【続篇完結】第四皇子のつがい婚―年下皇子は白百合の香に惑う―

熾月あおい

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【第二部】あの日の戀の形代の君。

二-1 新たなる火種

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※途中に多少の百合要素もふくみますので、苦手な方はご注意ください。
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「ただいま」

 帰殿を告げる声が聴こえたと同時に、居間の扉がゆっくりと開く。姿を見せたのは、もちろんというべきか、ここ椒桂しょうけい殿でんあるじであった。

 ながいすに腰掛け、書物をひらいていたかく瓔偲えいしは、この秋に夫となった相手の帰宅に、はっと顔を上げた。いつの間にか、うとうとしてしまっていたらしい。

 椒桂殿は、とう皇宮こうぐうの一隅、皇族の住まう殿舎でんしゃが立ち並ぶ中にある。この殿舎の主は、姓名をしゅ燎琉りょうりゅうといった。現皇帝の第四皇子で、皇后を母に持つ唯一の皇子、すなわち有力な皇太子候補でもある。

 今春十八歳の成人を迎えた燎琉は、成年の皇族男子が普通そうであるように、国政を担う三省さんしょう六部りくぶに職を得て出仕していた。燎琉が就いたのは、土木を担うこう部の職である。いま預けられているのは、嶌国南部を流れる大河・威水のつつみ普請の案件だった。

 春の融雪にともなって水量が増える時期、また、人夫を農作業へと返さねばならない時期を考えても、冬期のうちにはある程度の普請を終えてしまわねばならない。それもあって、燎琉は最近、殊に忙しそうにしていた。

 が、今日はそれとは別に皇族たちが集まっての会議がある、と、出掛けに燎琉は言っていた。先に食事を済ませ、何なら寝ていて構わないとも告げられていたが、休むにしてもせめて顔を見てからにしたくて、書物を読みながら帰宅を待っていたのだった。

「おかえりなさいませ、殿下」

 瓔偲は呼んでいた書物を脇に置くと、静かに立ち上がり、燎琉の傍へと歩み寄る。わずかに自分よりも背の高い相手を見上げて微笑むと、燎琉は目をすがめ、軽く瓔偲を抱擁ほうようした。

「寝ていて良いって言ったろ? 無理しなくて構わないのに。――……でも、起きて待っていてくれて、半分は、嬉しい」

 そう言って笑った燎琉から、ふわり、と、桂花きんもくせいのやさしい香りが匂い立った気がした。瓔偲は燎琉に抱き締められながら、ほう、と、ちいさく吐息する。

 椒桂殿の院子なかにわには、殿舎の名に負う通り、立派な桂花木が植わっている。が、今年の花の時期は、すでに過ぎてしまっていた。

 だからこれは、院子にわの木が漂わせる芳香ではなく、燎琉がその身にまとう匂いだ――……性の瓔偲だからこそ感じる、こう性の燎琉が放つ、甘やかな芳香かおりである。

 ふたりは今秋につがいとなった関係なかだった。だからこそ、いまや瓔偲だけが感じ取れる、特別な匂いだ。

「お顔を見てから、やすみたかったので」

 瓔偲は言いながら、燎琉からわずかに身を離す。慕わしい香りと、やさしいぬくもりとから離れてしまうのを、内心で、惜しい、と、思っていた。それでもそんな感情の起伏はおもてに出さず、ただ静かに笑って、燎琉のほうへと手を伸ばした。

褙子うわぎをお預かりいたしますね。お着替えになりますか?」

 相手の着物のえりに指をかける。うん、と、軽く頷いた燎琉は、脱いだ褙子を瓔偲に預けて、いったん、間仕切りの屏風の向こうへと着替えに入っていった。

 その間に、瓔偲は燎琉が脱ぎ置いた褙子を丁寧に畳む。そうしていると、着物に残る慕わしい香りが鼻腔をくすぐった気がして、ほう、と、無意識に息をつきつつ、布地を指先で撫でていた。

「お前は……本物がこっちにいるんだから、着物じゃなくて俺に甘えろよ」

 ふと、後ろから呆れたような溜め息が聴こえた。

 ぼう、と、してしまっていた瓔偲がはっと我に返って振り向くと、いつの間にか隣室から着替えて戻っていたらしい燎琉が、気づけばすぐ後ろに立っている。

「す、すみません」

 こちらの行動を見咎めて苦笑する相手に、瓔偲は思わず詫びていた。

「いや、謝らなくていいんだが……お前はよく、そうやって、俺の着物と浮気してるよな」

 燎琉は冗談かるくちめかして言って、くすん、と、肩を竦める。

「浮気……?」

「そう。俺がいるのに、俺じゃなくて、着物にばかり懐いている。妬ける」

「御冗談を」

「ははっ、結構、本気だ。俺にも同じくらい素直にくっつけばいいのにと思ってる」

 そうくちびるを尖らせて見せるのは、もちろん、言葉とはうらはらに本気でねているわけではないのだろう。その証拠に燎琉はすぐ、ふ、と、破顔した。

 対する瓔偲は、恥じ入ってうつむいた。燎琉の着物に、しばしば懐いてしまっていいる。改めて指摘されてみれば、そうかもしれない、と、思い当たる節がいくらかあった。

「お着物に、殿下の香りが……桂花のような」

 着物の残り香が、瓔偲をどうしようもなくきつける。燎琉は瓔偲にとって唯一無二の存在、つがいだからだ。瓔偲は手に持ったままだった着物を再び撫でて、ほう、と、息を吐いていた。

 この世には、男女の性別べつのほかに、第弐性と呼ばれる性別を持つ者がいる。甲性と癸性とがそれで、それぞれに特有の発情現象を有していた。癸性の者は定期的な発情期があり、甲性の者は癸性の発情に誘引される形で情をおこすのだ。

 癸性の者は、その発情時に、甲性の情動を誘う特別な匂いを発散する。甲性の者がかげば即座に理性を飛ばしてしまうような、それは強烈で濃密な香りだのだと言われていた。そして、発情時の甲性もまた、癸性を惹き付け、恍惚とさせるような匂いをまとう。

 甲癸の間で、発情状態での交合まぐわいの際に甲性が癸性のうなじを咬むことで成立するのが、つがいと呼ばれる特別な関係だった。一度ひとたびつがいとなれば、その関係は終生にわたって続く。つがって、爾後じごは、互いのつがいの発する匂いにのみ強く反応するようになる。

 燎琉は瓔偲を咬んで、つがいにした。だから瓔偲は、つがいである燎琉の香りに、どうしようもなく、抗いがたく、惹きつけられてしまうのだ。

 互いに互いを誘い合い、時に強い性衝動をおこさせもする、特別な香り――……甲性の燎琉は、つがいとなった癸性の瓔偲の発する香りを、白百合のよう、と、そうたとえていた。一方の瓔偲は、燎琉の放つ香りを、桂花きんもくせいのような甘くやさしいそれとして認知している。

 抱き締められるとき、口付けをするとき、それから、臥牀ねどこで肌を合わせ、熱を交わすとき。そんなときには、相手から漂う桂花の香りに身も心もすべて包まれるようで、瓔偲はうっとりとなるのだった。

 が、それ以外にも、ふとした瞬間に鼻腔をくすぐる燎琉の匂いには、つい、気を惹かれてしまいもする。最たるものが、着物かもしれない。そういえば、婚儀の前にも一度、いまと同じように燎琉の褙子に懐いているところを見咎められたことがあったのを思い出した。

「つがい、ですし……」

 それ以外に何と言ったらいいのかがわからず、瓔偲は恥じらって、黒曜石のまたたいた。

 つがい同士は自然と惹かれ合うものだとされていたが、その例に違わず、瓔偲は燎琉のことが慕わしくてならなかった。それでついつい、無意識に、彼の香の残る着物にも懐いてしまうのだ。

「いいんだ、ぜんぜん。ただ……本当に顔に出ないよな、お前は」

「そう、でしょうか」

「うん。俺ばっかりがお前を好きになっていくみたいで、時々不安になる」

「そんなつもりは、ないのですが……」

 そこまで言って、けれどもそれ以上を言いあぐんで困ったように口籠ると、燎琉がちらりと眉尻を下げた。

 そのまま、やさしい腕がこちらの身体をそっと抱き寄せる。あたたかな腕にいだかれ、相手の胸に身を預けていると、慕わしい桂花の香りもあいって、瓔偲はこれ以上ないくらい穏やかであまやかな、ふくふくとした幸福感に包まれた。

 髪を梳くように撫でられて、引かれるように顔を上げる。燎琉の鳶色の眸が間近からこちらを見詰めていた。

 視線が絡むと、彼我の間の空気が、甘くふるえる。瞼を落とすと、燎琉は瓔偲に口づけをくれた。

「ん……」

 鼻にかかった声をあげつつ、燎琉の背に腕をまわした。くちびるを離した相手が。吐息の混ざる距離で目を細め、ふ、と、わらう。

「ようやく俺を抱き締めたな、瓔偲」

「殿下」

 ちいさく相手を呼ぶと、ふたたびくちびるが重なった。

 そっと触れるだけのやさしいくちづけもまた、瓔偲をあたたかなさいわいでどこまでも満たしてくれる――……この想いをてらいなく相手に伝えられたらどれだけいいだろう、と、時折、思う。

 思うけれども、瓔偲はまだ、そのうまい方策ほうを探し倦んだままでいた。

 はあ、と、嘆息めいたものが聴こえたとき、だから瓔偲はそれを、いろいろなことをうまく出来ていない自分が自分に呆れて漏らしてしまった吐息かと思った。

 が、そうではない。溜め息をついたのは燎琉のほうだった。

 こちらがあまりにも上手に反応できないままだから、燎琉は呆れただろうか、瓔偲に愛想を尽かしてしまっただろうか。にわかかに不安になって窺うように相手を見上げると、燎琉はきゅっと眉根を寄せていた。

「殿下、あの……」

「ああ、もうっ。お前が何か素直だし、すっごく名残惜しいが……相談したいことがあるんだった」

 本当はこのままずっと抱いて甘やかしていたいのに、と、そう言ってまた大きな溜め息をついた相手に、瓔偲は黒曜石の眸をぱちくりさせる。

「このあと、叔父上が来ることになっている」

鵬明ほうめい皇弟おうてい殿下がですか? いったい、何の御用で……」

「今度、北の隣国・金胡きんうから王女が来朝するんだが、鵬明叔父の推挙もあって、その歓待を俺が務めることになったんだ。その段取りのことで、いろいろ」

 どうやら今日の皇族会議は、それを決めるためのものであったようだ。隣国の王女ともなれば、それはいわゆる国賓である。その接待役を任されるとなれば、皇子としては、非常に名誉なことに違いなかった――……ただし、つつがなく役を果たせれば、である。

「鵬明殿下がお越しということは……何か、あるのでしょうか?」

 皇太后を母に持つ有力な皇族でもある朱鵬明の名に、瓔偲はこれが警戒すべき案件であることを疑って、すこし声を低めた。

 燎琉の父でもある現在の皇帝は、即位から二年あまり。しかしその皇太子はまだ立てられてはいなかった。次代の皇位継承者をめぐる政争の火種ひだねは、見えないところで、しかし確かにくすぶっている。

 そして燎琉は、その皇太子争いの渦中へと身を投じることを決意してもいた。

「うん、まあ……今回は仕掛けられる前に叔父上が仕掛けに行ったって感じかもしれないが」

 燎琉はそう言って、ふう、と、ひとつ静かに息をついた。
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