フィライン・エデン Ⅱ

夜市彼乃

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8.神隠し編

38問三:今、泣いているのは誰ですか 後編

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 直後。
 裂帛の咆哮と固い衝突音が、一瞬でその遺言を切り裂き、走馬灯にたゆたっていた意識を引き戻した。
 呼吸困難に陥ったまま、コウは落としていた頭をあげた。切っ先を下げた霞冴が、先ほどより数メートル下がった位置に立っているのが見えた。
 黒髪をなびかせた、執行着姿の少女の背中越しに。
「ルシ、ル……!」
 我に返ると同時、コウは渾身の力で立ち上がり、雷奈たちのほうへと撤退した。呼吸が続かずに倒れこみ、受け身もおろそかに転がった彼を、涙目の芽華実が支える。
「コウ……!」
「何やってんだよ、一番隊隊長!」
「……悪い……」
 楽な姿勢を、と芽華実に促され、コウは横向きに寝返りを打った。
「ルシルが飛んで行かんかったら、やられとったね。間一髪ったい」
「いや、最悪だよ……。大失態だ、あいつに……刀を、渡しちまうなんて……」
「霞冴って執行部じゃないんだろ? じゃあ、そんなに脅威じゃないんじゃ……」
「馬鹿言え……あいつが、何で、時尼さん直々に……護衛官に指名されたと思ってんだ」
「え……」
 ため息と同時、知らなかったのか、と吐き出し、コウは戦場へと目を向けた。
「この際、はっきり言ってやる。今の希兵隊で……使
 コウの言葉が切れると同時に、激しい打ち合いが一同の耳朶を打った。そして、血を吐くような絶叫も。
「ああぁぁぁッ!」
 ルシルは、狂ったように叫び散らしながら、コウの体術にも匹敵する速度で鞘つきの刀を振り回していた。袈裟懸け、薙ぎ斬り、斬り上げ。その全てを、霞冴は的確にしのぎでいなしていた。それも、左腕はだらりと下ろしたまま、右手だけで。まるで胸を貸してやっているかのような余裕のある動きだ。
 去年の音楽会の日、重いスコップを刀のように操ってクロを倒したルシル。その腕前を目の当たりにしていた氷架璃が、信じられないというように首を揺らした。
「嘘だろ……あのルシルの剣をいとも簡単に……」
「源子が操っているとはいえ、反応速度などは宿主の運動神経によるからね。今回ばかりは、霞冴の強さがあだになったということかしら」
 日躍は沈着に言うが、わずかに焦りがにじみ出ていた。見つめる先は、絶対的な優劣だ。
 彼女は、霞冴に傷一つつけるのも恐れていた。傷つけなくともよい、とも思っていた。心のどこかで、きっと霞冴は正気に戻ってくれると、あるいは、コウが元の彼女に戻してくれると、二人を信じていたのだ。信じ込んでいたのだ。
 だが、その幻想は、コウに刀を振り下ろそうとした霞冴の姿で、粉々に砕け散った。入隊当時からの同期であり、親友の一人であるコウを、その手で葬ろうとしたのだ。
 それを見た瞬間、ルシルはようやく悟った。そこにいるのは、時尼霞冴ではないと。傷つけたくないなど、甘いことを言っていられないのだと。
 そして、もう一つ。
 ――自分は、また同じ過ちを繰り返そうとしているのだと。
 刹那、ルシルの中で何かが弾け飛んだ。その衝動のままに、彼女は刀を振るっている。こうしていく間にも擦り減っていく霞冴の体力と、完全なクロ化へのカウントダウンに急き立てられ、焦りに背を押されるままに攻め続ける。
「ああっ……ああぁぁっ!」
 激しく呼吸を荒らげながら、大粒の涙を散らす。常に携えている冷静さは、今は一片も残っていなかった。泣き叫びながら、激情と力に任せて太刀を浴びせていくが、足さばきも技もすべて、見え透いた単調なものになっていた。いかに動こうとも、霞冴の前では児戯に等しい。
 どちらが先に消耗するかなど、目に見えていた。
「あのアホが……完全に我を忘れてやがる……」
 コウがもどかしげに歯噛みした。
 そんなつぶやきが耳に入る由もなく、ルシルは攻撃の最中、泣きわめく。
「霞冴っ、霞冴ぉっ! どうしてっ……源子、貴様ぁッ! 返せ! 霞冴を……私の親友を返せぇッ!」
 どんなに訴えようと、怒鳴ろうと、霞冴の瞳は何の感情も映さない。ルシルの鞘を受け流し、軽いステップで間合いを取る。いつも姿を見ただけで駆け寄ってくる霞冴が、抱き着いてくる霞冴が、距離を取って無機質に見つめてくるのが、ルシルには耐えられなかった。烈火のごとき激しい語勢も、剣戟の速度も、徐々に失われていく。
「返せ、返せっ……霞冴を、返、せ……返してよ……!」
 細い泣き声とともに、ついに剣先は落ち、地を向いた。ルシルは肩を震わせ、滂沱と涙を流してしゃくりあげる。その隙を、源子が見逃すわけもなく。
「ぐ……っ!」
 一瞬で迫った霞冴の斬撃を、奇跡的な反射でルシルの鞘が受ける。だが、押し返せるはずもなく、華奢な体で繰り出された体当たりに、ルシルの体は大きく弾き飛ばされた。
「ルシルっ!」
 二回のバウンドの後、ルシルは叫ぶ雷奈の傍らで静止した。助け起こされたルシルのほおや手の甲には、アスファルトで擦った痛々しい傷が血をにじませていた。
「大丈夫っちゃか?」
「う……霞冴……っ」
 痛みに顔をしかめながらも、よろよろと立ち上がり、倒れた直後に離してしまった刀を拾い上げた。顔をあげれば、代わり映えのしない現実が、相も変わらずルシルの気を急きたてる。
「くそっ……霞冴……霞冴ぉっ!」
「待て」
 なおも吠えながら立ち向かおうとするルシルを、足元から呼ぶ声があった。振り向けば、銀色の双眸が、一つの揺れもなくルシルを見つめていた。肩で息をするルシルに、彼は落ち着き払った声を投げかける。
「少し頭を冷やせ。めちゃくちゃだぞ、お前」
「こんな時に何を言っているんだ!? 時間がないんだ、早くしないと霞冴が消えて……死んでしまうんだぞ!」
「こんな時だからだ。焦ったって仕方ないだろ」
「無理を言うな! 私が、私が助けないと!」
「いいから落ち着け、ルシル」
「落ち着け、だと!? これが落ち着いていられるか! このままじゃ、霞冴が……霞冴が……っ!」
 その瞬間。
 激昂していたルシルが、虚を突かれたように停止した。コウが掲げた手に持っているものを凝視する。
 彼の手の中には、見るも無残な少女がいた。鋼術で源子を変換して作ったと思しき簡素な鏡の中、顔を紅潮させ、涙でぐしゃぐしゃに濡れた二番隊隊長が、呆然と見つめ返してくる。
 ルシルは、鏡に視線を縫いとめられたまま、初めて泣いていることに気づいたように、頬に手を当てた。
「落ち着いたか」
 コウの問いかけには答えず、鏡像のルシルはまた一つ、しずくを流した。
 霞冴は様子を見ているのか、動かない。それを一瞥してから、コウは横たわったまま嘆息した。
「泣いてる場合かよ、ルシル。相手はあの時尼だぞ。そんなに息を乱して、戦法もアホみてえに単純で。そんなんであいつに敵うわけねえだろ」
 けなすような、叱るような言葉遣いなのに、声だけは慰めるように優しい。声色は優しいまま、コウは突き放すように言った。
「今のお前じゃ、あいつに勝てねえ。あいつを連れ戻すことなんてできねえよ」
「でも、でも……っ」
 幼馴染の諭しに聞き入っていたルシルは、再び目に涙をため、声をひきつらせた。
「怖いんだ、コウ……。霞冴が源子に殺されるのが……、クロになったら、わ、私が、殺さなきゃいけないって、そう思ったら……涙が止まらないんだ……。どうしたら……どうしたら……っ!」
 言って、ルシルは声を上げて泣き出した。袂で拭って、あふれさせて、また拭って。
 ルシルの心は、決壊していた。寄合室でもずっと抑えていた不安が、一気に流れ出して彼女の中をかき乱していく。何度も何度も袖を濡らした後、やがて声涙は枯れ果てたようにやんだ。
 嗚咽すらかすれて聞こえない沈黙があった。静寂の中、コウは変わらぬ表情で、疲弊しきったルシルへ向けて静かに口を開いた。
「まだわかんねえのか?」
 あくまでも穏やかな声で。潤む瞳を、まっすぐ、まっすぐに見つめて。

「いい加減気づきやがれ。今、一番苦しんで、一番泣きたいのが本当は誰か……もうわかるだろ」

 いっぱいに見開かれた瑠璃色。悪夢から目覚めたときの瞬きに似ていた。
 ゆっくりと、背後を振り向く。数メートル先で無造作に立つ霞冴が、昏い金色の瞳でルシルをとらえていた。
 その瞳から、ひとしずくがこぼれた。
 ――ように、見えた。
 当然のこと、そんなはずはなかった。それは、紛れもなく幻影だった。間違いなく目の錯覚だった。
 けれど、ルシルが見たのは、疑いようもなく真実だった。
(霞冴……)
 ルシルの両目から、新たな熱があふれた。心の中を洗い流していくように、ほおを伝い、あごからしたたっていく。
 苦しかった。心臓が張り裂けそうなほど、気が狂いそうなほど、不安で心配でつらかったのだ。
 そんな自分の気持ちにとらわれて、振り回された。だから気づく余裕もなかった。霞冴が源子につけこまれたのは、悩んで苦しんで、心が傷だらけになって弱りきったからだということに。その満身創痍の心が、目の前の時尼霞冴の奥底にあるものだということに。
 でも、そんなものは言い訳にもならない。
 なんと身勝手なのだろう。なんと薄情なのだろう。親友だと豪語しておきながら、自らの感情に手いっぱいで、そんな大切なことも見ようとしていなかったなど。
 今すべきことは、絶望することではない。源子に感情をぶつけることでもない。そんなものは、霞冴を完全に奪われてから、死ぬ気ですればいい。
(否、そんな運命さえも迎えない。必ず……霞冴を連れて帰る!)
 ルシルは背を正すと、袖のまだ濡れていない部分で乱暴に目元をぬぐった。一度だけ、深く呼吸をする。大きく吸って、体の中身を入れ替えるように、すべて吐き出す。
 そして、手にしていた刀を、胸の前で両手で横向きに掲げた。霞冴の剣を受けてボロボロになった鞘を左手で、柄を右手でしっかりと握る。大きく腕を開いて抜刀すると、左手に残った鞘を、勢いよく後方に投げ捨てた。カランカラン、という乾いた音が、雷奈たちの斜め後方で転がっていく。それを聞きながら、コウは小さな背中に問うた。
「もう一度聞くぞ、ルシル。……やれるか」
「――ああ」
 ルシルのまなざしは見えない。けれど、そのいでたちは、声の張りは、信頼するに値する堂々たるものだった。コウは安心したように表情を緩めると、できるだけ声を立てないように喘いだ。しばらく呼吸が落ち着いていたのだが、しゃべり続けたせいでまた息苦しくなってきたのだ。
 その横で、日躍がルシルの後ろ姿に声をかけた。
「ルシル、一つ忠告しておくわ。体に金属の特性を宿すコウの術は、少量の源子で済むからよかったけれど、物質化するタイプの術は避けたほうがいいわよ。今、この場の源子は、あなたの言うことを聞かずに霞冴にたかる可能性が高いわ。普段通り従えられると思わないで」
 源子にも限りがある。いくらルシルが威厳を見せたところで、食い物にしている霞冴へと集まってしまえば、ルシルは水術を使えなくなる。
「そうか」
 ルシルは正眼の構えを取りながら、小さくあごを引くと、動じることなく、
「では、無理やり従ってもらうとしよう」
 そう言って、音もなく瞑目した。
 まぶたの裏で、不甲斐ない己を思い出す。楽観論の抜けなかった甘い自分を、感情に振り回されて冷静さを欠いた自分を、大切な親友がここまで追いつめられるまで何もできなかった自分を――自分は、許せない。
 悔しさ、やるせなさ、もどかしさ、いらだたしさ……それぞれの感情は絡み合い、束になり、やがてそれらの最大公約数たる、一つの単純で原初的な情動と化す。何よりも手足を動かす原動力となる、爆発的な威力を持ったその感情の名は、
 ――怒りだ。
 ドオッ、と爆風が吹き荒れた。ちりも埃も、霞冴がまきびしにしたコンクリート片もすべて吹き飛ばし、やがて凪が訪れる。その中央で、ルシルは橙の炎に袂をはためかせていた。氷架璃と芽華実は雪山で一度だけ目にしたことのある、温度のない半透明の焔。そして、自らそれを顕現させた雷奈が、みなぎる力の桁の違いを実感した、源子の飽和。
「コウの言うとおりだ。相手はあの霞冴。源子が、彼女の能力を限界まで引き出して向かってくるなら……」
 彼女の目に、もう迷いはない。声に震えはない。あるのは、ただ一つ。
 猫炎のたゆたう中心で、悠然と立った少女は、唯一携えた力強い覚悟を静かに放った。
「――私も、本気だ」
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