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番外 可惜夜ーあたらよー
可惜夜(前)
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「ただいま」
嶌国の第四皇子・朱燎琉は、勤める工部――国政を担う三省六部のうち、尚書省の下にあって主に土木を職掌とする府署――での仕事を終え、皇宮内に与えられている我が殿舎・椒桂殿へと戻った。
前院を通り、花垂門を越えて院子へと足を踏み入れる。そのまま向かうのは、正面にある正堂ではなくて、左手にある堂宇、西廂房だった。そこの中央の房間に明かりが灯っているのが見えたからだ。
燎琉は短い階を上ると、建物中央の扉を押し開けた。室内に入るとすぐに、求める相手の姿が目に入ってくる。
「ただいま、瓔偲」
燎琉が声をかけると、奥の書卓でどうやら書き物に集中していたらしい相手は、はっとしたように顔を上げた。扉のところに立つ燎琉の姿を見とめると、筆を置いて、流れるような綺麗な所作で立ち上がる。そのまま、さらさらと衣擦れの音をさせつつ燎琉の傍までやってきた。
「おかえりなさいませ、殿下。お出迎えもいたしませず、申し訳ありません」
瓔偲がそう丁寧な口調で言って頭を下げるのに、燎琉は、ちら、と、苦笑してみせた。
「いいよそんなの、いちいち。もともと仰々しいのは嫌いなんだ」
くすん、と、肩を竦めてみせると、瓔偲もまた苦笑するような、かすかな笑みを口許に浮かべた。
瓔偲が微笑むと、ふわ、と、わずかに甘く清らかな白百合の香が漂う気がする。その香りに惹かれるように、燎琉は傍らに立つ瓔偲のほうへと腕を伸ばした。
そのほっそりとした身を、そっと我が胸に抱き寄せ、抱き取る。
燎琉の行動に、瓔偲は一瞬、驚いたように身体を竦ませた。が、その後は逃げるでもなく、おとなしく燎琉に身を預けている。その様がなんとも愛おしくて、燎琉は、ほう、と、吐息した。
瓔偲の顔をのぞき込む。燎琉の視線に気がついて上目にこちらを見上げる相手のくちびるに、そ、と、己のくちびるを寄せた。口づけると、また、清冽で甘い、恍惚とするような百合の香りに包まれるような気がする。
燎琉と瓔偲――郭瓔偲とは、つい先頃、婚儀を済ませたばかりの間柄だ。いわゆる新婚である。
燎琉も瓔偲も、男女の性別とは異なる第弐性と呼ばれる性別を有する者だった。瓔偲は、定期的な発情期があることで知られる癸性だ。そして燎琉のほうは、癸性の者の発情に誘引されて情を発する、甲性を有していた。
瓔偲は先頃まで、戸部――六部のうち、財政を掌る府署――の官吏だった。その瓔偲を、燎琉は無理に咬んで、つがいにしてしまった。
つがいとは、甲癸の間にのみ存在する、特別なつながりのことである。発情した状態での交合で、甲性の者が癸性の者の項を咬むことで成立する。そして、ひと度つがいとなれば、以後その関係は――どちらかが命を落とすそのときまで――一生涯に亘って継続した。
燎琉が瓔偲を襲い、つがいにまでしてしまったのは、燎琉の意思ではなかった。瓔偲のふいの発情につられてしまったがゆえのことで、初めそれは、不慮の事故とは見なされた。が、それでも、燎琉の父でもある嶌国の皇帝は、燎琉に瓔偲との婚姻を命じた。
その頃、婚約も間近といわれる相手がいた燎琉。癸性の官吏登用がはじまったばかりで、ようやくのことで得た官吏の立場を失いたくなかった瓔偲。互いにとって、それは本意ではない婚姻だった――……最初は。
(現在は……すくなくとも俺は、瓔偲のことが好きだ。もう、瓔偲以外は考えられないくらい)
燎琉は口づけを解くと、ほう、と、吐息し、ほんの間近で瓔偲と見詰めあった。
こういう行為に馴染みがないらしい相手の、いつもは凛として涼やかな目許が、いまはほんのりと薄紅に染まっている。それがかわいくて、今度はその眦のあたりにそっと接吻した。
それから、すこしだけ名残惜しさを感じながらも、ゆっくりと抱擁をほどいた。
「随分と集中していたな。そんなに根を詰めなくてもいいのに」
燎琉がからかうように言って笑うと、瓔偲は極まり悪そうに恥じらう表情を見せる。
瓔偲を迎える前の椒桂殿では、正堂の一室を書房として、燎琉の蔵書を収めて――相当に散らかってはいたのだが――あった。それを、此度――片づけついでに――西廂房に移すことにしたのだが、良い機会だからというので、瓔偲は蔵書の目録の作成にも手をつけていた。
燎琉の住まう殿舎の中だけのことだから、もちろん、急ぐ仕事ではない。それでも、生来書を好むがゆえだろう、瓔偲はどうも燎琉が仕事で留守の間、時を忘れて書物整理にかかりきりになっているようだった。
「だいぶ進んだみたいだな。お前にだけ任せっきりにして悪い」
「いいえ、楽しくやっておりますから」
燎琉が詫びると、瓔偲は微笑して頭を振った。
「それに、期限がないので、つい気になる書物を読みふけってしまったりもしていて……実は、さほど進んでおりません。作業にはまだもう少しかかりそうです」
そう、またわずかに気恥ずかしそうにしながら言うのに、燎琉は、はは、と、朗らかに声を立てて笑った。
「そうか。でも、別にいいよ、お前の好きにやったら」
「ありがとうございます、殿下」
「こっちこそ、助かってる。だいたい、俺だけだったら、たぶん一生整理しようなんて思わなかったからな」
燎琉が、くすん、と、肩を竦めると、瓔偲は袖で口許を覆うようにしながら、くすくす、と、ちいさく笑った。
その穏やかな笑顔を見ながら、燎琉は目を細める。
けれども次の瞬間、ふと、心に懸かることがあった。
「悪いな……俺の蔵書の整理など、お前にとっては、役不足なんだろうが」
溜め息をつくように口にしている。
瓔偲は非常に優秀な国官だ、と、燎琉は瓔偲の上司から聴かされていた。燎琉とのことさえなかったならば、彼はいまも、戸部の書吏として国府に勤め、日々、国や民のために力を尽くしていたことだろう。
そう思うと、どうしても、瓔偲に対して申し訳ないような気持ちになるのだった。
瓔偲を伴侶として迎えることが出来たことは、燎琉にとって、もちろん何よりも幸いなことだ。それでも、瓔偲が本来いるべきだった場所から無理に彼を引き離してしまった、と、燎琉の中にには、そのことに対する拭い切れない罪悪感のようなものが、いまだ心の隅に蟠っていた。
わずかに眉を顰めて黙り込むと、こちらの表情に気がついたのか、やさしい瓔偲は口許に穏やかな笑みを刷いた。
「役不足だなどと、とんでもない。殿下はわたしを買い被りすぎです。――わたしのような者がすこしでも殿下のお役に立つのであれば、これ以上、嬉しいことはございません。それに……」
言いながら瓔偲は書架のほうへと視線をやり、黒曜石の眸を眇めてみせた。
「殿下が相当な読書家であられることですとか、どのような書物を好まれるのかですとか、こうして殿下の蔵書に触れる日々の中で、わたしは殿下のことをいろいろと知ることが出来ています。それが……うれしくて、楽しいです」
ほう、と、吐息するように言った瓔偲が、二、三度、はたはた、と、静かに瞬く。長く密な睫が白い頬にかすかな影を落としている様がうつくしくて、燎琉は、そ、と、瓔偲の目許に指でふれた。
瓔偲が顔を上げる。
綺麗な黒い眸と眼差しが交わって、しばし見詰めあったあと、燎琉は再び瓔偲に口づけたくなって、相手に顔を近づけた。
まさに、その時のことだ。
「――殿下、ならびに妃殿下。たいへん良い雰囲気でいらっしゃるところ、お邪魔して誠に申し訳ありません。一応先に弁解しておきますが、僕は入室の際、お声掛けはいたしましたよ。お二方とも、お気づきにならなかったようですが」
そんな声がかかって、燎琉は、ひた、と、動きを止めた。
見れば、扉のところに立って、にこやかな笑顔を見せているのは、傅母子であり、いまは燎琉の侍者を勤める李皓義である。
「っ、皓義、お前は……ちょっとは空気を読んで遠慮しろよ!」
燎琉と皓義とは、身分・立場の差こそあれ、幼馴染みであるがゆえの気安い関係でもある。燎琉は歳の近い乳兄弟をそう責めたが、相手は、はあ、と、呆れたように溜め息をついた。
「このまま放っておいたら、僕の存在に気づかないまま、おふたりがもっと良い雰囲気になってしまいそうな様子でしたので。そうなる前にお声掛けいたしました。どうぞご容赦ください、殿下」
皓義は悪びれもせず言って、形ばかり頭を下げて見せる。言ってやりたい文句はあるが、瓔偲に夢中で相手の入室に気付かなかった極まりの悪さもあって、燎琉はむっと黙った。
「…………で。何の用だ」
結局はしばしの沈黙のあとでそう問うと、皓義は、にこ、と、笑い、それからいかにもわざとらしく、仰々しい礼の姿勢を取った。
「間もなく正堂のほうに夕餉の用意が整いますので、どうぞお戻りくださいますように。――あ、それと、お食事の間に急ぎ湯浴みの支度をしておくよう、家人には申し伝えておきますね」
「なぜそんなに急ぐ?」
そんな必要はないだろうに、と、燎琉がきょとんとすると、対する皓義はまたしてもにっこりと満面に笑みを浮かべた。
「それはもう、いくら夜長の秋とはいえ、新婚のおふたりにとって夜はいくらあっても足りないでしょうから……寝支度を整えてから、存分にごゆっくりなさっていただけるように、と、そういう気遣いですかね」
笑顔の侍者に含みたっぷりに言われ、燎琉は再び言葉を呑んだ。
ちら、と、隣を見ると、瓔偲も気恥ずかしげに俯いてしまって、無言である。髪の隙間からわずかに見える項が、なんだかほんのりと赤くなっているような気がした。
「ふふ、要らぬお節介でしたでしょうか?」
くつくつ、と、悪戯っぽく笑う皓義を、燎琉は、じろ、と、ひと睨みした。が、瓔偲とふたりでゆっくり夜を過ごしたいというのは、まさにその通りだ。つまり、要らぬ世話でもなんでもないので、結局は返す言葉もないままだった。
(今夜こそ……)
瓔偲を伴って、夕餉を取るために正堂へ向かう燎琉は、ちら、と、迎えたばかりのうつくしい妃を盗み見て、思う。
実は婚儀の際の華燭洞房でそうして以来、同衾こそしていても、ふたりはまだ肌を重ね、熱く蕩ける夜を過ごしていなかった――……なんとなく、機を掴みかねたままでいた。
嶌国の第四皇子・朱燎琉は、勤める工部――国政を担う三省六部のうち、尚書省の下にあって主に土木を職掌とする府署――での仕事を終え、皇宮内に与えられている我が殿舎・椒桂殿へと戻った。
前院を通り、花垂門を越えて院子へと足を踏み入れる。そのまま向かうのは、正面にある正堂ではなくて、左手にある堂宇、西廂房だった。そこの中央の房間に明かりが灯っているのが見えたからだ。
燎琉は短い階を上ると、建物中央の扉を押し開けた。室内に入るとすぐに、求める相手の姿が目に入ってくる。
「ただいま、瓔偲」
燎琉が声をかけると、奥の書卓でどうやら書き物に集中していたらしい相手は、はっとしたように顔を上げた。扉のところに立つ燎琉の姿を見とめると、筆を置いて、流れるような綺麗な所作で立ち上がる。そのまま、さらさらと衣擦れの音をさせつつ燎琉の傍までやってきた。
「おかえりなさいませ、殿下。お出迎えもいたしませず、申し訳ありません」
瓔偲がそう丁寧な口調で言って頭を下げるのに、燎琉は、ちら、と、苦笑してみせた。
「いいよそんなの、いちいち。もともと仰々しいのは嫌いなんだ」
くすん、と、肩を竦めてみせると、瓔偲もまた苦笑するような、かすかな笑みを口許に浮かべた。
瓔偲が微笑むと、ふわ、と、わずかに甘く清らかな白百合の香が漂う気がする。その香りに惹かれるように、燎琉は傍らに立つ瓔偲のほうへと腕を伸ばした。
そのほっそりとした身を、そっと我が胸に抱き寄せ、抱き取る。
燎琉の行動に、瓔偲は一瞬、驚いたように身体を竦ませた。が、その後は逃げるでもなく、おとなしく燎琉に身を預けている。その様がなんとも愛おしくて、燎琉は、ほう、と、吐息した。
瓔偲の顔をのぞき込む。燎琉の視線に気がついて上目にこちらを見上げる相手のくちびるに、そ、と、己のくちびるを寄せた。口づけると、また、清冽で甘い、恍惚とするような百合の香りに包まれるような気がする。
燎琉と瓔偲――郭瓔偲とは、つい先頃、婚儀を済ませたばかりの間柄だ。いわゆる新婚である。
燎琉も瓔偲も、男女の性別とは異なる第弐性と呼ばれる性別を有する者だった。瓔偲は、定期的な発情期があることで知られる癸性だ。そして燎琉のほうは、癸性の者の発情に誘引されて情を発する、甲性を有していた。
瓔偲は先頃まで、戸部――六部のうち、財政を掌る府署――の官吏だった。その瓔偲を、燎琉は無理に咬んで、つがいにしてしまった。
つがいとは、甲癸の間にのみ存在する、特別なつながりのことである。発情した状態での交合で、甲性の者が癸性の者の項を咬むことで成立する。そして、ひと度つがいとなれば、以後その関係は――どちらかが命を落とすそのときまで――一生涯に亘って継続した。
燎琉が瓔偲を襲い、つがいにまでしてしまったのは、燎琉の意思ではなかった。瓔偲のふいの発情につられてしまったがゆえのことで、初めそれは、不慮の事故とは見なされた。が、それでも、燎琉の父でもある嶌国の皇帝は、燎琉に瓔偲との婚姻を命じた。
その頃、婚約も間近といわれる相手がいた燎琉。癸性の官吏登用がはじまったばかりで、ようやくのことで得た官吏の立場を失いたくなかった瓔偲。互いにとって、それは本意ではない婚姻だった――……最初は。
(現在は……すくなくとも俺は、瓔偲のことが好きだ。もう、瓔偲以外は考えられないくらい)
燎琉は口づけを解くと、ほう、と、吐息し、ほんの間近で瓔偲と見詰めあった。
こういう行為に馴染みがないらしい相手の、いつもは凛として涼やかな目許が、いまはほんのりと薄紅に染まっている。それがかわいくて、今度はその眦のあたりにそっと接吻した。
それから、すこしだけ名残惜しさを感じながらも、ゆっくりと抱擁をほどいた。
「随分と集中していたな。そんなに根を詰めなくてもいいのに」
燎琉がからかうように言って笑うと、瓔偲は極まり悪そうに恥じらう表情を見せる。
瓔偲を迎える前の椒桂殿では、正堂の一室を書房として、燎琉の蔵書を収めて――相当に散らかってはいたのだが――あった。それを、此度――片づけついでに――西廂房に移すことにしたのだが、良い機会だからというので、瓔偲は蔵書の目録の作成にも手をつけていた。
燎琉の住まう殿舎の中だけのことだから、もちろん、急ぐ仕事ではない。それでも、生来書を好むがゆえだろう、瓔偲はどうも燎琉が仕事で留守の間、時を忘れて書物整理にかかりきりになっているようだった。
「だいぶ進んだみたいだな。お前にだけ任せっきりにして悪い」
「いいえ、楽しくやっておりますから」
燎琉が詫びると、瓔偲は微笑して頭を振った。
「それに、期限がないので、つい気になる書物を読みふけってしまったりもしていて……実は、さほど進んでおりません。作業にはまだもう少しかかりそうです」
そう、またわずかに気恥ずかしそうにしながら言うのに、燎琉は、はは、と、朗らかに声を立てて笑った。
「そうか。でも、別にいいよ、お前の好きにやったら」
「ありがとうございます、殿下」
「こっちこそ、助かってる。だいたい、俺だけだったら、たぶん一生整理しようなんて思わなかったからな」
燎琉が、くすん、と、肩を竦めると、瓔偲は袖で口許を覆うようにしながら、くすくす、と、ちいさく笑った。
その穏やかな笑顔を見ながら、燎琉は目を細める。
けれども次の瞬間、ふと、心に懸かることがあった。
「悪いな……俺の蔵書の整理など、お前にとっては、役不足なんだろうが」
溜め息をつくように口にしている。
瓔偲は非常に優秀な国官だ、と、燎琉は瓔偲の上司から聴かされていた。燎琉とのことさえなかったならば、彼はいまも、戸部の書吏として国府に勤め、日々、国や民のために力を尽くしていたことだろう。
そう思うと、どうしても、瓔偲に対して申し訳ないような気持ちになるのだった。
瓔偲を伴侶として迎えることが出来たことは、燎琉にとって、もちろん何よりも幸いなことだ。それでも、瓔偲が本来いるべきだった場所から無理に彼を引き離してしまった、と、燎琉の中にには、そのことに対する拭い切れない罪悪感のようなものが、いまだ心の隅に蟠っていた。
わずかに眉を顰めて黙り込むと、こちらの表情に気がついたのか、やさしい瓔偲は口許に穏やかな笑みを刷いた。
「役不足だなどと、とんでもない。殿下はわたしを買い被りすぎです。――わたしのような者がすこしでも殿下のお役に立つのであれば、これ以上、嬉しいことはございません。それに……」
言いながら瓔偲は書架のほうへと視線をやり、黒曜石の眸を眇めてみせた。
「殿下が相当な読書家であられることですとか、どのような書物を好まれるのかですとか、こうして殿下の蔵書に触れる日々の中で、わたしは殿下のことをいろいろと知ることが出来ています。それが……うれしくて、楽しいです」
ほう、と、吐息するように言った瓔偲が、二、三度、はたはた、と、静かに瞬く。長く密な睫が白い頬にかすかな影を落としている様がうつくしくて、燎琉は、そ、と、瓔偲の目許に指でふれた。
瓔偲が顔を上げる。
綺麗な黒い眸と眼差しが交わって、しばし見詰めあったあと、燎琉は再び瓔偲に口づけたくなって、相手に顔を近づけた。
まさに、その時のことだ。
「――殿下、ならびに妃殿下。たいへん良い雰囲気でいらっしゃるところ、お邪魔して誠に申し訳ありません。一応先に弁解しておきますが、僕は入室の際、お声掛けはいたしましたよ。お二方とも、お気づきにならなかったようですが」
そんな声がかかって、燎琉は、ひた、と、動きを止めた。
見れば、扉のところに立って、にこやかな笑顔を見せているのは、傅母子であり、いまは燎琉の侍者を勤める李皓義である。
「っ、皓義、お前は……ちょっとは空気を読んで遠慮しろよ!」
燎琉と皓義とは、身分・立場の差こそあれ、幼馴染みであるがゆえの気安い関係でもある。燎琉は歳の近い乳兄弟をそう責めたが、相手は、はあ、と、呆れたように溜め息をついた。
「このまま放っておいたら、僕の存在に気づかないまま、おふたりがもっと良い雰囲気になってしまいそうな様子でしたので。そうなる前にお声掛けいたしました。どうぞご容赦ください、殿下」
皓義は悪びれもせず言って、形ばかり頭を下げて見せる。言ってやりたい文句はあるが、瓔偲に夢中で相手の入室に気付かなかった極まりの悪さもあって、燎琉はむっと黙った。
「…………で。何の用だ」
結局はしばしの沈黙のあとでそう問うと、皓義は、にこ、と、笑い、それからいかにもわざとらしく、仰々しい礼の姿勢を取った。
「間もなく正堂のほうに夕餉の用意が整いますので、どうぞお戻りくださいますように。――あ、それと、お食事の間に急ぎ湯浴みの支度をしておくよう、家人には申し伝えておきますね」
「なぜそんなに急ぐ?」
そんな必要はないだろうに、と、燎琉がきょとんとすると、対する皓義はまたしてもにっこりと満面に笑みを浮かべた。
「それはもう、いくら夜長の秋とはいえ、新婚のおふたりにとって夜はいくらあっても足りないでしょうから……寝支度を整えてから、存分にごゆっくりなさっていただけるように、と、そういう気遣いですかね」
笑顔の侍者に含みたっぷりに言われ、燎琉は再び言葉を呑んだ。
ちら、と、隣を見ると、瓔偲も気恥ずかしげに俯いてしまって、無言である。髪の隙間からわずかに見える項が、なんだかほんのりと赤くなっているような気がした。
「ふふ、要らぬお節介でしたでしょうか?」
くつくつ、と、悪戯っぽく笑う皓義を、燎琉は、じろ、と、ひと睨みした。が、瓔偲とふたりでゆっくり夜を過ごしたいというのは、まさにその通りだ。つまり、要らぬ世話でもなんでもないので、結局は返す言葉もないままだった。
(今夜こそ……)
瓔偲を伴って、夕餉を取るために正堂へ向かう燎琉は、ちら、と、迎えたばかりのうつくしい妃を盗み見て、思う。
実は婚儀の際の華燭洞房でそうして以来、同衾こそしていても、ふたりはまだ肌を重ね、熱く蕩ける夜を過ごしていなかった――……なんとなく、機を掴みかねたままでいた。
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