フィライン・エデン Ⅱ

夜市彼乃

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7.追想編

35アルケミストの揺りかご 中編

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***

 みらいの容態が落ち着いたのは、夜中になってからだった。
 病院へ連絡しようといっても、万が一入院にでもなれば試験が受けられなくなる、と本人が拒否。風羽谷姉妹の助けも借りて、波のように訪れる快方とぶり返しで一進一退するみらいを、ハラハラしながら看病した。日が沈んで、つかさとまつりをお礼の手土産と一緒に帰してから約三時間後、みらいはようやく回復の兆しを見せた。寝ずにつきっきりで、と意気込んでいたかこだったが、「マシになったから、かこも少し休みなさい」との気遣いに甘え、仮眠をとったら、目覚ましはスマホのバイブではなく朝日だった。最初は夜通し目が冴えているのではと思っていたのに、ちょっと顔色がよくなったらいつも通り眠り込んでしまっていた。我ながら現金だ、と罪悪感にさいなまれつつベッドから降りて、
「……いたっ」
 足首に走った痛みに顔をしかめる。寝巻の裾をまくって見ると、少し腫れていた。昨日はそれどころではなかったので、気にも留めていなかったが、屋根から落ちた時に、やはり足を傷めていたようだ。猫の本質を持つ彼女にとって、受け身をとることは難しいことではないのだが、ぼーっとしていたところに落下の焦りとあっての失態だった。直後は大したことなかったのに、一晩で悪化してしまったようだ。
 どうしようかな、と戸惑いながらも、とにかくまずは姉の様子を見ようと立ち上がりかけて、
「かこ」
 まだ寝ていると思っていた人物が扉を開けて入ってきたので、かこは少なからず驚いた。
「お、お姉ちゃんっ、大丈夫なの?」
「ええ、よく休んだから、もう何ともないわ。ありがとうね」
 みらいは普段通りの笑顔で歩み寄ってくる。ドアの向こうから、ふわっと炒め物の香りがした。朝食を作っていたのだろう。時計を見れば、かこが思っていたよりも遅い時間だった。
「それより、足が痛むの?」
 ベッドの端を支えに立っているのを見逃さず、白銀の瞳はかこの右足に視線を注いだ。かこは気まずそうにうなずく。
「あら、本当……腫れてるわね。私があんなことになったせいで、手当てできなかったものね。病院……何時からだったかしら。連れて行ってあげられればいいんだけれど」
 診察券、診察券……と引き出しをあさり始めるみらいに、かこが制止と共に手を伸ばす。
「ちょ、ちょっと待って、お姉ちゃん、試験は朝からでしょ? もうすぐ行く時間なんでしょ? そんなことしてる場合じゃないよ」
「ええ、でも一日中だから、帰ってからじゃ……ああ、整形外科は十時からだったのね。これだと準備をサボっても間に合わないか……先生に連絡して……」
「私なら大丈夫だから! 痛みくらい術でごまかせるし、何とかするよ!」
「けれど、骨を傷めていたら心配だわ。私じゃそういうケガは治せないし……あ、試験の日を変えてもらえないかしら。ちょっと相談してみようかな……」
 じり、とあの不快感。
 ようやくわかった。みらいが己を顧みずにかこを優先するたびに感じていたこの感情は、驚くことに、感謝でも申し訳なさでもなかった。その正体のあまりに利己的な姿に、自分で幻滅する。
「……お姉ちゃん」
 スマホを取り出したみらいは、その手を止めてかこを見る。そして、二粒のターコイズがうるうると揺れだすのを見て、慌てて顔を覗き込んだ。
「どうしたの、かこ。痛い?」
「違う……もう、いいの……」
 涙声でこぼしながら、何度も首を振る。
「もう……私のために我慢したり、犠牲になったり、しないでよ……」
 嗚咽とともに、床にぱたぱたと水滴が落ちていく。ケガの状態がひどくなったわけではないことに安堵したのか、みらいは笑ってかこの目元を指先でぬぐった。
「いいのよ、そんなこと。言ったでしょ、姉心だって。私が好きでそうしてるんだから」
「姉心で発作を起こしたり、試験に落ちたりしたらやだよぉ……」
「心配してくれてありがとう。かこはいい子ね」
 しくしく泣きだしたかこを、みらいはそっと抱きしめて、その髪を撫でた。しかし、腕の中でアリスブルーの頭が横に振られる。
「違うの……私、いい子じゃないの……」
「あら、どうして?」
「お姉ちゃんがつぶれたケーキで我慢してくれた時も、私のために術を使って倒れた時も、今だって……ほんとは最初に感謝するべきなのに、謝るべきなのに……わ、私っ、それより先に自分のこと考えたんだよ? 私のせいで被害を被ったお姉ちゃんが、私に愛想尽かしたらどうしようって……最初に浮かんだのがそれなんだよ?」
 自分の心にわき出たものがあまりにも醜くて、自己嫌悪どころではなく唾棄したくなる。優しくフォローしてくれる裏側で、少しずつ姉の中の自分が黒く塗りつぶされていたらどうしよう、という焦慮。そんなものが、何よりも先に生まれ出てくるのが嫌で仕方ない。
「だから、もうやめて、お姉ちゃん……優しくしないで……。手がかかるって嫌われるくらいなら、私、もう……」
 それを告白すること自体、心証を悪くしてしまうかもしれない。けれど、告げなければどんどん沼にはまっていって、取り返しのつかないことになりそうで怖かった。
 こんなことで時間をとるわけにもいかないのに。試験に遅れたら、あるいは集中力をそぐ要因になってしまったら。それで、結局このたった一人の肉親に嫌われてしまったら――。
「かこ」
「は、はいっ……」
「聞いてちょうだい」
 耳元で、みらいはそっとささやいた。
「私はそんなことであなたを嫌ったりしないわ。君臨者に誓ってもいい。命を懸けてもいい」
 顔は見えなかったが、彼女はいつものように微笑んでいた……と思う。このときばかりは、かこにも自信がなかった。笑顔で紡がれる声にしては、真剣すぎる響きだったから。
「私はあなたが好きだから、大事だから手を焼くのよ。なのに、それで嫌いになったら本末転倒よ。そんな心配、しなくていいの。覚えておいて。私は、今もこの先もずっと、かこを愛しているから」
 ――こんな、まっすぐで温かい言葉が、愛でないなら何だというのだろう。
 まるで、いくつも浮かんだ氷の欠片を全部覆いつくして溶かしてしまうような、底なしの包容力。乾いた心の隅々まで、余すことなく潤わせてくれる慈愛。疑うべくもなかった。これが、かこが愛した時尼みらいだった。
「……っ……ありがとう、お姉ちゃん……ありがとう……っ」
 しばらく、かこは壊れたように、涙とその一言をこぼし続けた。その間、みらいはずっと同じテンポで、かこのうなじの上の髪を撫でていてくれた。
 けれど、ずっとこうしてはいられない。かこは深呼吸すると、ゆっくりと体を離した。
「ごめんね、時間、たくさん取っちゃった。……もう行かなきゃだよね」
「ええ、そろそろね。……本当に、足、大丈夫?」
「うん、何とかして病院に行くか、運がよかったら往診の先生に来てもらうよ。ひどくなかったら、猫術の施術で今日中には治ると思うし、大丈夫。いってらっしゃい、お姉ちゃん」
 かこの表情を見たみらいは、それだけで妹の中に平常心に戻ってきたのを見抜いたらしかった。最後に頭を一撫でして、
「わかったわ、いってきます。朝ごはん、できてるから。行くなら気を付けていくのよ」
 そう言って、時計を一瞥してから、ベッド脇の鞄を手に取った。
 部屋を出ていこうとする後ろ姿に、かこは最後にもう一度だけ声をかけた。
「今日は帰ったら、たくさんおしゃべりしてくれる?」
 ふわりと振り返ったみらいに、かこはぼそぼそと付け足した。
「その、最近、試験勉強で忙しそうだったから、えっと……」
「ふふ、もちろんよ。寂しい思いをさせてしまったものね。今晩はうんと一緒にお話しましょう」
 柔らかく、優しく、綺麗に笑って、みらいはそう約束した。彼女は、安易に契りを反故にするような人物ではない。ゆえに、その心躍るような未来は確約されたに等しかった。
 ――だから、彼女には何の落ち度もなかった。ただ、残虐な運命が、「帰宅」という当たり前の日常を突き崩すついでに、そちらも破り捨てたという、それだけのことだった。

***

 闇黒よりも暗い絶望が着信音を鳴らしたのは、午前診でほぼ治癒したかこが、学校鞄を置いた直後だった。
「事故……え……どういう……」
『もう一度説明しますね。時空学研究科の試験会場で大規模な事故が起こったようで、教員含め全員の安否が確認できていないんです。時尼みらいさんもその一人なので、連絡した次第です。発見され次第、また一報差し上げますが……』
「……お姉ちゃんは……」
『ですから、一番初めにお伝えしたとおり、行方不明で……』
 頭がざるになったようだった。受話器から聞こえる男性の声は、かこの中に何ももたらさずに床に落ちていっていた。かこが数えているわけもないが、同じ話を三度繰り返されたところで、彼女はようやく現状の輪郭をとらえ始めた。
 実技試験中の事故で、姉は行方不明。安否不明。生死不明。
 他にもいろいろ言われた気もするが、かこが意識の中にとどめられたのは、その事実だけだった。電話を切ってから、まるで目を開けたまま失神していたかのように呆然と座りこんでいた。気が付けば、日の光は斜陽を飛び越して月影に変わり、部屋の中を青白く照らしていた。
 家の中は、物音ひとつしない。夕飯の香りも、就寝をうながすソプラノも消えた、冷たい薄暗闇。悪夢よりも酷な現実だった。
 それから朝に至るまでの記憶はほとんどないが、いつの間にか訪ねてきたつかさとまつりを、放心状態で迎え入れていたらしい。早朝、目が覚めると、双子はかこに身を寄せて丸くなって寝ていた。
 まつりは起きるや否や泣き出した一方で、つかさは冷静にラジオを付けた。情報管理局から発信されるニュースが、新たな情報を告げる。行方不明の七名中、二名の遺体が発見されたということだった。学院による状況の把握が遅れたのも無理からぬ話で、暴発したと思しき時空の力によって試験場は筆舌に尽くしがたい荒廃ぶりだったという。関係者のみぞ知ることであるが、空間のゆがみは通常の物理法則では考え難い原理でその場を、そして被害者を蹂躙したと見受けられた。壁に半分めりこんだ形で絶命していた二名が五体満足だったのが不思議なくらいだ、とは現場を見た時空学者の談である。
 心ここにあらずのかこが離脱状態で登校し、帰ってきたその日の夕方、ラジオは新たな犠牲者の発見を報告した。三人目の遺体が見つかったということだった。右腕と眼窩から上だけが、という事実は放送されなかった。
 学院からの電話は、まだかかってこない。それは、これまで見つかった遺体はどれもみらいのものではないという、大災禍中のわずかな希望の残り火だったが、所詮はいつ潰えるともしれぬ風前の灯火だ。
 その後も、残酷な部分を伏せた報道は、それでもかこの魂をやすりのように削っていった。
 事故から三日、当時主体姿だった教員の遺体が見つかった。実際に発見されたのは胴体だけだった。
 五日後、一名の主体が発見された。発見者によると、体が三周ほどねじれた状態だった。
 一週間後、一名の死亡が確認された。遺体が見つかった、と表現されなかったのは、残っていたのは血と肉片だけだったからだ。
 ニュースの更新は、六名の犠牲者を明らかにしたところで止んだ。このころには、かこの食事の量は四分の一にまで激減していた。夜、泣き叫んで起きることが何度もあった。それでも、便りのないのは良い知らせと、姉の帰りを待ち続けた。玄関を開けて、あの朗らかなソプラノで一言、帰宅を知らせてくれたなら、眉間にしわを寄せて両家の家計簿をにらんでいるつかさも、毎日慣れない手つきで包丁を握ってくれているまつりも、すべて放り出して嬉し涙で制服を濡らしに行くだろう。
 ――そして、事故から二週間後。不安な日々は、終わりを迎えた。
『時尼みらいさんの死亡が確認されました』
 学院からの連絡が告げたのは、絶望の日々の幕開けだった。
 電話口にもかかわらずむせび泣き、錯乱した。そこに狂気を感じたのだろう、最後に、せめて遺体に会わせてくれと懇願したかこに、乗り込んでくることも危惧した学院の職員は、正直に告げた。
 ――原形をとどめていません、と。
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