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【第二部】あの日の戀の形代の君。
二-3 裴彰昭との対面
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「古琴の音が……」
几案の上に静かに茶杯を置いた瓔偲は、どこからともなく遠く聞こえた音にふと気を引かれ、思わずそう口にしていた。
鵬明の助言を受け、次の日、ふたりはさっそく裴府――裴家の邸――を訪ねている。当主への挨拶を終えた後、いまは東廂房の端に位置する客房へと案内されていた。
現当主の長子である裴彰昭に、ぜひとも面会したい旨を伝えると――裴氏家長にとっては外甥にあたる皇弟鵬明が一筆認めてくれたこともあって――冷たくあしらわれるようなこともなく、丁寧なもてなしを受けている。侍女が出してくれた茶をふたりで喫しながら、相手を待っているところだった。
「これは……『北の大地』、か」
瓔偲のつぶやきに、茶杯を片手に、こちらも耳を澄ますようにした燎琉がそう言う。どうやらいま聞こえている琴が奏でるのは、そんな名の曲であるようだった。
「別名、『李夫人の悲嘆』だな……遠い北方へ出征していった夫を想う曲だと言われている」
「よくご存知で」
「たまたまだよ。皓義の遠い祖先の話だから」
「ああ……皓義どのは、李将軍のお血筋なのでしたね」
瓔偲は燎琉の顔を見て、ふ、と、口許をゆるめた。
燎琉の乳兄弟である李皓義は、武門の名家である李家の出だと聞いている。その祖は、まだ嶌国が近隣諸国とたびたび戦をしていた頃、数々の武勲を以てその名を轟かせた将軍だった。そして、彼とその夫人との恋物語は、巷間にも広く知られ、親しまれている。
瓔偲は再び、かすかに響く琴の音に耳を傾けた。哀切な調べは、なるほど、離ればなれの夫を慕い、その無事を願う切々たる想いを宿していて、胸に沁むようである。
「どなたが奏されているのでしょう」
琴棋書画は士大夫の嗜むべき四芸とされるものである。もしや件の裴彰昭だろうか、と、瓔偲がそんなことを考えたときだった。
ふと、それまで閉まっていた客房の扉が静かに押し開けられた。
瓔偲も燎琉もはっとして、示し合わせたように、掛けていた椅子から立ち上がった。入ってくるのは、求め人かもしれない。姿を見せた人物が纏うのが、侍従や侍女などが着るそれとは明らかに違う着物だと見て取って、瓔偲はさっと頭を下げ、拱手の礼の恰好を取った。
現れたのは、落ち着いた色合いの深衣を着た、いかにも読書人といった雰囲気の青年である。どちらかといえば小柄な麗人で、端正に整った容貌の持ち主だった。
が、その彼が、いまくちびるを引き結び、眉根を寄せた、なんとも険しい表情をしている。
「裴家のご嫡子、裴彰昭どの、だろうか?」
燎琉が――相手の表情に戸惑うのか、やや、おずおずとした調子で――訊ねる。すると相手は、片眉を、ひく、と、ちいさく動かした。
「私が裴彰昭なのは間違いないが、私は当家の長子ではあっても、嫡子と呼ばれる立場にはない。すでに官位を返上した隠居の身だし、家督は弟が継ぐことになっている」
そう淡々と答える相手は、どことなく気難しそうな雰囲気を醸していた。そんな相手の態度に、燎琉はますますたじろぐ様子を見せる。が、ともかくも、こちらから面会を求めた相手が顔を見せてくれたことには違いがなかった。ここで会話を終いにすることなどできない。
「お初にお目にかかる。私は今上陛下の四皇子、朱燎琉と言う。こちらは私の妃の……」
燎琉が丁寧な口調で相手に挨拶をし、瓔偲を紹介しかけたときである。
「お引き取り願いたい」
燎琉の言葉を遮るようにして、相手がぴしりと言い放った。
燎琉ははっと目を瞠り、瓔偲もまた息を呑んだ。
瓔偲がそれまで下げていた顔をあげると、扉のところに佇んだままの裴彰昭は、いかにも不愉快そうに眉根を寄せていた。
「鵬明からの書簡には、今度の金胡の王女の歓待の件で助力を請うとあったが。それだけなら、わざわざおれなど訪ねずとも、礼部に保管されている資料があれば十分だろう。第四皇子妃・郭瓔偲は、これまで鵬明の下で勤めていた官吏。そういう仕事はお得意のはずだ。――おれを巻き込むな。疾く、帰ってくれ」
そうつれなく言うや否や、彰昭は踵を返しかけた。
「ま、待ってくれ……!」
こちらに背を向けかけた相手を、燎琉が思わずのように呼びとめる。が、言うべき何かがあってそうしたわけでもなかったのだろう、そこで言葉に詰まってしまった。
彰昭はそんな燎琉に、ちら、と、冷たい視線を向ける。
「あの男の思惑に乗るつもりはない」
そう言ってまた、いかにも不快そうに顔を顰めた。
「――あの男とは……皇弟殿下のことでしょうか?」
ふと、瓔偲は口にした。
「他に誰がいるというんだ?」
相手は苦虫でも噛んだような顔をして、終いには、ち、と、舌打ちさえ聞かせた。
そういえば昨夜、鵬明は、裴彰昭が己を嫌っていると言っていた。どうやらそれは紛う方なき事実のようだ、と、そう思う。が、それにしても、いま彰昭が見せるのは、あまりにもあからさまな態度のように思われた。
瓔偲は黒曜石の眸で、真っ直ぐに相手を見た。
「いくら従兄弟同士とはいえ、皇族に対してあまりにも礼を欠いた言い方ではありませんか? 先程の、第四皇子殿下に対する態度もですが」
「ははっ、それが? 第四皇子妃殿下には、不敬罪でおれを訴えでもするおつもりか?」
「いいえ。ただ……もと礼部侍郎ともあろう御方が礼をご存知ないとは思われません。ですから、あなたさまはいま、敢えてそうしておられるのだろうか、と……いったい、どのような意図があってのことでしょうか?」
瓔偲が言うと、相手は一拍、押し黙った。
それから、片方の口角を持ち上げる。
「なるほど、鵬明が可愛がるわけだ。意図、ね……そんな御大層なものはないさ。言った通り、おれはすでに表舞台から引いた身。いまさら政争になど関わり合いになる気はない。それだけのことだ」
「政争とは? 我々は、国賓のもてなしについて、礼部の高官であられたあなたのご意見を窺いに参っただけです……表向きは」
それを政争と口にするからには、彰昭はこちらの訪問の意図を間違いなく正しく把握している。そのことを瓔偲が指摘すると、相手はちいさく舌打ちをした。
「はっ、忌々しい物言いだな」
「御気分を害してしまったなら、お詫びいたします。ですが、是非ともあなた様に、我が殿下の御味方になっていただきたいのです。お力をお貸し願いたい」
「随分胸のうちを直截に口にするものだ」
「隠し立てするだけ、無駄かと思いまして」
瓔偲は真っ直ぐに昭彰を見詰めた。
「買い被りだな……おれはそれほどの人間ではない」
しばらく瓔偲の眼差しを受けとめていた相手は、ふ、と、視線を逸らすと、自嘲するように息を吐く。
「そうまでして求めてもらうような人材ではない。帰ってくれ。――余計な気遣いは無用、と、鵬明にもそう伝えろ」
そう言った瞬間の彰昭の表情が、瓔偲の中でふと、昨夜の鵬明のそれと二重写しのように重なった。どこか遠く、あるいは、遠い昔日を思うような表情である。彰昭は、苦く笑うとも、悔悟とも自嘲ともとれない笑みを、その口の端に刷いていた。
「――叔父上とあなたとの間に……いったい何があったんだ?」
不意にそう口にしたのは燎琉だった。その途端、彰昭は再び険しい顔つきになって、きつい視線で燎琉を睨み据えた。
「何もないさ、第四皇子殿下」
鋭い眼差しとはうらはらに、どこか投げ遣りな口調で言う。
「だが」
燎琉は食い下がった。
「叔父上は、皇太子争いに名乗りをあげるなら、あなたと結んでおけと俺に助言した。俺は、叔父を……朱鵬明という人を、慕っているし、尊敬もしているんだ。その叔父が推す相手を、一度断られたくらいで、簡単には諦められない。――もし、あなたと叔父上との間にある問題が解決することで、あなたが俺の側についてくれるというのなら……」
「ははっ!」
燎琉の言葉の途中で、彰昭が嘲うような乾いた笑み声を立てた。
「皇太子争いだと? 本気で言っているのか?」
まるで莫迦にするかのように言う。
「俺は……本気だ」
嗤われた燎琉が眉根を寄せるが、彰昭は気にするふうもなく、くつくつ、と、低く喉を鳴らす。
「そうは思えないがな」
「どういう、意味だ」
「お前が本気で皇太子を目指すというのなら、なぜ、癸性の者など妃にした? 郭瓔偲との婚姻がなければ、皇后の唯一の皇子であるお前は、皇太子候補として一歩抜け出た存在だ。あるいは放っておいてもその立場が転がり込んできておかしくなかった。――違うか?」
言いながら、彰昭が瓔偲をちらりと見る。瓔偲は無言で、ただ、はたり、と、目を瞬いた。
燎琉がくちびるを噛む。言い負かされて押し黙ったというよりも、その鳶色の眸には、怒りにも似た感情がちらついていた。
「殿下」
熾り立つ燎琉の感情を落ち着けようとするように、瓔偲は静かに相手を呼んだ。燎琉は、ぐ、と、てのひらを握りしめる。
ここで燎琉が声でも荒げ、相手と言い合いになってしまいでもすれば、こちらを追い返したい彰昭の思惑通りだ。燎琉もそれを理解していて、己の中で波立つ感情を堪えるふうだった。が、燎琉の気持ちの機微など手に取るようにわかるのだろう彰昭のほうが、どうも一枚も二枚も上手だ。
相手は目を細め、さらに燎琉を煽るようなことを口にした。
「鵬明の言に従い、おれの助力を求めるという第四皇子殿下。せっかくご期待いただいたからには、こちらもひと言だけ、申し上げておこうか」
口許をゆるめて、挑発するように燎琉を見た。
「お前が本気で皇太子になろうというなら、まず、郭瓔偲と離縁しろ。癸性の妃など、立太子の邪魔でしかないだろうが」
遠慮会釈なくぴしりと言い放たれた言葉に、瓔偲は息を呑む。
その場には一瞬、重たい沈黙が蟠った。
「俺は……瓔偲を傍から離すつもりは、毛頭ない」
静寂を破ったのは燎琉だ。低い声で、けれどもきっぱりとそう言う。
「俺にとっての皇太子位は、手段であって目的ではない。むしろ目的は瓔偲……彼が彼らしく生きられるような世だ。そのために権力を目指そうというのに……ただの手段のために、どうして彼を手放す選択などするというんだ」
そんなわけがない、と、燎琉は唸った。
その言葉を受けて、彰昭はふと、表情を消した。けれどもすぐに我に返ったように、再び口許には嘲笑めいた笑みを浮かべた。
「ははっ、甘いな。皇太子位を望むというなら、それこそ、今度お前が歓待を命じられた金胡の王女を娶って隣国の後ろ盾を得るくらいのことをして……」
彰昭が笑いながら言いかけたときだった。
彼の立つ扉の向こうで、かた、と、かすかな音がする。はっと振り向いた彰昭が扉を開けると、そこには、十六、七歳かと思われる、彰昭とよく似た、けれどもやや優しげな面立ちの少女が立っていた。
仕立ての良さそうな襦裙を身につけているから、おそらくは裴家の嬌娘なのだろう。古琴を抱えているのを見るに、先に聴こえていた曲の奏者は彼女なのかもしれなかった。
「鵑月……!」
彰昭が咎めるような声を上げる。鵑月と呼ばれた少女ははっとしつつも、憂いを浮かべた眸で彰昭を見詰めた。
「お父様、先程のおはなしは……」
「盗み聞きとははしたない。――お前には関係のないことだ、下がりなさい」
「ですが、お父様」
「鵑月!」
柳眉を吊り上げた彰昭に再びきつい調子で名を呼ばれ、少女はびくりと身をふるわせる。それから、いかにも後ろ髪を引かれるといった様子ではありつつも、軽く頭を下げ、その場をしずしずと辞していった。
「申し訳ない」
彰昭が苦々しい声で言う。いや、と、燎琉が詫びには及ばないというふうに頭を振って見せた。
「御息女がいらしたとは」
ついで思わずのように漏らした燎琉の言葉に、彰昭は刹那、なんとも複雑な表情をした。すくなくとも、ここを訪ねる前に鵬明や燎琉から事前に知らされた情報では、裴彰昭には夫人はいないはずだ。だから瓔偲も――口にこそしなかったが――少女が彰昭を父と呼んだときには、燎琉と同じように驚いていた。
「それは……こちらにも、事情くらいはある」
彰昭はちいさく息を吐き、苦く笑った。
「とにかく……おれにはお前たちに応えるつもりはない。――帰ってくれ」
静かな声で告げて踵を返した相手の背は、不思議なことに、どうにも弱々しい何かを感じさせ、その日、燎琉も瓔偲も、もはやそれ以上は彼に追い縋ることが出来なかった。
几案の上に静かに茶杯を置いた瓔偲は、どこからともなく遠く聞こえた音にふと気を引かれ、思わずそう口にしていた。
鵬明の助言を受け、次の日、ふたりはさっそく裴府――裴家の邸――を訪ねている。当主への挨拶を終えた後、いまは東廂房の端に位置する客房へと案内されていた。
現当主の長子である裴彰昭に、ぜひとも面会したい旨を伝えると――裴氏家長にとっては外甥にあたる皇弟鵬明が一筆認めてくれたこともあって――冷たくあしらわれるようなこともなく、丁寧なもてなしを受けている。侍女が出してくれた茶をふたりで喫しながら、相手を待っているところだった。
「これは……『北の大地』、か」
瓔偲のつぶやきに、茶杯を片手に、こちらも耳を澄ますようにした燎琉がそう言う。どうやらいま聞こえている琴が奏でるのは、そんな名の曲であるようだった。
「別名、『李夫人の悲嘆』だな……遠い北方へ出征していった夫を想う曲だと言われている」
「よくご存知で」
「たまたまだよ。皓義の遠い祖先の話だから」
「ああ……皓義どのは、李将軍のお血筋なのでしたね」
瓔偲は燎琉の顔を見て、ふ、と、口許をゆるめた。
燎琉の乳兄弟である李皓義は、武門の名家である李家の出だと聞いている。その祖は、まだ嶌国が近隣諸国とたびたび戦をしていた頃、数々の武勲を以てその名を轟かせた将軍だった。そして、彼とその夫人との恋物語は、巷間にも広く知られ、親しまれている。
瓔偲は再び、かすかに響く琴の音に耳を傾けた。哀切な調べは、なるほど、離ればなれの夫を慕い、その無事を願う切々たる想いを宿していて、胸に沁むようである。
「どなたが奏されているのでしょう」
琴棋書画は士大夫の嗜むべき四芸とされるものである。もしや件の裴彰昭だろうか、と、瓔偲がそんなことを考えたときだった。
ふと、それまで閉まっていた客房の扉が静かに押し開けられた。
瓔偲も燎琉もはっとして、示し合わせたように、掛けていた椅子から立ち上がった。入ってくるのは、求め人かもしれない。姿を見せた人物が纏うのが、侍従や侍女などが着るそれとは明らかに違う着物だと見て取って、瓔偲はさっと頭を下げ、拱手の礼の恰好を取った。
現れたのは、落ち着いた色合いの深衣を着た、いかにも読書人といった雰囲気の青年である。どちらかといえば小柄な麗人で、端正に整った容貌の持ち主だった。
が、その彼が、いまくちびるを引き結び、眉根を寄せた、なんとも険しい表情をしている。
「裴家のご嫡子、裴彰昭どの、だろうか?」
燎琉が――相手の表情に戸惑うのか、やや、おずおずとした調子で――訊ねる。すると相手は、片眉を、ひく、と、ちいさく動かした。
「私が裴彰昭なのは間違いないが、私は当家の長子ではあっても、嫡子と呼ばれる立場にはない。すでに官位を返上した隠居の身だし、家督は弟が継ぐことになっている」
そう淡々と答える相手は、どことなく気難しそうな雰囲気を醸していた。そんな相手の態度に、燎琉はますますたじろぐ様子を見せる。が、ともかくも、こちらから面会を求めた相手が顔を見せてくれたことには違いがなかった。ここで会話を終いにすることなどできない。
「お初にお目にかかる。私は今上陛下の四皇子、朱燎琉と言う。こちらは私の妃の……」
燎琉が丁寧な口調で相手に挨拶をし、瓔偲を紹介しかけたときである。
「お引き取り願いたい」
燎琉の言葉を遮るようにして、相手がぴしりと言い放った。
燎琉ははっと目を瞠り、瓔偲もまた息を呑んだ。
瓔偲がそれまで下げていた顔をあげると、扉のところに佇んだままの裴彰昭は、いかにも不愉快そうに眉根を寄せていた。
「鵬明からの書簡には、今度の金胡の王女の歓待の件で助力を請うとあったが。それだけなら、わざわざおれなど訪ねずとも、礼部に保管されている資料があれば十分だろう。第四皇子妃・郭瓔偲は、これまで鵬明の下で勤めていた官吏。そういう仕事はお得意のはずだ。――おれを巻き込むな。疾く、帰ってくれ」
そうつれなく言うや否や、彰昭は踵を返しかけた。
「ま、待ってくれ……!」
こちらに背を向けかけた相手を、燎琉が思わずのように呼びとめる。が、言うべき何かがあってそうしたわけでもなかったのだろう、そこで言葉に詰まってしまった。
彰昭はそんな燎琉に、ちら、と、冷たい視線を向ける。
「あの男の思惑に乗るつもりはない」
そう言ってまた、いかにも不快そうに顔を顰めた。
「――あの男とは……皇弟殿下のことでしょうか?」
ふと、瓔偲は口にした。
「他に誰がいるというんだ?」
相手は苦虫でも噛んだような顔をして、終いには、ち、と、舌打ちさえ聞かせた。
そういえば昨夜、鵬明は、裴彰昭が己を嫌っていると言っていた。どうやらそれは紛う方なき事実のようだ、と、そう思う。が、それにしても、いま彰昭が見せるのは、あまりにもあからさまな態度のように思われた。
瓔偲は黒曜石の眸で、真っ直ぐに相手を見た。
「いくら従兄弟同士とはいえ、皇族に対してあまりにも礼を欠いた言い方ではありませんか? 先程の、第四皇子殿下に対する態度もですが」
「ははっ、それが? 第四皇子妃殿下には、不敬罪でおれを訴えでもするおつもりか?」
「いいえ。ただ……もと礼部侍郎ともあろう御方が礼をご存知ないとは思われません。ですから、あなたさまはいま、敢えてそうしておられるのだろうか、と……いったい、どのような意図があってのことでしょうか?」
瓔偲が言うと、相手は一拍、押し黙った。
それから、片方の口角を持ち上げる。
「なるほど、鵬明が可愛がるわけだ。意図、ね……そんな御大層なものはないさ。言った通り、おれはすでに表舞台から引いた身。いまさら政争になど関わり合いになる気はない。それだけのことだ」
「政争とは? 我々は、国賓のもてなしについて、礼部の高官であられたあなたのご意見を窺いに参っただけです……表向きは」
それを政争と口にするからには、彰昭はこちらの訪問の意図を間違いなく正しく把握している。そのことを瓔偲が指摘すると、相手はちいさく舌打ちをした。
「はっ、忌々しい物言いだな」
「御気分を害してしまったなら、お詫びいたします。ですが、是非ともあなた様に、我が殿下の御味方になっていただきたいのです。お力をお貸し願いたい」
「随分胸のうちを直截に口にするものだ」
「隠し立てするだけ、無駄かと思いまして」
瓔偲は真っ直ぐに昭彰を見詰めた。
「買い被りだな……おれはそれほどの人間ではない」
しばらく瓔偲の眼差しを受けとめていた相手は、ふ、と、視線を逸らすと、自嘲するように息を吐く。
「そうまでして求めてもらうような人材ではない。帰ってくれ。――余計な気遣いは無用、と、鵬明にもそう伝えろ」
そう言った瞬間の彰昭の表情が、瓔偲の中でふと、昨夜の鵬明のそれと二重写しのように重なった。どこか遠く、あるいは、遠い昔日を思うような表情である。彰昭は、苦く笑うとも、悔悟とも自嘲ともとれない笑みを、その口の端に刷いていた。
「――叔父上とあなたとの間に……いったい何があったんだ?」
不意にそう口にしたのは燎琉だった。その途端、彰昭は再び険しい顔つきになって、きつい視線で燎琉を睨み据えた。
「何もないさ、第四皇子殿下」
鋭い眼差しとはうらはらに、どこか投げ遣りな口調で言う。
「だが」
燎琉は食い下がった。
「叔父上は、皇太子争いに名乗りをあげるなら、あなたと結んでおけと俺に助言した。俺は、叔父を……朱鵬明という人を、慕っているし、尊敬もしているんだ。その叔父が推す相手を、一度断られたくらいで、簡単には諦められない。――もし、あなたと叔父上との間にある問題が解決することで、あなたが俺の側についてくれるというのなら……」
「ははっ!」
燎琉の言葉の途中で、彰昭が嘲うような乾いた笑み声を立てた。
「皇太子争いだと? 本気で言っているのか?」
まるで莫迦にするかのように言う。
「俺は……本気だ」
嗤われた燎琉が眉根を寄せるが、彰昭は気にするふうもなく、くつくつ、と、低く喉を鳴らす。
「そうは思えないがな」
「どういう、意味だ」
「お前が本気で皇太子を目指すというのなら、なぜ、癸性の者など妃にした? 郭瓔偲との婚姻がなければ、皇后の唯一の皇子であるお前は、皇太子候補として一歩抜け出た存在だ。あるいは放っておいてもその立場が転がり込んできておかしくなかった。――違うか?」
言いながら、彰昭が瓔偲をちらりと見る。瓔偲は無言で、ただ、はたり、と、目を瞬いた。
燎琉がくちびるを噛む。言い負かされて押し黙ったというよりも、その鳶色の眸には、怒りにも似た感情がちらついていた。
「殿下」
熾り立つ燎琉の感情を落ち着けようとするように、瓔偲は静かに相手を呼んだ。燎琉は、ぐ、と、てのひらを握りしめる。
ここで燎琉が声でも荒げ、相手と言い合いになってしまいでもすれば、こちらを追い返したい彰昭の思惑通りだ。燎琉もそれを理解していて、己の中で波立つ感情を堪えるふうだった。が、燎琉の気持ちの機微など手に取るようにわかるのだろう彰昭のほうが、どうも一枚も二枚も上手だ。
相手は目を細め、さらに燎琉を煽るようなことを口にした。
「鵬明の言に従い、おれの助力を求めるという第四皇子殿下。せっかくご期待いただいたからには、こちらもひと言だけ、申し上げておこうか」
口許をゆるめて、挑発するように燎琉を見た。
「お前が本気で皇太子になろうというなら、まず、郭瓔偲と離縁しろ。癸性の妃など、立太子の邪魔でしかないだろうが」
遠慮会釈なくぴしりと言い放たれた言葉に、瓔偲は息を呑む。
その場には一瞬、重たい沈黙が蟠った。
「俺は……瓔偲を傍から離すつもりは、毛頭ない」
静寂を破ったのは燎琉だ。低い声で、けれどもきっぱりとそう言う。
「俺にとっての皇太子位は、手段であって目的ではない。むしろ目的は瓔偲……彼が彼らしく生きられるような世だ。そのために権力を目指そうというのに……ただの手段のために、どうして彼を手放す選択などするというんだ」
そんなわけがない、と、燎琉は唸った。
その言葉を受けて、彰昭はふと、表情を消した。けれどもすぐに我に返ったように、再び口許には嘲笑めいた笑みを浮かべた。
「ははっ、甘いな。皇太子位を望むというなら、それこそ、今度お前が歓待を命じられた金胡の王女を娶って隣国の後ろ盾を得るくらいのことをして……」
彰昭が笑いながら言いかけたときだった。
彼の立つ扉の向こうで、かた、と、かすかな音がする。はっと振り向いた彰昭が扉を開けると、そこには、十六、七歳かと思われる、彰昭とよく似た、けれどもやや優しげな面立ちの少女が立っていた。
仕立ての良さそうな襦裙を身につけているから、おそらくは裴家の嬌娘なのだろう。古琴を抱えているのを見るに、先に聴こえていた曲の奏者は彼女なのかもしれなかった。
「鵑月……!」
彰昭が咎めるような声を上げる。鵑月と呼ばれた少女ははっとしつつも、憂いを浮かべた眸で彰昭を見詰めた。
「お父様、先程のおはなしは……」
「盗み聞きとははしたない。――お前には関係のないことだ、下がりなさい」
「ですが、お父様」
「鵑月!」
柳眉を吊り上げた彰昭に再びきつい調子で名を呼ばれ、少女はびくりと身をふるわせる。それから、いかにも後ろ髪を引かれるといった様子ではありつつも、軽く頭を下げ、その場をしずしずと辞していった。
「申し訳ない」
彰昭が苦々しい声で言う。いや、と、燎琉が詫びには及ばないというふうに頭を振って見せた。
「御息女がいらしたとは」
ついで思わずのように漏らした燎琉の言葉に、彰昭は刹那、なんとも複雑な表情をした。すくなくとも、ここを訪ねる前に鵬明や燎琉から事前に知らされた情報では、裴彰昭には夫人はいないはずだ。だから瓔偲も――口にこそしなかったが――少女が彰昭を父と呼んだときには、燎琉と同じように驚いていた。
「それは……こちらにも、事情くらいはある」
彰昭はちいさく息を吐き、苦く笑った。
「とにかく……おれにはお前たちに応えるつもりはない。――帰ってくれ」
静かな声で告げて踵を返した相手の背は、不思議なことに、どうにも弱々しい何かを感じさせ、その日、燎琉も瓔偲も、もはやそれ以上は彼に追い縋ることが出来なかった。
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「君とは対等な友人だと思っていた」
素直になれない魔力付与能力者リアンと、無自覚なままリアンをそばに置こうとするサイラス。両片想い状態の二人が様々な障害を乗り越えて幸せを掴むまでの物語です。
【独占欲強め侯爵家跡取り×ワケあり魔力付与能力者】
* * *
2024/11/15 一瞬ホトラン入ってました。感謝!
【完結】ここで会ったが、十年目。
N2O
BL
帝国の第二皇子×不思議な力を持つ一族の長の息子(治癒術特化)
我が道を突き進む攻めに、ぶん回される受けのはなし。
(追記5/14 : お互いぶん回してますね。)
Special thanks
illustration by おのつく 様
X(旧Twitter) @__oc_t
※ご都合主義です。あしからず。
※素人作品です。ゆっくりと、温かな目でご覧ください。
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