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8.神隠し編
40答え合わせ:あなたの居場所はどこですか 後編
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***
三日後、振替休日をもってゴールデンウィークの最終日。
「あっ」
午前中のうちに訪れた希兵隊舎の門の近くで、案内役の姿を見つけて、雷奈は大きく手を振った。黒いコーチジャケットを羽織ったコウは、正面の一番近い隊舎の壁にもたれていたが、雷奈たちに気づくと、軽く手を挙げて応じながら、数歩前に出て迎えた。
「よう」
「三日ぶりったい。体調は?」
「毒なら一晩で抜けた。まあ、ちょっと炎症が残ってるから、今は出動せずに本部でいろいろやってるけど」
彼は一度だけ小さく咳をして、さっそく三人を中へいざなった。目指すは十番隊舎だ。
「他のみんなは……」
「ルシルはだいぶ回復したが、微熱があるっていうんで、まだ医務室で横になってる。って言っても、本とか読んでるから心配するような容体じゃねえよ。神守は頭打ったって言ってたけど、大事にはなってなかったみたいだし、遠野のケガもふさがって、今日は二人ともパトロール程度の仕事をするってよ」
また一つ咳払いすると、コウは黙って目的地の出入り口に立った。扉に手を伸ばし、ドアノブに指をかけたところで、雷奈たちに背を向けたまま、低い声を発した。
「……時尼は」
「…………」
「……あいつは、まだ眠ってる。ずっと……眠ってるよ」
消え入りそうな小声で言って、一息にドアを開き、中へ足を踏み入れた。
夜は電灯の明かりに照らされた無機質な風景だったが、朝来てみると、窓から自然光が入って、幾分か柔らかな印象だ。だが、鼻につんとくる消毒液のにおいと、見えてきた医務室のベッドの数を見ると、学校の保健室というより、入院病棟のような重みを感じる。
出迎えてくれたラウラに一言挨拶をして、雷奈たちはカーテンに仕切られた一角を訪れた。コウの「連れてきたぞー」という合図に返す声は、雷奈たちが思っていたよりも元気そうだった。
カーテンをめくって中に入ると、枕元に新書サイズの本を置いて仰向けに横たわるルシルが頬を緩めた。
「やあ、三人とも。一部始終は聞いているよ。ご苦労だった」
「大変だったんだぞ、ったく。ま、私が行ったのは私のわがままだったし、それで言えば苦労かけたのは他のみんななんだけどな」
「水臭いわよ、氷架璃」
そうだそうだ、との雷奈の合いの手にもルシルは淡く微笑み、仕事に戻るというコウを礼の言葉を添えて見送った。そして、入院着のような服の袖からのぞく腕の、複数の点滴の跡に目を向けながら、ため息と一緒に言葉を吐き出した。
「私も早く仕事に戻れればと思うんだが、このざまでね。もう少しかかるよ」
「いや、十分治ってそうでびっくりしたけど。あんた、刀でぶっ刺されたんだぞ? あの時ゃ、死んだかと思ったわ」
「私も死んだと思ったよ」
自嘲気味に笑って、彼女は「だが」と続けた。
「死ぬわけにはいかなかったからね。霞冴にひと殺しをさせるわけにはいかない。たとえ操られていたとしても、それは彼女を一生苦しめる呪いになるから。……だから、よかった」
微熱とはいえ、話すと消耗するのか、ルシルは熱い息を吐いた。紅潮した顔を雷奈たちのほうへ向ける。
「……霞冴は、まだ意識が戻らないみたいだな」
「うん……コウもそう言ってたばい」
ずっと眠っている、と彼は言った。丸三日ほど、一度も目を覚ましていないということだ。クロ化から戻った直後のおびただしい吐血を思い出せば、そのうち、ことんと死んでしまうのではないかという不安に駆られる。無論、それをルシルの前で口に出すわけもないが。
ルシルはしばし、ぼうっと虚空を見て考えていたが、「……様子、見に行くか」とつぶやいた。そして、だしぬけに氷架璃のほうへと腕を伸ばした。
「ん」
「何、その手」
「起こせ。まだ傷が痛むんだ」
「もうちょっと頼み方ってものがあるでしょうが」
「そうか。……起こせ」
「ぶれないな、ったく」
文句をたれながらも、氷架璃はルシルの手を取って、反対の手で背中まで支えてやりながら起こした。ベッドから降りたルシルは、主体になればという提案を辞謝し、ゆっくりとだが自分の足で歩いた。一応ラウラに許可を取り、もう一か所、カーテンがかかったベッドへやってくると、一度だけ、短く呼びかけた。
「霞冴、入るぞ」
返事はない。聞こえてくるのは、霞冴の生を示す規則正しい機械音だけだ。
ゆっくりと薄桃のカーテンをめくり、中へ入った。雷奈たちは、そこに横たわった少女を見て、記憶の中の彼女との乖離に言葉を失った。
親友に抱きついて愛情を示していた腕はだらりと下ろされ、点滴の管につながれている。いつも臙脂の襟のセーラー服に包まれている体は、ルシルと同じ入院着のような服を着せられ、心電図の電極がモニターまで伸びていた。のんびりとした調子で話す口には酸素マスクがあてがわれており、時々白く曇るのが、まだ規則正しく呼吸をしている証拠だ。子供っぽい笑みを見せる顔は、青白く、何の表情も見せないまま目を閉じて微動だにしない。
生きている。だが、動かない、話さない。ルシルは目を覚まして歩けるようになってから、そんな霞冴のもとを何度も何度も訪れては、心電図の表示と酸素マスクの曇りだけに安堵して、肩を落として戻って行っていた。
丸椅子に座った彼女は、今も唇を噛んで霞冴を見つめている。今、生死の間のどの辺りをさまよっているのかわからない、ひょっとしたら限りになく死に近い境界にいるかもしれない親友を。
その手がすっと伸びて、霞冴の右腕に触れた。長袖だったためにわからなかったが、去年の夏服の時期に雷奈たちが会った時よりも、腕はずっと細くなっていた。
「この一か月で……痩せたな、霞冴……」
何度も腕を撫でて、ルシルは吐息交じりに言った。そして、脱力した霞冴の手を両手で握り、深くうつむいて言葉を絞り出した。
「霞冴、私は分かっていた……分かっていたんだよ。お前がずっと、美雷さんのことで悩んでいたのは……。だけど、やっぱりだ。やっぱり私は、そのうち割り切ってくれると、楽観的に考えて……そのせいで、お前はこんなに苦しんで……っ!」
声が震えたかと思うと、霞冴の白い手の甲に水滴が落ちた。しずくのほうが、それを受ける手よりもずっと温かいなど、皮肉な話だ。
「どうして、私は同じ過ちを繰り返しているんだ……。自分を変えるために希兵隊になったのに……あの日から、何も変わっていないじゃないか……!」
妹を失って痛感した、自分の甘さ。強くなりたいと誓って希兵隊に入り、経験を積み、隊長にまでなって数年たつのに、肝心なところで弱い自分が顔を出した。そのせいで、今度は霞冴まで失うところだったのだ。
いつも人間たちの前では毅然として、強い面ばかり見せていたルシルは、見栄も体裁も放り出して、背中を丸めて泣きじゃくった。いくつも、いくつも透明な粒を落として、心の中の水面に浮かんできたものを直接、痙攣する喉からあふれさせる。
「ごめんな……私が不甲斐ないばかりに……。つらかったな……苦しかったな……ごめんな、霞冴……っ」
それ以上は、言葉にならずにかすれて消えていった。声を詰まらせ、浅く肩で息をして、ただ小さな手を握っていた。
カーテンで囲まれた空間を、嗚咽だけが満たしていた。だが、次の瞬間、言葉と思しきものが、それに重なった。
「……か、ないで……」
はじかれたように、ルシルが顔を上げた。うるさく高鳴る心臓の鼓動すら止める勢いで、息を殺し、耳を澄ませる。
今度は、はっきりと聞こえた。
「泣かないで……ルシル……」
酸素マスクの下で、間違いなく唇が動いていた。そして、ゆっくりと、重いものを持ち上げるようにまぶたが開き、その奥から透き通るようなシアンがルシルを見つめた。勢いよく息を吸い込み、その名を呼ぶ。
「霞冴……っ!」
手を握ったまま、身を乗り出してすがりついた。ルシルの声の端に希望の色が見えたのか、ラウラがカーテンを開けてそっとのぞきこんでくる。静かに興奮状態にあった雷奈たちが、慌ただしい身振り手振りで霞冴の目覚めを伝えると、ラウラは急いで電話をかけに行った。
その間も、ルシルは霞冴に声をかけ続ける。一方通行ではない、会話を望める言葉かけを。
「大丈夫か? 私だ、わかるか!?」
「わかるよ……ルシル、大丈夫……」
ほとんどささやきに近い声だったが、霞冴は確かにそう言って、わずかに微笑んだ。ルシルの目じりから、熱いしずくがあふれ出した。
「よ、かった……霞冴……よかった……っ」
まばたきのたびに、目に浮かんだ涙を頬にこぼしながらも、ルシルは霞冴から一度たりとも目を離さなかった。霞冴もそれに応えて、ルシルだけを見つめる。
「ルシル、聞、いて……」
「どうした?」
「あのね、わ、私……お、思い出し……っ」
つかえながら、急くように言いかけた霞冴は、突然息を詰まらせて咳き込んだ。酸素マスクが真っ白く曇る。
「霞冴……!」
ルシルが取りすがり、喘鳴を立てて激しく呼吸を乱す霞冴の胸をさすった。続きを話そうとして、口をはくはくと動かすだけに終わる霞冴に、落ち着いた口調を心がけて言い聞かせる。
「ゆっくりでいい、ゆっくりでいいよ。ちゃんと聞いているから、焦らないでくれ」
「ん……っ」
何度も咳き込みながら深呼吸を繰り返して、ようやく安定した霞冴は、胸をさすられながら、途切れ途切れに言葉を紡いだ。
「……あの、ね」
「うん」
「私、ね。何も、覚えてないけど、一つだけ、思い出したの」
「うん、何を思い出したんだ?」
「……ルシルの、声が聞こえたの」
胸をさする手が止まる。ルシルの目が、ハッと見開かれて一点を見つめる。
「一緒に帰ろうって……独りじゃないよって声が、聞こえたの……っ」
まるで宝石のきらめきのように、ターコイズの瞳の端に光が浮かんでいた。それが、つうっと流れて軌跡を描く。
「私が、今、ここにいるのは……ルシルの、おかげなんだよ。だから……」
まるで流星のように、涙を流してはその筋を頬に残して、霞冴は言った。
「ありがとう、ルシル……。迎えに来てくれて……私を連れ戻してくれて、ありがとう……っ」
「そんなの……」
強く首を振って、握る手にさらに力を込めて、
「私のセリフだ……。ありがとう、霞冴。戻ってきてくれて……ありがとう……」
ルシルも涙をこぼしながら、微笑を浮かべた。そっと霞冴の髪を梳いて、一度失われかけた美しい青を目に焼き付ける。
最悪が危ぶまれた状況に、幾筋もの光がさして、やがて明るく照らされる。その中心の二人を見つめながら、雷奈は熱いものがこみ上げる胸に、そっと手を当てた。
そして、思った。もしかすると、二人は足りないものを補い合うように引き寄せられたのかもしれない、と。姉を失った霞冴がよりどころを求め、妹を失ったルシルが慈愛の対象を求め、互いが互いの心に空いた穴を埋めあって絆を築いてきたのかもしれない、と。もちろん、今となっては、もっと多くのものが二人をつないでいることだろう。
二人の涙がようやく止まるころ、ぱたぱたと足音が近づいてきて、カーテンの向こうで聞きなれた声がした。
「失礼します、霞冴ちゃん。美雷だけれど、入ってもいいかしら」
「美雷さん……」
霞冴が首を動かして肯定すると、氷架璃がそっとカーテンを開けて美雷を通した。一緒に、深翔とラウラも入ってくる。
「時尼さん、気分はどうですか? つらいところとかは?」
「まだ、苦しいけど……大丈夫です、深翔さん……ありがとう……」
「しばらくは安静にしていてくださいね。ラウラ、検査の準備をお願いします。術の所見でいいので」
「了解です」
ラウラが出ていくと同時、深翔は下がって場所を譲った。入れ替わりにそばに歩み寄ったのは、美雷だ。
「霞冴ちゃん」
「美雷さん……あの……」
霞冴が何か言うよりも先に、美雷はそっと身を寄せて肩を抱いた。いつも堂々と飄々としている美雷の口から、初めて繊細な声を聞いた。
「よかった……本当に、無事で……。ごめんなさい、霞冴ちゃん。あの時、私は追いかけて引き止めるべきだった。そっとしてあげたほうがいいと思った結果、こんなことになるなんて。……本当に、ごめんね」
美雷の口から出た予想外の謝罪に、驚いた霞冴は即座に返事を思いつけなかった。その間に、美雷は思い出したように、ぱっと体を離した。
「そっか、こういうのがいけないのよね。こんなことしたら、余計にお姉さんを思い出させて……」
「美雷さん……違うんです、私……」
呼吸が乱れそうになり、一度整えた。美雷の、薄く微笑みながらも真摯な顔を見上げる。もう永遠に失われたと思われた機会は、今、最後のチャンスとして巡ってきた。殺してしまった絆を生き返らせるための、勇気の一歩を、霞冴は言葉にすることで踏み出した。
「本当にごめんなさい。私、美雷さんにひどいこと言って……。本当は、ずっとずっと悩んでた。美雷さんが、お姉ちゃんに重なって、お姉ちゃんみたいなのに、そう呼んじゃいけなくて。私との思い出もない別の人で……それが、たまらなくつらくて……」
声に出してしまえば、胸を刺されるような苦痛に襲われる。それでも、ずっとうなずいて聞いてくれる美雷に、必死に手を伸ばすように、心の底からの気持ちを伝えていく。
「でも、私、言ってしまってから、気づいたんです。お姉ちゃんは、もういなくて、美雷さんは、お姉ちゃんとは違うひとで……。そしてこれからは、美雷さん、あなたとの絆を築いていくべきなんだって。ベッド交換してもいいよって、何かあったら相談してって言ってくれたのに……こんなに優しくしてくれたのに、私はお姉ちゃんのことばかり見て、美雷さんを見ようとしてなかった……」
吐き出せば吐き出すほど、涙があふれていく。直視すれば苦しい心の内。けれど、もう目を背けてはいられない。
「もうダメだって思いました。気づくのが遅すぎたって……。でも、もし今からでも間に合うなら……許してくれますか、美雷さん……。今からでも……私たち、希兵隊の仲間として、やっていけますか……」
涙の向こうで、美雷が微笑みを濃くするのが見えた。手を伸ばし、ハンカチで優しく霞冴の目元をぬぐって、柔らかいソプラノで答えた。
「もちろんよ。元気になったら、一緒に仲良くお仕事しましょう。本当の気持ち、話してくれてありがとう。つらいのに、頑張ったわね。ありがとうね、霞冴ちゃん。……おかえりなさい」
太陽の光のように、全てにしみわたる温かい声。底なしの慈愛に包まれ、霞冴は酸素マスクの中から声を漏らして泣いた。とめどない涙を流しながら咽び、あふれ出す感情を言葉にすることもできなかった。しゃくりあげる呼吸と抑えきれない涙声の合間、ただ一言、「ただいま」とだけ、口にすることが叶った。
***
初夏の足音がかすかに聞こえてくる五月の半ば。こう晴天だと日差しは強く、午後からは暑くなること請け合いだ。見える緑の数は増え、どれも日の光の中で生き生きと輝いている。
窓を開けて朝の風を取り入れる総司令部室で、美雷はてきぱきと仕事の割り振り作業を進めていた。まだ始業前で、他の司令部員は部屋にいない。その代わり、療養期間にその要領のよさを見込まれた一番隊の隊長が、仏頂面で書類整理をしていた。ひと使いが荒い、とまではいかないが、笑顔で次々に仕事を頼んでくる美雷には、厄介な意味で気に入られてしまったようだった。
「ん」
「あら、終わった?」
コウが、クリップで止めた書類の束を渡すと、美雷はにっこり笑って受けとった。
「さすがコウ君、速くて助かるわ。一番隊の隊長だけにしておくのはもったいないわね」
「そうかよ」
書類整理に使った道具を片付けつつ、ぞんざいな相槌を後ろに放る。後ろ手に投げられた返事を受け止めながら、美雷は頬に手を当てて首をかしげた。
「……もしかして、まだ怒ってるの? ルシルちゃんと霞冴ちゃんが倒れた時、淡白だったこと。それとも、霞冴ちゃんの件の発端が私にあったことかしら」
「別に。あの時はオレが悪かったっすよ。気を揉んだところで、回復は十番隊に任せるしかなかった。オレたちはオレたちにできることをさっさとやるべきだったんだ。時尼さんはそれに最初から気づいていただけです。……あと、あんたが時尼のことをちゃんと考えてるのは知ってました。だって……」
引き出しをぱたんと閉めると、首をひねって美雷を振り返った。
「――時尼を護衛官にしたのは、あいつ自身を守るためだったんでしょう」
コウは、視界に彼女全体を入れて見つめた。微細な変化があれば、一つたりとも逃すまいと。
しかし、美雷は指一本も震わせず、首を傾けて続きを促している。コウは美雷のほうへ体を向け、ため息をついた。
「おかしいと思ったんですよ。まあ、オレはルシルに言われてから気づいたけど。あいつの今の立場は、副最高司令官、兼、最司官護衛官。最高司令官の予備である副最高司令官が護衛官として前に出たりなんかしたら、最高司令官より先に傷つく恐れがある。そしたら、副最高司令官の意味がないんです」
もともと、トップがつぶれた時に総倒れにならないように、と設けた職だ。なのに、トップが動けなくなった時にはすでに副最高司令官も機能が停止しているようでは、笑い話にもならない。
「初めは、あんたが抜けててそれに気づいてないだけなんだと思ってました。けど、そんなヘマをするあんたじゃないでしょう。副最高司令官の地位を設けて、時尼をそこに任命し、後付けで護衛官にも任命することにしたとしたら、その理由は、あいつが護衛官であることに何らかのメリットがあるから。時尼さん自身の身を守るために腕が立つヤツをそばに置きたいなら、確かに時尼は適任かもしれねえ。でも、わざわざ現行だったオレを外してまで時尼を指名するか?」
特に目立った反応を示さない美雷に、コウは続ける。
「これは推測ですが、あんたの狙いは、時尼に帯刀させることだったんじゃないですか? 局長か学院長にでも聞いて、時尼が最も戦闘力を発揮するのは刀を手にしている時だと知っていたから。時尼さんが決めた副最高司令官の定義じゃ、最高司令官に準ずるんだから、帯刀はできねえ。それじゃあ身を守れない。だから、総司令部で唯一、帯刀の権利がある護衛官の職を付け足した。これなら、誰が傷つくこともなく、総司令部の司令網を、ひいては希兵隊全体を増強できる。……そういう経緯で、こんな矛盾した肩書をくれてやったんでしょう」
コウ自身も自覚していた。我ながら穴だらけの推理だ、と。しかし、美雷ほど勘のいい人物が、矛盾した二重任命を行うはずもなく、そこに理由があるとしたら、と考えた結果、この仮説が生まれた。
彼女なら、その穴を余すことなく指摘して、推理という名のついた想像をバラバラにほどいてしまうことも可能だろう。それに、仮にこの推論が合っていたとして、美雷が肯定するだろうか。仲間のためといえば聞こえはいいが、職務的には食い違っているのだ。賛否両論あるだろう。
だからと隠し通そうとするなら、今ここでもはぐらかすことができる。時尼美雷は、それができる食えない人物だ。
案の定、美雷はつかみどころのない返事をよこした。
「さあ、どうかしらね? そうかもしれないし、そうじゃないかもしれないわね」
笑いながら、彼女は言った。口ではそう言いながら、その唇には人差し指を立てて、他言無用のポーズ。やれやれ、とコウは肩をすくめた。
「前言……って言えるほどついさっき言ったわけじゃねえが、撤回。あんた、ちょっとは最司官に向いてそうだ」
「ふふ、お褒めに預かりまして光栄よ」
しゃれた言葉を返した美雷が、壁掛け時計を見上げたのと同時、ノックが部屋に響いた。ドアの向こうの人物が名乗るのを耳にして、美雷はいっそう頬を緩めて、「どうぞ」と返事した。
「失礼します……。あ、コウもいる」
「おう。今日から復帰だったな。大丈夫か」
「うん、もう平気」
白を基調とした、臙脂襟のセーラー服に身を包み、時尼霞冴は親友の一人に小さく笑いかけた。
「久しぶりに制服に着替えたけど、やっぱりこっちのほうが落ち着くなぁ。入院着なんてもう着たくないよ。ところで、着替えるときに気づいたんだけど、お腹のこの辺にすごいあざができてたんだけど。触ったら痛かったんだけど」
「あー……」
「ルシルに聞いたら、コウにやられたって聞いたんだけど」
「…………」
「痛かったんだけど」
「すまん」
長身を折って素直に謝罪。霞冴の追及に屈したというより、傍らの美雷の笑顔から放たれる視線が突き刺さるようで怖かった。美雷の「目から糾弾ビーム」には気づいていないのか、霞冴はくすっと失笑した。
「冗談だよ。コウも私を連れ戻すために頑張ってくれたんでしょう。キツいことなのに、自分から率先して。それもちゃんとルシルから聞いたよ。感謝してる。ありがとう、コウ」
「……おう」
「ついではこの辺でさておき」
「ついでかよ」
余所を向いてすねたコウに笑いながら、霞冴は美雷に向き合った。
「美雷さん、今日からまた、よろしくお願いします」
「ええ、よろしくね。無理のないように。……この時間に来たということは、他にも用事があったんじゃなくて?」
「実はそうなんです。あの、ルシルとコウにも相談したことなんですけど……」
ちらりと投げかけられた視線に、コウは「あの事か」と点頭した。
「何かしら」
「私、学院に編入しようと思うんです」
さすがの美雷も、これは寝耳に水だったようで、驚いたように目をぱちぱちさせた。それを見て、霞冴は一つの誤解を予感して、ぱたぱたと手を振った。
「あ、あの、希兵隊はやめないですよ。通信制で、応用科の学位を長期でもいいから取りたいだけです。隊則にも、業務に支障がなければ、通信制で生徒として学院に所属することは認めるってあるので……」
そのまま研究職についてしまうと、学院所属の公務員になってしまうので、規則違反なのだが、生徒である分には仕事上の身分の重複はない。その辺りも含めて、決まり事は全て把握している美雷は、満面の笑みでうなずいた。
「ええ、もちろん許可するわよ。学びたいと思う子を止めはしないわ。ちなみに、何を専攻するの?」
そう聞かれた霞冴は、かつてはトラウマとなった、しかし憧れを捨てきれなかったその学問の名を、はっきりと口にした。
「時空学です」
美雷は口元を指で覆った。時空学研究科といえば、入るのも出るのも、中でやっていくのも最難関の場所だ。その反応も無理もない。しかし、霞冴は笑みを浮かべて堂々と言った。
「今回みたいな事件が起こった時、時空学に精通していれば、少しは役に立てると思って。ルシルとコウに相談したら、二人も同じ意見で、一緒に編入希望で……」
「そうなの?」
美雷はコウに問いかけた。彼はうなずいて、この宣言はぜひ霞冴がしたかったらしいから黙っていた、と説明した。
「そっか、それは心強いわね。仕事との両立は大変だけど、頑張ってね」
「はいっ。私、お姉ちゃんの部屋にあった時空学の本を読んだことはあるので、基礎知識くらいはあるんです。でも、研究科に入ったら、もっと専門的になって難しいんだろうなぁ」
「編入試験前から何弱気になってんだよ」
「えへへ、そうだね。でも、いざとなったら、美雷さん、勉強教えてくれますか?」
霞冴は笑いながら、上目遣いに美雷を下からのぞき込んだ。美雷は、一瞬だけ目を見開いて、霞冴の屈託のない笑顔を見つめた。数秒間、二人の間だけ、時が止まったかのようだった。
そして、
「霞冴ちゃん」
まるで、朝方に夢を見ている子供を起こすように、静かに言った。
「私には、時空学なんてわからないわ」
切なげな瞳と、無邪気な笑顔が視線を交わし合う。しばらく黙って見つめあった後、霞冴は声をあげて笑った。
「えへへ、そうですよね。冗談です、すみま……」
明るい声を追って、ぱたぱたとしずくが零れ落ちた。笑った表情のまま、霞冴は頬を伝う水滴に触れた。
「あ、れ? おかしいな、なんで……」
乾いた笑いをあげて、目元をぬぐうが、涙は次から次へとあふれていく。それに引きずり出されたように、悲痛な表情が表に現れた。うつむき、何度も何度も目元に袖をこすりつけながら、しゃくりあげる。
「っ……ごめんなさい、私……割り切るって言ったそばから……こんな……っ」
冗談だと笑い飛ばして、もう過去の出来事にするはずだったのに、逆効果だった。荒療治にもなっていない。傍から見れば、さぞ滑稽で無様なことだろう。
美雷は、嗚咽を漏らす霞冴に哀憐の目を向けて、震える肩に手を伸ばした。が、指が触れる前に引っ込める。いくら優しくしたところで、それが彼女を傷つけるだけだと心得たから。
支えたい、けれど支えれば相手は血を流す。まるで手にとげが生えたようだった。
何もできず立ちすくんでいると、
「美雷さん……」
霞冴のほうから歩み寄ってきて、小さな頭をことんと美雷の胸に預けた。なおも触れることができずに霞冴を見下ろすだけの美雷に、涙声は言った。
「お願いがあるんです」
美雷の胸に額を押し付け、霞冴は下を向いたまま懇願した。
「今限りの夢でいいんです、一度きりの嘘でいいんです。たった一言でいいから……美雷さん」
未練がましいことは重々承知だ。だから、これで最後。本当の本当に、これで最後だ。
そう、自分自身に強く言い聞かせて、
「私のことを……霞冴、って、呼んでくれませんか……」
美雷が息を呑むのが伝わってきた。当然だ。姉のように振舞うなと言ったり、姉と同じ呼び方をしろと言ったり、荒唐無稽で迷惑なこと甚だしいだろう。
最後に一度だけ、姉を感じることができれば、もうそれで断ち切れると思っての頼みだった。けれど、よく考えてみれば、それもさっきと同じ結果に終わる可能性が高い。何より、こんなものは、ただ美雷を自分勝手に振り回しているだけだ。
霞冴は涙を呑むと、一歩足を引いた。
「……すみません、やっぱり、何でもないです。聞かなかったことに……」
美雷から離れようとした霞冴は、次の瞬間、強い力でぬくもりの中に引き込まれていた。背中に腕を回され、胸に押し付けるようにして抱きしめられる。美雷の心臓の鼓動が、肌を通じて伝わってきた。
突然のことに固まる霞冴の耳元で、ソプラノがささやく。
「――大丈夫よ、霞冴」
シアンの瞳がいっぱいに開かれた。振り向くこともできないほどに霞冴を抱きすくめ、美雷はしとやかな声で続ける。
「あなたは一人じゃないわ。つらい時は必ず誰かがそばにいてくれる。私たちは……みんな家族よ、霞冴」
温かい手が、霞冴の背中をさすった。何度も何度も、あやすように、慰めるように。
手から伝わる熱が、包み込んでくる体温が、霞冴の中の氷塊を溶かす。温度を持った水は、慟哭とともに目からあふれだした。泣き叫ぶ声に押し出されるように、冷たい氷だったものが、熱を伴って頬を流れていく。
霞冴。
その呼び名に、一瞬だけ姉を錯覚した。
けれど、違う。ここにいるのは、姉ではない。今、霞冴と呼んでくれたのは、姉ではない。
彼女は、時尼美雷。幼くわがままな霞冴の、しようのないお願いも聞いてくれる、底抜けに優しい従姉の上司だ。
きっと、体が離れるころには、また敬称をつけて呼ぶのだろう。「霞冴」は泡沫の夢だ。
しかし、そうだとしても。その呼称は、今この一瞬だけの幻だったとしても。それ以外の言葉は、全部全部、嘘ではないから。
だから、彼女の腕の中で号泣しながら、霞冴は心の中で告げる。
――ねえ、お姉ちゃん。
今まで、心配かけてごめんね。あの日からずっと前に進めずにいた私を天国から見て、ハラハラさせてしまったね。
私は、やっと気づけたみたいだよ。傷ついてでも迎えに来てくれるひと。命を懸けて連れ戻してくれるひと。私の何もかもを受け止めて、全てを許してくれるひと。
ここには、こんなにも私を大切に思ってくれるひとたちがいる。
いつまでになるかはわからないけれど、私はこの居場所で生きていくの。
だから、この数年間、ずっと言えなかった言葉を言わせて。
お姉ちゃん、
私の大好きなお姉ちゃん、
――さようなら。
三日後、振替休日をもってゴールデンウィークの最終日。
「あっ」
午前中のうちに訪れた希兵隊舎の門の近くで、案内役の姿を見つけて、雷奈は大きく手を振った。黒いコーチジャケットを羽織ったコウは、正面の一番近い隊舎の壁にもたれていたが、雷奈たちに気づくと、軽く手を挙げて応じながら、数歩前に出て迎えた。
「よう」
「三日ぶりったい。体調は?」
「毒なら一晩で抜けた。まあ、ちょっと炎症が残ってるから、今は出動せずに本部でいろいろやってるけど」
彼は一度だけ小さく咳をして、さっそく三人を中へいざなった。目指すは十番隊舎だ。
「他のみんなは……」
「ルシルはだいぶ回復したが、微熱があるっていうんで、まだ医務室で横になってる。って言っても、本とか読んでるから心配するような容体じゃねえよ。神守は頭打ったって言ってたけど、大事にはなってなかったみたいだし、遠野のケガもふさがって、今日は二人ともパトロール程度の仕事をするってよ」
また一つ咳払いすると、コウは黙って目的地の出入り口に立った。扉に手を伸ばし、ドアノブに指をかけたところで、雷奈たちに背を向けたまま、低い声を発した。
「……時尼は」
「…………」
「……あいつは、まだ眠ってる。ずっと……眠ってるよ」
消え入りそうな小声で言って、一息にドアを開き、中へ足を踏み入れた。
夜は電灯の明かりに照らされた無機質な風景だったが、朝来てみると、窓から自然光が入って、幾分か柔らかな印象だ。だが、鼻につんとくる消毒液のにおいと、見えてきた医務室のベッドの数を見ると、学校の保健室というより、入院病棟のような重みを感じる。
出迎えてくれたラウラに一言挨拶をして、雷奈たちはカーテンに仕切られた一角を訪れた。コウの「連れてきたぞー」という合図に返す声は、雷奈たちが思っていたよりも元気そうだった。
カーテンをめくって中に入ると、枕元に新書サイズの本を置いて仰向けに横たわるルシルが頬を緩めた。
「やあ、三人とも。一部始終は聞いているよ。ご苦労だった」
「大変だったんだぞ、ったく。ま、私が行ったのは私のわがままだったし、それで言えば苦労かけたのは他のみんななんだけどな」
「水臭いわよ、氷架璃」
そうだそうだ、との雷奈の合いの手にもルシルは淡く微笑み、仕事に戻るというコウを礼の言葉を添えて見送った。そして、入院着のような服の袖からのぞく腕の、複数の点滴の跡に目を向けながら、ため息と一緒に言葉を吐き出した。
「私も早く仕事に戻れればと思うんだが、このざまでね。もう少しかかるよ」
「いや、十分治ってそうでびっくりしたけど。あんた、刀でぶっ刺されたんだぞ? あの時ゃ、死んだかと思ったわ」
「私も死んだと思ったよ」
自嘲気味に笑って、彼女は「だが」と続けた。
「死ぬわけにはいかなかったからね。霞冴にひと殺しをさせるわけにはいかない。たとえ操られていたとしても、それは彼女を一生苦しめる呪いになるから。……だから、よかった」
微熱とはいえ、話すと消耗するのか、ルシルは熱い息を吐いた。紅潮した顔を雷奈たちのほうへ向ける。
「……霞冴は、まだ意識が戻らないみたいだな」
「うん……コウもそう言ってたばい」
ずっと眠っている、と彼は言った。丸三日ほど、一度も目を覚ましていないということだ。クロ化から戻った直後のおびただしい吐血を思い出せば、そのうち、ことんと死んでしまうのではないかという不安に駆られる。無論、それをルシルの前で口に出すわけもないが。
ルシルはしばし、ぼうっと虚空を見て考えていたが、「……様子、見に行くか」とつぶやいた。そして、だしぬけに氷架璃のほうへと腕を伸ばした。
「ん」
「何、その手」
「起こせ。まだ傷が痛むんだ」
「もうちょっと頼み方ってものがあるでしょうが」
「そうか。……起こせ」
「ぶれないな、ったく」
文句をたれながらも、氷架璃はルシルの手を取って、反対の手で背中まで支えてやりながら起こした。ベッドから降りたルシルは、主体になればという提案を辞謝し、ゆっくりとだが自分の足で歩いた。一応ラウラに許可を取り、もう一か所、カーテンがかかったベッドへやってくると、一度だけ、短く呼びかけた。
「霞冴、入るぞ」
返事はない。聞こえてくるのは、霞冴の生を示す規則正しい機械音だけだ。
ゆっくりと薄桃のカーテンをめくり、中へ入った。雷奈たちは、そこに横たわった少女を見て、記憶の中の彼女との乖離に言葉を失った。
親友に抱きついて愛情を示していた腕はだらりと下ろされ、点滴の管につながれている。いつも臙脂の襟のセーラー服に包まれている体は、ルシルと同じ入院着のような服を着せられ、心電図の電極がモニターまで伸びていた。のんびりとした調子で話す口には酸素マスクがあてがわれており、時々白く曇るのが、まだ規則正しく呼吸をしている証拠だ。子供っぽい笑みを見せる顔は、青白く、何の表情も見せないまま目を閉じて微動だにしない。
生きている。だが、動かない、話さない。ルシルは目を覚まして歩けるようになってから、そんな霞冴のもとを何度も何度も訪れては、心電図の表示と酸素マスクの曇りだけに安堵して、肩を落として戻って行っていた。
丸椅子に座った彼女は、今も唇を噛んで霞冴を見つめている。今、生死の間のどの辺りをさまよっているのかわからない、ひょっとしたら限りになく死に近い境界にいるかもしれない親友を。
その手がすっと伸びて、霞冴の右腕に触れた。長袖だったためにわからなかったが、去年の夏服の時期に雷奈たちが会った時よりも、腕はずっと細くなっていた。
「この一か月で……痩せたな、霞冴……」
何度も腕を撫でて、ルシルは吐息交じりに言った。そして、脱力した霞冴の手を両手で握り、深くうつむいて言葉を絞り出した。
「霞冴、私は分かっていた……分かっていたんだよ。お前がずっと、美雷さんのことで悩んでいたのは……。だけど、やっぱりだ。やっぱり私は、そのうち割り切ってくれると、楽観的に考えて……そのせいで、お前はこんなに苦しんで……っ!」
声が震えたかと思うと、霞冴の白い手の甲に水滴が落ちた。しずくのほうが、それを受ける手よりもずっと温かいなど、皮肉な話だ。
「どうして、私は同じ過ちを繰り返しているんだ……。自分を変えるために希兵隊になったのに……あの日から、何も変わっていないじゃないか……!」
妹を失って痛感した、自分の甘さ。強くなりたいと誓って希兵隊に入り、経験を積み、隊長にまでなって数年たつのに、肝心なところで弱い自分が顔を出した。そのせいで、今度は霞冴まで失うところだったのだ。
いつも人間たちの前では毅然として、強い面ばかり見せていたルシルは、見栄も体裁も放り出して、背中を丸めて泣きじゃくった。いくつも、いくつも透明な粒を落として、心の中の水面に浮かんできたものを直接、痙攣する喉からあふれさせる。
「ごめんな……私が不甲斐ないばかりに……。つらかったな……苦しかったな……ごめんな、霞冴……っ」
それ以上は、言葉にならずにかすれて消えていった。声を詰まらせ、浅く肩で息をして、ただ小さな手を握っていた。
カーテンで囲まれた空間を、嗚咽だけが満たしていた。だが、次の瞬間、言葉と思しきものが、それに重なった。
「……か、ないで……」
はじかれたように、ルシルが顔を上げた。うるさく高鳴る心臓の鼓動すら止める勢いで、息を殺し、耳を澄ませる。
今度は、はっきりと聞こえた。
「泣かないで……ルシル……」
酸素マスクの下で、間違いなく唇が動いていた。そして、ゆっくりと、重いものを持ち上げるようにまぶたが開き、その奥から透き通るようなシアンがルシルを見つめた。勢いよく息を吸い込み、その名を呼ぶ。
「霞冴……っ!」
手を握ったまま、身を乗り出してすがりついた。ルシルの声の端に希望の色が見えたのか、ラウラがカーテンを開けてそっとのぞきこんでくる。静かに興奮状態にあった雷奈たちが、慌ただしい身振り手振りで霞冴の目覚めを伝えると、ラウラは急いで電話をかけに行った。
その間も、ルシルは霞冴に声をかけ続ける。一方通行ではない、会話を望める言葉かけを。
「大丈夫か? 私だ、わかるか!?」
「わかるよ……ルシル、大丈夫……」
ほとんどささやきに近い声だったが、霞冴は確かにそう言って、わずかに微笑んだ。ルシルの目じりから、熱いしずくがあふれ出した。
「よ、かった……霞冴……よかった……っ」
まばたきのたびに、目に浮かんだ涙を頬にこぼしながらも、ルシルは霞冴から一度たりとも目を離さなかった。霞冴もそれに応えて、ルシルだけを見つめる。
「ルシル、聞、いて……」
「どうした?」
「あのね、わ、私……お、思い出し……っ」
つかえながら、急くように言いかけた霞冴は、突然息を詰まらせて咳き込んだ。酸素マスクが真っ白く曇る。
「霞冴……!」
ルシルが取りすがり、喘鳴を立てて激しく呼吸を乱す霞冴の胸をさすった。続きを話そうとして、口をはくはくと動かすだけに終わる霞冴に、落ち着いた口調を心がけて言い聞かせる。
「ゆっくりでいい、ゆっくりでいいよ。ちゃんと聞いているから、焦らないでくれ」
「ん……っ」
何度も咳き込みながら深呼吸を繰り返して、ようやく安定した霞冴は、胸をさすられながら、途切れ途切れに言葉を紡いだ。
「……あの、ね」
「うん」
「私、ね。何も、覚えてないけど、一つだけ、思い出したの」
「うん、何を思い出したんだ?」
「……ルシルの、声が聞こえたの」
胸をさする手が止まる。ルシルの目が、ハッと見開かれて一点を見つめる。
「一緒に帰ろうって……独りじゃないよって声が、聞こえたの……っ」
まるで宝石のきらめきのように、ターコイズの瞳の端に光が浮かんでいた。それが、つうっと流れて軌跡を描く。
「私が、今、ここにいるのは……ルシルの、おかげなんだよ。だから……」
まるで流星のように、涙を流してはその筋を頬に残して、霞冴は言った。
「ありがとう、ルシル……。迎えに来てくれて……私を連れ戻してくれて、ありがとう……っ」
「そんなの……」
強く首を振って、握る手にさらに力を込めて、
「私のセリフだ……。ありがとう、霞冴。戻ってきてくれて……ありがとう……」
ルシルも涙をこぼしながら、微笑を浮かべた。そっと霞冴の髪を梳いて、一度失われかけた美しい青を目に焼き付ける。
最悪が危ぶまれた状況に、幾筋もの光がさして、やがて明るく照らされる。その中心の二人を見つめながら、雷奈は熱いものがこみ上げる胸に、そっと手を当てた。
そして、思った。もしかすると、二人は足りないものを補い合うように引き寄せられたのかもしれない、と。姉を失った霞冴がよりどころを求め、妹を失ったルシルが慈愛の対象を求め、互いが互いの心に空いた穴を埋めあって絆を築いてきたのかもしれない、と。もちろん、今となっては、もっと多くのものが二人をつないでいることだろう。
二人の涙がようやく止まるころ、ぱたぱたと足音が近づいてきて、カーテンの向こうで聞きなれた声がした。
「失礼します、霞冴ちゃん。美雷だけれど、入ってもいいかしら」
「美雷さん……」
霞冴が首を動かして肯定すると、氷架璃がそっとカーテンを開けて美雷を通した。一緒に、深翔とラウラも入ってくる。
「時尼さん、気分はどうですか? つらいところとかは?」
「まだ、苦しいけど……大丈夫です、深翔さん……ありがとう……」
「しばらくは安静にしていてくださいね。ラウラ、検査の準備をお願いします。術の所見でいいので」
「了解です」
ラウラが出ていくと同時、深翔は下がって場所を譲った。入れ替わりにそばに歩み寄ったのは、美雷だ。
「霞冴ちゃん」
「美雷さん……あの……」
霞冴が何か言うよりも先に、美雷はそっと身を寄せて肩を抱いた。いつも堂々と飄々としている美雷の口から、初めて繊細な声を聞いた。
「よかった……本当に、無事で……。ごめんなさい、霞冴ちゃん。あの時、私は追いかけて引き止めるべきだった。そっとしてあげたほうがいいと思った結果、こんなことになるなんて。……本当に、ごめんね」
美雷の口から出た予想外の謝罪に、驚いた霞冴は即座に返事を思いつけなかった。その間に、美雷は思い出したように、ぱっと体を離した。
「そっか、こういうのがいけないのよね。こんなことしたら、余計にお姉さんを思い出させて……」
「美雷さん……違うんです、私……」
呼吸が乱れそうになり、一度整えた。美雷の、薄く微笑みながらも真摯な顔を見上げる。もう永遠に失われたと思われた機会は、今、最後のチャンスとして巡ってきた。殺してしまった絆を生き返らせるための、勇気の一歩を、霞冴は言葉にすることで踏み出した。
「本当にごめんなさい。私、美雷さんにひどいこと言って……。本当は、ずっとずっと悩んでた。美雷さんが、お姉ちゃんに重なって、お姉ちゃんみたいなのに、そう呼んじゃいけなくて。私との思い出もない別の人で……それが、たまらなくつらくて……」
声に出してしまえば、胸を刺されるような苦痛に襲われる。それでも、ずっとうなずいて聞いてくれる美雷に、必死に手を伸ばすように、心の底からの気持ちを伝えていく。
「でも、私、言ってしまってから、気づいたんです。お姉ちゃんは、もういなくて、美雷さんは、お姉ちゃんとは違うひとで……。そしてこれからは、美雷さん、あなたとの絆を築いていくべきなんだって。ベッド交換してもいいよって、何かあったら相談してって言ってくれたのに……こんなに優しくしてくれたのに、私はお姉ちゃんのことばかり見て、美雷さんを見ようとしてなかった……」
吐き出せば吐き出すほど、涙があふれていく。直視すれば苦しい心の内。けれど、もう目を背けてはいられない。
「もうダメだって思いました。気づくのが遅すぎたって……。でも、もし今からでも間に合うなら……許してくれますか、美雷さん……。今からでも……私たち、希兵隊の仲間として、やっていけますか……」
涙の向こうで、美雷が微笑みを濃くするのが見えた。手を伸ばし、ハンカチで優しく霞冴の目元をぬぐって、柔らかいソプラノで答えた。
「もちろんよ。元気になったら、一緒に仲良くお仕事しましょう。本当の気持ち、話してくれてありがとう。つらいのに、頑張ったわね。ありがとうね、霞冴ちゃん。……おかえりなさい」
太陽の光のように、全てにしみわたる温かい声。底なしの慈愛に包まれ、霞冴は酸素マスクの中から声を漏らして泣いた。とめどない涙を流しながら咽び、あふれ出す感情を言葉にすることもできなかった。しゃくりあげる呼吸と抑えきれない涙声の合間、ただ一言、「ただいま」とだけ、口にすることが叶った。
***
初夏の足音がかすかに聞こえてくる五月の半ば。こう晴天だと日差しは強く、午後からは暑くなること請け合いだ。見える緑の数は増え、どれも日の光の中で生き生きと輝いている。
窓を開けて朝の風を取り入れる総司令部室で、美雷はてきぱきと仕事の割り振り作業を進めていた。まだ始業前で、他の司令部員は部屋にいない。その代わり、療養期間にその要領のよさを見込まれた一番隊の隊長が、仏頂面で書類整理をしていた。ひと使いが荒い、とまではいかないが、笑顔で次々に仕事を頼んでくる美雷には、厄介な意味で気に入られてしまったようだった。
「ん」
「あら、終わった?」
コウが、クリップで止めた書類の束を渡すと、美雷はにっこり笑って受けとった。
「さすがコウ君、速くて助かるわ。一番隊の隊長だけにしておくのはもったいないわね」
「そうかよ」
書類整理に使った道具を片付けつつ、ぞんざいな相槌を後ろに放る。後ろ手に投げられた返事を受け止めながら、美雷は頬に手を当てて首をかしげた。
「……もしかして、まだ怒ってるの? ルシルちゃんと霞冴ちゃんが倒れた時、淡白だったこと。それとも、霞冴ちゃんの件の発端が私にあったことかしら」
「別に。あの時はオレが悪かったっすよ。気を揉んだところで、回復は十番隊に任せるしかなかった。オレたちはオレたちにできることをさっさとやるべきだったんだ。時尼さんはそれに最初から気づいていただけです。……あと、あんたが時尼のことをちゃんと考えてるのは知ってました。だって……」
引き出しをぱたんと閉めると、首をひねって美雷を振り返った。
「――時尼を護衛官にしたのは、あいつ自身を守るためだったんでしょう」
コウは、視界に彼女全体を入れて見つめた。微細な変化があれば、一つたりとも逃すまいと。
しかし、美雷は指一本も震わせず、首を傾けて続きを促している。コウは美雷のほうへ体を向け、ため息をついた。
「おかしいと思ったんですよ。まあ、オレはルシルに言われてから気づいたけど。あいつの今の立場は、副最高司令官、兼、最司官護衛官。最高司令官の予備である副最高司令官が護衛官として前に出たりなんかしたら、最高司令官より先に傷つく恐れがある。そしたら、副最高司令官の意味がないんです」
もともと、トップがつぶれた時に総倒れにならないように、と設けた職だ。なのに、トップが動けなくなった時にはすでに副最高司令官も機能が停止しているようでは、笑い話にもならない。
「初めは、あんたが抜けててそれに気づいてないだけなんだと思ってました。けど、そんなヘマをするあんたじゃないでしょう。副最高司令官の地位を設けて、時尼をそこに任命し、後付けで護衛官にも任命することにしたとしたら、その理由は、あいつが護衛官であることに何らかのメリットがあるから。時尼さん自身の身を守るために腕が立つヤツをそばに置きたいなら、確かに時尼は適任かもしれねえ。でも、わざわざ現行だったオレを外してまで時尼を指名するか?」
特に目立った反応を示さない美雷に、コウは続ける。
「これは推測ですが、あんたの狙いは、時尼に帯刀させることだったんじゃないですか? 局長か学院長にでも聞いて、時尼が最も戦闘力を発揮するのは刀を手にしている時だと知っていたから。時尼さんが決めた副最高司令官の定義じゃ、最高司令官に準ずるんだから、帯刀はできねえ。それじゃあ身を守れない。だから、総司令部で唯一、帯刀の権利がある護衛官の職を付け足した。これなら、誰が傷つくこともなく、総司令部の司令網を、ひいては希兵隊全体を増強できる。……そういう経緯で、こんな矛盾した肩書をくれてやったんでしょう」
コウ自身も自覚していた。我ながら穴だらけの推理だ、と。しかし、美雷ほど勘のいい人物が、矛盾した二重任命を行うはずもなく、そこに理由があるとしたら、と考えた結果、この仮説が生まれた。
彼女なら、その穴を余すことなく指摘して、推理という名のついた想像をバラバラにほどいてしまうことも可能だろう。それに、仮にこの推論が合っていたとして、美雷が肯定するだろうか。仲間のためといえば聞こえはいいが、職務的には食い違っているのだ。賛否両論あるだろう。
だからと隠し通そうとするなら、今ここでもはぐらかすことができる。時尼美雷は、それができる食えない人物だ。
案の定、美雷はつかみどころのない返事をよこした。
「さあ、どうかしらね? そうかもしれないし、そうじゃないかもしれないわね」
笑いながら、彼女は言った。口ではそう言いながら、その唇には人差し指を立てて、他言無用のポーズ。やれやれ、とコウは肩をすくめた。
「前言……って言えるほどついさっき言ったわけじゃねえが、撤回。あんた、ちょっとは最司官に向いてそうだ」
「ふふ、お褒めに預かりまして光栄よ」
しゃれた言葉を返した美雷が、壁掛け時計を見上げたのと同時、ノックが部屋に響いた。ドアの向こうの人物が名乗るのを耳にして、美雷はいっそう頬を緩めて、「どうぞ」と返事した。
「失礼します……。あ、コウもいる」
「おう。今日から復帰だったな。大丈夫か」
「うん、もう平気」
白を基調とした、臙脂襟のセーラー服に身を包み、時尼霞冴は親友の一人に小さく笑いかけた。
「久しぶりに制服に着替えたけど、やっぱりこっちのほうが落ち着くなぁ。入院着なんてもう着たくないよ。ところで、着替えるときに気づいたんだけど、お腹のこの辺にすごいあざができてたんだけど。触ったら痛かったんだけど」
「あー……」
「ルシルに聞いたら、コウにやられたって聞いたんだけど」
「…………」
「痛かったんだけど」
「すまん」
長身を折って素直に謝罪。霞冴の追及に屈したというより、傍らの美雷の笑顔から放たれる視線が突き刺さるようで怖かった。美雷の「目から糾弾ビーム」には気づいていないのか、霞冴はくすっと失笑した。
「冗談だよ。コウも私を連れ戻すために頑張ってくれたんでしょう。キツいことなのに、自分から率先して。それもちゃんとルシルから聞いたよ。感謝してる。ありがとう、コウ」
「……おう」
「ついではこの辺でさておき」
「ついでかよ」
余所を向いてすねたコウに笑いながら、霞冴は美雷に向き合った。
「美雷さん、今日からまた、よろしくお願いします」
「ええ、よろしくね。無理のないように。……この時間に来たということは、他にも用事があったんじゃなくて?」
「実はそうなんです。あの、ルシルとコウにも相談したことなんですけど……」
ちらりと投げかけられた視線に、コウは「あの事か」と点頭した。
「何かしら」
「私、学院に編入しようと思うんです」
さすがの美雷も、これは寝耳に水だったようで、驚いたように目をぱちぱちさせた。それを見て、霞冴は一つの誤解を予感して、ぱたぱたと手を振った。
「あ、あの、希兵隊はやめないですよ。通信制で、応用科の学位を長期でもいいから取りたいだけです。隊則にも、業務に支障がなければ、通信制で生徒として学院に所属することは認めるってあるので……」
そのまま研究職についてしまうと、学院所属の公務員になってしまうので、規則違反なのだが、生徒である分には仕事上の身分の重複はない。その辺りも含めて、決まり事は全て把握している美雷は、満面の笑みでうなずいた。
「ええ、もちろん許可するわよ。学びたいと思う子を止めはしないわ。ちなみに、何を専攻するの?」
そう聞かれた霞冴は、かつてはトラウマとなった、しかし憧れを捨てきれなかったその学問の名を、はっきりと口にした。
「時空学です」
美雷は口元を指で覆った。時空学研究科といえば、入るのも出るのも、中でやっていくのも最難関の場所だ。その反応も無理もない。しかし、霞冴は笑みを浮かべて堂々と言った。
「今回みたいな事件が起こった時、時空学に精通していれば、少しは役に立てると思って。ルシルとコウに相談したら、二人も同じ意見で、一緒に編入希望で……」
「そうなの?」
美雷はコウに問いかけた。彼はうなずいて、この宣言はぜひ霞冴がしたかったらしいから黙っていた、と説明した。
「そっか、それは心強いわね。仕事との両立は大変だけど、頑張ってね」
「はいっ。私、お姉ちゃんの部屋にあった時空学の本を読んだことはあるので、基礎知識くらいはあるんです。でも、研究科に入ったら、もっと専門的になって難しいんだろうなぁ」
「編入試験前から何弱気になってんだよ」
「えへへ、そうだね。でも、いざとなったら、美雷さん、勉強教えてくれますか?」
霞冴は笑いながら、上目遣いに美雷を下からのぞき込んだ。美雷は、一瞬だけ目を見開いて、霞冴の屈託のない笑顔を見つめた。数秒間、二人の間だけ、時が止まったかのようだった。
そして、
「霞冴ちゃん」
まるで、朝方に夢を見ている子供を起こすように、静かに言った。
「私には、時空学なんてわからないわ」
切なげな瞳と、無邪気な笑顔が視線を交わし合う。しばらく黙って見つめあった後、霞冴は声をあげて笑った。
「えへへ、そうですよね。冗談です、すみま……」
明るい声を追って、ぱたぱたとしずくが零れ落ちた。笑った表情のまま、霞冴は頬を伝う水滴に触れた。
「あ、れ? おかしいな、なんで……」
乾いた笑いをあげて、目元をぬぐうが、涙は次から次へとあふれていく。それに引きずり出されたように、悲痛な表情が表に現れた。うつむき、何度も何度も目元に袖をこすりつけながら、しゃくりあげる。
「っ……ごめんなさい、私……割り切るって言ったそばから……こんな……っ」
冗談だと笑い飛ばして、もう過去の出来事にするはずだったのに、逆効果だった。荒療治にもなっていない。傍から見れば、さぞ滑稽で無様なことだろう。
美雷は、嗚咽を漏らす霞冴に哀憐の目を向けて、震える肩に手を伸ばした。が、指が触れる前に引っ込める。いくら優しくしたところで、それが彼女を傷つけるだけだと心得たから。
支えたい、けれど支えれば相手は血を流す。まるで手にとげが生えたようだった。
何もできず立ちすくんでいると、
「美雷さん……」
霞冴のほうから歩み寄ってきて、小さな頭をことんと美雷の胸に預けた。なおも触れることができずに霞冴を見下ろすだけの美雷に、涙声は言った。
「お願いがあるんです」
美雷の胸に額を押し付け、霞冴は下を向いたまま懇願した。
「今限りの夢でいいんです、一度きりの嘘でいいんです。たった一言でいいから……美雷さん」
未練がましいことは重々承知だ。だから、これで最後。本当の本当に、これで最後だ。
そう、自分自身に強く言い聞かせて、
「私のことを……霞冴、って、呼んでくれませんか……」
美雷が息を呑むのが伝わってきた。当然だ。姉のように振舞うなと言ったり、姉と同じ呼び方をしろと言ったり、荒唐無稽で迷惑なこと甚だしいだろう。
最後に一度だけ、姉を感じることができれば、もうそれで断ち切れると思っての頼みだった。けれど、よく考えてみれば、それもさっきと同じ結果に終わる可能性が高い。何より、こんなものは、ただ美雷を自分勝手に振り回しているだけだ。
霞冴は涙を呑むと、一歩足を引いた。
「……すみません、やっぱり、何でもないです。聞かなかったことに……」
美雷から離れようとした霞冴は、次の瞬間、強い力でぬくもりの中に引き込まれていた。背中に腕を回され、胸に押し付けるようにして抱きしめられる。美雷の心臓の鼓動が、肌を通じて伝わってきた。
突然のことに固まる霞冴の耳元で、ソプラノがささやく。
「――大丈夫よ、霞冴」
シアンの瞳がいっぱいに開かれた。振り向くこともできないほどに霞冴を抱きすくめ、美雷はしとやかな声で続ける。
「あなたは一人じゃないわ。つらい時は必ず誰かがそばにいてくれる。私たちは……みんな家族よ、霞冴」
温かい手が、霞冴の背中をさすった。何度も何度も、あやすように、慰めるように。
手から伝わる熱が、包み込んでくる体温が、霞冴の中の氷塊を溶かす。温度を持った水は、慟哭とともに目からあふれだした。泣き叫ぶ声に押し出されるように、冷たい氷だったものが、熱を伴って頬を流れていく。
霞冴。
その呼び名に、一瞬だけ姉を錯覚した。
けれど、違う。ここにいるのは、姉ではない。今、霞冴と呼んでくれたのは、姉ではない。
彼女は、時尼美雷。幼くわがままな霞冴の、しようのないお願いも聞いてくれる、底抜けに優しい従姉の上司だ。
きっと、体が離れるころには、また敬称をつけて呼ぶのだろう。「霞冴」は泡沫の夢だ。
しかし、そうだとしても。その呼称は、今この一瞬だけの幻だったとしても。それ以外の言葉は、全部全部、嘘ではないから。
だから、彼女の腕の中で号泣しながら、霞冴は心の中で告げる。
――ねえ、お姉ちゃん。
今まで、心配かけてごめんね。あの日からずっと前に進めずにいた私を天国から見て、ハラハラさせてしまったね。
私は、やっと気づけたみたいだよ。傷ついてでも迎えに来てくれるひと。命を懸けて連れ戻してくれるひと。私の何もかもを受け止めて、全てを許してくれるひと。
ここには、こんなにも私を大切に思ってくれるひとたちがいる。
いつまでになるかはわからないけれど、私はこの居場所で生きていくの。
だから、この数年間、ずっと言えなかった言葉を言わせて。
お姉ちゃん、
私の大好きなお姉ちゃん、
――さようなら。
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