたからか。別隊舎に行っていたから切っていただけだ。起きている」
「もう十一時だけど……」
「あと少し仕事を片付けてからだ。その机見ればわかるだろ」
言いながら、彼は机の中に入れ込んでいた回転いすを引き、深く腰かけた。無駄な動きなく、まっすぐに椅子を求めた宮希を見て、霞冴はハッと表情を変えた。
「宮希、顔、白いよ」
「色白は元からだろ」
「違うって、顔色悪いんだってば」
「気のせいだ。それより、報告書だろ?」
霞冴の心配は歯牙にもかけず、宮希は左手を出した。提出を求めるその手をにらみつけ、霞冴は持っていたクリップ止めのA4用紙を後ろ手に隠した。
「……やっぱり、やだ」
「何がだ」
「今日渡すのはやめる。明日か明後日にでも出すよ」
「何のつもりだ。職務怠慢ととらえるぞ」
「怠慢でもいい!」
およそ夜中に出していい声量ではなかった。総司令部室が寮室から離れていたのが幸いだ。
わずかに目を見開く宮希に、霞冴は必死に涙をこらえながら訴えた。
「これを渡したら、宮希は今からチェックするんでしょう!? もっともっと寝るのが遅くなるんでしょう!? だったら嫌だ! 宮希の負担になんかなりたくない!」
「何言って……」
「もう入隊して一年たつのに、私、宮希を困らせて、怒らせてばっかり……。つかさだって、もう来年には辞めちゃうって言ってたのに、そしたら私がしっかりしなきゃいけないのに、こんなっ……!」
つい、両手をぎゅっと握ってしまった。背後に回した手の中で、報告書がぐしゃっと折れる音がした。
「私、宮希の役に立ちたいのに、足手まといになってばかりで……。宮希が最近忙しくて、無理してることくらい知ってるんだから! それなら、せめて仕事を増やさないようにくらいしたいの!」
わかっていた。この激白さえ、宮希を困らせる種となり、彼の休む時間を削る鉋となることも。わかっていながら止められない、己の未熟さが恨めしい。
これ以上何か言えば、涙がこぼれてしまいそうで、霞冴は唇をかんで押し黙った。
座っている宮希は、自分より上にある霞冴の顔を見つめ、おもむろに息を吸うと、大きくため息をついた。
「オレだって知ってるんだよ」
「……何をさ」
「お前がオレの助けになろうとして、陰ながらいろいろやってくれてること。隊員たちへの連絡をスムーズにするためにあらかじめ言い置いてくれていたり、時間がなくて適当に突っ込んでいたファイルをきちんとそろえてくれていたり、モニタリングと並行して書類作成して、時間を作ってはほかの仕事に費やせられるようにしたりさ」
ブロンズの瞳は、静かに霞冴を見上げていた。疲れて、少しでも早く閉じてしまいたいはずのその目には、来年には唯一となってしまうかもしれない部下へのいたわりが込められていた。
「言ったろ。オレは部下のことはきちんと見てるって」
「……知ってる」
だからこそ、この想いが生まれたくらいだ。
「確かにお前はミスが多いが、去年に比べて格段に減っているのもわかっている。迷惑だなんて思っていないから、そんな意地を張るんじゃない」
「……」
「その報告書は明日にでも目を通すから、出すだけ出せ。決まりだ」
「……」
「ほら」
穏やかな声に引き寄せられるように、霞冴の手は彼へと向いた。ぐしゃぐしゃになってるじゃないか、と顔をしかめる宮希に、持ってきた紙を手渡す。
結局、彼にはかなわない。
「……本当に、迷惑してない?」
「疑っているのか。していないと言っているだろう」
「みちねのこと、勝手に決めちゃってごめんなさい」
「その言葉は一週間前にも聞いた。結果、あいつは学校に行けるようになって、祖母も安心したようだし、それを受けて町長もいい顔してくれているし、終わりよければ、ってやつだろ」
「責任者としての仕事増やしちゃって……」
「構わん。逆にお前が責任者などになってみろ、ハラハラしすぎてオレの胃に穴が空く」
「……意地悪」
「言ってろ」
宮希は椅子を回して霞冴に背を向け、机の上を整理し始めた。今晩中に終わらせるものと、明日以降に回すものを仕分けているようだ。霞冴の報告書は、約束通り後日の山の上に置かれた。
「お前も凪原の世話で疲れたろ。もう戻れ」
「……、はい」
机に向かったままの彼の言葉に小さく返して、霞冴はドアへと足を向けた。
ドアノブに手を伸ばした、その時だ。
「時尼、最後に一つだけ、いいか」
振り向くと、椅子を九十度回して半身になった宮希が霞冴を見つめていた。
「視察の帰りの、クロを退治た時のことだが」
霞冴は胸の疼きを感じた。うとめの刀を奪って身勝手な行動をとった、あの時のことだ。
首を縮める霞冴に、宮希は呆れたように息をついた。
「何を委縮しているんだ。最後まで聞け。……あの時、お前は刀を振るったわけだが」
「はい……」
「正直言って、見事な太刀裁きだったと思う」
それが褒め言葉だとわかるのに、数秒はかかった。その間も、宮希は足を組んで続ける。
「来年、つかさが退職すれば、総司令部はオレとお前だけになる。次こそは新入隊員をとりたいところだ。もし、また誰も基準を満たさなかったら、オレはつかさの後釜にうとめを護衛官にする。だが、幸い誰か一人でも総司令部に入隊した場合は、そいつに早めに仕事を仕込んで、モニタリング等を任せれば、オレとお前が不在でも、まあいいだろう」
一拍も二拍も遅れて含意を理解した霞冴の目が、大きく見開かれた。
それを見届けて、宮希は言う。
「お前は執行部員に匹敵する剣術の使い手と認識している。だから、その時は……オレの護衛官になってくれるか、時尼。オレの命を、預けていいか」
胸元の体温が、一気にみぞおちあたりまで押し込められるのを霞冴は感じた。次いで、それが爆発しそうに熱く広がるのも。
「うん……うん! なる、私……宮希の護衛官になるよ! いいの? 私、なってもいいの!?」
「落ち着け、必ずじゃない。新入りがいなけりゃ、お前は総司令部の業務を担う貴重な人材だから、おいそれと外出に連れていけない。かといって、新入りがいたとしても、そいつがお前よりも腕の立つヤツで、護衛官を希望していたら、そいつを任命することになるだろう。ただ、お前がなるのが自然な流れになったら、その時オレは拒まない、ということだ」
「ありがとう……ありがとうっ!」
「話はそれだけだ。今度こそ戻っていい。……おやすみ」
「うんっ! 宮希も、キリのいいところで区切りつけて、早めに休んでね。おやすみ、宮希」
スキップしそうになるのを何とか我慢し、霞冴は扉を開けて退室した。
褒められた。認められた。求められさえした。
こんな自分でも、宮希の期待に応えられるかもしれない。そう考えるだけで、心が弾んで仕方なかった。明日から、少しでも暇を見つけて行うことは一つだ。
霞冴は、手にする木刀の重みを今から楽しみに、足取り軽く部屋へと向かった。
帰り際、せっかく宮希の口から珍しく「おやすみ」の一言が聞けたのに、その言葉は今の彼女からは程遠いものだった。
***
それから半年と少しもあれば、しばらくなまりぎみだった霞冴の腕前が切れ味を取り戻すのには十分だった。主につかさやルシルに相手になってもらい、仕事の合間を縫っては稽古に励んだ。特にルシルには、時々姉を思い出して落ち込んだ時も寄り添ってもらったりと、世話になりっぱなしだ。二人とも、霞冴の護衛官志望の奥にある感情にまで気づいていたようで、力強く応援の言葉を寄せてくれた。
そうして迎えた四月。しっかり者のつかさは執行部からも惜しまれながら希兵隊を去り、すっかりこの場所になじんだみちねは、舌を巻くほどの観察学習によって、総司令部の雑務を手伝うようになり、新入隊員の追加と昇格などで各隊の構成が少しばかり変わり――そして、霞冴に初めての後輩ができた。
念願の総司令部への新入り。宮希は決して妥協したわけではなく、従来通りの水準できちんと及第点を満たしての採用だった。
よって、この春からの霞冴の仕事は、新参者の監督、これまで通りの業務、そして宮希の外出時は諸々を任せて、帯刀の上胸を張って彼に同伴――。
その、はずだった。
宮希の唯一の懐刀になりたい。宮希をすぐそばで守りたい。
そのために、護衛官になりたい。いや、絶対になる。
――半年後、霞冴は喉元に突き付けられる冷感を感じながら、その決意は目の前の鋼色に斬り殺されたのだと悟った。
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