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8.神隠し編
39問四:伝えたい言葉は何ですか 中編
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霞冴の肩に顔をうずめ、優しく抱きしめる。黒ずんでしまった長い髪の上から、背中をなでて、もう一度なでて。
もう、霞冴に体重を預けなければ立っていられなかった。腹が熱い。刃が刺さっている傷口も、えぐられた内部も。否、熱いのは傷だけではない。じんとした熱が目頭に生まれると同時、瑠璃色の左目から、抑えきれなかった涙が一筋流れて、
――ルシルは、自分の肩が濡れるのを感じた。
ハッと目を見開く。右肩に落ちた温度を疑った。弱い自分の心が作り出した錯覚かと思った。
けれど、今まさに視界の中、どす黒い穢れが散っていき、かき抱いた長い髪を淡い空の色が毛先から彩っていく。視線を巡らせても、長い尾はどこにも見当たらない。
ゆっくりと体を離して、恐る恐る霞冴の顔をのぞきこんだ。元の色を取り戻した前髪の下でルシルを見つめるのは、彼女が愛した青い瞳。
「霞冴……」
「ル、シル……」
涙を浮かべたターコイズのような目が、また一つ、しずくをこぼした。それに自分自身で驚いたように、霞冴は戸惑いの表情を見せた。
「あ、れ……私、なんで……ここは……?」
わずかに首を動かして、ここが見知らぬ地であることに気づく。そして、再びルシルへと目を戻した霞冴は、その口元の血の跡に気づいて瞠目した。
「え……ルシル……!?」
ルシルは涙を浮かべながら、淡く微笑んでいる。だが、顔は血の気を失い、呼吸も浅い。なぜ、と視線を下へずらしていった霞冴は、信じがたい光景に目を疑った。
ルシルの腹部には、刃が見えなくなるほど深く刀が突き刺さっていて。
そして、その柄を握っているのは、まぎれもなく自分の手だった。
「……っ!?」
手を放し、飛び退る。離れて見ても、間違いない。自分が持っていた刀は、大好きな親友を貫いていた。
「ル……ルシ……」
呼吸が乱れるほど狼狽した霞冴を、ルシルは依然として慈しみの表情で見つめる。そして、ゆっくりとまぶたが下りていき、微笑も消え――ドサリと、横へ崩れるように倒れた。
衝撃のあまり、わずかな間、それを呆然と見ていた。やがて、手が震え、心臓が暴れだしてからようやく、脳はすさまじい恐怖に支配された。
「ゃ……いやあぁぁっ!」
絶叫し、ルシルに覆いかぶさるように取りすがる。手をつくこともままならず、脱力した姿勢で倒れたルシルは、もう動かない。
「やだ、ルシルっ……! どうして、どうして私っ……ああぁ……っ!」
ぼろぼろと涙を落としながら、刀が刺さったままのルシルを揺さぶる霞冴のもとへ、コウが力を振り絞って駆け寄った。信頼するもう一人の友人の姿を見た霞冴は、なりふり構わず彼の袖にすがりついた。
「コウ、コウっ、どうしよう、ルシルが……! 私が、ルシルを……っ!」
「落ち着け、時尼。大丈夫だ、オレが何とかする」
コウは手の震えをこらえながら、ルシルの手首で脈をとった。弱く触れる感触に、まだ生きている、と安堵するとともに、早く処置をしなければ、その希望も潰えてしまうことへの焦燥感にかられた。
その間も、霞冴は泣き叫び続ける。
「や、やだよ、ルシルが死んじゃう、ルシルが……っ」
突如として、その言葉を遮ったのは、あふれ出す水音だった。
霞冴もコウも、驚愕のあまり固まる。霞冴は、その感触を。そしてコウは、彼女の口からこぼれた大量の赤を、一瞬理解できなかった。
「時……尼……!?」
「うっ……な、に、これ……苦し……っ」
再び、ごぼりと口から血がわき出した。呆然としていたコウは、霞冴の目から光が消え、体がかしいでいくのを見て、我に返ると同時に彼女を抱きとめた。
「時尼!? おい、どうした!?」
「源子の影響よ!」
後方からの鋭い声に、コウは振り向いた。雷奈たちとともに駆けてきた日躍が早口でまくしたてる。
「クロ化するとき、源子が体の中に入り込んでる! そのせいで、体が拒絶反応を起こしているのよ! 今までは源子が主導権を握っていたから無症状だったけど、霞冴が正気に戻った瞬間、一気に来たんだわ! もう源子は逃げていったから、これ以上は傷つかないけど、今でも十分、体内を傷めているはずよ!」
「な……っ」
コウは腕の中でぐったりとしている霞冴を見下ろした。芳しくない体調の中、源子に無理やり術を使わせられ続けた彼女に、さらなる追い打ちに耐えるだけの体力はもう残されていないだろう。
額から流れる汗を袖口で拭ってやりながら、コウは息苦しさを無視して大声で呼びかけた。
「時尼、しっかりしろ! せっかく戻ってきたんだ、死ぬんじゃねえぞ!」
「ぇっ……げほっ、コ……ウ……」
薄く目を開け、かすむ視界に銀色の少年を映す。
「コウ……助け……っ」
「ああ、絶対に助けてやる。だから、苦しいだろうが、もう少し頑張れ!」
「違……う、……を……」
霞冴は、ほんのわずかだけ、首を横に振った。
静寂の中でなければ聞こえなかったであろう、小さなかすれた声で、
「ルシ……を……助けて……お願……い……」
そう懇願して、かくんと脱力する。それきり、目を閉じて動かなくなった。
つい数分前までの激闘が嘘のように、しんと静まり返ったアパート裏。ルシルは倒れ、霞冴も力尽きた。最悪に近い状況に、雷奈たちは一言も発することができない。
静寂を出番と勘違いしたのか、一粒、二粒から始まった雨が、瞬く間に激しい雨音を奏で始めた。通り雨特有の突然の大雨量が、立ち尽くす者たちも倒れた者たちも、容赦なくその身を叩いていく。体も視線も動かせず、彼女らは大雨の仕打ちを甘んじて受けた。
力なくうなだれる、元の灰色髪に戻ったコウの袴を、日躍が前足で軽く引いた。それを合図に、コウは震える呼吸を一つしてから、うつむいたまま呼んだ。
「……水晶。時尼を背負えるか」
「お、おう……」
硬直を解かれた氷架璃は、すぐに霞冴を引き取り、背中におぶった。ぞっとするほど軽かった。
コウは空いた手でルシルを抱きかかえて立ち上がった。もともとコウのものである刀は、今もルシルの腹を無慈悲に貫いたままだ。抜いてやりたい気持ちを抑え込む。今、傷口から栓を抜いてしまえば、出血多量で本当に助からなくなる。ルシルを抱える両手に、意図せぬ強い力が入った。
「日躍。ここはこのままでも、時空に影響はないか」
「……ええ。かなり荒れたし、血痕もおびただしいけれど、もともときれいな場所じゃなかったし、この雨なら血も洗い流される。誤差の範囲になるでしょうね。……ああ、あれらは一応、拾って帰りましょう」
日躍に指示され、雷奈は弾き飛ばされたルシルの刀と、最初に投げられた鞘を素早く拾って戻ってきた。あの時、まるで捨てるかのように鞘を放り投げたルシルは、決着の時まで刀を納めるつもりはなかったのだろう。
雷奈はズキリと痛む胸を押さえながら、日躍の声に耳を傾けた。
「悪いけれど、来た時と同じように、元の時代のこの場所に時空洞穴をつなげるわ。到着したら、すぐに応援を呼んで。人払いしながらワープフープまで行くのよ。……じゃあ、いくわよ!」
日躍の掛け声とともに、すぐそばの空間がねじれた。ほころびが広がるように、あの大口が姿を現す。プリズムのような、透明のような、暗黒のような、名状しがたい色をした穴。そこに、日躍に続いて氷架璃、コウ、芽華実、雷奈と飛び込んでいった。全員を飲み込むと、時空洞穴は巻き戻しのように口を閉じた。無人となった跡地では、ただコンクリートの地面を雨粒が空しく叩くだけだった。
***
十番隊隊舎の医務室の隣には、治療室と呼ばれる一回り小さな部屋がある。緊急性の高いケガや症状から命を救うため、機材、器具、猫術、全てを投じて施術にあたる場所だ。扉の上部に取り付けられた「治療中」の赤いランプが、入院部屋のような医務室とは桁違いの緊迫感を与えてくる。
まだ消えない血の色の灯りをちらりと振り返ったのは、十番隊の隊長、春瀬深翔だ。毛先だけくるんと癖のあるココア色の髪を一つにまとめ、白衣をまとった、大人の一歩手前くらいの少女。まだ若いが、彼女が希兵隊員の命の砦だ。
「まずは、皆様、お疲れ様でした。早急に二人を運んでくれたこと、感謝します」
「私たちのねぎらいなんて後だ、後。……ルシルと霞冴は……」
「二人とも、一命はとりとめましたが、予断を許さない状態です。河道隊長は、刀身が内臓を傷つけてはいましたが、何とか治療に成功しました。焦って刀を抜かずにいてくれたことは幸いです。おかげで、失血を心配せずに済みましたので」
深翔はそう言って、奥のソファ席に座り込んだコウをさりげなくのぞきこんだ。聞こえているのかいないのか、彼は深くうつむいたまま動かない。
そのまま深翔が黙っているので、雷奈はこわごわ問うた。
「……霞冴は……」
「……はっきり言って、彼女のほうが重篤です。源子侵襲症……源子が体内に入り込む病気ですが、それの大発作と同じ症状です。それだけなら、処置のしようがあるのですが、さらに源子の過剰使用で衰弱しているうえ、もともと栄養状態が悪かったみたいです。……体調が悪いとはうかがっていましたが、ストレスでしょう、胃腸がボロボロになっていました。あれでは、まともに食べられていなかったと思います。今の彼女には治療に耐えられるだけの体力が残っているかどうか。……今夜が峠かと」
「峠、って……」
芽華実が口元を手で覆って、震えるように首を振った。覚悟していたとはいえ、言葉として耳に入れられてしまうと、胸が詰まる思いがした。
そこに立っているのもやっとな雷奈たちの後ろで、少し声量を下げただけの、いつもと同じ調子の声が上がった。
「ありがとう、春瀬さん。他の十番隊の子たちにも、お礼を伝えておいてね。さて、まだ事件は解決してないわ。霞冴ちゃんは戻ってきたけれど、一般市民の四人がまだだもの。早く次の行動に移らないと」
連絡を受けて後から来た最高司令官は、そう言った。雷奈が振り向いた時、美雷は笑顔だった。まだ灯ったままの赤いランプに一瞥もくれなかった。傷ついた部下を置いて先へ先へ進もうとするような、冷たすぎる冷静さが見えた。
寄合室へ向かうのだろう、十番隊舎の出口へ足を運ぼうとする美雷。彼女が目もくれずに通り過ぎようとしたソファで、低い声がした。
「……待てよ」
美雷は、長い髪を揺らして軽い動作で振り返った。コウの声は聞こえても、そこにこもった感情が見えていないかのように、愛想よく微笑んでいる。
「なあに?」
「……なんで、平気なんだよ」
「あら、平気に見えるの? これでも心配して……」
「どの態度見せて言ってんだよッ!」
一瞬のうちに立ち上がったコウが、芽華実の制止も聞かず、自分より小さな相手にも手加減なくつかみかかった。セーラー服の裾がずり上がるほど乱暴に襟首をねじり上げ、すぐそばの変わらぬ顔に怒鳴り散らす。
「なんで笑ってんだよ、なんでそんな声で話せんだよ!? 仲間が二人、死にかかってるんだぞ!? どの面して『心配してる』なんてほざいてやがんだよ!?」
「コウ君、落ち着いて。深呼吸して」
美雷はされるがままになりながら、コウの胸に左手を当てる。その行動は、ますます彼の怒りを助長させるだけだ。
「ふざけんな! あんたがそこまで無神経だとは思わなかったぜ。何が二機関の折り紙付きだ、瀕死の部下に焦りの表情一つ見せない時点で、あんたなんか最高司令官失格なんだよ!」
「そんなに頭に血を上らせちゃだめよ」
「黙れ! だいたい、こんなことになったのも……時尼が、あいつ、が、体調……っ」
コウの声が途切れた。彼は最大限の忌々しさを込めた視線で美雷をにらむと、手荒く彼女を突き飛ばした。そして、すぐそばの壁に横向きにもたれかかり、
「ぐっ……ゲホッ、ゴホ……」
「コウ!」
そのまま、ずるずると座り込む。せめてもの矜持か、床に手をつかずに壁で体を支えるコウを、美雷はほんの少しだけ笑みを控えて見つめていた。喘鳴とともに激しく咳き込む彼の元に、事情を知らない深翔が驚いて駆け寄った。
「どうしましたか、大和隊長」
「あの、コウは霞冴の毒霧を吸ってしまって……」
話せる状態ではないコウの代わりに、芽華実が早口で説明した。口にしてから、ハッと美雷を見る。
「そ、そうだわ、美雷も霧猫なら、毒霧を抜けるんじゃ……」
「もうやったわ」
美雷の短い返事に、芽華実だけでなく氷架璃と雷奈も、彼女の顔と苦しむコウとの間で視線を往復させた。とても毒が抜けたようには見えない様子だ。美雷は彼女らの考えを見通しているらしく、先ほどコウの胸にあてた手の平を見ながら答えた。
「私が抜けるのは、霧の状態の毒よ。それを抜く作業をしても容体が変わらないなら、答えは一つ。もう血液に乗って体を回ってしまっているのよ。だから、薬でも使わないと治らないわ」
それさえも、平然と言う。「だから落ち着いてって言ったのに」と頬に手を当てる美雷を、コウは息も絶え絶えににらみ上げる。
「日躍ちゃんから聞いた時から予想はしていたけれど、やっぱりコウ君も戦線離脱ね。リーフちゃんたちの捜索は、残りのメンバーから選抜しないと。さあ、雷奈ちゃんたちも行きましょうか。アワ君たち、心配して残ってくれているのよ。それじゃあ、春瀬さん、あとはお願いね」
「……わかりました」
戸惑いながらもうなずく深翔。美雷はそれに笑顔で応じて、さっさと出口へ向かって行ってしまった。
憤り混じりの混乱を覚えずにいられなかったのは、雷奈たちも同じだ。だが、だからといってじっとしていられないのも事実。迷いながらの一歩を皮切りに、三人も歩み始めた。途中で振り返ると、深翔に呼ばれたラウラが、コウの口元に簡易酸素マスクを当てていた。雷奈は、それを見て苦しげに目を細めると、前に向き直って寄合室を目指した。
もう、霞冴に体重を預けなければ立っていられなかった。腹が熱い。刃が刺さっている傷口も、えぐられた内部も。否、熱いのは傷だけではない。じんとした熱が目頭に生まれると同時、瑠璃色の左目から、抑えきれなかった涙が一筋流れて、
――ルシルは、自分の肩が濡れるのを感じた。
ハッと目を見開く。右肩に落ちた温度を疑った。弱い自分の心が作り出した錯覚かと思った。
けれど、今まさに視界の中、どす黒い穢れが散っていき、かき抱いた長い髪を淡い空の色が毛先から彩っていく。視線を巡らせても、長い尾はどこにも見当たらない。
ゆっくりと体を離して、恐る恐る霞冴の顔をのぞきこんだ。元の色を取り戻した前髪の下でルシルを見つめるのは、彼女が愛した青い瞳。
「霞冴……」
「ル、シル……」
涙を浮かべたターコイズのような目が、また一つ、しずくをこぼした。それに自分自身で驚いたように、霞冴は戸惑いの表情を見せた。
「あ、れ……私、なんで……ここは……?」
わずかに首を動かして、ここが見知らぬ地であることに気づく。そして、再びルシルへと目を戻した霞冴は、その口元の血の跡に気づいて瞠目した。
「え……ルシル……!?」
ルシルは涙を浮かべながら、淡く微笑んでいる。だが、顔は血の気を失い、呼吸も浅い。なぜ、と視線を下へずらしていった霞冴は、信じがたい光景に目を疑った。
ルシルの腹部には、刃が見えなくなるほど深く刀が突き刺さっていて。
そして、その柄を握っているのは、まぎれもなく自分の手だった。
「……っ!?」
手を放し、飛び退る。離れて見ても、間違いない。自分が持っていた刀は、大好きな親友を貫いていた。
「ル……ルシ……」
呼吸が乱れるほど狼狽した霞冴を、ルシルは依然として慈しみの表情で見つめる。そして、ゆっくりとまぶたが下りていき、微笑も消え――ドサリと、横へ崩れるように倒れた。
衝撃のあまり、わずかな間、それを呆然と見ていた。やがて、手が震え、心臓が暴れだしてからようやく、脳はすさまじい恐怖に支配された。
「ゃ……いやあぁぁっ!」
絶叫し、ルシルに覆いかぶさるように取りすがる。手をつくこともままならず、脱力した姿勢で倒れたルシルは、もう動かない。
「やだ、ルシルっ……! どうして、どうして私っ……ああぁ……っ!」
ぼろぼろと涙を落としながら、刀が刺さったままのルシルを揺さぶる霞冴のもとへ、コウが力を振り絞って駆け寄った。信頼するもう一人の友人の姿を見た霞冴は、なりふり構わず彼の袖にすがりついた。
「コウ、コウっ、どうしよう、ルシルが……! 私が、ルシルを……っ!」
「落ち着け、時尼。大丈夫だ、オレが何とかする」
コウは手の震えをこらえながら、ルシルの手首で脈をとった。弱く触れる感触に、まだ生きている、と安堵するとともに、早く処置をしなければ、その希望も潰えてしまうことへの焦燥感にかられた。
その間も、霞冴は泣き叫び続ける。
「や、やだよ、ルシルが死んじゃう、ルシルが……っ」
突如として、その言葉を遮ったのは、あふれ出す水音だった。
霞冴もコウも、驚愕のあまり固まる。霞冴は、その感触を。そしてコウは、彼女の口からこぼれた大量の赤を、一瞬理解できなかった。
「時……尼……!?」
「うっ……な、に、これ……苦し……っ」
再び、ごぼりと口から血がわき出した。呆然としていたコウは、霞冴の目から光が消え、体がかしいでいくのを見て、我に返ると同時に彼女を抱きとめた。
「時尼!? おい、どうした!?」
「源子の影響よ!」
後方からの鋭い声に、コウは振り向いた。雷奈たちとともに駆けてきた日躍が早口でまくしたてる。
「クロ化するとき、源子が体の中に入り込んでる! そのせいで、体が拒絶反応を起こしているのよ! 今までは源子が主導権を握っていたから無症状だったけど、霞冴が正気に戻った瞬間、一気に来たんだわ! もう源子は逃げていったから、これ以上は傷つかないけど、今でも十分、体内を傷めているはずよ!」
「な……っ」
コウは腕の中でぐったりとしている霞冴を見下ろした。芳しくない体調の中、源子に無理やり術を使わせられ続けた彼女に、さらなる追い打ちに耐えるだけの体力はもう残されていないだろう。
額から流れる汗を袖口で拭ってやりながら、コウは息苦しさを無視して大声で呼びかけた。
「時尼、しっかりしろ! せっかく戻ってきたんだ、死ぬんじゃねえぞ!」
「ぇっ……げほっ、コ……ウ……」
薄く目を開け、かすむ視界に銀色の少年を映す。
「コウ……助け……っ」
「ああ、絶対に助けてやる。だから、苦しいだろうが、もう少し頑張れ!」
「違……う、……を……」
霞冴は、ほんのわずかだけ、首を横に振った。
静寂の中でなければ聞こえなかったであろう、小さなかすれた声で、
「ルシ……を……助けて……お願……い……」
そう懇願して、かくんと脱力する。それきり、目を閉じて動かなくなった。
つい数分前までの激闘が嘘のように、しんと静まり返ったアパート裏。ルシルは倒れ、霞冴も力尽きた。最悪に近い状況に、雷奈たちは一言も発することができない。
静寂を出番と勘違いしたのか、一粒、二粒から始まった雨が、瞬く間に激しい雨音を奏で始めた。通り雨特有の突然の大雨量が、立ち尽くす者たちも倒れた者たちも、容赦なくその身を叩いていく。体も視線も動かせず、彼女らは大雨の仕打ちを甘んじて受けた。
力なくうなだれる、元の灰色髪に戻ったコウの袴を、日躍が前足で軽く引いた。それを合図に、コウは震える呼吸を一つしてから、うつむいたまま呼んだ。
「……水晶。時尼を背負えるか」
「お、おう……」
硬直を解かれた氷架璃は、すぐに霞冴を引き取り、背中におぶった。ぞっとするほど軽かった。
コウは空いた手でルシルを抱きかかえて立ち上がった。もともとコウのものである刀は、今もルシルの腹を無慈悲に貫いたままだ。抜いてやりたい気持ちを抑え込む。今、傷口から栓を抜いてしまえば、出血多量で本当に助からなくなる。ルシルを抱える両手に、意図せぬ強い力が入った。
「日躍。ここはこのままでも、時空に影響はないか」
「……ええ。かなり荒れたし、血痕もおびただしいけれど、もともときれいな場所じゃなかったし、この雨なら血も洗い流される。誤差の範囲になるでしょうね。……ああ、あれらは一応、拾って帰りましょう」
日躍に指示され、雷奈は弾き飛ばされたルシルの刀と、最初に投げられた鞘を素早く拾って戻ってきた。あの時、まるで捨てるかのように鞘を放り投げたルシルは、決着の時まで刀を納めるつもりはなかったのだろう。
雷奈はズキリと痛む胸を押さえながら、日躍の声に耳を傾けた。
「悪いけれど、来た時と同じように、元の時代のこの場所に時空洞穴をつなげるわ。到着したら、すぐに応援を呼んで。人払いしながらワープフープまで行くのよ。……じゃあ、いくわよ!」
日躍の掛け声とともに、すぐそばの空間がねじれた。ほころびが広がるように、あの大口が姿を現す。プリズムのような、透明のような、暗黒のような、名状しがたい色をした穴。そこに、日躍に続いて氷架璃、コウ、芽華実、雷奈と飛び込んでいった。全員を飲み込むと、時空洞穴は巻き戻しのように口を閉じた。無人となった跡地では、ただコンクリートの地面を雨粒が空しく叩くだけだった。
***
十番隊隊舎の医務室の隣には、治療室と呼ばれる一回り小さな部屋がある。緊急性の高いケガや症状から命を救うため、機材、器具、猫術、全てを投じて施術にあたる場所だ。扉の上部に取り付けられた「治療中」の赤いランプが、入院部屋のような医務室とは桁違いの緊迫感を与えてくる。
まだ消えない血の色の灯りをちらりと振り返ったのは、十番隊の隊長、春瀬深翔だ。毛先だけくるんと癖のあるココア色の髪を一つにまとめ、白衣をまとった、大人の一歩手前くらいの少女。まだ若いが、彼女が希兵隊員の命の砦だ。
「まずは、皆様、お疲れ様でした。早急に二人を運んでくれたこと、感謝します」
「私たちのねぎらいなんて後だ、後。……ルシルと霞冴は……」
「二人とも、一命はとりとめましたが、予断を許さない状態です。河道隊長は、刀身が内臓を傷つけてはいましたが、何とか治療に成功しました。焦って刀を抜かずにいてくれたことは幸いです。おかげで、失血を心配せずに済みましたので」
深翔はそう言って、奥のソファ席に座り込んだコウをさりげなくのぞきこんだ。聞こえているのかいないのか、彼は深くうつむいたまま動かない。
そのまま深翔が黙っているので、雷奈はこわごわ問うた。
「……霞冴は……」
「……はっきり言って、彼女のほうが重篤です。源子侵襲症……源子が体内に入り込む病気ですが、それの大発作と同じ症状です。それだけなら、処置のしようがあるのですが、さらに源子の過剰使用で衰弱しているうえ、もともと栄養状態が悪かったみたいです。……体調が悪いとはうかがっていましたが、ストレスでしょう、胃腸がボロボロになっていました。あれでは、まともに食べられていなかったと思います。今の彼女には治療に耐えられるだけの体力が残っているかどうか。……今夜が峠かと」
「峠、って……」
芽華実が口元を手で覆って、震えるように首を振った。覚悟していたとはいえ、言葉として耳に入れられてしまうと、胸が詰まる思いがした。
そこに立っているのもやっとな雷奈たちの後ろで、少し声量を下げただけの、いつもと同じ調子の声が上がった。
「ありがとう、春瀬さん。他の十番隊の子たちにも、お礼を伝えておいてね。さて、まだ事件は解決してないわ。霞冴ちゃんは戻ってきたけれど、一般市民の四人がまだだもの。早く次の行動に移らないと」
連絡を受けて後から来た最高司令官は、そう言った。雷奈が振り向いた時、美雷は笑顔だった。まだ灯ったままの赤いランプに一瞥もくれなかった。傷ついた部下を置いて先へ先へ進もうとするような、冷たすぎる冷静さが見えた。
寄合室へ向かうのだろう、十番隊舎の出口へ足を運ぼうとする美雷。彼女が目もくれずに通り過ぎようとしたソファで、低い声がした。
「……待てよ」
美雷は、長い髪を揺らして軽い動作で振り返った。コウの声は聞こえても、そこにこもった感情が見えていないかのように、愛想よく微笑んでいる。
「なあに?」
「……なんで、平気なんだよ」
「あら、平気に見えるの? これでも心配して……」
「どの態度見せて言ってんだよッ!」
一瞬のうちに立ち上がったコウが、芽華実の制止も聞かず、自分より小さな相手にも手加減なくつかみかかった。セーラー服の裾がずり上がるほど乱暴に襟首をねじり上げ、すぐそばの変わらぬ顔に怒鳴り散らす。
「なんで笑ってんだよ、なんでそんな声で話せんだよ!? 仲間が二人、死にかかってるんだぞ!? どの面して『心配してる』なんてほざいてやがんだよ!?」
「コウ君、落ち着いて。深呼吸して」
美雷はされるがままになりながら、コウの胸に左手を当てる。その行動は、ますます彼の怒りを助長させるだけだ。
「ふざけんな! あんたがそこまで無神経だとは思わなかったぜ。何が二機関の折り紙付きだ、瀕死の部下に焦りの表情一つ見せない時点で、あんたなんか最高司令官失格なんだよ!」
「そんなに頭に血を上らせちゃだめよ」
「黙れ! だいたい、こんなことになったのも……時尼が、あいつ、が、体調……っ」
コウの声が途切れた。彼は最大限の忌々しさを込めた視線で美雷をにらむと、手荒く彼女を突き飛ばした。そして、すぐそばの壁に横向きにもたれかかり、
「ぐっ……ゲホッ、ゴホ……」
「コウ!」
そのまま、ずるずると座り込む。せめてもの矜持か、床に手をつかずに壁で体を支えるコウを、美雷はほんの少しだけ笑みを控えて見つめていた。喘鳴とともに激しく咳き込む彼の元に、事情を知らない深翔が驚いて駆け寄った。
「どうしましたか、大和隊長」
「あの、コウは霞冴の毒霧を吸ってしまって……」
話せる状態ではないコウの代わりに、芽華実が早口で説明した。口にしてから、ハッと美雷を見る。
「そ、そうだわ、美雷も霧猫なら、毒霧を抜けるんじゃ……」
「もうやったわ」
美雷の短い返事に、芽華実だけでなく氷架璃と雷奈も、彼女の顔と苦しむコウとの間で視線を往復させた。とても毒が抜けたようには見えない様子だ。美雷は彼女らの考えを見通しているらしく、先ほどコウの胸にあてた手の平を見ながら答えた。
「私が抜けるのは、霧の状態の毒よ。それを抜く作業をしても容体が変わらないなら、答えは一つ。もう血液に乗って体を回ってしまっているのよ。だから、薬でも使わないと治らないわ」
それさえも、平然と言う。「だから落ち着いてって言ったのに」と頬に手を当てる美雷を、コウは息も絶え絶えににらみ上げる。
「日躍ちゃんから聞いた時から予想はしていたけれど、やっぱりコウ君も戦線離脱ね。リーフちゃんたちの捜索は、残りのメンバーから選抜しないと。さあ、雷奈ちゃんたちも行きましょうか。アワ君たち、心配して残ってくれているのよ。それじゃあ、春瀬さん、あとはお願いね」
「……わかりました」
戸惑いながらもうなずく深翔。美雷はそれに笑顔で応じて、さっさと出口へ向かって行ってしまった。
憤り混じりの混乱を覚えずにいられなかったのは、雷奈たちも同じだ。だが、だからといってじっとしていられないのも事実。迷いながらの一歩を皮切りに、三人も歩み始めた。途中で振り返ると、深翔に呼ばれたラウラが、コウの口元に簡易酸素マスクを当てていた。雷奈は、それを見て苦しげに目を細めると、前に向き直って寄合室を目指した。
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はっきりそう告げた彼は、ミレーゼ以外の女性を抱き、愛を囁いた。
『お飾り王妃』の名を戴くミレーゼだが、ある日彼女は側妃たちの諍いに巻き込まれ、命を落としてしまう。
(ああ、私の人生ってなんだったんだろう──?)
そう思って人生に終止符を打ったミレーゼだったが、気がつくと結婚前に戻っていた。
しかも、別の人間になっている?
なぜか見知らぬ伯爵令嬢になってしまったミレーゼだが、彼女は決意する。新たな人生、今度はリュシアンに関わることなく、平凡で優しい幸せを掴もう、と。
*年齢制限を18→15に変更しました。
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