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6.新最司官編
26春と半旗と波乱の足音 後編
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きょろきょろと道を見回していた少女は、急にうつむいてつぶやいた。
「おかあさん……しんじゃったのかな……」
一同、ぎょっとして少女を見る。雷奈が慌てて問うた。
「なして……えっと、どうして、そう思うの?」
「だって、いないから……きえちゃった……」
あまりにも素朴で、純粋な一言。中学生の雷奈たちからすれば、目の前にいないから消えた、死んだなど、馬鹿馬鹿しいほど短絡的な論理だ。だが、それが幼い彼女の捉えた世界なのだ。最も身近で愛すべき母親と、いつ会えるのか、いつか会えるのかわからない状況など、果てのない悪夢に放り込まれたような心地だろう。
「……きっと、大丈夫だよ」
いつもののんきさを潜めた、静かな声だった。怯える少女の高さに目線を合わせ、彼女はとろんとした目をわずかに細める。
「お母さんは今、キミを必死に探しているよ。もうすぐ来てくれるはずだから、大丈夫。私たちと一緒に待っていよう?」
霞冴の声は、普段の活気をそぎ落としたように柔らかく、優しい音だった。きっと黒目がちに見えているのだろう彼女のまなざしに、少女はゆっくりとうなずく。
いい子、と笑いかける霞冴の、どこか寂しげで、せつなげな面持ちを、雷奈は不思議な気持ちで見つめていた。まるで、そうであることを、自分のことのように切に願っているような――。
そこで、雷奈はふと、少女の腰あたりに下がっているポシェットに目をとめた。猫の顔をデフォルメした形のシンプルなものだ。
無意識に、問いかけていた。
「猫、好きなの?」
少女は小さく肩を震わせて雷奈に反応した。おずおずとうなずく。
「じゃあ、私が一つ、あるお話をしてあげる!」
「……おはな、し?」
「そう! 夢みたいで、ばってん、夢じゃないかもしれないお話!」
その瞳がわずかでも興味の輝きを宿したのを見逃さず、雷奈は軽やかなステップで数歩下がった。起伏のある、方言を消した口調は、元演劇部の雷奈が女優へと変化する予兆だ。
「とある町のとある場所、誰も知らない一角に、秘密の道が、ありました。そこを通ればあら不思議、光の向こうは猫の世界!」
盛大にフィライン・エデンを暴露しようとする雷奈を、氷架璃と芽華実は慌ててさえぎろうとした。が、先んじてアワとフーに制される。視線で示されたほうを見ると、少女が瞬く間にのめりこんでいるのがわかった。
雷奈のよく通る声が、調子をつけて物語の続きを紡ぐ。
「住んでいる猫は魔法使い。水を操り火をおこす。秘密の呪文を唱えれば、人の姿に早変わり!」
時に大きく、時に細やかに、緩急をつけた体の動きで、小道具も衣装もないのに世界を表現する。彼女の演技に見入れば、あたかもそこに水がほとばしり、炎が盛ったように錯覚してしまう。
「白い猫に、緑の猫。ピンクの猫や、青い猫。色とりどりの猫たちが、みんな仲良く暮らしてる。だけどそこに現れた、悪い悪ーい黒猫さん!」
邪悪なものを語るときの低い声が、少女の体を緊張させた。もう、少女の心は雷奈の手の中。驚かせるも、ハラハラさせるも、すべて彼女の自由自在だ。
「悪い悪い黒猫は、魔法でみんなを苦しめる。早く早くやっつけて、平和な世界を取り戻そう。だけど相手は強いのなんの、戦うみんなを吹き飛ばす!」
「……がんばって、くろくないネコさん!」
「一人の猫が言いました、みんなで力を合わせましょう。全員手に手を取り合って、いろんな魔法を合わせてく。一人の力は小さくても、多く集めれば強くなる!」
「……!」
「友情パワーの魔法の力、強い強い絆の力。それを受けた黒猫は、もうしませんと逃げていく。こうして戻った平和な世界、今日もみんなは仲良く過ごす――」
ゆったりとした動作で余韻を持たせると、芝居がかった仕草でボウアンドスクレイプ。
「……めでたし、めでたし」
物語は、小さな手が奏でる拍手で締めくくられた。もう少女の目にしずくはない。
「すごーい! それ、ほんとのはなし?」
「信じるか信じないかは、あなたにお任せするったい」
「……たい?」
「サヤ、サヤ!」
ちょうどその時、道路の向こうから駆け寄ってくる女性の姿があった。たいそう慌てた様子の彼女に、少女はわき目も振らず走り寄る。
「おかあさん!」
「ごめんね、サヤ……お母さんが目を離してしまったから。すみません、みなさん、ありがとうございました」
まだ若い母親は、雷奈たちに何度も頭を下げた。
「いえいえ、私たち、一緒にお話しして待っとっただけですけん。よかったね、お母さんに会えて」
「うん! おかあさん、しんじゃったかとおもった……」
母親は、「まあ!」と目を丸くすると、一層強く愛娘を抱きしめた。
「あなたを残して死んでしまうわけないでしょう? ちょっと離れていただけよ。大丈夫、一緒に帰りましょう」
「うん。あのね、おねえちゃんがたのしいおはなししてくれた!」
「そうなのね。帰ったら聞かせてね。それでは、みなさん、どうもありがとうございました」
最後にもう一度、深く頭を下げると、母親は小さな手をしっかりつないで、家路をたどっていった。
「ふう……何とかなったったいね」
「あんたの即興もなかなか役に立つじゃない」
「割とマイルドに仕上げてたけどね」
「だってそうっちゃろ、命狙われたとか、クロ殺したとか、言えんっちゃろ」
「それもそうか」
「でも、あの子が信じてしまったらフィライン・エデンに迷惑じゃないかしら」
「大丈夫よ、成長したら作り話だって思うようになるでしょうし、今誰かに話したところで、周りの大人も信じないわ」
フーはくすっと笑って、ふと視線を巡らせ――。
「……あれ? 霞冴は?」
「え?」
そこに、小さな最高司令官の姿はなかった。さっきまで、後ろのほうに立っていたはずなのだが、いつのまにか行方をくらませていた。
「どこ行ったんだ、あいつ? 親が見つかったからって戻ったか? 薄情者め」
「足音すらしなかったわね」
芽華実も首をかしげる。部屋に戻った説が濃厚だったので、一度宿坊に帰ることになった。
参道を引き返しながら、雷奈は一つ一つ場面を思い返していた。
(私が演技ばしとった時は、まだいた。いなくなったのは、お母さんが見つかってから……とすると、やっぱり用事が済んだけん戻った? ばってん、それにしても……)
ぱっと脳裏によみがえったのは、少女を慰めている時の彼女の顔。相手を慰撫する側であるにもかかわらず、その面差しは……そう、不安げで……。
「!」
手水舎の前を通りかかったとき、視界の端に淡い水色を捉えて、雷奈は振り向いた。屋根付きの手水舎の向こうに、わずかにはみ出した頭が見える。たたっと駆け寄り、裏に回って覗き込んだ雷奈は――。
「霞冴……!?」
その様子に、息をのんだ。
常に朗らかな笑みを浮かべるその顔には、悲痛な表情が刻まれていた。頬は紅潮し、ターコイズのような瞳からは大粒の涙がこぼれては落ちていく。雷奈の後からやってきた四人も、うずくまった彼女の様子に言葉を失った。
「ど、どうしたんだよ!?」
「ごめん……わ……私っ、お姉ちゃんのこと、思い出してっ……」
「お姉ちゃん? 霞冴って、お姉ちゃんがいたの?」
「ん……時尼みらい、っていうの……私が九歳の時に……し、死んじゃった……」
両親だけでなく、姉も亡くしていたという事実に、芽華実は思わず口元に手を添えた。
「お母さんとお父さんが、私がすごーく小さいときに死んでから、お姉ちゃんはずっとお母さんの代わりだった。お姉ちゃんは体が弱くて、よく寝込んでて、でも言ってたの。『あなたを置いて死ぬわけないでしょう』って……。なのに……通ってた学院で事故にあって、私を残して逝っちゃった……」
霞冴はそこで大きくしゃくりあげた。
どうやら、感情があふれるきっかけとなったのは、あの母親の言葉だったらしい。娘を安心させるための優しい一言のはずが、彼女の胸を激しくえぐり、その場から立ち去らせたのだ。
「お姉ちゃんは、私に似て私よりきれいな色の……そう、水色がかった銀色の髪をしていて、美人で、頭がよくて、病弱だけどすごく強くて、優しくて、私のことよくわかってくれてて、優しくて……!」
胸元のスカーフをぐしゃぐしゃにつかんで、抑えきれない悲鳴を上げる。
「大好きだった……大好きだったんだよぅ……」
呼吸を乱し、声を上げて泣きじゃくる。その姿は、迷子の少女と重なった。愛する人物が目の前にいないことへの悲傷。人も猫も、子供も成長してからも、その感情は変わらない。
やがて、波が去り、少しずつ平静を取り戻した霞冴は、「ごめん」と小声で漏らした。
「よかとよ。……大好きな人との別れは、つらいもんね」
「でも……雷奈も氷架璃もお母さんを亡くしてるのに……ルシルも妹を失ってるのに、私の前で泣いたことなんてないもん。私はみんなみたいに強くないから、今でもずっとお姉ちゃんの影を探してる。私は……こんなに弱いから……」
ただでさえ小柄な霞冴の体は、さらに小さく縮んだかのようだった。飄々とした外殻の奥の、まだ固まり切らずにどろどろとしている未熟さ。それが、彼女の本質なのかもしれなかった。
誰が声をかけるよりも早く、臙脂のスカートのポケットからピッチが鳴る音がした。霞冴は呼吸を整えてから、おもむろに通信に出た。
「……はい。……うん……うん、わかった。すぐに行ってくるね。連絡ありがとう」
わずかに微笑んで答えると、短い通話を終了した。
「なんか、本部に連絡があったみたいで、ほかの機関のトップからお呼び出しだって。三大機関はときどき頭が集まって話し合いとかするから、いつものそれだと思う」
「行けそう?」
「もちろん、行くよ。仕事だもの。……悪いけれど、つかさとまつりによろしく言っておいてくれる?」
泣きはらした目で小さく笑う霞冴に、皆はもちろん、とうなずいた。いくらここから持ち直したとしても、つかさとまつりのことだ、微細な異変にも気づくだろう。
ありがと、と言うと同時、彼女はふわふわとした長毛の猫に姿を変えた。髪と同じ色をした小さな猫は、軽やかな身のこなしで鳥居のほうへと走っていき、神社を後にした。
その方向を見つめる雷奈の頭の中で、霞冴の能天気な笑顔と傷心した泣き顔が交互に思い返された。
心の傷跡を隠して、気丈にふるまうことは、一見強さに見える。しかし、突けば血が流れる創痕は、なくなったわけではない。硬い殻に覆われ、守られてきたその急所が深くえぐられた時、彼女は成長と破滅の分岐点に立たされるのだろう。
雷奈も一度は乗り越えた試練。どうか、あの健気な友人もと願う一方で、
――残酷な運命は、すでに動き出していた。
***
フィライン・エデンの三大機関。一つは警察・消防組織である希兵隊。一つは役所・情報機関である情報管理局。そして最後に、教育・研究機関である学院。これらは互いに協力し合い、時に牽制しあい、市民たちの生活を支えている。中でも、学院は誰もが人生の中で一度は通る場所だ。狭義の学院である飛壇中央学院に通わなかったとしても、各学校はその傘下にあるため、広義には、学院は皆が通る大人の階段といえるからだ。
そんな教育機関としての機能に加え、研究機関としての役割も担う飛壇中央学院は、それなりの広さを誇っている。瓦屋根の平屋が並ぶ希兵隊舎とも、現代あるいは近未来的な風体の情報管理局とも異なる、ゴシック様式に似た建築物。背の高い建物が少ないフィライン・エデンでは珍しい四階建ての最上階、応接室に案内された霞冴は、ノックをするべく人間姿になった。
軽く響いた合図の音に、中から入室を促す声がする。つややかな木の色のドアを開けて、部屋に足を踏み入れると、すでに面子はそろっていた。
「どうも、こんにちは。局長、学院長」
「うむ」
「ご足労ありがとうございます、司令官」
二人とも双体姿だ。もし主体だったならば、見下ろすことにならないよう霞冴も主体に戻るつもりであったが、その必要はなさそうだ。
「急にお呼び立てしてすみませんね」
「いえ、私こそ、留守にしていてすみませんでした。……急な集まりみたいですけど、どうしましたか?」
霞冴の問いに、局長と学院長は一度、視線を交わし合った。霞冴はふと違和感を覚える。学院に招かれたので、学院長から霞冴と局長に何か話があるのだと思ったのだ。
しかし、状況からして、二人は既に情報を共有していて、それを霞冴一人に伝えようとしているかのように見える。
口を開いたのは、情報管理局長だった。
「単刀直入に、結論から申し上げよう」
高いのか低いのかわからない不思議な声音。ピリリと、静電気のような緊張が背筋を走った。
ダークやチエアリがらみの情勢が悪化した? 何か重大な事件が起こった?
次の言葉を待つ間、そんないくつもの可能性がこめかみをよぎった。
だが、どの予想も、あまりに的外れだった。
なぜなら、よもや他でもない自分自身に深く関わることが告げられようなど、毛頭想定していなかったから。
「時尼霞冴最高司令官」
こがね色の視線がまっすぐに霞冴を射止めて、
「お主を、希兵隊総司令部最高司令官の地位から解任する」
「おかあさん……しんじゃったのかな……」
一同、ぎょっとして少女を見る。雷奈が慌てて問うた。
「なして……えっと、どうして、そう思うの?」
「だって、いないから……きえちゃった……」
あまりにも素朴で、純粋な一言。中学生の雷奈たちからすれば、目の前にいないから消えた、死んだなど、馬鹿馬鹿しいほど短絡的な論理だ。だが、それが幼い彼女の捉えた世界なのだ。最も身近で愛すべき母親と、いつ会えるのか、いつか会えるのかわからない状況など、果てのない悪夢に放り込まれたような心地だろう。
「……きっと、大丈夫だよ」
いつもののんきさを潜めた、静かな声だった。怯える少女の高さに目線を合わせ、彼女はとろんとした目をわずかに細める。
「お母さんは今、キミを必死に探しているよ。もうすぐ来てくれるはずだから、大丈夫。私たちと一緒に待っていよう?」
霞冴の声は、普段の活気をそぎ落としたように柔らかく、優しい音だった。きっと黒目がちに見えているのだろう彼女のまなざしに、少女はゆっくりとうなずく。
いい子、と笑いかける霞冴の、どこか寂しげで、せつなげな面持ちを、雷奈は不思議な気持ちで見つめていた。まるで、そうであることを、自分のことのように切に願っているような――。
そこで、雷奈はふと、少女の腰あたりに下がっているポシェットに目をとめた。猫の顔をデフォルメした形のシンプルなものだ。
無意識に、問いかけていた。
「猫、好きなの?」
少女は小さく肩を震わせて雷奈に反応した。おずおずとうなずく。
「じゃあ、私が一つ、あるお話をしてあげる!」
「……おはな、し?」
「そう! 夢みたいで、ばってん、夢じゃないかもしれないお話!」
その瞳がわずかでも興味の輝きを宿したのを見逃さず、雷奈は軽やかなステップで数歩下がった。起伏のある、方言を消した口調は、元演劇部の雷奈が女優へと変化する予兆だ。
「とある町のとある場所、誰も知らない一角に、秘密の道が、ありました。そこを通ればあら不思議、光の向こうは猫の世界!」
盛大にフィライン・エデンを暴露しようとする雷奈を、氷架璃と芽華実は慌ててさえぎろうとした。が、先んじてアワとフーに制される。視線で示されたほうを見ると、少女が瞬く間にのめりこんでいるのがわかった。
雷奈のよく通る声が、調子をつけて物語の続きを紡ぐ。
「住んでいる猫は魔法使い。水を操り火をおこす。秘密の呪文を唱えれば、人の姿に早変わり!」
時に大きく、時に細やかに、緩急をつけた体の動きで、小道具も衣装もないのに世界を表現する。彼女の演技に見入れば、あたかもそこに水がほとばしり、炎が盛ったように錯覚してしまう。
「白い猫に、緑の猫。ピンクの猫や、青い猫。色とりどりの猫たちが、みんな仲良く暮らしてる。だけどそこに現れた、悪い悪ーい黒猫さん!」
邪悪なものを語るときの低い声が、少女の体を緊張させた。もう、少女の心は雷奈の手の中。驚かせるも、ハラハラさせるも、すべて彼女の自由自在だ。
「悪い悪い黒猫は、魔法でみんなを苦しめる。早く早くやっつけて、平和な世界を取り戻そう。だけど相手は強いのなんの、戦うみんなを吹き飛ばす!」
「……がんばって、くろくないネコさん!」
「一人の猫が言いました、みんなで力を合わせましょう。全員手に手を取り合って、いろんな魔法を合わせてく。一人の力は小さくても、多く集めれば強くなる!」
「……!」
「友情パワーの魔法の力、強い強い絆の力。それを受けた黒猫は、もうしませんと逃げていく。こうして戻った平和な世界、今日もみんなは仲良く過ごす――」
ゆったりとした動作で余韻を持たせると、芝居がかった仕草でボウアンドスクレイプ。
「……めでたし、めでたし」
物語は、小さな手が奏でる拍手で締めくくられた。もう少女の目にしずくはない。
「すごーい! それ、ほんとのはなし?」
「信じるか信じないかは、あなたにお任せするったい」
「……たい?」
「サヤ、サヤ!」
ちょうどその時、道路の向こうから駆け寄ってくる女性の姿があった。たいそう慌てた様子の彼女に、少女はわき目も振らず走り寄る。
「おかあさん!」
「ごめんね、サヤ……お母さんが目を離してしまったから。すみません、みなさん、ありがとうございました」
まだ若い母親は、雷奈たちに何度も頭を下げた。
「いえいえ、私たち、一緒にお話しして待っとっただけですけん。よかったね、お母さんに会えて」
「うん! おかあさん、しんじゃったかとおもった……」
母親は、「まあ!」と目を丸くすると、一層強く愛娘を抱きしめた。
「あなたを残して死んでしまうわけないでしょう? ちょっと離れていただけよ。大丈夫、一緒に帰りましょう」
「うん。あのね、おねえちゃんがたのしいおはなししてくれた!」
「そうなのね。帰ったら聞かせてね。それでは、みなさん、どうもありがとうございました」
最後にもう一度、深く頭を下げると、母親は小さな手をしっかりつないで、家路をたどっていった。
「ふう……何とかなったったいね」
「あんたの即興もなかなか役に立つじゃない」
「割とマイルドに仕上げてたけどね」
「だってそうっちゃろ、命狙われたとか、クロ殺したとか、言えんっちゃろ」
「それもそうか」
「でも、あの子が信じてしまったらフィライン・エデンに迷惑じゃないかしら」
「大丈夫よ、成長したら作り話だって思うようになるでしょうし、今誰かに話したところで、周りの大人も信じないわ」
フーはくすっと笑って、ふと視線を巡らせ――。
「……あれ? 霞冴は?」
「え?」
そこに、小さな最高司令官の姿はなかった。さっきまで、後ろのほうに立っていたはずなのだが、いつのまにか行方をくらませていた。
「どこ行ったんだ、あいつ? 親が見つかったからって戻ったか? 薄情者め」
「足音すらしなかったわね」
芽華実も首をかしげる。部屋に戻った説が濃厚だったので、一度宿坊に帰ることになった。
参道を引き返しながら、雷奈は一つ一つ場面を思い返していた。
(私が演技ばしとった時は、まだいた。いなくなったのは、お母さんが見つかってから……とすると、やっぱり用事が済んだけん戻った? ばってん、それにしても……)
ぱっと脳裏によみがえったのは、少女を慰めている時の彼女の顔。相手を慰撫する側であるにもかかわらず、その面差しは……そう、不安げで……。
「!」
手水舎の前を通りかかったとき、視界の端に淡い水色を捉えて、雷奈は振り向いた。屋根付きの手水舎の向こうに、わずかにはみ出した頭が見える。たたっと駆け寄り、裏に回って覗き込んだ雷奈は――。
「霞冴……!?」
その様子に、息をのんだ。
常に朗らかな笑みを浮かべるその顔には、悲痛な表情が刻まれていた。頬は紅潮し、ターコイズのような瞳からは大粒の涙がこぼれては落ちていく。雷奈の後からやってきた四人も、うずくまった彼女の様子に言葉を失った。
「ど、どうしたんだよ!?」
「ごめん……わ……私っ、お姉ちゃんのこと、思い出してっ……」
「お姉ちゃん? 霞冴って、お姉ちゃんがいたの?」
「ん……時尼みらい、っていうの……私が九歳の時に……し、死んじゃった……」
両親だけでなく、姉も亡くしていたという事実に、芽華実は思わず口元に手を添えた。
「お母さんとお父さんが、私がすごーく小さいときに死んでから、お姉ちゃんはずっとお母さんの代わりだった。お姉ちゃんは体が弱くて、よく寝込んでて、でも言ってたの。『あなたを置いて死ぬわけないでしょう』って……。なのに……通ってた学院で事故にあって、私を残して逝っちゃった……」
霞冴はそこで大きくしゃくりあげた。
どうやら、感情があふれるきっかけとなったのは、あの母親の言葉だったらしい。娘を安心させるための優しい一言のはずが、彼女の胸を激しくえぐり、その場から立ち去らせたのだ。
「お姉ちゃんは、私に似て私よりきれいな色の……そう、水色がかった銀色の髪をしていて、美人で、頭がよくて、病弱だけどすごく強くて、優しくて、私のことよくわかってくれてて、優しくて……!」
胸元のスカーフをぐしゃぐしゃにつかんで、抑えきれない悲鳴を上げる。
「大好きだった……大好きだったんだよぅ……」
呼吸を乱し、声を上げて泣きじゃくる。その姿は、迷子の少女と重なった。愛する人物が目の前にいないことへの悲傷。人も猫も、子供も成長してからも、その感情は変わらない。
やがて、波が去り、少しずつ平静を取り戻した霞冴は、「ごめん」と小声で漏らした。
「よかとよ。……大好きな人との別れは、つらいもんね」
「でも……雷奈も氷架璃もお母さんを亡くしてるのに……ルシルも妹を失ってるのに、私の前で泣いたことなんてないもん。私はみんなみたいに強くないから、今でもずっとお姉ちゃんの影を探してる。私は……こんなに弱いから……」
ただでさえ小柄な霞冴の体は、さらに小さく縮んだかのようだった。飄々とした外殻の奥の、まだ固まり切らずにどろどろとしている未熟さ。それが、彼女の本質なのかもしれなかった。
誰が声をかけるよりも早く、臙脂のスカートのポケットからピッチが鳴る音がした。霞冴は呼吸を整えてから、おもむろに通信に出た。
「……はい。……うん……うん、わかった。すぐに行ってくるね。連絡ありがとう」
わずかに微笑んで答えると、短い通話を終了した。
「なんか、本部に連絡があったみたいで、ほかの機関のトップからお呼び出しだって。三大機関はときどき頭が集まって話し合いとかするから、いつものそれだと思う」
「行けそう?」
「もちろん、行くよ。仕事だもの。……悪いけれど、つかさとまつりによろしく言っておいてくれる?」
泣きはらした目で小さく笑う霞冴に、皆はもちろん、とうなずいた。いくらここから持ち直したとしても、つかさとまつりのことだ、微細な異変にも気づくだろう。
ありがと、と言うと同時、彼女はふわふわとした長毛の猫に姿を変えた。髪と同じ色をした小さな猫は、軽やかな身のこなしで鳥居のほうへと走っていき、神社を後にした。
その方向を見つめる雷奈の頭の中で、霞冴の能天気な笑顔と傷心した泣き顔が交互に思い返された。
心の傷跡を隠して、気丈にふるまうことは、一見強さに見える。しかし、突けば血が流れる創痕は、なくなったわけではない。硬い殻に覆われ、守られてきたその急所が深くえぐられた時、彼女は成長と破滅の分岐点に立たされるのだろう。
雷奈も一度は乗り越えた試練。どうか、あの健気な友人もと願う一方で、
――残酷な運命は、すでに動き出していた。
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フィライン・エデンの三大機関。一つは警察・消防組織である希兵隊。一つは役所・情報機関である情報管理局。そして最後に、教育・研究機関である学院。これらは互いに協力し合い、時に牽制しあい、市民たちの生活を支えている。中でも、学院は誰もが人生の中で一度は通る場所だ。狭義の学院である飛壇中央学院に通わなかったとしても、各学校はその傘下にあるため、広義には、学院は皆が通る大人の階段といえるからだ。
そんな教育機関としての機能に加え、研究機関としての役割も担う飛壇中央学院は、それなりの広さを誇っている。瓦屋根の平屋が並ぶ希兵隊舎とも、現代あるいは近未来的な風体の情報管理局とも異なる、ゴシック様式に似た建築物。背の高い建物が少ないフィライン・エデンでは珍しい四階建ての最上階、応接室に案内された霞冴は、ノックをするべく人間姿になった。
軽く響いた合図の音に、中から入室を促す声がする。つややかな木の色のドアを開けて、部屋に足を踏み入れると、すでに面子はそろっていた。
「どうも、こんにちは。局長、学院長」
「うむ」
「ご足労ありがとうございます、司令官」
二人とも双体姿だ。もし主体だったならば、見下ろすことにならないよう霞冴も主体に戻るつもりであったが、その必要はなさそうだ。
「急にお呼び立てしてすみませんね」
「いえ、私こそ、留守にしていてすみませんでした。……急な集まりみたいですけど、どうしましたか?」
霞冴の問いに、局長と学院長は一度、視線を交わし合った。霞冴はふと違和感を覚える。学院に招かれたので、学院長から霞冴と局長に何か話があるのだと思ったのだ。
しかし、状況からして、二人は既に情報を共有していて、それを霞冴一人に伝えようとしているかのように見える。
口を開いたのは、情報管理局長だった。
「単刀直入に、結論から申し上げよう」
高いのか低いのかわからない不思議な声音。ピリリと、静電気のような緊張が背筋を走った。
ダークやチエアリがらみの情勢が悪化した? 何か重大な事件が起こった?
次の言葉を待つ間、そんないくつもの可能性がこめかみをよぎった。
だが、どの予想も、あまりに的外れだった。
なぜなら、よもや他でもない自分自身に深く関わることが告げられようなど、毛頭想定していなかったから。
「時尼霞冴最高司令官」
こがね色の視線がまっすぐに霞冴を射止めて、
「お主を、希兵隊総司令部最高司令官の地位から解任する」
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菱沼あゆ
キャラ文芸
突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。
洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。
天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。
洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。
中華後宮ラブコメディ。
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