フィライン・エデン Ⅱ

夜市彼乃

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41一触即発と青い新人 前編

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 熱い日差しがさんさんと降り注ぎ、ふと気が付けば首筋を手で扇いでいるような、そんな季節。
 からっと晴れたその日も、いつも通りの業務が進んでいた。
「霞冴ちゃん、様式集のファイルを取ってくれる?」
「はい。……これですね、どうぞ。あと、開発部に渡す資料ができたので、こちらも」
「ありがとう。これ、結構時間かかると思ってたのに、迅速ね。頭の回転が速いんだわ」
「いえ、そんな。この前の時空学の基本問題だって、ルシルと小一時間、首をひねってましたから」
「小一時間後には解けたのかしら」
「まあ、一応……」
「やっぱり、さすがね」
 美雷の満面の笑みに、霞冴もつられて口角を上げた。同じ部屋で、モニタリングや書類整理をしている隊員たちも、和やかな表情でうなずいている。霞冴はくすぐったそうに照れ笑った。
 時空をも超えた、悪夢のような一件から二か月。霞冴の心の中は、今日の空のように晴れ渡っていた。
 姉を彷彿させる美雷にその姿を重ねるのはやめて、今いる琥珀色の時尼美雷を慕うようになった。彼女は相変わらず親切で、最初からそうしていたように物腰柔らかに接してくれる。毎日、彼女と仕事をするのが楽しくなったほどだ。
 あれほど調子の悪かった体もよくなり、食欲もすっかり戻った。コンディションとしては、最司官の辞令を突き付けられる前にまで回復していた。
 ただ一点を除いて。
「失礼します」
 ノックの後、美雷の返事に従って、総司令部室に一人の執行部員が入室してきた。三十分ほど前にダーク討伐から帰ってきたルシルだ。主体姿で仕事にいそしむ平隊員たちにも律儀に挨拶の言葉をかけて、彼女は美雷が座るビジネスチェアへと歩み寄った。
「すみません、報告書が出来上がったので、提出を」
「確かに受け取ったわ。メルちゃんが負傷したそうだけど、大丈夫?」
「軽い脳震盪だったみたいで。まだ十番隊舎にいますが、今は私に辛口を吐くほど元気ですよ」
 苦笑するルシルに、美雷もくすくすと笑い返した。
「それはよかったわ。でも、しばらくゆっくりしててもらいましょう。ルシルちゃんは、あとは夕方まで本部待機ね。いったん、お疲れ様」
「ありがとうございます。……あの、一ついいですか?」
「ええ、どうしたの?」
 ルシルは青い目をちらと霞冴に投げかけて、美雷に尋ねた。
「今、もしお忙しくなければ、霞冴を借りてもいいですか? 待機中の稽古に付き合ってほしくて。剣術は、彼女みたいな手練れを相手にしたいんです」
 ルシルの言葉が、霞冴の心臓を強くわしづかんだ。握りつぶされる悲鳴が、胸の中から聞こえる。暴れる鼓動と一緒に、美雷の返答が、霞冴の耳に届いた。
「ええ、ひと段落ついたところだし、今は構わないわよ。もし忙しくなったら、呼び戻してもいいかしら」
「もちろんです」
「あ、あ、あのっ……」
 霞冴はとんとんと進んでいく話の前に立ちふさがった。
「わ、私、その……寝込んでた時期の分も、仕事しないと……」
「そんなの気にしなくていいのよ。それに、剣の稽古だって護衛官の仕事。最近、全然道場に足を向けていないみたいだし、せっかくのお誘いに乗ったら?」
「で、でも、私っ……」
 霞冴は揺れる視線をおそるおそるルシルへと向けた。霞冴を見つめる碧眼よりも先に、執行着をまとう体の中心に目を吸い寄せられる。そこに突き立った刃と、あふれる血潮と、手に残る恐ろしい感触がよみがえり、一瞬で手のひらが汗にまみれた。
 時間がたつにつれて、源子に支配されていた時の記憶がよみがえってきたのだ。どれもおぼろげなものだったが、一つ、鮮烈な一幕があった。
 前後不覚の間に、親友のルシルを刺した。その時の五感が、今もねっとりとした影のようにつきまとう。
 以来、この二か月、剣を握ることができなくなっていた。美雷の言うとおり、護衛官として腕がなまらないよう、稽古を欠かしてはいけない。だが、柄を手にしたが最後、剣先が勝手にルシルの体に引き寄せられ、その腹を貫いてしまう――そんな想像が頭から離れなかった。
「霞冴」
 いつのまにか震えだしていた手を、ルシルの手のひらが包んでいた。
「お前が何に怯えているのか、私は知っているよ」
「ルシル……」
「大丈夫。私はこうして生きているのだし、傷跡も残っていないよ。お前も、もう強くなったのだから、あんなことにはならない。……怖かっただろう。それを否定はしないよ。でも、それでお前が剣を置いてしまうのは、もったいないよ」
 ルシルの両手が、霞冴の左手をぎゅっと握る。そうされると分かる、ルシルの薬指と小指の付け根あたりにある、硬い皮膚の感触。剣術をたしなむ者にできるタコだ。同じ感触を、ルシルも霞冴の手から感じている。
「……」
「行こう、霞冴。対人稽古なのだから、どうせ木刀なのだし、心配ないよ」
「……うん」
 うなずくことが、正しいのか間違っているのも分からなかった。すがるように、美雷を振り向く。彼女は包容力のある笑顔で手を振っていた。
 なおも「いいの?」と訴えかけるような目をする霞冴の手を、ルシルが強く引いた。

***

 木刀がぶつかり合う乾いた音は、正午近くになるまで響き渡っていた。その合間に混じる激しい二つの呼吸。片方が、ふうっと声を出して大きく吐いた。
「大丈夫か? そろそろ休憩しようか、霞冴」
「まだいけるよ、平気」
 霞冴も荒い息の中、そう答えた。
 始めはびくびくしていたものの、木刀を交えているうちに、しばらくぶりの懐かしい流れに身を任せられていた。剣は自分の思い通りに動き、腕と一体化したような錯覚さえ生じさせる。剣先が勝手に引っ張られてルシルを貫くような、そんな幻想は薄れゆき、ただ親友と稽古に励む充実した時間を感じていた。
 ルシルは、自分よりも多量の汗をかいて肩で息をする霞冴に、ゆっくりと首を振った。
「無理するな、だいぶ間が空いていたんだ。体力が落ちているのは否めないとして、そう焦らなくとも、剣の腕はなまっていない」
「ほんと?」
「ああ。正直、驚いたよ、普通に相手をするだけでも胸を貸したほうがいいかと思っていたのに、までできるのだから、十分だよ。さあ、過ぎたるはなお及ばざるが如し。休もう、霞冴」
 まだ動きたいのはやまやまだったが、親友の忠告は聞いておいたほうがよい。霞冴は同意し、互いに礼をして、それぞれの木刀を道場の端にそろえて置いた。
 執行着とも違う剣術稽古用の道着姿の二人は、汗をぬぐうと、木立に面した道場の縁側に腰掛けた。こんな夏の日に稽古をするときは、朝から扇風機が必要なこともあるが、今日は風が涼しくて、窓を二か所開けてさえいれば、それもいらない気候だ。
 久々に流した汗と、自分の意思で振るった剣の感触に、霞冴は自分の新たな役職を改めて再認していた。
「護衛官かぁ……」
「どうした、霞冴。感慨深いか」
「感慨深いのかな……わかんないけど、護衛官になったんだな、私……って。美雷さんの、だけど」
 口に出してから、「あ、美雷さんの護衛官でも光栄だよ!?」と慌てて補足する霞冴を、ルシルはわずかに微笑みながら静かに見守っていた。そのまなざしが、霞冴のぼやきの理由も見通しているようだったので、素直にもう一つの補足もつけ足しておく。
「……本当は、本当を言えば……私がなりたかったのは……」
 霞冴はうつむきぎみに、ぽそぽそと声を落とした。
 ルシルは知っている。彼女が本当は誰の懐刀になりたかったのかを。なれなかった挫折を。
「……あれから、連絡とかはあったのか?」
 ルシルの問いに、霞冴はかぶりを振った。
「全然。……でも、私は信じてるから。だから、それまでずっとここで待ってるの」
 ふいに、その姿を目に浮かべたくなって、霞冴はまぶたを閉じた。そうすれば色あせることなく立ち現れる、一人の像。
 瞑目したまま、霞冴は口ずさむようにつぶやいた。
「元気かな、宮希……」

***

 希兵隊任務そのゼロ。指定された時刻に、上司を訪問せよ。
 それは、執行部に限った話ではなく、総司令部員にも等しく与えられる初ミッションだった。
 「霞み、冴える」という、霧猫にぴったりな名を冠した彼女は、希兵隊本部の最奥部である総司令部室の前に立っていた。人間姿で、白い手をノックする形に握ると、一度目を閉じ、深呼吸。大きく打つ心臓の鼓動が、血流に乗せて体中に緊張感を伝えてくる。
 霞冴は、この時のためのお守りの言葉を思い出した。
 ――私が訪問したら、快く出迎えてくれた。だから、霞冴の上司も歓迎してくれるのではないかな。
 一足先に先輩訪問した、新しい友達・河道ルシルは、そう言っていた。背の高い年上の隊長と聞いて、ルシルも固くなっていたらしいが、杞憂に終わったという。
 ――だからお前も、むしろ仲良くするつもりで行ってこい。
 彼女は、そう背中を押してくれた。言葉遣いも表情も少し堅苦しいが、至って親切で意外とフレンドリーだ。長く付き合っていけそうな雰囲気の同期である。
 さて、碧眼をした白猫の友人には、心の中で礼を言って、意識の外へご退出願った。いつまでも彼女にすがりついていては、まともに挨拶できそうにない。
 もらった勇気を握りしめた右手で、コンコンコン、と開き戸を叩く。
 すると、聞きなれた声が中で答え、扉が開いた。
「いらっしゃい、霞冴。ようこそ、総司令部へ」
 黒い執行着にポニーテールの少女は、昔からずっと見てきた微笑みで出迎えた。親友であり、幼馴染であり、家族と言ってもいいその相手の名を、霞冴は頬を緩めて短く呼ぶ。
「つかさ」
 霞冴より一年早く学校を卒業して入隊した風羽谷家の長女。「政」と名乗るようになった彼女は、最高司令官が外出する際にその身辺を警護する護衛官なる地位についている。道場で手合わせしたことのある霞冴に言わせれば、それは文句なしの適役だ。
 霞冴が入寮してから何度か会っているが、仕事場を背景に顔を合わせるのは初めてだった。総司令部室の中は、左手手前に本棚、右手壁沿いに本棚、奥のデスク脇に本棚で、書類にあふれていた。一か所だけ、パソコンが三台ほど並んでおり、それらの幅を足し合わせたくらいの長辺を持つディスプレイが置かれている。パソコンは、他にも奥の机上にも設置されているが、それと積み上げた本との間で書類が書けるほど、そのビジネスデスクはどっしりと大きかった。デスクの前には、アームレスト付きの黒い回転椅子が、霞冴たちに背もたれを向けている。あれが、最高司令官の座する場所なのだろう。
 しかし、今はそこに誰も座っている様子はない。
「つかさ、最高司令官は? お留守?」
「いいえ、いるわよ。椅子の上に」
 「机の前」ではなく「椅子の上」という表現。その言い回しで、霞冴は状況を察した。同時に、背もたれの陰から、ぴょこんと小さな猫が床に飛び降りた。
 その姿に、霞冴は目を見開いた。
 カーキ色をした、長毛の猫だった。そこここの毛並みがぴんぴんとハネている。ブロンズ色の目は、トップに君臨する自尊心に満ちた、堂々としたものだ。しかし、それが似合わないことに、その人物はまだ子供だった。主体では、双体に比べ、成長による体の大きさの変化が分かりにくいが、それでも、霞冴やつかさと同年代であることは確かだった。最も地位の高い人物が、新入隊員とほぼ同い年とは、いかに。
 霞冴がその姿をぽかんと眺めていると、カーキ色の猫はツリ目をすがめて、低く抑えた幼い声で吐き捨てた。
「礼儀のなっていないヤツだな。お前は新人でありながら、組織のトップを見下ろすのか」
 そう言われて初めて、霞冴は今の状態を客観視した。人間姿の霞冴は、猫姿の最高司令官を、必然的に見下ろす格好になっている。これは、特に事情があったり、目上が許可したり、あるいは親しかったりしない限り、フィライン・エデンの社会では失礼に当たる行為だ。
 霞冴は慌てて主体に戻った。アリスブルーのふわふわした猫になった霞冴は、四本足で立ったまま、ぺこりと頭を下げた。
「ご、ごめんなさい。えっと……一日ついたちからお世話になります、時尼霞冴です。よろしくお願いします」
 謝罪のついでに早めに名乗る。と、相手の気配が変化した。頭を上げると、双体に変化した最高司令官が、さっきと逆の構図で霞冴を見下ろしていた。
 やはり、霞冴と同じ年頃の少年だ。毛並みと同じカーキ色の髪は、男子にしては長めで、耳が隠れるほど。肌は白く、体型も華奢。ややもすれば女の子に見えてしまいそうだが、愛想のかけらもない険しい目つきがそれを全力で否定する。
 彼の身を包むのは、黒い着物の執行着ではない。最高司令官のみに許される、水兵風の洋装だ。カッターシャツの上から着ているのは、襟がセーラーカラーになったジャケット。セーラー部分と、シャツの襟もとのネクタイと、袖口のラインは黒で、身頃やスラックスの白とコントラストになっている。両肩でタッセルを揺らす肩章の金色が、色彩的なアクセントになるとともに、警察・消防組織の長としての威厳を醸し出していた。
 せっかく自分が主体に戻ったのに、なぜか間を置かず双体になった相手にどぎまぎする霞冴。そんな彼女に、ため息交じりの声が名乗った。
「希兵隊総司令部、現最高司令官の茄谷かや宮希みやきだ」
「は、はい、お世話になりま……ひゃっ!?」
 改めて頭を下げた途端、霞冴の首根っこがぐいっとつかまれて、体ごと宙に浮いた。じたばたと手足で空をかく霞冴を、つかさのほうに突き出しながら、宮希は不遜に言い放つ。
「おい、つかさ。これ、お前の友達だよな? なんでこんなトロそうなのが入隊できたんだ? お前が裏で手でも引いたのか?」
(こ、!?)
 もがくのを忘れるほどのショックを受けた霞冴が放心していると、呆れ顔のつかさがすげなく言った。
「だとしたら、それを見落としたあんたの責任でしょ、宮希」
「ふむ、なるほど。オレに限ってそんなヘマはしない。ということは……替え玉受験か?」
「ちょっと!」
 勝手に無礼な納得をしだした宮希に、空中で霞冴が抗議する。
「さっきから黙って聞いてたら、トロそうだって? 見かけで判断しないでよ! 私はちゃんと実力で入ったんだから!」
 それを聞いた宮希の視線が、さらに冷ややかなものになった。込められているのは、霞冴もこの年では一度も覚えたことのない、軽蔑の念だ。
「お前……会って早々、トップにタメ口か?」
「つかさだってタメ口だったし、名前で呼んでるじゃん! 私とつかさは同い年なの! つかさが許されるなら、私だっていいでしょ!?」
「ちなみにね、霞冴。この子、実は一つ年下よ」
「余計なことを言わなくていい」
 宮希が苦虫をかみつぶしたような顔をした。
「年上だろうと何だろうと、こいつはルーキーだ。オレが上、こいつは下。それが正しい」
「年下は本当なんだね! じゃあ私、やっぱりタメ口でいいね! よろしくね、宮希!」
「せいぜい、しゃかりきに働いてくれ、新人」
 やけくそになって乱暴に叫んだ霞冴に、宮希はこたえた様子もなく、にべもない言葉をよこす。せっかく自己紹介したのに、名前ですら呼んでくれないことにむかっ腹が立った。
「霞冴です! 時尼霞冴!」
「はいはい、よろしくどうぞ、時尼」
「私のことは下の名前で呼んでくれないの!?」
 きゃんきゃんと喚く霞冴に顔をしかめ、宮希はためらう様子もなく手を離した。反射的に着地したものの、目を白黒させる霞冴に、宮希はふんと鼻を鳴らす。
「つかさは最司官護衛官。つまり、オレの命を預けるパートナーだ。だから信頼を込めて名前で呼んでいる。お前と一緒にするな」
 護衛官は名前で呼ぶ。それが、彼のポリシーらしかった。二人の素振りを見る限り、特別な慕情があるわけではなさそうで、本当に純粋に右腕的存在として重宝されているようだった。
 ――もっとも、霞冴の首根っこをつかんだり、今、しっしっと追い払うように動かしたりする手が左であるところ、つかさは彼のと言ったほうがしっくりくるが。
「挨拶は終わっただろう。用が済んだなら帰れ。……ああ、もうこんな時間か。生成きなりはまだ資料室か?」
「そうね」
「なら、さっきの書面を持って行ってくれるか。ついでに、そいつを送ってやれ」
「はいはい」
「頼んだぞ、
 あてつけのように呼称を強調する宮希。ちらっと霞冴に一瞥まで投げてくる。簡単な挑発にもやすやすと乗った霞冴が憤慨するのを、つかさはまあまあとなだめながら、彼女を部屋から連れ出した。
 パタンとドアが閉まり、静かな廊下を歩く間、双体のつかさのあとをちょこちょこついていく霞冴は、ずっと文句を垂れ流していた。
「何なの、あのエラソーなの! ルシルの先輩がすごくいい人だったって聞いてたから、期待してたのに! 何様なの!?」
「まあ、最高司令官様かな?」
 それはそうなのであるが、霞冴は腹に据えかねたままだ。
「大体、私やつかさより一つ年下ってことは、まだ九歳でしょ!? あんな年少者が三大機関のトップになるだなんて、世も末だよ!」
 成熟が早いフィライン・エデンの猫は、十歳で学校を卒業し、就職すると、あとは実力次第でどんどん上り詰めていける。ゆえに、先代が早くに退けば、若い者がトップに君臨してもおかしくはない。それが、通常三十代未満で構成される希兵隊であればなおさらである。
 希兵隊とは、人間界で例えるなら、個人の観点からいえばスポーツ選手である。肉体労働や戦闘が主なぶん、体力と猫力のピークの年代に在籍する。
 そして、組織の観点からいえば小中高大一貫の運動部のようなものだった。もし大学生の部員がいなければ高校生の部員が部長になるように、まだ少年時代に留まる隊員が指揮を執ることもあり得る。とはいえ、若くても十代後半が相場だろう。
 ところが、宮希は十代ですらない。若輩者を通り越して、未熟者ではないかと疑われても無理はないのだ。
 つかさが立ち止まった。ちょうど、霞冴の部屋の前だ。霞冴が双体になり、ドアノブに手を伸ばしながら、暇乞いを口にしようとした時。
「……その話、もしかしたら、宮希の前でしないほうがいいかもしれない」
 妙に真剣みを帯びた声だった。伸ばした手をぴたりと止める。先だけドアノブに触れた指に、冷感が走った。
「……どうして?」
 振り返ると、つかさは自分の手首をさするような仕草をして、斜め下の床を見つめていた。彼女がこんな態度をとるのは珍しい。
 奥歯にものが挟まったような口調で、彼女は切り出した。
「あのね、あの子が最高司令官になったのは、実は私が入った年の二月なの」
「つかさの入隊が四月だから、その二か月前ってこと?」
「ええ。普通、そんな半端な時期に最司官を交代したりしないでしょ。……先代が、突発的にその地位を譲らざるを得なくなったのよ」
 あと二か月待てば年度の変わり目だった。なのに、それを待たずして、宮希の前の最司官はその座を降りた。家庭的な事情か、他の組織からの引き抜きか、女性なら結婚や妊娠も考えられるだろう。だが、あるいはもっと不吉な――。
「あと、いずれ分かることだから言っとくけど」
 つかさは、霞冴の思考がそこに至るのを待っていたように、再度口を開いた。
「今の総司令部は、宮希と私と、もう一人、生成っていう私の同期のひと、そしてあんた。この四人だけよ。去年、私たちが入隊した時、総司令部には宮希しか残っていなかった。……分かるでしょ。ロクなことがなかったに決まっているわ」
「…………」
 それは、宮希が年齢不相応な肩書きを背負っている理由である可能性が高い事実だ。もともと、幼くして組織を取り仕切る能力はあったのだろう。それを実際に行使することになったのは、彼しか総司令部にいなかったから。ただ、それだけなのかもしれない。
 あのつかさがとしか言わなかった。何でも単刀直入に尋ねて、不明瞭な点がないように努める彼女が、だ。
 つかさでさえ追究するのがはばかられる何かが、ここにはある。
 知らず知らずのうちに視線を落としていた霞冴に、つかさは声の調子を上げて言った。
「ま、とにかく、世も末なんて言わないで。確かに宮希は、高飛車でキツい言い方しかできなくて厳しいかもだけど、それに文句は言えないくらい仕事は有能だし、義務教育を三年で卒業するような脳みそバケモノだから、ちゃんと回っていくわ」
「うん……年齢的に、頭がバケモノ級な気はしてた。っていうか、普通科を三年で卒業って、どうやったらそんなことできるのさ?」
「あの子ね、理数系が天才的に得意なのよ。だから、飛び入学時に理系科目は試験判定で授業免除になって、文系の授業のみ受けていたらしいの。しかも、理系免除で空いた時間を、ほかの学年の文系科目の受講にあててたんだって。つまり、二学年の内容を並行してこなしていたのよ。で、単純計算で六年分の文系科目を三年で終わらせちゃったってわけ」
「すごっ……っていうか、こわっ……」
 霞冴の姉も相当な優秀生徒だったが、ここまでではなかった。彼はつかさの言うとおり、天才なのだろう。本来なら、学院がよだれを垂らして渇望する人材だが、現実は、軍師として驥足きそくを展ばしているというわけである。
「頭よくて高姿勢って、典型的に嫌なヤツ……」
「まあまあ、そう言わないで。根はいい子なのよ」
「いい子ぉ!?」
 霞冴は思わず、素っ頓狂な声を上げた。茄谷宮希の第一印象は、「いい子」とは程遠いものだ。「生意気盛り」などのほうがよほど似合う。
 しかし、つかさは本心からそう評価しているらしかった。
「一年そばにいたらわかるわ。真面目に頑張れば、ちゃんと認めてくれるひとよ。彼は、きちんと部下のことを見ているから」
「ホントにー……?」
「これから分かるんじゃないかしら。……まあ、あまりにも辛抱たまらなかったら、私にも相談しなさい。度が過ぎたらパワハラだわ」
「うん、その時はよろしく!」
 妙なところで力強く返事する霞冴に、つかさは苦く失笑した。
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