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【第二部】あの日の戀の形代の君。
二-7 疑惑の繍菊殿へ
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「第四皇子妃殿下に申し上げます。我が主は現在臥せっておりまして、面会に応じることがかないませぬ。誠に申し訳ございませんが、日を改めてお訪ねくださいますようお願いいたします」
皇弟・朱鵬明の住まう殿舎は繍菊|殿、これは皇宮である楽浪宮の西側にある。瓔偲はその殿舎の門前で、門卒に対し、第四皇子・朱燎琉の遣いで訪ねてきた旨、また、皇弟鵬明に取り次いでほしい旨を請うた。そして、瓔偲を門前に待たせたまま、いったん中へと戻った男が再び現れて告げたのが、先の言葉である。
先程の煌泰の発言もあったから、瓔偲とてもちろん、こうした門前払いを予想しなかったわけではない。が、実際に対面を断られてしまうと――これまでの鵬明がいつも気安く接してくれ、また自身も常に身軽に動く人であっただけに――やはり尋常ではないことが起きている、と、瓔偲にそう感じさせた。
瓔偲は門扉の隙間から、繍菊殿の中をのぞき込む。が、大門からうかがうのでは、前院の灯籠に明かりが入っていることくらいしかわからなかった。
繍菊殿は、今秋、事情あって、瓔偲がしばらく身を寄せさせてもらった殿舎だ。それだけでなく、瓔偲はこの繍菊殿から、鵬明の養子格というかたちで、燎琉に嫁した。繍菊殿には華轎出す用意がある、と、鵬明が言ってくれた、その厚意に甘えさせてもらったのだ。
年齢も近く――実際、燎琉と瓔偲とより、鵬明と瓔偲とのほうが年の差が少ないくらいだ――だからこそ意識したことはなかったが、形式上、鵬明は瓔偲にとっての義父である。その瓔偲を娶った燎琉にとっても、彼は形の上では義父なのだ。
瓔偲を妃にするため――すなわち、癸性の妃を持つため――燎琉は父皇帝にも、母皇后にも、真っ向から反抗した。無理に我を通しての婚姻だった。そんな自分たちにとって、心強い後ろ盾になってくれたのが鵬明だ。
彼がそうしてくれたのは純粋な厚意からだったと――裏の意図などありはしなかったと――瓔偲は信じている。もちろん、燎琉もそうだろう。
信じているからこそ、立った一度対面を断られたくらいで、あっさりと退くことなどできなかった。
「皇弟殿下は、我が夫である第四皇子殿下にとって、実の叔父にあたる御方。わたしにとっても、かつての上司です。また、我々ふたりからしてみれば、義父ともお呼び申し上げるべき、大恩ある御方でもございます。病だというなら、なおさら、ひと目なりとも見舞わずには帰れません。どうか、お取り次ぎを」
瓔偲が滔々と述べ立てて食い下がると、相手は困ったような顔をした。しかし、と、言い澱むところを、どうか、と、瓔偲はかえって真っ直ぐに相手を見据える。
「殿下はいったいどのようなご病状で……」
たじろいだ相手に、そう、さらに言葉を畳みかけようとしたときだった。
ふと、きぃ、と、門扉が開くときのような、かすかなきしみが聞こえてきた。
門卒がはっと後ろを振り返る。瓔偲もそちらのほうへ視線をやった。おそらく、前院と院子とを分ける垂花門が開いたのだ。
瓔偲は息を詰めて相手を待った。それは時間にすればほんの数瞬だったはずだが、しん、と、静まりかえった静寂の中にわずかに足音だけが響いている間を、ひどく長いもののように感じた。
「うちのをあまり困らせてやってくれるな、瓔偲。いち門卒では、お前の口には勝てんだろうよ。――下がって良い。後は私が相手をしよう」
相手は姿を見せるなり――いまのこの空気にまるで似つかわしくない――苦笑を口の端に浮かべ、軽く手を振って男を下がらせた。
「皇弟殿下にご挨拶申し上げます」
いつもそうするのと同じように、瓔偲は丁寧に拱手する。
「構わんから、楽に。――何の用だ、瓔偲」
ふう、と、嘆息する相手の――鵬明の――顔を、瓔偲は黒曜石の眸で真っ直ぐに見詰めた。
「燎琉殿下の遣いで参りました。鵬明殿下にご様子をうかがえ、と」
「はは、様子、ね……病で寝込んでいると、門卒には言わせたはずだが」
鵬明は言って、肩をすくめる。片方の口角を持ち上げ、笑ったままではいるけれども、それはいつもの人を喰ったような、余裕のあるそれではなかった――……どこか、疲れたような、あるいは困り果てた、もしくは途方に暮れたかのような翳が、その顔にはちらついている。
とはいえ、病というのが事実ではないのは、間違いがなかった。
「寝込んでおられる方が、どうしてこちらまで出て来られたのでしょう? だいたいにして、あなた様が病など、わたしがあなた様にお仕えした二年の間、一度もありはしなかったこと……もっとましな嘘をつかれてはいかがですか?」
瓔偲が言うと、鵬明は、はは、と、乾いた笑みを漏らした。
「手厳しいな、瓔偲。――だが、この一時を凌げれば、それでいいんだ。巧みな嘘など必要ない」
鵬明はまた、くすん、と、肩をすくめる。
「それはいったい……どういうことですか?」
相手の発言の意図を掴みかねて、訝るように瓔偲は問うた。
「わずかでいい、時がほしい。この責任は、必ず後で私がとる……この命を賭してでも」
鵬明の言に、瓔偲ははっと息を呑んだ。
鵬明の言葉は、何の説明にもなっていない、まるで要領を得ないものではあった。とはいえ、筆頭皇族が命を賭けると口にするなど、尋常の覚悟ではない。
「殿下は……金胡の王女の行方を、ご存知ですか」
瓔偲はじっと鵬明を見据えて訊いた。
「……知らんな」
一拍の間の後、鵬明は答えた。
「っ、殿下!」
「これは私のつけるべき落とし前だ。お前や燎琉を巻き込むわけにはいかん。なあ、瓔偲……無理は承知だが、どうか知らん振りをしておいてくれ。――心配、するな」
なんとかするから、と、どこか切なげに眉を顰めて言った鵬明の言葉は、最後、わずかばかり小さくなった。
こちらから視線を逸らしてしまった相手の、端正な、けれどもどこか疲れたような横顔を、瓔偲は真っ直ぐに見る。
「……心配せぬことなど、不可能です」
ふう、と、ひとつ息をついて、瓔偲は言った。
「だって、あなた様は、燎琉殿下が慕う叔父上さまです。わたしにとっても、尊敬する上司だった御方なのですから。――何があったのですか、鵬明さま。いえ……金胡の王女は、いま、あなた様の手のうちに、いらっしゃるのですか?」
一語一語を噛むようにゆっくりと尋ねた瓔偲に、鵬明ははっとした表情をする。しばし瓔偲の顔を黙って見詰め、それからまた、すぅっと明後日のほうを向いてしまった。
「殿下……」
瓔偲が言い募ろうとした、まさにその刹那だった。
ひょぉおぅ、ひょう、と、夜の静寂の中に、細く笛の音が響いた。そして、その音色に今度は、切々とした古琴の音が添う。
「……『北の大地』……」
瓔偲は思わずつぶやいていた。
そして、その瞬間、頭の隅にひらめくものがあった。
「殿下、これは……」
しかし言い掛けたとき、鵬明はすでに、さっと踵を返している。
「命に替えて、責任は私が取る。――だからいまは帰ってくれ」
その一言を最後に、繍菊殿の門扉は再び固く閉ざされていた。
*
「瓔偲、戻ったか。叔父上には会えたか?」
瓔偲が椒桂殿へ戻ったときには、すでに燎琉も皇族会議を終えて、内殿から帰ってきていた。それまで居ても立ってもいられぬという様子で、そわそわと正堂の窓際をうろついていた相手は、瓔偲の姿を見とめると、弾かれたようにこちらへと駆けてくる。
「お会いすることは出来ました。が、何があったのかは、お話しいただくことが適いませんでした。申し訳ありません」
「いい。よくやってくれた。――お前に顔を見せてくれたということは、とにかくも、謀反などではないんだよな……?」
どこか不安げに、縋るように、燎琉は瓔偲に尋ねてくる。瓔偲はちいさく頷いた。
「そうは思えませんでした。ただ……」
「ただ?」
「鵬明殿下は、たしかに、何かに命を賭す覚悟ではいらっしゃる……それが何になのかは、わかりませんが」
「命……」
瓔偲の発言した物騒な言葉に、燎琉は息を呑んだ。
「殿下のほうは……皇族会議は、いかがでございましたか?」
「ああ……ひとつわかったことがある。金胡から内密に、王女の陛下への輿入れが打診されていた、と」
「陛下へ……」
「それもあって、状況はあまり良くないな、叔父上にとって……陛下が叔父上の取った態度に疑念を抱かれ、ずいぶんとお怒りだった。明朝までに繍菊殿から何らかの納得いく説明がなければ、兵卒を差し向けるも已むなし、という有様だ」
「明朝、ですか」
あまり時間がない。瓔偲は思案げにうつむいた。
「放っておけば、事態は隣国との外交問題に発展しかねない。迅速に解決すべき事案だ。皇帝の判断に表だって反対するものはいなかった。――まだ叔父上が関与していると決まったわけでもないのに」
燎琉は口惜しそうにてのひらを握りしめた。
「とはいえ、とにかくも王女の行方が知れないことには、何ともしようがないが……いま以て、杳として知れないそうだ。手掛かりもまるでない」
そう重たく嘆息するところを見るに、朝廷のほうで正式に動かしている部隊は王女を発見できておらず、また、李家へ遣いにやっている皓義から燎琉への連絡も、まだないものと思われた。
しかしそれは、ある意味で、幸いなことかもしれない――……見つかってしまえば、それこそいますぐにでも、繍菊殿は近衛軍に取り囲まれることにもなりえたからだ。
瓔偲にはもう、金胡の王女の居所の見当はついていた。鵬明の手のうちにあるどころの話ではない。
「そのことですが、殿下……おそらく王女は、いま、まさに繍菊殿におられます」
「っ、なに!? それは間違いないのか?」
肩を掴まれ、畳みかけるように問われて、しずかに、こく、と、うなずく。
「笛の音が聞こえました……『北の大地』を奏する。金胡の王女は笛の上手、と、裴彰昭さまの記録には、そうございました」
「だが、それだけでは……」
決め手にかけるのではないのか、と、そんな当然のような燎琉の疑問に、けれども瓔偲は首を振る。
「おそらく、王女が吹いておられたものと思います……古琴との、合奏でした」
「古琴?」
「ええ。――そちらは、裴鵑月どのです。彼女もいま、繍菊殿に……あるいは、彰昭さまもともにいらっしゃるのかもしれません」
「待て、瓔偲……なぜ、そうなるんだ?」
思わぬ名を並べ立てられて、わけもわからず目を瞠る燎琉を、瓔偲は真っ直ぐに見上げた。
「殿下、急ぎお調べいただきたいことがございます。――鵬明さまと、裴彰昭さまの、ご関係についてです」
「叔父上と、彰昭どのの、関係……?」
こちらの意図を掴みかねて問うてくる燎琉に、ええ、と、瓔偲は短く応じる。
「おそらく此度のことは、お二方のかつてのご関係、そして金胡の王女の恋とが、複雑に絡み合った帰結なのではないか、と」
瓔偲は口許に手を当て、わずかにうつむいて思案しつつ、そう、呟くように言った。燎琉はまだ、わけがわからないというふうに、鳶色の目を瞬いていた。
皇弟・朱鵬明の住まう殿舎は繍菊|殿、これは皇宮である楽浪宮の西側にある。瓔偲はその殿舎の門前で、門卒に対し、第四皇子・朱燎琉の遣いで訪ねてきた旨、また、皇弟鵬明に取り次いでほしい旨を請うた。そして、瓔偲を門前に待たせたまま、いったん中へと戻った男が再び現れて告げたのが、先の言葉である。
先程の煌泰の発言もあったから、瓔偲とてもちろん、こうした門前払いを予想しなかったわけではない。が、実際に対面を断られてしまうと――これまでの鵬明がいつも気安く接してくれ、また自身も常に身軽に動く人であっただけに――やはり尋常ではないことが起きている、と、瓔偲にそう感じさせた。
瓔偲は門扉の隙間から、繍菊殿の中をのぞき込む。が、大門からうかがうのでは、前院の灯籠に明かりが入っていることくらいしかわからなかった。
繍菊殿は、今秋、事情あって、瓔偲がしばらく身を寄せさせてもらった殿舎だ。それだけでなく、瓔偲はこの繍菊殿から、鵬明の養子格というかたちで、燎琉に嫁した。繍菊殿には華轎出す用意がある、と、鵬明が言ってくれた、その厚意に甘えさせてもらったのだ。
年齢も近く――実際、燎琉と瓔偲とより、鵬明と瓔偲とのほうが年の差が少ないくらいだ――だからこそ意識したことはなかったが、形式上、鵬明は瓔偲にとっての義父である。その瓔偲を娶った燎琉にとっても、彼は形の上では義父なのだ。
瓔偲を妃にするため――すなわち、癸性の妃を持つため――燎琉は父皇帝にも、母皇后にも、真っ向から反抗した。無理に我を通しての婚姻だった。そんな自分たちにとって、心強い後ろ盾になってくれたのが鵬明だ。
彼がそうしてくれたのは純粋な厚意からだったと――裏の意図などありはしなかったと――瓔偲は信じている。もちろん、燎琉もそうだろう。
信じているからこそ、立った一度対面を断られたくらいで、あっさりと退くことなどできなかった。
「皇弟殿下は、我が夫である第四皇子殿下にとって、実の叔父にあたる御方。わたしにとっても、かつての上司です。また、我々ふたりからしてみれば、義父ともお呼び申し上げるべき、大恩ある御方でもございます。病だというなら、なおさら、ひと目なりとも見舞わずには帰れません。どうか、お取り次ぎを」
瓔偲が滔々と述べ立てて食い下がると、相手は困ったような顔をした。しかし、と、言い澱むところを、どうか、と、瓔偲はかえって真っ直ぐに相手を見据える。
「殿下はいったいどのようなご病状で……」
たじろいだ相手に、そう、さらに言葉を畳みかけようとしたときだった。
ふと、きぃ、と、門扉が開くときのような、かすかなきしみが聞こえてきた。
門卒がはっと後ろを振り返る。瓔偲もそちらのほうへ視線をやった。おそらく、前院と院子とを分ける垂花門が開いたのだ。
瓔偲は息を詰めて相手を待った。それは時間にすればほんの数瞬だったはずだが、しん、と、静まりかえった静寂の中にわずかに足音だけが響いている間を、ひどく長いもののように感じた。
「うちのをあまり困らせてやってくれるな、瓔偲。いち門卒では、お前の口には勝てんだろうよ。――下がって良い。後は私が相手をしよう」
相手は姿を見せるなり――いまのこの空気にまるで似つかわしくない――苦笑を口の端に浮かべ、軽く手を振って男を下がらせた。
「皇弟殿下にご挨拶申し上げます」
いつもそうするのと同じように、瓔偲は丁寧に拱手する。
「構わんから、楽に。――何の用だ、瓔偲」
ふう、と、嘆息する相手の――鵬明の――顔を、瓔偲は黒曜石の眸で真っ直ぐに見詰めた。
「燎琉殿下の遣いで参りました。鵬明殿下にご様子をうかがえ、と」
「はは、様子、ね……病で寝込んでいると、門卒には言わせたはずだが」
鵬明は言って、肩をすくめる。片方の口角を持ち上げ、笑ったままではいるけれども、それはいつもの人を喰ったような、余裕のあるそれではなかった――……どこか、疲れたような、あるいは困り果てた、もしくは途方に暮れたかのような翳が、その顔にはちらついている。
とはいえ、病というのが事実ではないのは、間違いがなかった。
「寝込んでおられる方が、どうしてこちらまで出て来られたのでしょう? だいたいにして、あなた様が病など、わたしがあなた様にお仕えした二年の間、一度もありはしなかったこと……もっとましな嘘をつかれてはいかがですか?」
瓔偲が言うと、鵬明は、はは、と、乾いた笑みを漏らした。
「手厳しいな、瓔偲。――だが、この一時を凌げれば、それでいいんだ。巧みな嘘など必要ない」
鵬明はまた、くすん、と、肩をすくめる。
「それはいったい……どういうことですか?」
相手の発言の意図を掴みかねて、訝るように瓔偲は問うた。
「わずかでいい、時がほしい。この責任は、必ず後で私がとる……この命を賭してでも」
鵬明の言に、瓔偲ははっと息を呑んだ。
鵬明の言葉は、何の説明にもなっていない、まるで要領を得ないものではあった。とはいえ、筆頭皇族が命を賭けると口にするなど、尋常の覚悟ではない。
「殿下は……金胡の王女の行方を、ご存知ですか」
瓔偲はじっと鵬明を見据えて訊いた。
「……知らんな」
一拍の間の後、鵬明は答えた。
「っ、殿下!」
「これは私のつけるべき落とし前だ。お前や燎琉を巻き込むわけにはいかん。なあ、瓔偲……無理は承知だが、どうか知らん振りをしておいてくれ。――心配、するな」
なんとかするから、と、どこか切なげに眉を顰めて言った鵬明の言葉は、最後、わずかばかり小さくなった。
こちらから視線を逸らしてしまった相手の、端正な、けれどもどこか疲れたような横顔を、瓔偲は真っ直ぐに見る。
「……心配せぬことなど、不可能です」
ふう、と、ひとつ息をついて、瓔偲は言った。
「だって、あなた様は、燎琉殿下が慕う叔父上さまです。わたしにとっても、尊敬する上司だった御方なのですから。――何があったのですか、鵬明さま。いえ……金胡の王女は、いま、あなた様の手のうちに、いらっしゃるのですか?」
一語一語を噛むようにゆっくりと尋ねた瓔偲に、鵬明ははっとした表情をする。しばし瓔偲の顔を黙って見詰め、それからまた、すぅっと明後日のほうを向いてしまった。
「殿下……」
瓔偲が言い募ろうとした、まさにその刹那だった。
ひょぉおぅ、ひょう、と、夜の静寂の中に、細く笛の音が響いた。そして、その音色に今度は、切々とした古琴の音が添う。
「……『北の大地』……」
瓔偲は思わずつぶやいていた。
そして、その瞬間、頭の隅にひらめくものがあった。
「殿下、これは……」
しかし言い掛けたとき、鵬明はすでに、さっと踵を返している。
「命に替えて、責任は私が取る。――だからいまは帰ってくれ」
その一言を最後に、繍菊殿の門扉は再び固く閉ざされていた。
*
「瓔偲、戻ったか。叔父上には会えたか?」
瓔偲が椒桂殿へ戻ったときには、すでに燎琉も皇族会議を終えて、内殿から帰ってきていた。それまで居ても立ってもいられぬという様子で、そわそわと正堂の窓際をうろついていた相手は、瓔偲の姿を見とめると、弾かれたようにこちらへと駆けてくる。
「お会いすることは出来ました。が、何があったのかは、お話しいただくことが適いませんでした。申し訳ありません」
「いい。よくやってくれた。――お前に顔を見せてくれたということは、とにかくも、謀反などではないんだよな……?」
どこか不安げに、縋るように、燎琉は瓔偲に尋ねてくる。瓔偲はちいさく頷いた。
「そうは思えませんでした。ただ……」
「ただ?」
「鵬明殿下は、たしかに、何かに命を賭す覚悟ではいらっしゃる……それが何になのかは、わかりませんが」
「命……」
瓔偲の発言した物騒な言葉に、燎琉は息を呑んだ。
「殿下のほうは……皇族会議は、いかがでございましたか?」
「ああ……ひとつわかったことがある。金胡から内密に、王女の陛下への輿入れが打診されていた、と」
「陛下へ……」
「それもあって、状況はあまり良くないな、叔父上にとって……陛下が叔父上の取った態度に疑念を抱かれ、ずいぶんとお怒りだった。明朝までに繍菊殿から何らかの納得いく説明がなければ、兵卒を差し向けるも已むなし、という有様だ」
「明朝、ですか」
あまり時間がない。瓔偲は思案げにうつむいた。
「放っておけば、事態は隣国との外交問題に発展しかねない。迅速に解決すべき事案だ。皇帝の判断に表だって反対するものはいなかった。――まだ叔父上が関与していると決まったわけでもないのに」
燎琉は口惜しそうにてのひらを握りしめた。
「とはいえ、とにかくも王女の行方が知れないことには、何ともしようがないが……いま以て、杳として知れないそうだ。手掛かりもまるでない」
そう重たく嘆息するところを見るに、朝廷のほうで正式に動かしている部隊は王女を発見できておらず、また、李家へ遣いにやっている皓義から燎琉への連絡も、まだないものと思われた。
しかしそれは、ある意味で、幸いなことかもしれない――……見つかってしまえば、それこそいますぐにでも、繍菊殿は近衛軍に取り囲まれることにもなりえたからだ。
瓔偲にはもう、金胡の王女の居所の見当はついていた。鵬明の手のうちにあるどころの話ではない。
「そのことですが、殿下……おそらく王女は、いま、まさに繍菊殿におられます」
「っ、なに!? それは間違いないのか?」
肩を掴まれ、畳みかけるように問われて、しずかに、こく、と、うなずく。
「笛の音が聞こえました……『北の大地』を奏する。金胡の王女は笛の上手、と、裴彰昭さまの記録には、そうございました」
「だが、それだけでは……」
決め手にかけるのではないのか、と、そんな当然のような燎琉の疑問に、けれども瓔偲は首を振る。
「おそらく、王女が吹いておられたものと思います……古琴との、合奏でした」
「古琴?」
「ええ。――そちらは、裴鵑月どのです。彼女もいま、繍菊殿に……あるいは、彰昭さまもともにいらっしゃるのかもしれません」
「待て、瓔偲……なぜ、そうなるんだ?」
思わぬ名を並べ立てられて、わけもわからず目を瞠る燎琉を、瓔偲は真っ直ぐに見上げた。
「殿下、急ぎお調べいただきたいことがございます。――鵬明さまと、裴彰昭さまの、ご関係についてです」
「叔父上と、彰昭どのの、関係……?」
こちらの意図を掴みかねて問うてくる燎琉に、ええ、と、瓔偲は短く応じる。
「おそらく此度のことは、お二方のかつてのご関係、そして金胡の王女の恋とが、複雑に絡み合った帰結なのではないか、と」
瓔偲は口許に手を当て、わずかにうつむいて思案しつつ、そう、呟くように言った。燎琉はまだ、わけがわからないというふうに、鳶色の目を瞬いていた。
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