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7.追想編
35アルケミストの揺りかご 後編
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***
桜が散って、チューリップが咲き始めた。世界は、砕け散った心を取り残して、ゆっくりと前へ進んでいく。
かことまつりは、最高学年になった。まつりの希望で、炊事は彼女に一任することになり、生前のみらいの跡を継ぐ形となった。つかさは希兵隊の寮に入り、非番の日以外は家を空けていた。といっても、新人に非番らしい非番があるはずもなく、帰ってきたのは一度きり、もう三週間も前だ。
学校へは何とか足を運べていたかこだったが、道場に通い続けるほどの気力は残されていなかった。機械のように登校し、半日を過ごし、下校し、そのあとは夜までベッドでうずくまる。その生活を繰り返すだけでもやっとだった。
食事を届けに来てくれるまつりが心配してくれているのは知っていた。「大丈夫?」「無理しないでね」と声をかけてくれるたび、何も言えないままうなずくだけの自分が情けなかった。やがて、慰めの言葉のかわりに泣き出しそうな顔をするようになった彼女に、そこはかとない申し訳なさも感じていた。
けれど、あの電話の日以来、かこは一歩も前に進むことはできなかった。つかさもまつりも、少しずつ歩みだして、闇の向こうの明るみへと踏み出していくのに、かこだけは暗澹たる一か月半前から動けず、ただ膝を抱えていた。
まどろみから覚めた時、部屋の中には朱の陽が差し込んでいた。ふわふわとハレーションする視界の中、遠くで高い音が聞こえた。インターホンのようだ。どうやらその音色で目が覚めたらしい、と夢うつつの中で納得して、そのまままぶたを下ろす。再び意識がここでないどこかへ落ちようとしていた、その瞬間。
ガッシャアァン!と耳をつんざく大音量に、一気に覚醒へと引き戻された。
この一か月半、ここまで動揺したことはなかった。双体でいつものように膝を抱えていたかこは、仰天のあまりベッドから転がり落ちた。斜陽が入り込んでいた窓から、今は夕風と、自然物ではない風まで吹き込んでいる。ガラスが乱暴に割られ、ギザギザに縁どられたそこから、小さな影が飛び込んできた。縦に並んだ姉妹のベッドの間に着地した猫は、黒色――のように見えた、逆光になったミルクティー色だった。
毎日、昼と夜の食事を届けに来てくれる少女と同じ毛色。しかし、あのおとなしい同級生は、窓ガラスを風術で割って入るなどという荒業はしない。耳元の長い飾り毛も、こちらを向いた気の強いツリ目も、まつりのものではない。
そして、このさばけた口調だって。
「悪いわね。緊急事態と判断して手荒に入らせてもらったわよ、かこ」
「つかさ……!?」
へたりこんだかこのもとへ、つかさは双体になりながら歩み寄ってきた。入隊前まで二つに結っていた長い髪を手ぬぐいでポニーテールにまとめ、執務に徹するために愛らしさをそぎ落とした威容。刃のような気配を持つ表情で見つめられ、かこは動転のあまり指を動かすこともできなかった。
「え、ま、窓……なんで? え?」
「まつりから様子を聞いて、無理言って暇をもらったのよ。インターホン鳴らしても出ないし、窓ガラス越しにのぞいても姿が見えなかったから、どこかで倒れてるのかと思って。死角にいたのね」
「そ、そんなことしたら、クロになっちゃう……」
「ならないわよ、だって悪いことしてないもの。あんたを死なせるくらいなら、窓ガラスが死んだほうがマシよ。……それより」
つかさはかこのすぐそばに膝をつくと、相手の細い首筋に触れた。そのまま、しばらく静止。何をされるのかと戸惑っている間に、つかさは今度はかこの顎を持ち、くいと上げた。そして、親指で半開きの唇に触れた。少し冷たいなめらかな指先が、すーっと横に滑っていく。
「? ? !?」
「……あんた、たぶん脱水起こしてるわよ」
呆気にとられるかこを鋭い視線で射止めながら、つかさは顎から手を離した。
「目がぼんやりしてるし、脈は速いし、唇も乾いてるし……。水分もろくに取ってないんでしょ。この生活感のない部屋を見たらうなずいちゃうわ」
夕暮れのうす暗い中でも、扉、食卓、ベッドまでの一直線の動線以外の場所にほこりがたまっているのが見て取れた。その他の物の配置も、みらいの死が知らされた日以来、ほとんど変わっていない。カレンダーは三月で止まっていた。この部屋は、かこの心の中そのものだ。
「いつまでそうしているつもりなの」
「……だって……」
「いい加減に認めなさい。みらいさんは亡くなったの。もう、二度と帰ってこないのよ」
ぴしゃりと言い切られた。何の婉曲もためらいもなく、事実をありのまま突き付けられた。
妹のほうならとてもしないであろう厳しい言いように、かこの体内の残り少ない水分は、その感情を表出するのに使われた。
「う……あ……うわあぁん……」
今まで表情らしい表情を失っていた分の反動で、涙はせき止められなくなっていた。押し込めていた熱が胸の奥からあふれ、目尻と喉からほとばしる。そのたびに命を削られていく心地だった。
「お姉ちゃん……帰ってきて、お姉ちゃん……あぁぁっ……」
「どれだけ泣こうが喚こうが、みらいさんは帰ってこないわよ」
つかさの声は理性一色だった。むせて咳き込むかこに、なおも追い打ちをかけていく。
「もうこの家にいても、頼れるひとはいない。あんたのその涙をぬぐってくれるひとはいない。あんたの心を満たしてくれるひとはいないの」
ずっと、すべての役割を一手に引き受けてくれていた姉。その存在を喪失するには、かこの心は未熟すぎた。周りが、足元がぼろぼろと崩落していく。孤独の引力に連れられるまま、手を伸ばすこともできずに真っ暗闇へと引き込まれ――。
「だから」
手首に、圧と熱。血が止まりそうなほど強く、やけどしそうなほど温かい感触に一息に引き上げられる。肩を抱かれ、目の前には決意の菖蒲。
「希兵隊に来なさい」
呼吸を止めて、間近に迫る幼馴染を見つめる。その場しのぎの社交辞令ではない。この目は、本気だ。
「まつりの提案で、私も同意見よ。このままじゃダメ。確かに、希兵隊に来てもみらいさんが待ってるわけじゃない。でもね、本物の姉にはなれなくても、私なら頼っていいから。私なら、あんたの涙をぬぐってあげるから。私なら……いいえ、私だけじゃない、心強い仲間が、きっとあんたの心を満たしてくれるから。だから、かこ。一年待ってるから、希兵隊に来なさい」
打ち震えている間、つかさはずっと目をそらさなかった。なのに、逆にかこが目を伏せてしまった。
「無理だよ……もう、力が出ないの……もう……生きていけないよ……」
「生きるの!」
すぐそばで弾けた叫び声に、びくりと肩が跳ねた。かこにまとわりつく澱を吹き飛ばすような一喝だった。
「まだ立てる! まだ歩ける! 何度転んでもいいの、誰かを巻き込んでもいいの! あんたを心配するまつりがいる中で、あんたの生を望む私がいる前で、生きることを諦めないで! あんたが世界で一番愛したみらいさんが世界で一番愛した時尼かこを、そんな簡単に殺さないでよ!」
――脱水症状を起こしていたとはいえ、かこの命が危機に瀕していたかはわからない。だから、これがかこの命を救った、というのは過言かもしれない。
けれど、一つ確かに言えるのは、この時、かこの心は絶体絶命の淵から救われたということだった。
「……つかさ……」
シャツブラウスの胸元をつかんで、顔をうずめる。あふれ出る涙に声をかき乱されながらも、必死で言葉を紡ぎ切った。
「ありがと……私、がんばるから……待っててくれる……?」
「もちろんよ」
「希兵隊に入ったら、強くなれるかな……乗り越えられるかな……?」
「大丈夫、いろんな過去を持ったひとたちが、いろんな形で支えてくれるわ。あんただけが寂しがる必要はないのよ。ほら、もう泣き止んで。お水飲んで休みなさい」
「ん……っ」
つかさはそう言って背中を撫でてくれたが、すぐには泣き止むことができなかった。つかさはなだめようと優しい言葉をかけてくれていたのだろうが、それが呼び水となっていたのには、ついぞ気づかなかったようだった。
***
後から聞いた話であるが、まつりは姉とかこが希兵隊に行くならば、自分も後を追って、学院ではなく希兵隊舎の調理員になろうと思っていたらしい。ところが、つかさから希兵隊の食事は隊員が当番制で作るのだと聞いて、隊員の素質がないことは重々承知だったまつりは一晩泣き通したという。そんな話を聞いてしまえば、かこも後ろめたさを禁じ得ないのだが、まつり直々に寂しそうな笑顔で「入隊試験まで頑張ってね」と言われてしまえば、首を縦に振るしかなかった。
つかさの叱咤の三日後から、道場通いも再開し、半年後には師範の特別授業も修了、免許皆伝となった。時を同じくして、もともと成績優秀だったこともあり、つかさと同様、秋季試験に難なく合格。希望通りの配属先は、もちろん総司令部だ。喜んでつかさに電話報告すると、今までは自画自賛になるから言わなかったが、上り詰めれば全ての部署を配下に置く最高司令官にもなりえる総司令部は、執行部よりも遥かに狭き門なのだと告げられた。驚いていると、「ってか、むしろ、あんたはそれを知らずに受験したの!?」とまで言われてしまった。
かくして、学院卒業後、少女・時尼かこは、希兵隊総司令部所属・時尼霞冴と相成った。
そこで、のちに親友となるルシルとコウ、そして多くの先達たちに出会い、やがて、誰からも愛される最高司令官となる。
だが、いくら困難を乗り越えようと、人望を集めようと、最愛の姉を失った傷は癒えることはなかった。
木が高く大きく成長し、枝葉を立派に広げても、幹の半ばにぽっかりと空いたうろは埋まらない。
彼女は今でも、陽気な笑顔の仮面の隙間から、あの銀色を探している。
***
書類の束を机に置く。メモ帳とペンを手に取る。不在の最高司令官にあてて、指示を完遂した旨の書き置きをする。出入口へ向かい、ドアを開けて、総司令部室を出て、ゆっくりと閉める。これだけで、かなりの時間と、それ以上の体力を費やした。
手ぶらになった霞冴は、よろよろと壁にもたれかかると、体重を預けながら、緩慢な動きで廊下を歩いた。四肢の末端は冷え、もし誰かが通りかかったなら間違いなくぎょっとするほど青白い顔だった。
ここのところずっと、食事が喉を通らなかった。昼夜問わず胃がむかむかして、業務にも集中できない。
本来なら今日、美雷の二度目の人間界訪問に護衛官としてついていく予定だったが、とても同伴できる体調ではなかったので、コウに代わってもらっている。美雷は、今日は部屋で休んでいいと言ってくれていたが、霞冴自ら、何か一つでも仕事をと頼んで、書類チェックを任せてもらっていたのだった。それが終わったら、今度こそ自室で療養するように言われていたので、今、重たい体を引きずりながら、新しく割り当てられた部屋のベッドを目指しているところである。
まだ昼だというのに、ほかの皆は働いているというのに、自分だけ布団に潜り込むのは気が引ける。だが、もはや体力も限界だった。書類のチェックさえ、途中何度も襲い来る悪心を、水を飲んだり横になったりして何とかやり過ごしながらおこなったのだ。あまつさえ、明日になれば改善している保証もない。日に日にひどくなってきさえしているのだから。
いつまで、この体調不良は続くのか――。
そんな不安がよぎった直後。
「うぅ……っ」
突然、強い吐き気の波に襲われ、霞冴はその場にうずくまった。冷や汗がどっと出て、頭がくらくらする。目をぎゅっとつぶって口に手を当て、吐き気が去るのを待つが、一向に収まる気配はない。不安と焦りで心臓が早鐘を打つ。せわしない鼓動と、胃がせりあがる不快感に、肩を震わせて耐えていると、
「霞冴ちゃん……?」
澄んだ声が、静かな廊下の空気を震わせた。涙の浮かぶ目を上げると、いつの間に帰ってきていたのか、美雷が廊下の向こうに立っていた。
彼女は、ただならぬ様子の霞冴へと素早く歩み寄ると、横に膝をつき、汗ばんだ背中に手を当てた。柔和な表情には、いつもの朗らかさではなく、真剣みを帯びた気づかわしげな色が浮かんでいた。
「大丈夫? もどしそう?」
「ん……っ」
声が出ない。呼吸をするので精いっぱいだ。だが、美雷は一切焦ることなく、霞冴の背中を優しく撫でた。
「ごめんなさい、ここまでひどいとは思っていなかったの。こんなことなら、やっぱり朝から休ませてあげればよかった。……無理をさせすぎたわね。つらかったでしょう」
ぼやける視界の中、美雷の柔らかい声が心地よく頭に響く。思いやりにあふれ、共感に満ちた一つ一つの言葉。それらは、記憶の中の姉の声と溶けるように重なった。
霞冴はぼんやりと、姉とともにいるような錯覚を覚えた。今話しかけてくれているのも、背中をさすってくれているのも、最愛の姉であるかのよう。
変わらぬトーンで、美雷は声をかけ続ける。
「歩ける? もし途中でもどしちゃっても、気にしないで。何も心配することはないわ」
――姉は、何よりも相手の心を気遣う性格だった。
「ここにいるということは、書類を持ってきてくれたのね。ありがとう」
――姉は、霞冴の行動を読むのがうまかった。
「部屋まで一緒に行きましょう。あとで十番隊に頼んで、吐き気止めを持ってきてもらうわね。あと、何かあったらいつでも連絡して。それから……」
――姉は、神経質なほど入念な人物だった。
そうだ。ここにいるのは姉だ。姉でなければ、こんなにも的確に、霞冴の欲する言葉をくれたりはしない。
心身ともに疲弊しきった霞冴は、夢うつつの状態で、理想郷の白昼夢にたゆたった。
大好きな姉はそばにいる。こうして、触れて、話しかけてくれている。何も怖いことなどない。
そう思うと、だんだん呼吸が落ち着いてきた。体の真ん中を蝕んでいた吐き気も遠のいていく。脳がしびれるような、甘美で曖昧な幸せに意識を預けていた。
けれど。
「――大丈夫だからね、霞冴ちゃん」
その一言で、揺りかごのような優しい世界は、音を立ててひび割れた。ハレーションした幸福な視界が、ガラスのように砕け、崩れ去った後、立ち現れたのは元の現実。
夢から覚めた心地がした。覚醒すれば紛うことなき残酷な、しかし本当は最初からわかっていたはずの真実。
違うのだ。このひとは、姉などではない。姉は、自分をそんな風には呼ばない。この世界で唯一、たった一人の妹だけは、敬称も使わずに名前だけを呼んでくれていたのに。
姉の形をした、姉ではない存在。姉のようで、姉ではない存在。
思えば、こんなに心が締めつけられるようになったのも、体がおかしくなり始めたのも、あの日からだ。総司令部に琥珀色の彼女が現れて、もう手の届かない最愛のひとをこれ見よがしに思い出させる。そうして毎回味わうのは、絵に描いた餅の味。
このひとは、本物の姉ではない。まるで禁断の事物を作り出すかのように、姉と同じ姿と、姉と同じ声と、姉と同じ雰囲気を混ぜ合わせて出来上がったこれは、
――この時尼みらいは、偽物だ。
「……めて……」
「霞冴ちゃん?」
「やめて、ください……」
「どうし……」
「やめてくださいッ!」
破裂したように大声をあげ、霞冴はばっと立ち上がった。膝をついたままの美雷が、驚いたように彼女を見上げる。その表情さえ、霞冴の知るみらいと重なって、苛立ちは抑えきれないほど膨れ上がった。制することもできず、わき上がるままにぶちまける。
「どうして……どうしてそんな風に話すんですか! どうしてそんな言葉をかけるんですか! あなたはお姉ちゃんじゃないのに、どうしてお姉ちゃんみたいにふるまうんですか!」
理不尽な叫びだ、と遠くで傍観するもう一人の自分がつぶやく。けれど、今ここに立つ体を持った自身は、それも無視して喚き散らす。
「あなたを見るたびにお姉ちゃんを思い出す! そのたびにお姉ちゃんはもういないんだって、し、死んじゃったんだって思い知らされる! どうしてそんな残酷なものをちらつかせるんですか!」
「霞冴ちゃん、落ち着いて」
「嫌なんです、苦しくて苦しくて、私っ、もう、もう……!」
一瞬だけ、時が止まった気がした。最後通牒が耳元で囁く。
その先を言えば、もう戻れない。
だが、唇は、声は、言葉は止まらなかった。最後のたがも外れ、時の流れが戻った時には、
「――偽物のくせに、お姉ちゃんのふりをしないでください!」
布を引き裂くような残響が、二人きりの廊下に走った。音が消え、再び場は無音に支配される。
その静寂を聞いて、霞冴は今度こそ現実に引き戻された。
耳の奥にこびりつく言葉の余韻。自分の口から出たとは思えない、むごい激語。幻覚か? 否、見上げてくる美雷の呆然とした顔を見れば、ほかでもない自分が発した言葉に相違ないことは明白だ。
一線を越えた。もう戻れない、破滅の一線を。
大きく見開いたシアンの瞳に、みるみる涙が浮かんでいく。手のひらで口を覆って、霞冴は全速力で駆け出した。後から追ってくる呼び声から逃げるように、隊舎の外へ向かって走る。
廊下を曲がり、ドアをはね開け、屋外へ飛び出すと、敷地の端へと逃げ込んだ。無人の空間、枝葉を広げて並ぶ木立。その一つのそばで足を止めると、幹に手をついた。息を整える暇もなかった。
「ぁ……ぁああああッ!」
ずるずると座り込みながら、慟哭する。ぼろぼろと、涙がこぼれて地面に落ちた。狂ったように泣き叫びながら、頭の中で一つの事実を繰り返す。
言った。言った。言ってしまった。
何の罪もない美雷に。霞冴の体調を気遣い、時間を割いて介抱してくれた彼女に。幼く拙い感情を、理性のフィルタを通すことなく、ただ自分勝手にぶつけた。
こんなことがしたかったのではないのに。ただ苦しくて、切なくて、助かりたかっただけなのに。
けれど、もはや弁明の余地はない。あの場で少しでも重圧に耐えれば、その機会もあったかもしれない。なのに、それにすら背を向けて逃げ出したから。
もう、取り返しがつかない。姉が生き返らないのと同じように、壊れた関係もこの先ずっと死んだままだ。美雷との間の、生まれたばかりの絆は、霞冴がこの手で殺してしまった。
罪悪感と喪失感と絶望で体の力が抜け、がくんとうなだれた。その隙を見計らったかのように、胃が激しく収縮する。抑え込んでいた嘔吐感がとどめを刺しに来る。
呼吸も整わない彼女に、あらがうすべはなかった。
「う、えぇ……っ、ぇほっ、けほっ……」
熱い液体が、喉の奥からほとばしって地面にしたたった。まるで毒に侵されたように、次から次へと吐き気が込み上げる。その毒でさえ、きっと自分の中で作り出したもの。
体をよじり、何度もえずくが、出てくるのは少量の胃液だけだった。当然だ、もう四食ほど抜かしている。
絞り出すような嘔吐が収まった時には、霞冴はすでに力尽きていた。小さくしゃくりあげながらうなだれて、立てつけの悪い蛇口のようにぽたりぽたりと涙を落とす。頭の中に紗がかかったように、何も考えられない。濡れた唇で、かすれた弱音を吐きだす。
「も……やだ……やだよぉ……」
体が動かない。この先どうすればいいのかも考えられない。延々と涙を流しながら、彼女はただ、こうべを垂れて座り込んでいた。
――その周囲に、何かが忍び寄る気配があった。
一つ一つは小さなもの。それがたくさんひしめき合って、さざ波のように静かにささやきあう。
精魂尽き果てた霞冴へとにじり寄る、不可視の存在たち。霞冴自身も、ぼんやりした意識の中、その気配を感じていたが、もはやどうすることもできない。
衰弱した対象にじわりじわりと迫っていたそれらは、次第に距離をゼロへと縮め、
――そして、彼女はこの世界から消えた。
桜が散って、チューリップが咲き始めた。世界は、砕け散った心を取り残して、ゆっくりと前へ進んでいく。
かことまつりは、最高学年になった。まつりの希望で、炊事は彼女に一任することになり、生前のみらいの跡を継ぐ形となった。つかさは希兵隊の寮に入り、非番の日以外は家を空けていた。といっても、新人に非番らしい非番があるはずもなく、帰ってきたのは一度きり、もう三週間も前だ。
学校へは何とか足を運べていたかこだったが、道場に通い続けるほどの気力は残されていなかった。機械のように登校し、半日を過ごし、下校し、そのあとは夜までベッドでうずくまる。その生活を繰り返すだけでもやっとだった。
食事を届けに来てくれるまつりが心配してくれているのは知っていた。「大丈夫?」「無理しないでね」と声をかけてくれるたび、何も言えないままうなずくだけの自分が情けなかった。やがて、慰めの言葉のかわりに泣き出しそうな顔をするようになった彼女に、そこはかとない申し訳なさも感じていた。
けれど、あの電話の日以来、かこは一歩も前に進むことはできなかった。つかさもまつりも、少しずつ歩みだして、闇の向こうの明るみへと踏み出していくのに、かこだけは暗澹たる一か月半前から動けず、ただ膝を抱えていた。
まどろみから覚めた時、部屋の中には朱の陽が差し込んでいた。ふわふわとハレーションする視界の中、遠くで高い音が聞こえた。インターホンのようだ。どうやらその音色で目が覚めたらしい、と夢うつつの中で納得して、そのまままぶたを下ろす。再び意識がここでないどこかへ落ちようとしていた、その瞬間。
ガッシャアァン!と耳をつんざく大音量に、一気に覚醒へと引き戻された。
この一か月半、ここまで動揺したことはなかった。双体でいつものように膝を抱えていたかこは、仰天のあまりベッドから転がり落ちた。斜陽が入り込んでいた窓から、今は夕風と、自然物ではない風まで吹き込んでいる。ガラスが乱暴に割られ、ギザギザに縁どられたそこから、小さな影が飛び込んできた。縦に並んだ姉妹のベッドの間に着地した猫は、黒色――のように見えた、逆光になったミルクティー色だった。
毎日、昼と夜の食事を届けに来てくれる少女と同じ毛色。しかし、あのおとなしい同級生は、窓ガラスを風術で割って入るなどという荒業はしない。耳元の長い飾り毛も、こちらを向いた気の強いツリ目も、まつりのものではない。
そして、このさばけた口調だって。
「悪いわね。緊急事態と判断して手荒に入らせてもらったわよ、かこ」
「つかさ……!?」
へたりこんだかこのもとへ、つかさは双体になりながら歩み寄ってきた。入隊前まで二つに結っていた長い髪を手ぬぐいでポニーテールにまとめ、執務に徹するために愛らしさをそぎ落とした威容。刃のような気配を持つ表情で見つめられ、かこは動転のあまり指を動かすこともできなかった。
「え、ま、窓……なんで? え?」
「まつりから様子を聞いて、無理言って暇をもらったのよ。インターホン鳴らしても出ないし、窓ガラス越しにのぞいても姿が見えなかったから、どこかで倒れてるのかと思って。死角にいたのね」
「そ、そんなことしたら、クロになっちゃう……」
「ならないわよ、だって悪いことしてないもの。あんたを死なせるくらいなら、窓ガラスが死んだほうがマシよ。……それより」
つかさはかこのすぐそばに膝をつくと、相手の細い首筋に触れた。そのまま、しばらく静止。何をされるのかと戸惑っている間に、つかさは今度はかこの顎を持ち、くいと上げた。そして、親指で半開きの唇に触れた。少し冷たいなめらかな指先が、すーっと横に滑っていく。
「? ? !?」
「……あんた、たぶん脱水起こしてるわよ」
呆気にとられるかこを鋭い視線で射止めながら、つかさは顎から手を離した。
「目がぼんやりしてるし、脈は速いし、唇も乾いてるし……。水分もろくに取ってないんでしょ。この生活感のない部屋を見たらうなずいちゃうわ」
夕暮れのうす暗い中でも、扉、食卓、ベッドまでの一直線の動線以外の場所にほこりがたまっているのが見て取れた。その他の物の配置も、みらいの死が知らされた日以来、ほとんど変わっていない。カレンダーは三月で止まっていた。この部屋は、かこの心の中そのものだ。
「いつまでそうしているつもりなの」
「……だって……」
「いい加減に認めなさい。みらいさんは亡くなったの。もう、二度と帰ってこないのよ」
ぴしゃりと言い切られた。何の婉曲もためらいもなく、事実をありのまま突き付けられた。
妹のほうならとてもしないであろう厳しい言いように、かこの体内の残り少ない水分は、その感情を表出するのに使われた。
「う……あ……うわあぁん……」
今まで表情らしい表情を失っていた分の反動で、涙はせき止められなくなっていた。押し込めていた熱が胸の奥からあふれ、目尻と喉からほとばしる。そのたびに命を削られていく心地だった。
「お姉ちゃん……帰ってきて、お姉ちゃん……あぁぁっ……」
「どれだけ泣こうが喚こうが、みらいさんは帰ってこないわよ」
つかさの声は理性一色だった。むせて咳き込むかこに、なおも追い打ちをかけていく。
「もうこの家にいても、頼れるひとはいない。あんたのその涙をぬぐってくれるひとはいない。あんたの心を満たしてくれるひとはいないの」
ずっと、すべての役割を一手に引き受けてくれていた姉。その存在を喪失するには、かこの心は未熟すぎた。周りが、足元がぼろぼろと崩落していく。孤独の引力に連れられるまま、手を伸ばすこともできずに真っ暗闇へと引き込まれ――。
「だから」
手首に、圧と熱。血が止まりそうなほど強く、やけどしそうなほど温かい感触に一息に引き上げられる。肩を抱かれ、目の前には決意の菖蒲。
「希兵隊に来なさい」
呼吸を止めて、間近に迫る幼馴染を見つめる。その場しのぎの社交辞令ではない。この目は、本気だ。
「まつりの提案で、私も同意見よ。このままじゃダメ。確かに、希兵隊に来てもみらいさんが待ってるわけじゃない。でもね、本物の姉にはなれなくても、私なら頼っていいから。私なら、あんたの涙をぬぐってあげるから。私なら……いいえ、私だけじゃない、心強い仲間が、きっとあんたの心を満たしてくれるから。だから、かこ。一年待ってるから、希兵隊に来なさい」
打ち震えている間、つかさはずっと目をそらさなかった。なのに、逆にかこが目を伏せてしまった。
「無理だよ……もう、力が出ないの……もう……生きていけないよ……」
「生きるの!」
すぐそばで弾けた叫び声に、びくりと肩が跳ねた。かこにまとわりつく澱を吹き飛ばすような一喝だった。
「まだ立てる! まだ歩ける! 何度転んでもいいの、誰かを巻き込んでもいいの! あんたを心配するまつりがいる中で、あんたの生を望む私がいる前で、生きることを諦めないで! あんたが世界で一番愛したみらいさんが世界で一番愛した時尼かこを、そんな簡単に殺さないでよ!」
――脱水症状を起こしていたとはいえ、かこの命が危機に瀕していたかはわからない。だから、これがかこの命を救った、というのは過言かもしれない。
けれど、一つ確かに言えるのは、この時、かこの心は絶体絶命の淵から救われたということだった。
「……つかさ……」
シャツブラウスの胸元をつかんで、顔をうずめる。あふれ出る涙に声をかき乱されながらも、必死で言葉を紡ぎ切った。
「ありがと……私、がんばるから……待っててくれる……?」
「もちろんよ」
「希兵隊に入ったら、強くなれるかな……乗り越えられるかな……?」
「大丈夫、いろんな過去を持ったひとたちが、いろんな形で支えてくれるわ。あんただけが寂しがる必要はないのよ。ほら、もう泣き止んで。お水飲んで休みなさい」
「ん……っ」
つかさはそう言って背中を撫でてくれたが、すぐには泣き止むことができなかった。つかさはなだめようと優しい言葉をかけてくれていたのだろうが、それが呼び水となっていたのには、ついぞ気づかなかったようだった。
***
後から聞いた話であるが、まつりは姉とかこが希兵隊に行くならば、自分も後を追って、学院ではなく希兵隊舎の調理員になろうと思っていたらしい。ところが、つかさから希兵隊の食事は隊員が当番制で作るのだと聞いて、隊員の素質がないことは重々承知だったまつりは一晩泣き通したという。そんな話を聞いてしまえば、かこも後ろめたさを禁じ得ないのだが、まつり直々に寂しそうな笑顔で「入隊試験まで頑張ってね」と言われてしまえば、首を縦に振るしかなかった。
つかさの叱咤の三日後から、道場通いも再開し、半年後には師範の特別授業も修了、免許皆伝となった。時を同じくして、もともと成績優秀だったこともあり、つかさと同様、秋季試験に難なく合格。希望通りの配属先は、もちろん総司令部だ。喜んでつかさに電話報告すると、今までは自画自賛になるから言わなかったが、上り詰めれば全ての部署を配下に置く最高司令官にもなりえる総司令部は、執行部よりも遥かに狭き門なのだと告げられた。驚いていると、「ってか、むしろ、あんたはそれを知らずに受験したの!?」とまで言われてしまった。
かくして、学院卒業後、少女・時尼かこは、希兵隊総司令部所属・時尼霞冴と相成った。
そこで、のちに親友となるルシルとコウ、そして多くの先達たちに出会い、やがて、誰からも愛される最高司令官となる。
だが、いくら困難を乗り越えようと、人望を集めようと、最愛の姉を失った傷は癒えることはなかった。
木が高く大きく成長し、枝葉を立派に広げても、幹の半ばにぽっかりと空いたうろは埋まらない。
彼女は今でも、陽気な笑顔の仮面の隙間から、あの銀色を探している。
***
書類の束を机に置く。メモ帳とペンを手に取る。不在の最高司令官にあてて、指示を完遂した旨の書き置きをする。出入口へ向かい、ドアを開けて、総司令部室を出て、ゆっくりと閉める。これだけで、かなりの時間と、それ以上の体力を費やした。
手ぶらになった霞冴は、よろよろと壁にもたれかかると、体重を預けながら、緩慢な動きで廊下を歩いた。四肢の末端は冷え、もし誰かが通りかかったなら間違いなくぎょっとするほど青白い顔だった。
ここのところずっと、食事が喉を通らなかった。昼夜問わず胃がむかむかして、業務にも集中できない。
本来なら今日、美雷の二度目の人間界訪問に護衛官としてついていく予定だったが、とても同伴できる体調ではなかったので、コウに代わってもらっている。美雷は、今日は部屋で休んでいいと言ってくれていたが、霞冴自ら、何か一つでも仕事をと頼んで、書類チェックを任せてもらっていたのだった。それが終わったら、今度こそ自室で療養するように言われていたので、今、重たい体を引きずりながら、新しく割り当てられた部屋のベッドを目指しているところである。
まだ昼だというのに、ほかの皆は働いているというのに、自分だけ布団に潜り込むのは気が引ける。だが、もはや体力も限界だった。書類のチェックさえ、途中何度も襲い来る悪心を、水を飲んだり横になったりして何とかやり過ごしながらおこなったのだ。あまつさえ、明日になれば改善している保証もない。日に日にひどくなってきさえしているのだから。
いつまで、この体調不良は続くのか――。
そんな不安がよぎった直後。
「うぅ……っ」
突然、強い吐き気の波に襲われ、霞冴はその場にうずくまった。冷や汗がどっと出て、頭がくらくらする。目をぎゅっとつぶって口に手を当て、吐き気が去るのを待つが、一向に収まる気配はない。不安と焦りで心臓が早鐘を打つ。せわしない鼓動と、胃がせりあがる不快感に、肩を震わせて耐えていると、
「霞冴ちゃん……?」
澄んだ声が、静かな廊下の空気を震わせた。涙の浮かぶ目を上げると、いつの間に帰ってきていたのか、美雷が廊下の向こうに立っていた。
彼女は、ただならぬ様子の霞冴へと素早く歩み寄ると、横に膝をつき、汗ばんだ背中に手を当てた。柔和な表情には、いつもの朗らかさではなく、真剣みを帯びた気づかわしげな色が浮かんでいた。
「大丈夫? もどしそう?」
「ん……っ」
声が出ない。呼吸をするので精いっぱいだ。だが、美雷は一切焦ることなく、霞冴の背中を優しく撫でた。
「ごめんなさい、ここまでひどいとは思っていなかったの。こんなことなら、やっぱり朝から休ませてあげればよかった。……無理をさせすぎたわね。つらかったでしょう」
ぼやける視界の中、美雷の柔らかい声が心地よく頭に響く。思いやりにあふれ、共感に満ちた一つ一つの言葉。それらは、記憶の中の姉の声と溶けるように重なった。
霞冴はぼんやりと、姉とともにいるような錯覚を覚えた。今話しかけてくれているのも、背中をさすってくれているのも、最愛の姉であるかのよう。
変わらぬトーンで、美雷は声をかけ続ける。
「歩ける? もし途中でもどしちゃっても、気にしないで。何も心配することはないわ」
――姉は、何よりも相手の心を気遣う性格だった。
「ここにいるということは、書類を持ってきてくれたのね。ありがとう」
――姉は、霞冴の行動を読むのがうまかった。
「部屋まで一緒に行きましょう。あとで十番隊に頼んで、吐き気止めを持ってきてもらうわね。あと、何かあったらいつでも連絡して。それから……」
――姉は、神経質なほど入念な人物だった。
そうだ。ここにいるのは姉だ。姉でなければ、こんなにも的確に、霞冴の欲する言葉をくれたりはしない。
心身ともに疲弊しきった霞冴は、夢うつつの状態で、理想郷の白昼夢にたゆたった。
大好きな姉はそばにいる。こうして、触れて、話しかけてくれている。何も怖いことなどない。
そう思うと、だんだん呼吸が落ち着いてきた。体の真ん中を蝕んでいた吐き気も遠のいていく。脳がしびれるような、甘美で曖昧な幸せに意識を預けていた。
けれど。
「――大丈夫だからね、霞冴ちゃん」
その一言で、揺りかごのような優しい世界は、音を立ててひび割れた。ハレーションした幸福な視界が、ガラスのように砕け、崩れ去った後、立ち現れたのは元の現実。
夢から覚めた心地がした。覚醒すれば紛うことなき残酷な、しかし本当は最初からわかっていたはずの真実。
違うのだ。このひとは、姉などではない。姉は、自分をそんな風には呼ばない。この世界で唯一、たった一人の妹だけは、敬称も使わずに名前だけを呼んでくれていたのに。
姉の形をした、姉ではない存在。姉のようで、姉ではない存在。
思えば、こんなに心が締めつけられるようになったのも、体がおかしくなり始めたのも、あの日からだ。総司令部に琥珀色の彼女が現れて、もう手の届かない最愛のひとをこれ見よがしに思い出させる。そうして毎回味わうのは、絵に描いた餅の味。
このひとは、本物の姉ではない。まるで禁断の事物を作り出すかのように、姉と同じ姿と、姉と同じ声と、姉と同じ雰囲気を混ぜ合わせて出来上がったこれは、
――この時尼みらいは、偽物だ。
「……めて……」
「霞冴ちゃん?」
「やめて、ください……」
「どうし……」
「やめてくださいッ!」
破裂したように大声をあげ、霞冴はばっと立ち上がった。膝をついたままの美雷が、驚いたように彼女を見上げる。その表情さえ、霞冴の知るみらいと重なって、苛立ちは抑えきれないほど膨れ上がった。制することもできず、わき上がるままにぶちまける。
「どうして……どうしてそんな風に話すんですか! どうしてそんな言葉をかけるんですか! あなたはお姉ちゃんじゃないのに、どうしてお姉ちゃんみたいにふるまうんですか!」
理不尽な叫びだ、と遠くで傍観するもう一人の自分がつぶやく。けれど、今ここに立つ体を持った自身は、それも無視して喚き散らす。
「あなたを見るたびにお姉ちゃんを思い出す! そのたびにお姉ちゃんはもういないんだって、し、死んじゃったんだって思い知らされる! どうしてそんな残酷なものをちらつかせるんですか!」
「霞冴ちゃん、落ち着いて」
「嫌なんです、苦しくて苦しくて、私っ、もう、もう……!」
一瞬だけ、時が止まった気がした。最後通牒が耳元で囁く。
その先を言えば、もう戻れない。
だが、唇は、声は、言葉は止まらなかった。最後のたがも外れ、時の流れが戻った時には、
「――偽物のくせに、お姉ちゃんのふりをしないでください!」
布を引き裂くような残響が、二人きりの廊下に走った。音が消え、再び場は無音に支配される。
その静寂を聞いて、霞冴は今度こそ現実に引き戻された。
耳の奥にこびりつく言葉の余韻。自分の口から出たとは思えない、むごい激語。幻覚か? 否、見上げてくる美雷の呆然とした顔を見れば、ほかでもない自分が発した言葉に相違ないことは明白だ。
一線を越えた。もう戻れない、破滅の一線を。
大きく見開いたシアンの瞳に、みるみる涙が浮かんでいく。手のひらで口を覆って、霞冴は全速力で駆け出した。後から追ってくる呼び声から逃げるように、隊舎の外へ向かって走る。
廊下を曲がり、ドアをはね開け、屋外へ飛び出すと、敷地の端へと逃げ込んだ。無人の空間、枝葉を広げて並ぶ木立。その一つのそばで足を止めると、幹に手をついた。息を整える暇もなかった。
「ぁ……ぁああああッ!」
ずるずると座り込みながら、慟哭する。ぼろぼろと、涙がこぼれて地面に落ちた。狂ったように泣き叫びながら、頭の中で一つの事実を繰り返す。
言った。言った。言ってしまった。
何の罪もない美雷に。霞冴の体調を気遣い、時間を割いて介抱してくれた彼女に。幼く拙い感情を、理性のフィルタを通すことなく、ただ自分勝手にぶつけた。
こんなことがしたかったのではないのに。ただ苦しくて、切なくて、助かりたかっただけなのに。
けれど、もはや弁明の余地はない。あの場で少しでも重圧に耐えれば、その機会もあったかもしれない。なのに、それにすら背を向けて逃げ出したから。
もう、取り返しがつかない。姉が生き返らないのと同じように、壊れた関係もこの先ずっと死んだままだ。美雷との間の、生まれたばかりの絆は、霞冴がこの手で殺してしまった。
罪悪感と喪失感と絶望で体の力が抜け、がくんとうなだれた。その隙を見計らったかのように、胃が激しく収縮する。抑え込んでいた嘔吐感がとどめを刺しに来る。
呼吸も整わない彼女に、あらがうすべはなかった。
「う、えぇ……っ、ぇほっ、けほっ……」
熱い液体が、喉の奥からほとばしって地面にしたたった。まるで毒に侵されたように、次から次へと吐き気が込み上げる。その毒でさえ、きっと自分の中で作り出したもの。
体をよじり、何度もえずくが、出てくるのは少量の胃液だけだった。当然だ、もう四食ほど抜かしている。
絞り出すような嘔吐が収まった時には、霞冴はすでに力尽きていた。小さくしゃくりあげながらうなだれて、立てつけの悪い蛇口のようにぽたりぽたりと涙を落とす。頭の中に紗がかかったように、何も考えられない。濡れた唇で、かすれた弱音を吐きだす。
「も……やだ……やだよぉ……」
体が動かない。この先どうすればいいのかも考えられない。延々と涙を流しながら、彼女はただ、こうべを垂れて座り込んでいた。
――その周囲に、何かが忍び寄る気配があった。
一つ一つは小さなもの。それがたくさんひしめき合って、さざ波のように静かにささやきあう。
精魂尽き果てた霞冴へとにじり寄る、不可視の存在たち。霞冴自身も、ぼんやりした意識の中、その気配を感じていたが、もはやどうすることもできない。
衰弱した対象にじわりじわりと迫っていたそれらは、次第に距離をゼロへと縮め、
――そして、彼女はこの世界から消えた。
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